―――そっと、曲がり角の向こうを窺う。人の気配がないことを確認して、レイは小さく囁いた。
「OK,誰もいない。」
『では、そのまま10メートル直進。左折。階段を上がって右手のドアへ。』
「了解。」
顔の右側から聞こえてきた簡潔な指示に、これまた簡潔に応答すると、レイは人気のない廊下を足早に歩き出した。その後ろにぴたりと付いて来ているアスカが、興味深そうに、形の良い耳朶に嵌められている「それ」を覗き込んでいる。
燻し銀に黒曜石を嵌め込んだ、一見ただのカフスにしか見えない「それ」は、実は高性能な通信機であった。電話と違ってどこにでも声を送れるわけではないが、電波はかなり強く、レイの耳に届く声も明瞭だ。何度目かの通信を終えて、耳朶から指を離した彼に、アスカは小さな声で話しかけた。
「ビックリしたわ・・・武器は全部取られたと思ってたのに、色んなものが出てくるんだもの。」
「こういう商売してると、いつ何が起こるか分かんねぇからな。あっちこっちに色々仕込んでるんだよ。目に付く武器しか取り上げなかったのは、あいつらのミスだ。」
「確かに。あんたの着ぐるみ全部剥いでおけば、あの見張りのやつらも今頃はピンピンしてたでしょうにねぇ。ナンマンダブナンマンダブ。」
「待て待て待て、死んでないから。眠ってるだけだから。」
苦笑するレイの手には、サバイバルナイフが握られている。廃工場で彼が使っていたものより一回り大振りなそれは、さっきまで彼らが監禁されていた小部屋の前にいた、見張りの一人から拝借したものである。持ち主はレイの言うとおり、今頃は深い深い夢の中にいるに違いない。
といっても、別にレイは彼らを殴り倒したわけではなかった。レイの腕をもってすれば、監禁されている部屋の鍵をこじ開けることなど朝飯前だが、それをやれば当然見張りに気付かれて、即座に仲間を呼ばれてしまうに違いない。アスカはそう考えたからこそ、「任せろ」というレイの言葉に疑問を呈したのだが。
「何だったのあの煙・・・催眠ガス?」
「そっ、かなり強力なやつさ。多分一時間くらい起きねぇぞあいつら。」
なんと彼は、覗き窓の隙間から催眠ガスを流して、見張りを昏倒させたのだった。
彼がジャケットの裏から取り出したのは、ボタンのような小さく丸い物体だった。だが、アスカに息を止めるよう指示した彼が、靴の踵でそれをこすると、それから半透明な煙がふわりと立ち上る。それを覗き窓から外へと落とした彼は、暫くしてどさりという音が立て続けに聞こえてきたのを確認してから、悠々と鍵を開けて脱走を図ったのだ。彼に続いて小部屋から出てきた彼女が見たのは、既に煙の放出は止まったボタン(もどき)と、幸せそうに床で眠りこけている二人の男の姿だった。
―――そして今。
見張り二人を身代わりにと小部屋に放り込み、彼らは、小型通信機から聞こえてくるユエの指示に従って、建物の調査を行っていた。
ユエは、どうやってか、この建物の内部構造を調べ上げたらしい。レイの報告から彼らの現在位置を割り出し、最も的確な探索ルートを教えてくれる。監禁されていたのはどうやら地下だったらしく、階段を上がると、ひび割れたガラス窓の向こうに外の風景が見えた。すっかり日が落ちているため、半分鏡と化しているそれを横目に、彼らはさらに上階へと足を進めた。逃げ出すのは簡単だったが、ここまで来て引き返すつもりは、彼にも、彼女にもなかった。
二階の踊り場に到着したレイは、そっと階段の外の様子を窺う。電灯がついていないためかなり暗い廊下を透かし見て、彼は小さく舌打ちした。
「結構デケェな、このビル・・・さっきの廃工場より部屋数がかなり多いぜ。」
『多分、廃工場は支部か出張所のようなもので、そこが本拠地(ホーム)なんでしょう・・・そろそろ、彼らが異変に気付いてもいい頃です。気をつけて下さいよ。』
「あぁ、分かってる。」
ユエの報告によると、この廃ビルはかなり複雑な構造をしているらしい。彼らは地下から順に、上へ上へと進んでいるが、今のところ探索は空振りに終わっていた。敵に発見されることもなければ、これといった手がかりや証拠があるわけでもない。一階には十を超える部屋があったが、どれも床に埃が積もっており、全く使われていないことが一目で分かった。おそらくは、万が一一般人が迷い込んだ場合、見られてはまずいものがすぐに目に入らないように、一階だけは「廃ビルらしさ」を演出してあるのだろう。
何事もなく探索が進むのは結構だが、柳が地下室を再び訪れれば、彼らが脱走したことはすぐにばれてしまう。その前に探索を終えて脱出するのがベストなのだが、まぁそこまで都合よく事は運ぶまい。再び乱闘になった場合、武器がナイフ一本じゃちょっと頼りないな、とレイが考えていると、その考えを読んだかのようにアスカが尋ねた。
「ねぇ、レイは銃は使えないの?」
「・・・・・・何で?」
「え、いや・・・さっき見張りの片方が持ってた銃、取り上げなかったから・・・。」
急にトーンを下げたレイの声に、彼女は戸惑ったように言葉を切った。振り向かないままの彼の肩が、はっきりと強張っていたからだ。
彼女にしてみれば、ごく自然な質問だった。先ほど見張りを昏倒させた時、彼は大きな戦力となる拳銃には手を出さず、ナイフだけを拝借した。だから、銃は使えないのかと、本当に何気なく訊いたのだが、何か気に障ったのだろうか。
彼女がそっと声をかけようとした時、レイはぽつりと、まるで独り言のように呟いた。
「・・・使いたくねーんだ。銃は、嫌いだから。」
「・・・・・・・?」
そう呟いた彼が、そっと左の手首を握り締めているのが見えたが、彼女はあえて口にはしなかった。
―――何となく、訊いてはいけない事のような気がしたから。
二人の間に微妙な沈黙が落ちた、その時。下の階から、何かを叫ぶ声が聞こえてきた。続いて、ばたばたという複数の足音が響く。
無言で耳を澄ませていたレイは、気付かれたな、と小さく呟いた。
「二人で動き回ってたら捕まるな・・・しょーがない。アスカ!」
「な、何?」
「二手に分かれよう。俺が陽動を引き受けるから、暫くそこら辺に隠れててくれ。適当に奴らを引っ掻き回しとくから、その間に探索を頼む。」
「・・・分かった。」
今さら何を言っても無駄だと、アスカはあっさりと頷いた。彼なら、奴らに捕まるようなヘマはするまい。ここまで来たら、自分に出来ることをするだけだ。
細かい指示を、いくつか口早に与えると、レイは素早く踵を返した。走り出そうとしたその背を、アスカが呼び止める。
「レイ!」
「?」
「・・・無事でいてね。」
―――弟と同じ年頃の彼が、傷つくところなど見たくはない。
その言葉にふわりと微笑った彼は、ぴっと黒い手袋に包まれた親指を立てた。ほんの微かに笑い返した彼女も、同じサインで応える。
慌ただしい足音が近づいてきている。二人は、それぞれの目的を果たすべく、互いに背を向けた。