―――がんっ。

 「いない・・・くそっ、どこに行ったのよアイツら・・・!!」

 腹立ち紛れに蹴り飛ばしたガラクタが、耳障りな悲鳴を上げて部屋の隅まで飛んでいった。豊かな栗色の髪をぐしゃぐしゃとかき回し、アスカは埃まみれの床に転がった、何らかの機材の残骸らしき塊に腰を降ろした。
 がらんとした広大な空間。頭上に張り巡らされた鉄骨には赤錆が浮き、その上に乗っているトタンの屋根には大きな穴が無数に空いている。穴から滴り落ちた雨水がコンクリの床に水溜りを作り、建物内の空気を冷たく湿らせていた。かつてはひとつの工場として、働く人々の声に満たされていたのであろうその建物は、今は壊れた玩具のように、誰にも顧みられることもなく、街の片隅に打ち捨てられていた。

 『いいえ・・・・「誰にも」じゃないわ。数日前までは、ここを何かに利用していた連中がいたんだもの。』

 焦りに熱くなりそうな頭を冷やすために、ひとつ大きく深呼吸をする。一度、状況を整理する必要がある。
 まず、あの《よろず屋》の片割れに助けられた日。弟の足取りを追ってここまで辿り着いた自分は、ゴミに混じって打ち捨てられていた、弟のお守りを見つけた。引き続き中を探ろうとしたところ、黒いスーツを着た数人の男たちに誰何され、あまつさえ問答無用で取り押さえられそうになったので、抵抗して逃走。裏路地まで逃げて捕まりそうになったところを、あの金髪の青年に助けられた。
 この時点では、ここで何か――しかも、人目に触れさせたくはない何かが行われていたのは確かだ。それなのに、今は人っ子一人いないということは・・・。

 『あたしが軽率に侵入したりしたから・・・・やつら全員、どこかに逃げちゃったってこと?このアジトを引き払って?』

 自分が持ち出したのはお守りひとつだったが、彼らの方は、悪事の決定的な証拠を見つけられたとでも思ったのだろうか。結果的には取り越し苦労もいいところだが、大した逃げ足の速さだ。これでは、たとえ自分が本当に証拠を掴んでいて、それを警察に持ち込んだとしても、ガサ入れに踏み込んだときにはもぬけの殻だったに違いない。
 だが、そんな仮定の話はどうでもいい。問題なのは、彼らがどこに逃げたのか――そして、弟が何処に連れて行かれたのかだ。
 こんなに急に姿を眩ませることが出来るのは、ここと似たようなアジトをいくつか確保しているからだろう。言い換えれば、このような廃工場や廃ビルを中心に当たっていけば、当たりにぶつかるかもしれないということだ。
 しかし、口で言うのは簡単だが、解体費用を惜しんで雨ざらしにされている建物は腐るほどある。たったひとりで調べていくのは不可能と見てよかった。八方ふさがりな状況と足元が崩れ落ちていくような絶望感に、小さく震える両手を強く握りしめた。祈るように組み合わされた両手を見下ろすと、瞼がふいにじんわりと熱くなるのを感じて、こみ上げてくるものが零れ落ちないように天を仰ぐ。歯を食いしばって、自分に言い聞かせた。

 「・・・泣くなよ。勇人を助けられるのは、アンタだけなんだからね。」

 ぱん、と両頬を叩いて気合を入れ、勢い良く立ち上がる。たとえ、藁の山から一本の針を探すような作業だとしても、諦めはしない。絶対に奴らを、そして弟を見つけ出してやる。

 『勇人、待っててね・・・・。』

 ジージャンの胸ポケットに忍ばせたお守りに、そっと手を当てて目を閉じたとき。

 「・・・・考え事は終わったか?」
 「っ!!?」

 突然背後からかけられた声に、アスカは口から心臓が飛び出るほど驚いた。咄嗟に悲鳴をかみ殺したため、喉が妙な音を立てる。大きな目を限界まで見開き、物凄い勢いで振り返ったアスカに、声の主はぽりぽりと頬を掻いた。

 「あ、ワリ。脅かしちまった?」
 「あ!あんた、《よろず屋》の・・・・!!」
 「レイだよ。冴羽零。」
 「名前なんて訊いてない!!なんであんたがここにいんのよ!?ってかいつの間に入ってきたのよここに!!」
 「あんたがガラクタに八つ当たりかまして考え事始めた頃から。なんか真剣だったから声かけないでおいたんだけど?」
 「・・・・・・・。」

 かなり近くまで来ていたというのに、足音ひとつしなかった。まるで猫のようだ。
 不安定に積み上げられた廃材の上に腰掛けていた彼は、その山を崩すこともなく、ふわりと地面へと降り立った。うげーケツ真っ白ーなどと呟きながら、汚れた黒いジーンズの尻をぱんぱんと叩く彼に、アスカは一瞬、何を言うべきか言葉に詰まった。

 「・・・こんなシケた場所で散歩もないでしょ。今さら何をしに来たの、《よろず屋》さん?」
 「そんな皮肉たっぷりに《よろず屋》を強調せんでも・・・やっぱり、ユエが依頼を断ったの、怒ってるな?まぁ、それも当然だけど。」

 眉間に皺を寄せるようにしてちょっと笑ったレイは、わずかに身をかがめてアスカの目を覗き込んだ。

 「中途半端に期待させられてぎりぎりで突き放されると、一番精神的ダメージ大きいし・・・『だったらはなっから助けるんじゃねぇよ』って思ってるだろ。違う?」
 「・・・おあいにくさま、あたしはそこまでガキじゃないわよ。『俺たちはボランティアをやってるんじゃない』って言ったのはあんたでしょ?依頼は最初からダメもとだったし・・・路地裏で助けてもらえただけで、ラッキーだったわ。」
 「・・・・・・。ま、そういう事にしといてもいいけどさ。」
 「ていうか、ホントあんた何しに来たの?また巻き添え食って銃撃されたいわけ?」
 「まさか。そこまでマゾッ気入ってないよー?俺は。」
 「・・・・・分かんないわ。」

 依頼は受けない。つまり自分の弟探しに協力する気もない。では何故、何のために、彼はこの廃工場にやって来たのだ?
 はっきり説明しろと睨みつけるアスカの視線を受け止め、レイはふっと笑顔を消した。

 『・・・・・・・っ!!』

 アスカの背筋に、寒気が走った。
 漆黒の双眸は恐ろしいほどに凪ぎ、一片の感情も浮かんではいない。たじろぐほどに深いその目は、覗いていると心の奥底まで見透かされてしまいそうな、また逆に、その深淵に吸い込まれてしまいそうな、そんな危うさを感じさせた。本能が危険だと警告しているのに――眼が、離せない。
 たった今まで子どものように笑っていた少年が、突然得体の知れない存在に変わってしまったようだ。頭のどこかで、彼女はひどく冷静にそう思った。
 凍りついたように立ち尽くす彼女の前で、薄い唇がゆっくりと開く。澄んだ声が、淀んだ空気に凛と響いた。

 「・・・真実を、知る勇気はあるか?」
 「どういう・・・・意味よ。」
 「そのままの意味だ。この件に関して、真相を探ることは何の救いももたらさない。真実があんたに与えるのは、絶望と哀しみだけだ。・・・だから、ユエはあんたの依頼を断ったんだ。この事は忘れて、どこか遠くでやり直すのがあんたのためだと思ったから。そして・・・あんたの依頼を遂行するのは、既に不可能だと判断したからだ。」
 「・・・・・・!!」

 かたかたと、彼女の肩が震える。青ざめた唇から、やっとのことで紡ぎだした声は硬く、ひび割れていた。

 「勇人、は・・・・あの子は・・・・・。」
 「・・・言わなくても分かるだろ。あんたは聡明な人だ。頭のどこかで予想はしていたはずだよ。彼は・・・・」
 「嘘よっ!!」

 悲鳴のような叫びが、どこまでも淡々と紡がれる言葉を断ち切った。呪縛から解かれたように掴みかかったアスカを、レイは黙って受け止めた。

 「なんであんたにそんな事が分かるのっ!?ずっと一緒にいたのよあたし達は、生まれたときからずっと!!あの子があたしを置いていくはずがない、絶対にないわっ!!」

 虚ろな空間に、悲痛な叫びの残響が響いた。その中心でにらみ合う二人。はぁ、はぁ、と小さく息を荒げる彼女は、揺らがない彼の眼差しから、ふうと視線を落とした。掴んでいた彼の襟首に額を押し付け、呻くように言う。

 「信じないわ。あの子が・・・勇人が・・・・死んだ、なんて・・・・・。」
 「・・・・信じないなら、どうするんだ。」

 その言葉に、彼女はきっと顔を上げた。その眼には、もう彼を恐れる色はない。

 「探すわ。真実とやらをこの眼で確かめるまでは、勇人が死んだなんて信じない。大体、いきなりそんなこと言われて、ハイそうですかと納得できるわけないでしょうが。納得いく証拠が見つかるまで・・・地の果てまでもあいつらを追っかけてやる。」
 「・・・・そう言うと思ったよ。」

 重いため息をついたレイは、くしゃくしゃと髪をかき回した。乱れた前髪の下から、途方に暮れた子どものような表情が、ちらりと覗く。

 「あんたみたいな真っ直ぐすぎる人間は、自分が納得するまで止まんねぇんだよな・・・飴も鞭も効かねぇんだから、始末に困るぜ。」
 「んなっ、暴走イノシシ野郎で悪かったわね!」
 「いやそこまでは言ってないし。」
 「ていうかうっかり話し込んじゃったけど、こんなトコで油売ってる暇はないのよ!大体あんたにゃもう関係ないでしょ?放っといて!」
 「おいおい、何処に行くんだ。」
 「決まってんでしょ、勇人を探しに行くの!じゃあねバイバイさようなら!」
 「まーまーまー、そう急ぐなよ。ここで待ってりゃ、手がかりは向こうからやって来るぜ?」
 「・・・・・はっ?」

 レイの横をすり抜けようとしていた、アスカの足が止まる。色の違う二対の瞳が、至近距離で合わせられた。

 「あんたの頭は性能はいいけど、どうもとことん攻撃主体に偏ってるみてぇだな?」
 「あぁん?ケンカ売ってんのアンタ?」
 「別に悪いとは言ってない。だけど、少しは自分の身に危険が及ぶ可能性についても考慮しといたほうがいいぜ。奴らは二度に渡ってあんたを襲い、始末し損ねてる。三度目があるかもしれないとは思わなかったのか?あんたが奴らを追うように、奴らもあんたを追っているとは考えなかったか?」
 「・・・・それは、その・・・・・。」

 口ごもる彼女に、レイはからかうような口調で追い討ちを掛けた。

 「そして、あんたは弟を助けるために、必ずここに戻ってくる。そう予想するのはまぁ・・・余程の能無しでなければ簡単だわな。」
 「・・・じゃあ、この建物は・・・・。」
 「あんたを捕まえるためのネズミ捕りさ。外はもう完全に包囲されてるだろうな。俺が入ってくるとき、隠れてるつもりだろうけど人影がちらちらしてたから。そのうち突入してくるよ。」
 「ばっ、バカじゃないの!?そこまで気付いててなんで入ってくんのよ!?」
 「うん、この期に及んでまだ人のことを気遣う辺りステキだな。・・・・だって入らなきゃ役目が果たせないし。」
 「・・・役目?」
 「そ。役目。けどこれは俺がやりたくてやってることだからあんたが気にする必要はない。」
 「何言って・・・・っ!?」

 はっ、とその声が途切れる。微かに、だが間違いなく聞こえる、靴音。それも――かなり多い。

 「・・・・ああ、来たらしいな。」

 淡々と呟くと、レイは組んでいた両腕をゆっくりと解いた。その腕を掴み、アスカが早口に言う。

 「早く逃げなさい!奴らの狙いはあたしなんだから、あんた一人なら逃げられるはずよ!」
 「いやー、無理だろ。昨日は地の利はこっちにあったから撒けたけど、今日は奴らのホームだから。」
 「何をのんびり言ってるのよー!?」
 「大丈夫だ。殺されはしないだろ、多分。」

 多分って何だ。頭を抱えそうになった彼女に、レイは唇だけで笑った。

 「さっき言ったとおり依頼は受けられないけど、一旦関わっちまった以上、アンタが俺らの知らないところで埋められたりしたら目覚めが悪ぃんだよな。だからとりあえず、この件が片付くまで付き合うことにした。」
 「え・・・?」
 「まぁ、状況次第では多少役に立つかもしれないから。その胸ポケットのほど頼りがいはないけど、お守り程度だと思ってくれればいいよ。」
 「仕事でもないのに巻き込めるわけ・・・・!!」
 「もう巻き込まれてるし。」
 『か、確信犯!!』

 足音は、すでに間近に迫っている。説得が無理と悟ったアスカは、一瞬で腹を括り、手近に転がっていたガラクタから1メートルほどの木の棒をへし折った。

 「どうなったって知らないからね!!」
 「お気遣いありがとう。」

 にこりと笑ったレイは、表情とは裏腹に鋭く輝く目を、入り口へと向けた。

 

 

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