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2004年 9月30日 水星
地球からだと水星は日の出の少し前と日没後のわずかな時間にのみ、地平線上に輝きます。その事から古代ギリシアでは、東の地平線上に見えるのをアポロ、西の地平線上に見えるのをヘルメスと呼び、別の星と思っていたそうです。
その後、二つが同じ惑星である事がわかると、ローマではギリシア神話のヘルメスに該当する神の名前をとってメルクリウス(Mercurius)と呼ぶようになりました。英語読みではマーキュリー(Mercury)です。

水星は太陽に最も近く、太陽系で二番目に小さい惑星です。水星は太陽を2周する間に3回自転していたり、水星の軌道は冥王星に次いで細長い楕円形をしているため、太陽に一番近い時(近日点:約4600万km)と、一番遠い時(遠日点:約7千万km)があります。
また、水星の軌道は地球の内側にあるため、月に似た位相(満ち欠け)が見られます。発見は少なくともシュメール人の時代(紀元前3千年)から知られているほど古くから知られていました。
中心核(ニッケル・鉄)・マントル(珪酸塩)・地殻(珪酸塩)からなっていて、他の地球型惑星と同じように、水星も金属鉄の核・ケイ酸塩のマントルという内部構造であると考えると、質量・半径・比重の値からマントルの深さは地表から600km程度な事から、水星では金属鉄の核の割合が非常に大きい惑星であると考えられています。
水星の半径は2440km、質量(地球を1とした時)0.055、密度(水が1の時)5.43、表面重力(地球を1とした時)0.38、平均軌道速度は秒速47.36km、公転周期は88地球日、自転周期は58.65地球日、軌道面の傾きは7度、自転軸の傾きは2度、表面温度は昼間427℃深夜〜明け方-183℃、大気の組成は大部分ヘリウムとナトリウム、衛星は0個と言われています。
水星は様々な点で月に似ています。水星の表面はクレーターで覆われ、非常に古く、大気はなく、プレートテクトニクスの兆候もありません。しかし、水星は月よりもずっと高密度です。

水星は太陽に近い上に、太陽からの最大離角が28度しかないため、地球から観測は困難でした。1974年と1975年にアメリカの探査機マリナー10号が水星に最接近するまで、水星の表面の様子は謎に包まれていました。
1973年11月に打ち上げられたマリナー10号は、複数の惑星探査を目的に打ち上げられた最初の惑星探査機です。金星に接近したほか、水星に2度遭遇して1万枚の写真を撮影しました。マリナー10号は、水星表面の約35%を観測し、40億年前の水星の姿を明らかにしてくれたのですが、表面地形・内部構造・組成などの詳細については、将来の惑星探査を待たなければなりません。
2004年に探査機メッセンジャーが打ち上げられ、2009年に水星に到着する予定です。

一生水星を見ない人は少なくないそうですが、これは水星が肉眼では見えないという事ではなく見つけづらいからです。
時には双眼鏡や肉眼でさえ見ることができますが、いつも太陽のすぐ近くにいるので、黄昏の空に見つけるのは困難です。マイク・ハーベイの惑星探索図(planet finder charts)に水星(その他の惑星)の空での最近の位置が示されているので探してみましょう。
地球から見る場合は太陽が邪魔にならない日の出か、日の入り直後の僅かな時間に限られるそうです。
今日は水星について話しました。


2004年 9月29日 金星
金星は、夕方や明け方の空に明るく光って、宵(よい)の明星や明けの明星と言われる惑星です。美しく輝く金星には、愛と美の女神の名前がよく似合うと考えられ、愛と美の女神、ギリシア神話のアフロディテ(Aphrodite)、ローマ神話のウェヌス(Venus)にあたります。

金星は有史以前から知られていた、太陽から2番目にある地球に最も近い惑星です。公転軌道は太陽系の惑星の中で最も真円に近いです。自転が逆向き(時計回り)なので、金星からは太陽は西から昇って東に沈むように見えます。
軌道が地球の内側にあり、太陽との最大離角が47度であるため、日の出3時間前の東の空と、日没3時間後の西の空でしか見る事ができません。軌道が地球の内側にあるため、月と同じく位相(満ち欠け)が生じます。
中心核(ニッケル・鉄)・マントル(珪酸塩)・地殻(珪酸塩)からなっていて、金星は地球の双生児と言われるほど、地球に近い大きさや密度をもっていて、中心部に金属鉄の核、その外側に岩のマントルという地球とよく似た内部構造であると考えられています。
金星の半径は6052km、質量(地球を1とした時)0.815、密度(水が1の時)5.24、表面重力(地球を1とした時)0.91、平均軌道速度は秒速35km、公転周期は224.7地球日、自転周期は243地球日、軌道面の傾きは3.4度、自転軸の傾きは177.4度(逆向きに回転)、表面温度は465℃、大気の組成は大部分が二酸化炭素・窒素・その他(硫化物や水)、衛星は0個と言われています。
金星は地球と双子の惑星と考えられていましたが、しかし惑星探査機の観測によって酸性の雲の下は地球とは似ても似つかなぬ、とてつもない温室効果で支配された灼熱地獄の天体である事がわかりました。

最初に金星を訪れた探査機は、1962年のマリナー2号でした。それに引き続いて、パイオニア・ビーナス号や、最初に他の惑星に着陸したソ連のヴェネラ7号、最初に金星表面の写真を送信してきた ヴェネラ9号などの探査機が訪れています。
アメリカの金星のまわりを回る探査機マゼランは、レーダーを使って金星表面の85%もの詳細な地図を作成しました。他にも探査機は訪れていて全部で20以上になるそうです。

日食のように時々、太陽と金星がぴったりと重なる事があります。金星による日食とも言えますが、金星は太陽よりずっと小さいので、「太陽面通過」と呼ばれています。これは周期的に起こり、8年・121.5年・8年・105.5年という間隔で起こって、次に日本で見られるものとしては2012年と言われています。

金星がよく見えるのは日没直後か夜明け前で、たいていかなり太陽に近いところに見えます。空で一番明るく光っている星を探してみましょう。
双眼鏡を持っているなら、金星が満ち欠けする様子が見えるそうです。金星が地球と近くて太陽と一直線に並んでいる時、金星は三日月型になっています。
今日は金星について話しました。


2004年 9月28日 火星
赤く血の色をした火星(Mars)は古くから不吉な星とされていました。火星(マーズ)はギリシア神話のアレス(Ares)、ローマ神話のマルスにあたります。

火星は太陽から4番目で赤い惑星とも呼ばれたりするなど、その血のように赤い色から戦争や不吉の前触れと考えられたりした昔から人類との関わりの深い惑星です。白い極冠、火山、深い峡谷、砂漠などがあり、地形は太陽系の中で地球に次いで複雑だそうです。
火星は有史以前から知られていました。また今もなお、太陽系で(地球を除いて)最も人類の居住にふさわしい場所として、SF作家のお気に入りの場所です
19世紀の天文学者パーシバル・ローエルは、火星の表面に見える線状模様から、火星には乾燥した砂漠に水を引く運河を築く高度の文明が存在すると考えました。しかし、火星探査機の探査により、それは空想に過ぎない事がわかりました。同時に、探査機が送ってきた画像により、火星にはかつて液体の水が豊富で湿り気があった時期が存在し、地球と同じように生命が誕生したのではないかと考えられるようになりました。
火星は地球の約半分の大きさで、小さなサイズの惑星である事から、内部は冷却されていると推測されています。岩石と金属が主な成分で、地殻の下のマントルは酸化鉄に富んだケイ酸塩からなり、核は鉄・ニッケルの合金と硫化鉄からなっています。
火星の半径は3397km、質量(地球を1とした時)0.107、密度(水が1の時)3.9、表面重力(地球を1とした時)0.38、平均軌道速度は秒速24km、公転周期は686.98地球日、自転周期は24.63時間、軌道面の傾きは1.9度、自転軸の傾きは25.2度、表面温度は-120〜25℃、大気の組成は二酸化炭素95.2%・窒素2.5%・アルゴン1.6%・酸素(痕跡成分として)、衛星は2個(フォボスとディモス)、と言われています。
自転軸が25.2度傾いているので、火星には地球と同じように季節の変化がある。しかし公転周期が長い(約687地球日)ので、火星の季節はいずれも地球より2倍も長いです。火星が赤く見えるのは、地表面に含まれる酸化鉄のためみたいです。

21世紀には、火星のサンプルを地球に持ち帰るミッションも計画され、 有人探査も実現するであろうと考えられています。このように、火星は惑星探査は人類の新しい未来を切開く意味で重要だと考えられています。

火星の火山と地球の火山の形はよく似ています。ふもとにはたいていゆるやかな裾野が広がっています。しかし、地球のようにプレートが移動するわけでもないので、何百万年も同じ場所にじっとしていて、そこへ新しい溶岩が湧き出して次々にくっついてオリンパス火山などエベレストの3倍の高さの山などがあります。
そのかわり、今では火星の火山はみんな活動しない死火山だと言われています。

火星探査には
マリナー、1962〜1973年、NASAが水星、金星及び火星に向けて打ち上げた一連の惑星探査機です。マリナー4号は、火星にクレーターがある事を初めて明らかにしました。マリナー9号は、11月に火星の軌道に入り、7千枚以上の画像を送ってきました。
バイキング、1975年、火星の生命探査を目的とするバイキング1号と2号が打ち上げられました。いずれもオービターとランダーからなっていて、ランダーは地表で一連の生物実験を行いましたが、生命の証拠となるものは発見されませんでした。ただし、バイキングが到着した以外の地域には、微生物などが存在する可能性がないわけでもなく、結論は今後の探査の結果まで待たねばなりません。
生命の発見はできませんでしたが、バイキングは降下中に大気の調査を行い、同時に何千枚もの画像を撮影しました。この画像に基づいて、150〜300mの分解能で火星の地図を作製する事ができました。
マーズ・パスファインダー、1997年7月「より速く、より良く、より安く」というNASAの新たな方針のディスカバリー計画のもとに打ち上げられました。マーズ・パスファインダーは、エアバッグを使った着陸方法やリアルタイムの火星風景のテレビ放映、ローバー(探査車)ソジャーナーによる地表調査など世界の注目を集めました。同時に膨大な科学データを得るなどしたそうです。
マーズ・グローバル・サーベイヤー、1996年12月、詳細な火星地形の探査を目的に打ち上げられました。火星軌道を周回して火星の地表下の様子や現在までに数々の地形の画像を送りました。2000年6月には、火星の南極近くで最近水が流れ出たと考えられうる地形が発見され、火星における水と生命の可能性のが再浮上したりしています。
のぞみ、1998年7月、宇宙科学研究所(ISAS)により、日本初の火星探査機「のぞみ」の打ち上げられました。1999年10月に火星の軌道に到着する計画でしたが、2003年12月時点で不具合の箇所を修復できなかった事を確認し、火星周回軌道への投入を断念せざるを得なくなりました。

火星は赤くて明るいから見つけやすいです。地球が途中で追い越すので火星の位置が逆戻りするも見れるそうです。双眼鏡を持っているなら、火星の表面の模様がよく見えるので白い極冠を確かめたりできます。
今日は火星について話しました。


2004年 9月27日 木星
木星(Jupiter)は大きさは太陽系を木星とその他でできていると言える程大きい惑星です。ジュピターはギリシア神話のゼウス(Zeus)、ローマ神話のユピテル(Jupiter)にあたります。

土星は太陽から5番目で、太陽系最大の惑星でありガス状惑星の代表格です。質量が今の80倍あったならば、恒星になっていたと言われていて木星は恒星になり損ねた惑星と考えられてます。
また、4番目に明るい天体で、場合によっては火星の方がより明るくなります。有史以前から知られています。1610年のガリレオによる4つの木星の衛星の発見は、地球以外の物体が運動の中心となった最初の発見でした。これが コペルニクスの 天動説に味方する主な理由になりました。
核(岩石あるいは氷、質量は地球の10倍)・金属水素・ヘリウム・液体水素からなっていて、中心部に小さな鉄と岩石の核があるほかは、液体水素と金属水素で構成されていると考えられています。
木星の半径は71492km、質量(地球を1とした時)317.8、密度(水が1の時)1.3、表面重力(地球を1とした時)2.37、平均軌道速度は秒速13km、公転周期は11.86地球年、自転周期は9.56時間、軌道面の傾きは1.3度、自転軸の傾きは3.1度、表面温度は19000℃(金属水素の最下層)・1万℃(液体水素の最下層)・1500℃(液体水素の表面)・-130℃(雲の最上層)、雲の構造は液体水素・氷の水滴・水硫化アンモニウムの結晶、大気の組成は水素90%・ヘリウム10%、衛星は62個(イオ・エウロパ・ガニメデ・カリストなど)、と言われています。
木星は土星のような薄い環を持っていますが、それは土星のものよりずっと小さいものです。環は全く予期していなかった事で、ボイジャー1号計画の科学者が1億kmも進んだところで、輪がないかどうか、少なくともちょこっと調べてみるくらいの価値はあるんじゃないかと主張して、やっと発見されました。全くないと考えられていてこれは重大な発見でした。

木星には大赤斑がありますが、地球上の観測者により300年以上も前から知られています(発見は17世紀カッシーニか、ロバート・フックによるとされています)。大赤斑は短軸12000km、長軸25000kmの楕円であり、地球2個がまるまる入る大きさです。
これ以外にも小さいのですが、似たような斑点が数十年前から知られています。赤外線観測と回転の方向とから、大赤斑はその雲の頂点が周囲よりかなり高い、高圧の領域であることが示されています。同様の構造は土星と海王星にも発見されていますが、このような構造が、なぜ長期間にわたり維持されているのかはわかっていません。

1994年7月、木星に大事件が起きました。有史以来40億年以上も前から太陽を大きく周回していた10km程の彗星がありました、1992年7月この彗星は太陽系最大の木星の重力に捕らえら潮汐力により20個以上にも砕かれました。
そして1994年7月にその破片が次々と秒速60kmで木星に衝突したのです。その彗星はシューメーカー・レビー第9彗星で、この様子を目撃したのは、ハッブル宇宙望遠鏡、木星に向かっていたガリレオ探査機、海王星探査を終えたボイジャー2号などでした。

1973年に宇宙探査機パイオニア10号が、初めて木星を訪れました。その後パイオニア11号、ボイジャー1号と2号、それにユリシーズが接近しました。2機のボイジャーの探査によって、木星について様々な発見がされました。しかし、どの探査機も木星のそばを過ぎ去るだけ(フライバイ)でした。
1989年10月に打ち上げられたガリレオ探査機が、1995年12月に木星に到着しました。しかし、木星に辿り付く前にメインアンテナが故障してしまい、大容量通信が不可能になるという問題が発生しました。
そこで、他に使えた小型のアンテナで木星と地球の間で通信ができるように、ソフトウェアを書き換えてデータを圧縮して送れるようにしました。何億kmもの彼方の衛星に搭載されたソフトウェアを、バックアップのアンテナによる通信で書き換えるという大胆なチャレンジが成功したのでした。
今では、打ち上げ後に航行ソフトウェアのアップデートを行なうのが普通になっていますが、最初にこれを始めたのはガリレオでした。
そして木星についたガリレオ探査機はガリレオ衛星や木星本体のデータを取り続けましたが、15年を経過し衛星に積まれていた燃料も底を尽きてきました。そして2003年9月21日、ガリレオはその使命を終え、木星の本体へと突入しました。

木星は1等星などよりずっと明るいので、肉眼でもみつけやすい惑星です。9月頃は見つけやすくて、明るい星がほとんどない秋の夜空で黄金色に輝いているそうです。双眼鏡を持っているなら、木星の4つの衛星まで見えるそうです。
今日は木星について話しました。


2004年 9月26日 土星
土星といえば環、環といえば土星というくらいに土星の環は有名です。土星(Saturn)はローマ神話の農業神サトゥルヌスにちなんでいます。ちなみに魔王サタン(Satan)とは関係ありません。

土星は太陽から6番目の惑星、木星に次いで2番目に大きいガス状惑星です。有史以前から知られていました。ガリレオが1610年に初めて望遠鏡で観測しましたが、土星の環が傾いているために、見る方向によって土星の形が違って見えたので低い解像度で見た土星の姿は非常に変化が激しいものとなりました。
1659年になって初めて、クリスチャン・ホイヘンスが土星の環の幾何学的構造を正しく推測しました。天王星や木星、海王星に薄い環が発見されるまでは、土星の環は太陽系で唯一の構造とみられていました。
核(岩石や岩石と氷の混合物)・金属水素・液体水素からなっていて、外部は液体水素で、中心には岩石と鉄・ニッケル合金からなる核があり、その中心核と液体水素が接する部分が、液体金属水素になっています。
土星の半径は60260km、質量(地球を1とした時)95.2、密度(水が1の時)0.74、表面重力(地球を1とした時)0.93、平均軌道速度は秒速9.6km、公転周期は29.46地球年、自転周期は10.40時間、軌道面の傾きは2.5度、自転軸の傾きは26.7度、表面温度は-180℃、大気の組成(厚さ1千km)は水とアンモニアの雲や水硫化アンモニウムの氷の雲、衛星は33個(タイタン・パーン・アトラス・プロメテウス・パンドラ・エピメテウス・ヤヌスなど)、と言われています。
土星は密度が0.74と水よりも軽く、仮に水に浮かべる事ができるとすれば水に浮く事になります。太陽系で密度の最も低い惑星です。

環は土星からD、C、B、A、F、G、E環の順番に展開しています。A〜C環が地球から見える環で、現在のAとCの環を最初に発見したのは、ガリレオ・ガリレイです。しかし、観測に使った手作りの望遠鏡の分解能が低かったため、これらが環である事に気付かず、ガリレオは「耳のような物体」と呼んでいましだ。
1655年になって、クリスチャン・ホイヘンスが環である事を発見しました。20世紀までA、B、C環が土星の環と考えられていましたが、1969年に地上の観測でD環が、1971年にパイオニア11号によってF環が、1980年にボイジャー1号によりEとG環がそれぞれ発見されました。
地球からは繋がって見えますが、環は実際は大きさが1cmから数mにわたる小さな塊からなっています。大きさが数kmのものもあるようです。土星の環は非常に薄く、直径自体は25万km以上もありますが、厚さはせいぜい200mしかありません。小さな塊からなっているので環の物質を一つの塊に固めてしまったら、直径はせいぜい100km程度にしかならないそうです。
環を作っている塊は、主に水性の氷と思われますが、あるいは表面が氷に覆われた岩石もあるかもしれません。氷の粒の密度やまわりの大気の状態や光の当たり具合によって、色が変化して見えます。
現在、土星の輪は内側から順にD環、C環、B環、A環、F環、G環、E環があります。
「D環」最も内側にある非常にかすかな環で、土星に触れんばかりの近さにあります。1969年5月の地上の観測により、C環の内側にある極めて薄い環が発見されてD環と名付けられました。土星の赤道表面上空12000kmの距離から2170kmの幅に広がっています。
「C環」クレープ(ちりめん)環とも呼ばれ、名付けたのはイギリスのウィリアム・ラッセルです。一番青い環で、地球からは最もかすかに見えます。幅は17500kmで、土星の赤道表面上空14170kmの距離から広がっています。幅270kmのマクスウェルの間隙があります。1838年、ベルリン天文台のヨハン・G・ガレにより発見されましたが、1850年のW・C・ボンドとG・P・ボンドの父子さらにW・R・ダウエスの観測によって正式に認められました。
「B環」一番幅が広くて明るく、粒子の密度も濃い環です。環の幅は25600km、土星の赤道表面上空31570kmの距離から広がっています。ボイジャー1号観測で、B環に自転車のスポークのような黒い影(Spokes Ring)が発見され、非常に細かい粒子の集合である事がわかりました。B環とA環の間には、有名なカッシニの間隙(幅2600km)があります。
「A環」地球から見える一番外側の環です。幅は14600kmあって、土星の赤道表面上空61870kmの距離から広がっています。ドイツのヨハン・フランツ・エンケが発見した幅320kmのエンケの間隙があります。この中を羊飼い衛星のパーンとアトラスがまわっています。
「F環」明るく見える細い環です。1979年9月1日、土星の赤道表面まで約2万kmに最接近したパイオニア11号(史上初の近接観測)が、A環の外側にあるF環を発見しました。赤道の表面上空79880kmから490kmの幅で広がっています。1980年11月12日、土星に75万kmまで接近したボイジャー1号の観測で、よじれた2本の小環がある事がわかりました。これは、羊飼い衛星のパンドラとプロメテウスの重力によって、環を構成する粒子が羊の群のように追いやられたために生じたと考えられています。
「G環」E環と同じく見えにくい外側の環の一つです。1989年11月12日、ボイジャー1号の観測により確認されました。土星の赤道表面上空105470kmの距離から8千kmの幅に広がっています。
「E環」最も外側の非常に見えにくい環です。1980年11月12日、土星に124200kmまで最接近したボイジャー1号により発見されました。E環は、土星の赤道表面上空127670kmの距離から29万kmもの幅に広がっています。E環を構成する氷の粒子は特に細かく、密度も非常に希薄です。
土星の環は、土星の1年(29.46地球年)の間少しずつ向きを変えています。環が水平になるのはだいたい15地球年に1度(土星の春の頃)、そのとき環は大きな望遠鏡でもまったく見えなくなってしまいます。
これは土星の自転軸が少し傾いている事や、環の厚さがそれほどはない事と関係してます。環は厚くて200m、薄いところでは10mほどしかないと計算されているそうです。

木星は金星の次に明るく、普通の1等星よりずっと明るいから、肉眼でも見つけやすいそうです。特に9月頃は見つけやすくて、明るい星がほとんどない秋の夜空で黄金色に輝いています。
ただ、肉眼じゃ環は見えないそうです。双眼鏡ならかすかに土星の環が確認できるかもしれないくらいで、望遠鏡だったら3本くらいは環が見えるそうです。
今日は土星について話しました。


2004年 9月25日 天王星
天王星(Uranus)は望遠鏡を使って発見された最初の惑星で、ギリシャ神話における天の神ウラヌスにちなんで命名されました。

天王星は太陽から7番目の惑星、太陽系で3番目に大きいガス状惑星で土星の外側を回る惑星です。近世になって最初に発見された惑星でもあります。太陽からは29億km離れていて天王星からは太陽は輝く小さな円盤にしか見えないそうです。
核(溶岩)・氷(アンモニア・メタン・水の混合)・ヘリウム・メタン・水素からなっていて、星の平均密度は小さく、水素とヘリウムでできています。外側にヘリウムとメタンを含む液体水素層、その内側に水にメタンやアンモニアが混じった氷の層があり、直径約1万7千kmの岩石質の中心核を取り囲んでいます。
天王星の半径は25559km、質量(地球を1とした時)14.54、密度(水が1の時)1.3、表面重力(地球を1とした時)0.89、平均軌道速度は秒速6.8km、公転周期は84.2地球年、自転周期は17.17時間、軌道面の傾きは0.8度、自転軸の傾きは97.9度、表面温度は-210℃、大気の組成は水素85%・ヘリウム13%・メタン2%、衛星は27個(ミランダ・アリエル・ウンブリエル・オベロン・ティタニア・ミランダ・アリエル・デスデモーナ・オフィーリアなど)、と言われています。
天王星の青い色は大気の上の方にあるメタンが赤の光を吸収してしまうためです。他の木星型惑星と同じように、天王星にも環があります。木星と同じように非常に暗いものですが、成分は直径10mに達するほどの大きな岩のかけらと、細い塵とが混じったものです。 天王星の環は11本、知られています。

天王星の自転軸は、他の惑星と比べてかなり大きく傾いています。その傾き方ときたら90度をこえてしまっていて、この星だけ横に倒れてしまったようです。おまけに磁軸も自転軸から離れていて、星の中心からもちょっとずれてしまっています。
原因は不明なのですが「大衝突で横倒し説」というのが有力です。天王星が生まれたばかりの頃にかなり大きな氷の塊が衝突したという考えです。天王星に氷塊が大衝突して天王星は大きく傾き、さらにこの大衝突で散らばった星の欠片が、あとから衛星たちや環になったと考えられています。
そして、大きく傾いてるために、夏と冬が42年ずつにもなっています。この惑星の季節は1周するまでの84年のあいだに極地(北極・南極)に太陽の光があたっているかどうかで変わりますが、天王星は横倒しになってるから季節が極端に長くなってしまいます。
ただ、夏でも冬でも天王星に届く太陽の光はほんのわずかなので、夏と冬の温度差もわずか2℃以内だそうです。

天王星は1781年3月13日にウィリアム・ハーシェルによって惑星である事が発見されました。観測を始めた頃はハーシェルは彗星だと思っていましたが、その後の観測により惑星であるという事がわかりました。ハーシェルより前にも天王星を見た人はたくさんいたようですが、新しい惑星とは思わず見過ごしていました。
ハーシェルは天王星をイギリスの王ジョージ3世にちなみ、ゲオルギウム・シドゥス(Georgium Sidus:ラテン語でジョージの星という意味)と名付けました。また、フランスの天文学者たちは天王星を「ハーシェル」と呼んでいました。その後、ボーデによって天王星(Uranus)という名が付けられ1850年頃にはその名が定着しました。

天王星は肉眼で見える惑星の中で最も遠いところにある星です。ただ、肉眼で見えたとしても、天王星の光は本当にかすかで辛うじて見える程度だそうです。
双眼鏡なら天王星が緑っぽい色をしているのがわかるかもしれないくらいに、望遠鏡ならばこの星が円盤の形をしている事までわかるそうです。
今日は天王星について話しました。


2004年 9月24日 冥王星
冥王星(Pluto)は太陽系の中で太陽から最も遠い惑星で、太陽系最深部の暗闇に存在するため、ローマ神話の冥府の王プルート(ギリシャ神話ではハーデス)にちなんで命名されました。日本語の冥王とはその訳語だそうです。

冥王星は太陽から9番目、太陽系の辺境にある最も小さい惑星です。冥王星はまた、惑星探査機が訪れていない唯一の惑星でもあります。太陽からの平均距離が約59億kmと非常に遠いため、冥王星から見ると太陽は小さな光る点に過ぎません。
核(岩石)・マントル(水の氷)・地殻(珪酸塩)からなっていて、木星型惑星の領域にありますが、他の木星型惑星のようにガスの惑星ではなく、地球型惑星のような固体表面をもつ惑星です。
表面の組成さえ明らかでなく推測の域を出ませんが、その内部には氷の混じった岩石質のコアがあり、それをおおうように氷のマントルが存在するのではないかと思われています。
冥王星の半径は1137km、質量(地球を1とした時)0.002、密度(水が1の時)2.21、表面重力(地球を1とした時)0.07、平均軌道速度は秒速4.7km、公転周期は248地球年、自転周期は6.4地球日、軌道面の傾きは17.1度、自転軸の傾きは120度、表面温度は-230〜-210℃、大気の組成は窒素が主成分で他はメタン、衛星はカ−ロン1個、と言われています。
冥王星の公転軌道は、ほかの惑星とは大きく違っています。楕円を描き、他の惑星の軌道に比べて約17度も傾いています。そのため、太陽から離れている時は74億km、近い時には44億kmになり、1979年〜1999年の間は海王星の軌道より内側に入っていました。

冥王星はある幸運な事件をきっかけに1930年に発見されました。のちに間違いがある事がわかった天王星と海王星の運動に基づく計算が、海王星の後ろに惑星がある事を予言したのです。この間違いを知らないままに、アリゾナのローウェル観測所のクライド・トンボーは注意深く空を観測し続け、ついに冥王星を発見しました。
冥王星の発見後、冥王星は非常に小さいので計算のもとになった(天王星や海王星など)他の惑星の軌道のずれの原因にはならない事がすぐに判明しました。引き続き惑星Xの探索が続けられましたが、何も発見されず現在は存在しないと思われています。

最近、冥王星より遠いところを公転する深宇宙の天体が多く発見されていて、「冥王星は惑星というよりこのような深宇宙の天体の特別大きなものと考えた方がよいのではないか」、という意見もあります。今後の研究によって冥王星が惑星の座から転落する日がくるかもしれません。

冥王星に探査機はまだ訪れていませんが、2004年12、NASAによってプルート・カイパーベルト・ミッションが打ち上げられる予定があるそうです。
冥王星は14等星と非常に暗く、存在を確認するだけでも30cm以上の大きな天体望遠鏡が必要になります。しかも、太陽に近い時期(248年のうち20年間)、1979年から1999年の間だけですので今は難しいです。
今日は冥王星について話しました。


2004年 9月23日 海王星
1846年、ベルリン天文台のガレが海王星を発見した事から、今日を海王星の日とされています。

海王星(Neptune)は2004年現在、太陽系の太陽に近い方から8番目の惑星です。名称のNeptuneは、ローマ神話における海神ネプトゥヌス(ギリシャ神話ではポセイドン)にちなんでいます。
海王星は主にガスでできた木星型の惑星で、表面は強い風が吹いていてとても寒い星です。太陽からは約45億km離れたところにあり、大きさは地球の4倍ほどです。公転軌道の一部が冥王星と交差しているので、1999年までは冥王星より遠いところにありました。
海王星の半径は24764km、質量(地球を1とした時)17.2、密度(水が1の時)1.64、表面重力(地球を1とした時)1.11、平均軌道速度は秒速5.4km、公転周期は164.77地球年(2011年にガレが発見した位置に来ます)、自転周期は16.06時間、軌道面の傾きは1.8度、自転軸の傾きは27.8度、雲の最上層の温度は-210℃、大気の組成は水素80%・ヘリウム15%・メタン5%、衛星は13個(ナイアッド・タラッサ・デスポイナ・ガラテア・ラリッサ・プロテウス・トリトン・ネーレイドなど)、と言われています。
海王星はメタンが赤い光の波長を吸収するため青く見えます。木星や土星のように、海王星は内部に熱源を持っており、太陽から来る熱の約2倍の熱を発生しています。海王星の環は中に濃淡があるため、地球からの観測ではとぎれとぎれの環に見えますが、探査機ボイジャー2号の観測で、海王星にも4本の完全な環がある事がわかりました。

海王星の発見は、1781年の天王星の発見以降、その軌道がニュートンの天文力学に合わないため、その外側にさらに惑星があると考えられていました。そのためいろいろな科学者が天王星の軌道の乱れ等を元に未知の惑星の大きさや軌道・位置を計算しました。
イギリスの天文学者で数学者でもあるジョン・アダムスは、この問題に取り組んで1845年に過去の観測から得られた天王星の軌道を元に、第8の惑星の存在を予測していました。しかし、当時のイギリス天文学会ではアダムスの考えは受け入れてもらえず、実際にその惑星を観測される事はありませんでした。
一方、フランスでも同じような研究をしていた天文学者がいました。アーバイン・ル・ベリエは、1846年6月にこの惑星の存在を示す論文を発表しました。しかし、若き天文学者の考えを受け入れてはくれませんでした。
ですが、このル・ベリエの論文とアダムスの計算結果がほとんど同じである事に気づいたイギリス天文学会は、すぐさまその惑星の捜索に入りました。ル・ベリエもフランスでの観測を断念してドイツのベルリン天文台に観測を依頼します。
そして1846年9月23日、ベルリン天文台のヨハン・ガレは、ル・ベリエが予測した位置に望遠鏡を向け、最新の星図を元に未知なる惑星を探しはじめました。そして、星図の星と視野に見える星を1つずつ付き合わせていく作業をしていくうちに、星図にない8等星の星を発見しました。
この惑星の発見者は、最初に計算からその存在を証明したアダムスか、観測に結びつく計算をしたル・ベリエかで争われましたが、2人の計算はそれぞれ独立して行われ、その結果から観測が行われた事を評価して、この2人のどちらも計算上の発見者である事を認められました。現在では、実際の観測を行ったガレを含めた3人の名前が、発見者として認識されています。

海王星は地球からは遠くて肉眼で見る事はできません。ただ、望遠鏡ならば円盤のような形と、トリトンの姿が見えるそうです。双眼鏡で見れる事もあるそうなので探してみるといいかもしれませんね。
今日は海王星について話しました。


2004年 9月22日 非暴力
「暴力は対抗的な暴力によって一掃されない。それ(暴力)は、一層大きな暴力を引き起こしてきただけである。けれども私は、非暴力ははるかに暴力にまさることを、敵を赦すことは敵を罰するより雄々しいことを信じている。」
何億人もの人々を動かし、インドという国を独立するまでに導いたマハトマ・ガンジーの言葉です。

一口に非暴力といっても、それには大きくわけて二つの考え方があります。
一つが、非暴力を生活の律する指針とし断乎として暴力を行使しない、とするものです。このような発想は、たとえば生命を奪う事によって可能になる肉食を否定し、菜食主義をとるようになります。
ガンジーが説いた非暴力とはこの意味になります。それは、暴力を行使するものが罪の意識に目覚める事を促し、より良い世界の構築を目指すとする戦略であり、暴力を行使するものを「敵」とはみなしません。
そしてもう一つが、政治闘争の戦略として非暴力を用いる、とするものです。非暴力は相手の暴力を挑撥するという点において、暴力とマス・メディアの報道にその有効性がかかっているものです。独立インドに軍隊を創設した初代首相ネルーの非暴力もこちらの意味になります。

よく勘違いされているのは非暴力は、無抵抗であるというわけではありません。暴力は相手を否定し、心や体に傷をつけるものです。非暴力は暴力を行わない、つまり相手を傷つけないものです。
「力は体力から来るものではない。それは、不屈の意思から来るものである。」
非暴力は暴力で対抗するより大きな勇気、強い意志、実行力が求められます。暴力を選ばない事が効果があるのは、実はいつでも発揮できるだけの「力」と決意を備えている事を相手に認識させる事ができる時なのです。

権力者はいつの時代にも、民衆の直接行動を暴力的に抑えこもうとします。
今日は非暴力について話しました。


2004年 9月21日 停戦と休戦
国際平和デー・世界停戦日と、1981年コスタリカの発案により国連総会によって制定されました。制定された当初は国連総会の通常会期の開催日である9月第3火曜日でしたが、2002年からは9月21日に固定されました。
2002年から、この日は「世界の停戦と非暴力の日」として実施され、この日一日は敵対行為を停止するよう全ての国・人々に呼び掛けているそうです。

停戦は一時的・局地的に戦闘当事者間の協定に基づいて、戦闘行為を停止する事です。負傷者の収容や死者の埋葬、幸福/休戦の交渉など特定の目的のためにとられる措置です。一般法規は無く、慣習によります。
オリンピック停戦やクリスマス停戦、新年停戦などがあります。

休戦は戦争中、交戦当事者の合意によって戦闘を停止する事を言います。全戦闘地域に渡って一切の軍事作戦行動を停止させる全般的休戦と特定地(聖地や中立地など)に限って停止する部分的休戦とがあります。
一時的かつ部分的な停戦とは区別されます。通常、講和の機が熟し、闘がそれ以上不必要な段階で行われます。一般に休戦協定は現地の司令官の権限で結ばれ、休戦期間が定められるのが通例ですが、戦争状態は継続します。

近年は戦争状態を終結させる平和条約によらず、休戦協定によって事実上紛争を終結させる事も多くなってきています。
停戦・休戦中はいつ戦争が再開するかという不安もありますが、その間は様々な人道支援などが行えます。そのままずっと再開しなくなってくれると良いですね。
今日は停戦と休戦について話しました。


2004年 9月20日 機関車
機関車は鉄道車両の一つで車両の中に動力装置を有し、動力を有しない客車や貨車などの車両を前から牽引、もしくは後から推進して線路上を運転する車両の事です。

使用する動力によって、蒸気(SL)、電気(EL)、ディーゼル(DL)などの機関車に分けられます。また、客車に動力装置を搭載したものは、その動力によって電車、気動車と呼ばれています。

蒸気機関車は蒸気機関を動力とする機関車の事です。SL(Steam Locomotive)とも呼ばれます。タンク機関車とテンダー機関車の2種類があります。
「タンク機関車」は、水や石炭を機関車本体に積載する形態の機関車を指します。反対にテンダー機関車は、水や石炭を別の車両(炭水車)に積載する形態の機関車です。後期のものは自動給炭装置なども備えています。
蒸気機関車と蒸気機関車が牽引する列車の事を汽車とも言います。地域や世代によっては、電気で動く物も含めて全ての列車を汽車と呼んだり、国鉄JRを汽車、路面電車や私鉄を電車と呼んで区別したりする習慣が、今でも残っているそうです。
また、最近では非電化路線では機関車が牽引する列車が少なくなり、一部の特急列車以外は気動車での運行が一般的となっているため気動車を汽車と呼んで電車と区別したりもされています。

電気機関車は電気を動力源とする機関車の事です。EL(Electric Locomotive)とも呼ばれます。電気の種類により直流電気機関車、交流電気機関車、交直流両用電気機関車、バッテリー電気機関車などに分類されます。
客車の下部にそれぞれ動力モーターを持つ電車に比べ、先頭の機関車に大きなモーターを積んでいるので製造コストが安くつきます。ただし、走行中に先頭車がトラブルを起こした場合走行不能となってしまいます。

ディーゼル機関車はディーゼルエンジンを動力源とする機関車の事です。DL(Diesel Locomotive)とも呼ばれます。動力の伝達方式の違いにより、大きく液体式と電気式に分かれます。現存してはいませんが機械式のものもありました。
液体式は、ディーゼルエンジンが発する出力をトルクコンバータを介して動輪に伝える方式により動力を得る方式です。
電気式は、ディーゼルエンジンによって発電機を回す事によって電力を発生させ、モーターを回転させる事で動輪を回転させる方法で動力を得る方式です。
機械式は、ディーゼルエンジンから発生した回転力を、自動車のようにクラッチでギアをつなぎかえ動輪を回転させる方式です。
ディーゼル機関車は、ほぼ全線が電化された現在ではあまり見られなくなりましたが、貨物駅では貨車の入れ換えに今でも活躍しているそうです。

日本では電車が適している地形がほとんどですが、移動手段としてだけでなく風景などと一緒に楽しむものとして楽しめると思います。
今日は機関車について話しました。


2004年 9月19日 苗字
1870年9月19日、戸籍整理のために太政官布告により平民も苗字を持つようにおふれがでました。その日を記念として苗字の日とされています。
ですが、なかなか苗字を持とうとしなかったため、1875年2月13日に全ての国民が姓を名乗る事が義務づけられました。

苗字(みょうじ)は名字とも書き、元々、名字(なあざな)と呼ばれ、中国から入ってきた字(あざな)の一種であったと言われています。しかしながら、日本においては名前としての字(あざな)と姓氏としての名字が混在していました。
名字の必要性は、古代の氏族制度が律令制に移行した後に、氏族格式そのものよりもその本人が属する家系や家族の方が重要になってきており、従来の氏(うじ)の中でもその家を区別する必要が現れました。
そのため、その家を現すためにその出身地を付けたのが名字の始まりと言われています。平安時代の貴族は母親の家で育つ為、その家の地名などを名字につけました。貴族の初期の名字は、一代限りのもので家系を現すものではありませんでしたが、そのうち家系を示す様になってきました。
平安時代に律令制が崩壊し、荘園の管理や自ら開拓した土地や財産を守るために武装集団である武士が出現します。武士は自らの支配している土地の所有権を明確にするために自分の住んでいる土地を名字(なあざな)として名付け、それを代々継承しました。これが現代に残っているものと言われています。

1870年当時、国民は明治新政府を信用してなく、苗字を付けたらそれだけ税金を課せられるのではないかと警戒し、なかなか苗字を名乗ろうとしませんでした。そこで、明治政府は苗字の義務化を断行しました。
それでも面倒臭がった人も多く、今でも地方に行くと村人が同じ苗字などと言う地があります。親戚でもないけど、村人全員が一括して同じ苗字を付けたりする場合も多かったと言われています。

海外でも昔は苗字と言う事をあまり考えられてませんでした。そのために、家長がジャックだった場合はその子ども達は「ジャックの処の息子」と言う呼ばれ方をしていました。そこで生まれた名前が「JACK-SON」と言う苗字になったと言われています。
同じように「ウィルソン・Willson」「ジョンソン・Johnson」「ロビンソン・Robinson」なども親の名前がそのまま呼び名から苗字に変化したものです。
他にもヨーロッパ系の名前では「アムンゼン・Amundsen」「アンデルセン・Andersen」なども親の名前+子と言う成り立ちをしている苗字です。ロシア系でも「〜ビッチ」と言う名前が多いですが、これもその人の子を意味しています。

現代の名字の9割を占めると言われているのは武士の名字だそうです。また、江戸時代の農民には苗字が無かったと思われがちですが、実は表向きには許されていだけで多くの農民がそれなりの苗字を付けていました。
ただ、苗字が同じだからといって同じ苗字の武家の子孫とは言えず、むしろ大半は無関係と考えられています。
今日は苗字について話しました。


2004年 9月18日 新幹線
新幹線は国鉄がオリンピック開催に間に合わせ、1964年に運行を開始した東海道新幹線に端を発し、現在JRグループが運行する高速鉄道路線ならびにその車両などを指します。

新幹線は、1964年開業の東海道新幹線から始まりますが、実は、1939年の弾丸列車計画まで遡る事になります。
弾丸列車計画は、戦前に東京-下関間を約9時間で結ぶ超特急として計画され、日中戦争の元、大東亜共栄圏の確立のため、下関から連絡船で朝鮮半島に渡り、満州鉄道や、シベリア鉄道と直通し、尚かつ南下政策がうまくいけば、シンガポール辺りまで鉄路を延ばすという壮大な計画でした。
既にこの時点で「新幹線」という呼称自体は存在していたみたいです。当時の鉄道はまだ機関車が客車を牽く方式が一般的で、弾丸列車も電気機関車と蒸気機関車を併用する方式で計画されました。
1941年の太平洋戦争勃発後も工事は続けられ、日本坂トンネル(のち新幹線に利用)などの工事が進展していましたが、最終的には戦況の悪化で頓挫しました。しかし、そのルートの相当部分が後の東海道新幹線建設で役立てられたそうです。特に土地買収が戦時中の時点で相当部分終わっていた事は、後の新幹線建設をかなり円滑にしました。
戦後、1950年の朝鮮戦争以降本格的に復興し、鉄道の輸送需要も急激に伸張していきました。鉄道や道路輸送の需要が増大すると、当時の日本における最重要幹線であった東海道本線の貨客輸送能力は、ほぼ限界に達していました。1956年に東海道本線の全線電化ができましたが、需要の増加には焼け石に水だったそうです。
そこで、戦前の弾丸列車計画を戦後の技術革新のもと、改めて実現しようとする超高速列車計画が考えられました。東京-大阪間3時間という新幹線が技術的に可能である事を示し、社会に大きなインパクトを与えました。その後1959年に正式に建設が認可されました。
地盤が悪く山がちな日本において列車を高速運転するには、機関車が客車を牽く「動力集中方式」よりも、電車・気動車のように編成の各車両に動力を持たせる「動力分散方式」の方が適している。加減速能力に優れ、線路への負担も少なくなるからで新幹線も動力分散方式です。
そして1964年10月、東京オリンピックの開催に合わせ、最高時速210kmで、東京-新大阪を4時間で結ぶ世界最高速の鉄道として華々しく開業しました。

その後、1972年に新大阪-岡山間が開業し、1975年には博多まで全通しました。1992年3月に登場した「のぞみ」は、東京-新大阪間を2時間半で結びましたが、1997年11月からは、時速300kmで走る500系のぞみが登場し、東京-博多間を4時間49分で結ぶようになりました。
1982年6月には東北新幹線が、11月には上越新幹線が大宮発でそれぞれ開業し、1991年6月に東京まで開通しました。1992年7月にミニ新幹線の山形新幹線が開業し、1997年3月には秋田新幹線が開業し、10月には北陸新幹線がそれぞれ開業しました。

新幹線はその大部分の区間を時速200kmを超える速度で運行するため、在来線にはない色々な技術が用いられています。
路線は、在来線と別ルートで新規に建設した線路設備を用い、軌間は標準軌(レール間隔が1435mmで世界の鉄道線路のうち60%が使っている)を用いる。カーブにおける曲率半径を大きくし、できる限り直線を確保する。
人身事故防止のため、踏切を一切設けない(車との衝突事故を防ぐため)、プラットホームに安全柵を設ける(通過列車との接触事故を防ぐため)、高架とする(線路内に一般人が立ち入れないようにするため)
また、「新幹線鉄道における列車運行の安全を妨げる行為の処罰に関する特例法」で法律面での規制も行なっています。
車両は高速運転の気圧変動による乗り心地の低下を防ぐために、飛行機と同じような気密構造となっています。
時速200kmなので線路上の信号を確認して運転する事は不可能です。そこで自動列車制御装置(ATC)を備え、運転室内に車上信号による運行指示が表示されます。新幹線総合指令室列車集中制御装置(CTC)から、すべての列車の運行状況を一括管理しています。
交流25000Vで電力を供給する、なるべく電動車の比率を多くするなどあります。

また、これらの技術により、速度だけでなく乗り心地や安全面で高い水準が確保され、海外においても鉄道の価値を見直すきっかけとなりました。
新幹線に対抗してフランスやドイツが高速列車を研究し、それに対して新幹線もさらに進化として大きく影響しています。
ただ、ヨーロッパの地形と日本の地形はかなり違っていて、人口なども関係してどちらが優れているとは言えません。

新幹線は、海外ではBullet Train(弾丸列車)、もしくはそのままShinkansenの名で広く知られているそうです。
今日は新幹線について話しました。


2004年 9月17日 モノレール
1964年の9月17日、浜松町〜羽田空港(現在の羽田空港駅とは別)の東京モノレールが開業しました。そしてモノレール開業記念日と東京モノレールが制定しました。
東京モノレールは日本初の旅客用モノレールで、遊覧用のものでは1957年に上野動物園に作られたものが最初でした。

モノレールはその言葉の通り1本(モノ)のレールの上を走る鉄道です。一般の鉄道において2本のレールが必要不可欠ですが、維持するのはかなりの技術が要求されます。そこで、レールを1本ですます事はできないかと考えられたものです。
歴史は古く、1888年には既にアイルランドで営業されていて、旅客を運ぶモノレールとして世界最古はドイツで1901年に開業しています。
鉄道は「鉄道事業法施行規則(省令)」により普通鉄道、懸垂式鉄道、跨座式鉄道、案内軌条式鉄道、無軌条電車、鋼索鉄道、浮上式鉄道に分類されています。この懸垂・跨座式鉄道がモノレールと呼ばれているものです。

モノレールには2つの方式があり、懸垂式と跨座式があります。
「懸垂式」は、車両を吊るように上にレールがある(レールに車両がぶら下がっている)タイプです。鉄レール、鉄車輪だと騒音が大きいためフランスでゴムタイヤ方式のものが開発され 、開発した会社の頭文字をとってサフェージュ式と名付けられました。
この方式は支点が屋根の上にあるため、カーブでは遠心力で自然に車体が傾きます。そのため車体は下の方が幅の狭い形の裾絞り型となっています。
「跨座式」は、車両の下にレールがある(レールに車両が乗っている)タイプです。スウェーデンで考案され、考案者の頭文字をとってアルウェーグ式と名付けられました。
他にもいくつかのモノレールがありましたが、各社がシェアを競い合うのは好ましくな いという理由から、都市モノレールの規格が提言され、現在跨座式はアルウェーグ式をベースに、懸垂式はサフェージュ式をベースにしたものに規格が統一されています。

モノレールは道路の分離帯上など比較的狭い場所に設置できるため、地下鉄を作るほどの輸送量の無い多くの地方都市などで1960年代に導入が検討されました。
普通は鉄道が運輸省の管轄であるのに対し、モノレールは道路を管轄している建設省の管轄と役所間の壁や、地下鉄建設には認められていた補助金制度がなかった事などで、広く普及するにはいたりませんでした。
建設省・運輸省共管の「都市モノレールの整備の促進に関する法律」の公布や「都市モノレールに関する国家補助制度」の制定などがありましたが、現在でもあまり多くはないみたいです。

首都圏では現在すべてのタイプ(廃線含む)が見られるそうです。ちょっと探してみると面白いかもしれませんね。
今日はモノレールについて話しました。


2004年 9月16日 秋雨前線
しとしとと何時までも降り続く雨を霖雨と言って、秋の長雨(秋雨)の琴を「秋霖(しゅうりん)」と言います。

「霖」の字が当用漢字表に入っていないため、気象庁は1965年10月以降「秋の長雨」や「秋雨前線」という言葉を使っています。
秋雨前線は、9月上旬〜10月中旬にかけてオホーツク海高気圧と太平洋高気圧の境目に現れる停滞前線で、前線上では降水があります。
真夏に勢力を保っていた亜熱帯高気圧が南下して、北方から寒帯の高気圧が張り出してくる時期に、これらの高気圧の境界に形成されます。

西日本より東日本で大雨となるケースがあり、秋雨前線は梅雨前線ほど活発ではありませんが、台風が接近すると前線活動が活発になって集中豪雨にな事があります。
台風上陸前から、地面は多くの水分を含んでいるので、土砂災害の危険性が高まるので注意が必要です。

ちなみに梅雨や秋雨など降り続く長い雨の事を「霖(ながめ)」と言うそうです。また、秋雨前線の事を秋霖前線とも言うそうです。
今日は秋雨前線について話しました。


2004年 9月15日 敬老
2003年から祝日法の改正によって敬老の日が9月第3月曜日になるのに伴い、従前の敬老の日を記念日として残す為に、9月15日は老人の日として制定されました。

敬老の日は、兵庫県多可郡野間谷村(現在の八千代町)の門脇政夫村長が提唱した「としよりの日」が始りです。「老人を大切にし、年寄りの知恵を借りて村作りをしよう」と、1947年から、農閑期に当り気候も良い9月中旬の15日を「としよりの日」と定めて、敬老会を開きました。
1950年からは兵庫県全体で行われるようになり、それが全国に広がりました。1963年まではこの名称でしたが、としよりという名称はひどいという事で、1964年から「老人の日」に改められました。
そして1966年から国民の祝日「敬老の日」となり、祝日法の改正によって9月第3月曜日に変更されました。また2002年改正の「老人福祉法」によって9月15日から1週間を老人週間として制定されました。

敬老は国民の間に広く老人の福祉についての関心と理解を深めるとともに、老人に対し自らの生活の向上に努める意慾を促す事です。ちなみに世界のどの国、民族、部族であろうと、老人に敬意を表す習慣があるようです。
単純に「老」である事を「敬う」のではありません。敬うに値する人生を今も送り続けている「老」に対して敬意を表したい人はたくさんいます。

制定された当時の高齢化率は65歳以上が16人に1人でした。しかし高齢化の一途をたどり、平均寿命が世界一となってきた現在、6人に1人が高齢者となっています。
今日は敬老について話しました。


2004年 9月14日 資産運用
資産運用は貯める資産運用と、増やす資産運用があります。貯める資産運用は貯金などで、ほとんどの人がしています。

資産運用は大きく貯める資産運用の「貯蓄」と、増やす資産運用の「投資」に分ける事ができます。この両方を上手に組み合わせて行なうのが資産運用です。
貯蓄は元本が保証されている預貯金や保険などの事です。金利が高い時期は預けておけば良いように増やせますが、金利が低いとほとんど増えません。また、ペイオフによる不安もあります。

投資は元本の保証はありませんが、高い収益が期待できる金融商品などを購入する事です。リスクを伴う株、債券、投資信託などの金融商品や、また不動産で家賃収入を狙う不動産投資もあります。
投資ですが何百万円という単位のお金が必要、ではなく少ない予算から始める事も十分可能です。るいとう・地方債・純金積立など1万円程度から購入できる商品もあります。
これから始めようと思っている人は、安全性の高い金融商品を購入するのが良いみたいです。
よりリスクを減らすなら、新聞やニュースで経済を勉強したり、証券会社や銀行で資産運用の相談をしてみたりすると良さそうです。

資産運用を始める事自体は難しいものではありません。ただし、どれに対しても必ずリスクがある事は覚えておいてください。
今日は資産運用について話しました。


2004年 9月13日 保険
保険は加入者の財産や生命、健康などの危険(事故や災害など)に対し、金銭面で損失を補う制度です。

保険は公営保険と民間保険に分かれています。
公営保険は社会政策または経済政策的理由から実施される保険で、社会保険と産業保険があります。社会保険は社会政策ないし社会福祉として行なわれるもので、国民健康保険、国民年金、雇用保険、船員保険などがあります。産業保険は経済政策として行なわれるもので、農業保険、漁業保険、漁船保険、輸出保険があります。
民営保険は民間の損害保険会社、生命保険会社が販売している保険ですが、民営保険に該当する保険であっても社会政策的趣旨から実施されているものがあります。自賠責保険(自動車損害賠償保障法)や地震保険(地震保険法)がそうです。
似たものとして共済というのがあり、さまざまなリスクに対して協同して相互に扶助しあう制度です。各種協同組合や労働組合などが運営し、組合員の事故や病気による入院、死亡、火災、自動車事故などに対して給付を行うものが中心です。

保険組織では個人や企業から保険料の形で徴収して、集めた保険料は他の保険会社へ再保険をかけたり、株式を購入したり、企業などに貸し出したり(融資)して、資金の運用を行っています。
保険契約に該当する事件、事故や災害が発生した場合は保険金を受け取りますが、大地震、大火事、大型台風などのような大災害が発生した場合、保険金の財源が底を尽破綻したりもするそうです。
これを防ぐのに再保険があり、保険事業の安定化を図るため、負担できる全額を超えた部分を他の保険会社(または政府)に引き受けてもらう事により、危険の平均化、分散化を図っています。

保険と言う言葉は、英語のinsuranceを中国語訳したものからの借用で使ってるそうです。
今日は保険について話しました。


2004年 9月12日 クォリティオブライフ
近年になってクオリティオブライフ(QOL:Quality Of Life)を求める動きが見られるようになってきました。

少し前までは少しでも長く生きるのが最優先の課題だったので、「寿命(0歳児平均寿命)」が手ごろな指標として地域や国の保健・医療状況の良し悪しを測っていました。しかし、平均寿命が飛躍的に延びた先進国では、寿命が延びた分だけ人々は何らかの病を患い、病床にある期間も長くなりました。
そこで、保健や医療の良し悪しを寿命だけでなく、1990年代からQOLも重視するべきとの意見が広まってきました。現在では、保健や医療状況を測る指標としてQOLが当たり前の時代になってきています。

QOLには広義のQOLと狭義のQOLがあります。広義のQOLは人生の質とも訳され、患者だけでなく市民の健康増進を図る事を意味します。狭義のQOLは生活の質とも訳され、患者の日常生活をできるだけ苦痛の少ないものにすると言う意味で用いられます。

医療は人を見るものであり医学は病気を見るものでしたが、「手術や治療が成功しても患者が死ぬ」などの場合についてQOLが考えられるようになりました。主なのは治療法の選択や症状への対応などです。
特に、治癒の期待できない終末期医療では生存期間を伸ばす事に大きな意義はなく、QOLの維持向上こそが治療の目的となります。特に、痛みなどの症状軽減を目的とした医療は緩和医療と呼ばれます。

現在、保健・医療の現場で「どうすればQOLを高く保ったまま人生を過ごせるか」という課題に力が注がれています。
今日はクォリティオブライフについて話しました。


2004年 9月11日 公衆電話
1900(明治33)年、日本初の自動公衆電話が、東京の新橋と上野駅前および熊本市内に設置されたのが9月11日で公衆電話の日となっています。

当時はオートマティック・テレホォンを直訳した「自動電話」と呼ばれていて、交換手を呼びだしてからお金を入れて相手に繋いでもらうものでした。1925(大正14)年、ダイヤル式で交換手を必要としない電話が登場してからやっと「公衆電話」と呼ばれるようになりました。
公衆電話が飛躍的に広まったのは、戦後の復興期みたいです。戦争によって電話機や通信施設が破壊されてしまい、電話を使いたくてもなかなか使えないという状況でした。
そこで、電話不足の解消と、通信設備の拡張を進める目的で、商店などの店先に黒電話機を設置した「委託公衆電話」の登場でした。そのうちよく目立つようにと赤く塗られた「赤電話」となり、この赤電話の登場から公衆電話の利用は急激に増加しました。
さらに、同時期にボックス用として青電話が登場、100円硬貨も使える黄電話が登場するなど、ますますカラフルにかつ便利な公衆電話が現れてきました。
そしてキャッシュレス時代の先駆けとなったカード式公衆電話が登場し、ノートパソコンなどを接続しデータ通信等が可能なデジタル公衆電話機が登場し、変造カード対策でICカード公衆電話が登場しました。

公衆電話は街角の電話ボックス、商店の店先、駅やホテルなど不特定多数の人が出入りする公共施設内に設置され、誰でも利用の都度料金を支払えば通話可能な発信目的の電話機です。
支払いの手段には、硬貨、プリペイドカード(テレホンカード)、クレジットカードなどがあります。

携帯電話の普及によって置いてある場所が限られてきましたが、まだまだあると便利な公衆電話です。
今日は公衆電話について話しました。


2004年 9月10日 ホスピス
近年言われるようになってきたホスピスですが、日本では、病院での実質的なホスピスケアは1973年から始められた説と、1982年の長谷川保による末期癌患者などのためのホスピス(緩和ケア病棟)開設を最初とする説があります。

ホスピスの起源は古く紀元前後あたりから当時のローマ帝国のなかに存在していました。「疲れた巡礼のための憩いの家」誰でも食物と宿をあたえられ、とくに病気の者は手当てをしてもらい、治らない時は死ぬまでやさしく看取られたそうです。
ホスピスの語源はラテン語のhospesに由来しています。hospes「(賓)客・あるじ(主人)役・見知らぬ人」、hospitium「客を厚遇する事・丁重な事・接待・饗応・宿・宿舎」
派生語にhospitalis「見知らぬ人を暖かくもてなす」、hospital「病院」があります。

ホスピスが医療に誕生するまでは、治癒させる事にのみ専念して治癒できない場合は延命をすると言うくらいしか考えられてませんでした。
ホスピス・緩和ケアは、治癒不可能な疾患の終末期にある患者および家族のクォリティー・オブ・ライフ(QOL)の向上のために、さまざまな専門家が協力して作ったチームによって行われるケアを意味します。そのケアは患者と家族が可能な限り人間らしく快適な生活を送れるように提供されます。
全国ホスピス・緩和ケア病棟連絡協議会の基準より、以下の5項目のケアの要件があります。
1.人が生きることを尊重し、誰にも例外なく訪れる「死への過程」に敬意をはらう。
2.死を早めることも死を遅らせることもしない。
3.痛みやその他の不快な身体的症状を緩和する。
4.精神的・社会的な援助を行い、患者に死が訪れるまで、生きていることに意味を見いだせるようなケア(霊的ケア)を行う。
5.家族が困難を抱えて、それに対処しようとするとき、患者が療養中から死別したあとまで家族を支える。

現代ホスピスを形成したのは、医療面からはシシリー・ソーンダースと言われています。一方、精神面からホスピスの概念を発展させたのがマザー・テレサと言われています。彼女は、インドのカルカッタに「死を待つ人の家」を造り、路上で悲惨な状況で死亡する人に暖かいベッドを提供し、優しい人間的な看取りをしました。
日本では厚生労働省が「主として末期の悪性腫瘍患者または後天性免疫不全症候群に罹患している患者を入院させる・・・」、簡単に言えば末期癌患者とエイズ患者を主として対応しています。
ただ、他の病気に関してはまだ問題があり、また都市や地方中核都市にホスピスが集中する傾向があるために、全ての人ができるわけでもなかったりします。

医療現場では、癌患者さんが心を閉ざして鬱状態で亡くなる事が多い・自分の人生に満足できずに亡くなれる方が多い・人が死ぬ事を自然な事として受け入れられない方が多い。といった問題があります。
ホスピスはその人がその人らしい生をまっとうできるように支えるためにあります。
今日はホスピスについて話しました。


2004年 9月 9日 菊の節句
9月9日は重陽で、人日(七草)の節句、桃の節句(ひな祭り)、端午の節句、七夕の節句といった中国から伝わった五節句の最後に行われる節句です。
日本では五節句の一番最後の節句である事から、菊の節句としても親しまれ菊をめでて盛大に酒宴を開き不老不死や長寿を祈願していました。

陰陽説で9はめでたい数字の陽の中で最も良い数字といわれ、その数字が重なる事から重陽といって大変目めでたい日とされました。9が重なる日だから「重九(ちょうきゅう)」とも言われ、音が「長久」につながるので縁起をかついだとされています。
中国でも古来より神聖視されていて、日本の文化にも浸透していました。江戸時代には正午を「ここのつ」と言って頂点の数としたり、仏教でも極楽浄土を九品(くほん)浄土と言います。結婚式の三三九度も9を最高の徳を表わす数字とする思想を受け継いでいるそうです。
また、9は終わりなので逆に無限や再生(よみがえり)をも意味しています。ここから不老不死や長寿の願いがされたとみたいです。

古代中国では家族で野に出て、または登高といって高い丘に登り、菊の酒または茱萸(呉茱萸)の酒を飲みました。女性は邪気を払うため茱萸を入れた袋を身につけたと言います。
これが日本に伝わり、日本書紀に天武天皇が宴を催された事を記述しています。しかしその天武天皇が9月9日に崩御した事からこの日は忌日とされ、その後しばらくは宮中での宴は行なわれませんでした。
それでも平安時代に嵯峨天皇が重陽の宴を行なった事が記されていて、それからは重陽の節句として観菊の酒席が華やかに催されたみたいです。
酒に菊の花を浸して飲むと長生きするという「菊酒」もこの頃にはよく行われています。また、前日に菊の花に綿をのせてその露をうつしとり、翌日の9日にその綿で体を拭くと長寿を保つとも言われ、この「菊着絹(きくのせわた)」の行事は貴族のあいだで広まっていたと言われています。
江戸時代には武家の祝日になったそうです。その後明治時代までは庶民のあいだでもさまざまな行事が行われていたと言われています。

菊は薬用として中国から伝わったものみたいです。日本では食用の菊花も栽培されています。日本で菊を食材とするようになったのは、室町時代らしく、様々な菊料理がつくられています。

旧暦の9月9日というと現在では10月下旬にあたり、ちょうど田畑の収穫も行われる頃です。農山村や庶民の間では栗の節句とも呼ばれて栗ご飯などで節句を祝ったという事です。
明治までは盛んに行われていた菊の節句が、現代に引き継がれていないのは、旧暦から新暦にこよみが移り、新暦の9月9日がまだ菊が盛んに咲く時期ではなくなってしまった事が大きいみたいです。
今ではほとんど忘れられてしまった菊の節句ですが、和菓子の世界では「着綿」という名の生菓子が今も作られています。また、季節柄、収穫祭と合わせて「お九日(おくんち)」、「栗の節句」とも呼ばれて、にぎやかに集って栗飯を炊く風習が残っている地方もあるみたいです。

菊は芳香が強いほど、気品が高いほど邪気を祓う力に優れるとされたそうです。ちょっとだけでも、菊の花びらを浮かべて菊酒を楽しむのも良いかもしれませんね。
今日は菊の節句について話しました。


2004年 9月 8日 識字
1965(昭和40)年、パーレビー国王が軍事費の一部を文盲の人の為に識字教育をしようと廻した事を提案したのを記念して、ユネスコが制定した国際デーの1つで、9月8日を国際識字デー(International Literacy Day)とされています。

「識字」はアジアやアフリカなど開発途上国の人々が直面している最も大きな、そして最も解決の難しい問題の1つです。日本ではあまり聞き慣れない言葉ですが、狭い意味では文字の読み書きと計算ができる能力を指し、ユネスコの定義では「日常生活で用いられる簡単で短い文章を理解して読み書きできること」となっています。
反意語として「非識字」が用いられます。具体的に言うと、「非識字」とは「日常生活」レベルでの文字や数字の基本的な読み、書きなどが十分にできない事を言います。

国連では1990年を国際識字年に定め、世界から非識字者をなくすための活動を始める事を採択しました。1995年のユネスコの統計によると、世界で約9億人が非識字者と推定されています。
非識字人口はアジア(74%)・アフリカ(20%)に集中し、また女性の割合が高いです。こうした非識字者は生活の糧のために子どもの時から働かなければならなかった貧しい人々、女性や少数民族、さらには戦争や内乱の犠牲になった難民などが多く占めています。
日本にも読み書きに不自由している在日外国人や、義務教育免除のもと就学を阻まれた重度の障害者(知的・精神障害を含みます)がいます。

非識字者であると
例えば友達から手紙が届いたら・・・自分では読めないので人に読まれたくない手紙でも、誰かに読んでもらわなくてはなりません。
例えば電車で旅行に出ようとしたら・・・料金、行き先、乗り場など掲示板の文字が読めないので、いちいち誰かに聞かなくてはならない。観光名所についてもなんと言われるのかもわかりません。
例えば引っ越しの手続きで、役所で転居届の記入を求められたら・・・字が書けないので、自分の名前や住所の記入を役所の人などに頼まなければなりません。
例えば食料品店で買い物をしようとしたら・・・値段がわからないのと計算ができず、自分で買おうとするものがいくらになるのかわからなりません。
文字が読めないと、至るところで誰かに頼まなければならなくなります。その結果、字も読めない人なのだとバカにされたり、自分を必要以上に卑下する事にもなります。

発展途上国ではしばしば「教育を受けられない→読み書き・計算ができない→安定した職業に就けない→収入が少ない→教育を受けられない→・・・」といった「貧困のサイクル」と呼ばれる社会の悪循環が存在しています。
この悪循環を断ち切り、貧困に苦しむ人々のために自立の道を切り開くために「ユネスコ・世界寺子屋運動」が行われていて、学習の場の建設や教科書の購入、学習教室運営のための教員の給与や教室の維持運営費などを行っています。

識字は日常生活をよりよくするために必要ですが、文字を覚える事でもっと感受性を豊かにできるとも言われます。
今日は識字について話しました。


2004年 9月 7日 医者のかかり方
自分だけに限らず、周囲の人が医者にかかる事は滅多にない事ではありません。

せっかく医者にかかるならば、できるだけ効率よく行きたいものです。無駄な時間や無用のトラブルを避け、もっと手軽に医療機関を利用しましょう。
「最初はかかりつけ医(主に家庭医)へ行く事」、医大病院や大病院は医師の数も多く、設備も充実していて、いつでも最高の医療を受けられるとの一般認識があるようです。しかし、待ち時間が長く、外来担当医も定まっていないため、人間関係の構築が希薄となり、一貫した経過観察ができません。
その点、一般開業医は柔軟な対応が可能で、適切で効率のよい初期医療を提供する事ができます。精密検査や入院加療が必要な時にこそ、紹介状を書いてもらい、大病院を訪ね、病院の機能を最大限に発揮してもらえます。
普段からかかりつけている医者であれば、患者個人の病歴から体質まで把握しており、より適切な治療が期待できます。大病院での受診にこだわると余分な時間がかかる場合もあるので、まずはかかりつけ医に受診しましょう。
人に聞いてあちこちの医者にかかると、医者は主治医としての自覚がなくなるので、他の医者に責任を委ねてしまう事になります。逆に「私のかかりつけ医はあなたですよ」と言われれば医者も悪い気はしませんから、親身になってくれるでしょう。
基本健康審査などもかかりつけ医で受けておくと、データはそこに蓄積され、結果的に自分自身の健康維持や病気の早期発見に役立ちます。

かかりつけ医をかわりたいと言う場合があります。例えば風邪などで受診した後に「あそこでもらった薬を3日飲んだけど、効かないのでかわろうと思う。」といった方。前の医者にもう一度かかって頂けたら病状の変化がより詳しくわかり、その先生から他の的確な薬に変えてもらえるはずです。一度ですぐに医者をかわらない方が、良いでしょう。
一応セカンド・オピニオン(第二の意見)といってはじめの医者の診断に疑問があれば、他の医者の意見や見立てを聞いてみる権利が患者にはあります。しかし、長い間経過を診ている先生の方が、普通は最も的確な診断と治療ができるものです。
ただし、医者も人である以上、合わないなどの理由などからかえる事があると思います。その前に不審の点や不満の点があれば、医者に直接話してください。その上でダメならかわるべきです。

他に、厚生省の研究班が「医者にかかる10箇条」というのを作成しました。ここには医者に上手にかかるコツや、患者としての責任と医者を選ぶ要件が示されています。
その10箇条は
1、伝えたいことはメモして準備。(聞き間違えや聞き忘れ防止)
2、対話の始まりはあいさつから。(意外と忘れがちです)
3、よりよい関係づくりはあなたにも責任が。
4、自覚症状と病歴はあなたの伝える大切な情報。(診察と検査だけではわからない事もあります)
5、これからの見通しを聞きましょう。(できる範囲で話してくれるはずです)
6、その後の変化も伝える努力を。(治療方を変えたりする判断になります)
7、大事なことはメモをとって確認。
8、納得できないときは何度でも質問を。(治療するのは誰ですか?)
9、治療効果をあげるために、お互いに理解が必要。(健康食品や市販薬など使っていれば言いましょう)
最後は、よく相談して治療方法を決めましょう。(インフォームドコンセントです)

他に「診察は一回で終わらない事」、よく1回だけの来院で終わってしまう患者さんがいるそうです。軽い風邪や胃炎などでは1回の診察で十分な事もあります。
しかし、血液検査で異常を認めたり、経過観察が必要な場合もありますので、必ず再来院し、特に治りの悪い場合には、検査結果に対する医師の意見を聞き、「説明と合意」を得たうえで治療にあたる事です。

最後に「医者から指示された事項は最低限守る事」です。医者から薬の服用や生活食事指導が出されますが、最低限すら守れない患者さんが多いのが目立つそうです。
特に高血圧症、狭心症、糖尿病や喘息といった日頃十分注意しなければならない患者さんの場合には尚更です。
煙草やアルコールなどの嗜好品につい手がいってしまいますが、お互いに約束した事は守りましょう。治療するのはあなたです。

「かかりつけ医」と同じように「かかりつけ薬局」をもっているとまた良い事があります。それは薬害や副作用による事故を防げます。
それぞれの薬は良い薬であっても、使用法が不適切であったり、飲み合わせの相性が悪ければ事故につながります。医師は他の病院でもらっている患者さんの薬を全て把握する事は現実には不可能です。場合によっては、患者さん自身が薬の内容を知らない場合もあります。
薬剤師は患者1人1人に「薬歴」というものを作成します。複数の病院に通っていても、薬局が1つならば薬剤師が医師に対して指摘してくれるので、飲み合わせ事故は防げます。

自分のかかりつけ医がいると、例えば良い眼科医を知りたい時、医師であればある程度の眼科の知識はあるはずですし、医師会のなかでの情報のやりとりもあるので、症状に応じて適切な眼科医を紹介してもらえる可能性は大きいと思います。
自分のかかりつけ医を持つ事から始めてみると良いでしょう。現在通院中の方は、そこが「かかりつけ」の病院です。
今日は医者のかかり方について話しました。


2004年 9月 6日 コンタクトレンズ
現在、10人に1人はコンタクトレンズを使用していると言われています。

レオナルド・ダ・ヴィンチは光がガラスや水を通る時に光線の角度が変わり、そのためにものが違って見える事を発見したのです。そしてこれが、コンタクトレンズの初歩的な原理です。
1888年にスイスの眼科医は実際に目に入れられるタイプのコンタクトレンズを作りました。最初は兎で試し、次に自分自身で試し、たいした苦痛も無くレンズをつけられる事を確認しました。ですが、このコンタクトレンズは2時間つけているのが限度だったそうです。
その後も様々な研究開発が行なわれ、初めはガラス製のハードコンタクトレンズであったものがプラスチック製となり、酸素透過性ハードコンタクトレンズが登場し、ソフトコンタクトレンズや使い捨てタイプのコンタクトレンズなど種類も多くなり、自分の目と生活に適したコンタクトレンズを選択できるようになりました。

眼は鼻や口と同じく、呼吸をしています。酸素を十分に供給する事によって、様々な組織を正常に働かせています。コンタクトレンズは眼を覆ってしまうものなので、酸素を供給させるために様々な工夫がされています。
コンタクトレンズには大きく分けて2種類あります。ハードコンタクトレンズとソフトコンタクトレンズです。

ハードコンタクトレンズは名前の通り、水分を含まないプラスッチック製の固いレンズです。素材は酸素を通さないので、レンズをつけていられる時間(装用時間)が短いのが難点でした。
そこで、レンズの構造を網目状のザルのようにして、そのザルの隙間から酸素を通す工夫をほどこしたレンズが「酸素透過性ハードコンタクトレンズ」で、現在ハードコンタクトレンズと呼ばれているものの大部分がこのレンズで、「O2レンズ」とも呼ばれます。コンタクトレンズの中で、最も酸素を補給できると言われています。
利点はコンタクトレンズ使用時の視力が良好で乱視の矯正にも効果的な事、コンタクトレンズの管理が容易な事です。一方問題点としては、異物感があったり、ずれやすい場合がある事です。

ソフトコンタクトレンズは水分を含むと柔らかくなるプラスチックを使用したコンタクトレンズです。水とよくなじむ素材で、主に涙の水分から酸素を供給します。ソフトコンタクトレンズは名前の通り柔らかく、水をたくさん含んでいるので、つけ心地が良いのが特徴です。
ソフトコンタクトレンズの種類には、レンズの寿命が来るまでは使い続けるものや、使用できる期間が決められている定期交換のもの、目から一度はずしたら捨てる使い捨てのものなど様々なのがあります。
使い捨てでないソフトコンタクトレンズの利点は異物感が少なく、ずれにくい事です。一方問題点としては、乱視の矯正が不十分な場合がある事、細菌などが繁殖しやすく蛋白質も付着しやすいためレンズの消毒や蛋白質除去といった管理に多くの労力を要する事、レンズが劣化しやすい事です。
使い捨てコンタクトレンズの利点は汚れにくく、従来からのソフトレンズと異なりレンズの管理が容易で、時々しかコンタクトレンズを使用しない人にも適する事です。一方問題点としては、従来からのソフトレンズ同様乱視の矯正が不十分な場合がある事、使い捨てのため購入を繰り返すのでコストが割高になる事です。

コンタクトは医療用具です。また、眼鏡と違い角膜に直接のせて使用するものなので、眼科医の検査・指示を受ける事が重要です。そのため、コンタクトを購入する際にはいくつかの検査を受けて頂く必要があります。時間はかかりますが、眼を守るためのもなので我慢してください。
「視力検査」、眼科に来院された方の多くが、最初に行う検査が視力検査です。裸眼視力やレンズによる矯正視力、眼鏡やコンタクトを持っていたらそれらをつけた状態の視力も測ります。
「診察」、医師による診察です。眼の健康状態をみてコンタクトを入れても大丈夫な状態であるか判断されます。この後、必要に応じ涙液検査・角膜内皮細胞検査などを行う場合があります。
「装用」、その方に合うと思われる仮のコンタクトレンズを実際に装用してもらい、装用した仮のコンタクトがその方の「眼になじんでいるか」を医師がチェックします。
「度数の決定」、医師によるチェックでそのコンタクトが合っていると判断された後に、コンタクトの度数の微調整が行われます。
「診察・処方」、最後にもう一度医師による診察が行われ、コンタクトの処方になります。
「脱着練習・ケアの説明」、今までコンタクトを使用した事がない方にはコンタクトのつけ方と外し方の練習をします。また、コンタクトのケアの仕方の説明も行います。

コンタクトレンズはあくまで医療器具です。コンタクトを使ってのトラブルを防ぐには、ちゃんとした眼科にかかって診断処方を受ける、ハードやソフトなどレンズによってそれぞれちがう使い方を守る、レンズのケアを決められた通りにちゃんとと行う、何日もつけっぱなしにしたりしない、定期検診を受ける、異常を感じたらすぐ眼科にかかる事です。
目に重い障害が残ったり失明でもしたらとりかえしがつきません。あくまでこれは薬事法で定められた医療器具だという事を忘れないようにしましょう。

コンタクトレンズは眼に直接つけるものなので、少しでも異常があればすぐやめるようにしてください。その時は眼鏡が必要になるので、眼鏡はちゃんと持っておくようにもしましょう。
今日はコンタクトレンズについて話しました。


2004年 9月 5日 眼鏡
視力を矯正するために、もっとも簡単で安全な視力矯正の手段は眼鏡と言われています。

ローマ皇帝ネロは近視で、凹型に磨いてあるエメラルドを通して試合を見ていた事が知られていますが、古代においてレンズは屈折異常の矯正の為よりも、景色に色をつけて見る為に用いられていました。
プトレメウス(西暦85〜169年)が初めて入射角と反射角の法則を発見し、光学についての最初の本を著しました。現在私たちが知っている屈折の法則は、スネリユス(1581年〜1626年)が発見しました。
以上や様々な資料より、最初の眼鏡は13世紀末に現れていて、それまで眼鏡は発明されていなかった、と考えられています。
日本に眼鏡が渡来したのは16世紀頃と言われています。現存する最古の眼鏡は、大徳寺大仙院にある足利義政が使用したものと言われていて、フレームも容器も象牙製になっています。

眼鏡はレンズに遠視、近視、乱視を自由に組み合わせる事ができ、長持ちするので経済的です。目に直接触らないので、害もありません。 欠点として、外見(美容)上の問題、くもる、運動するとずれるなどの実用上の問題がありますが、それとは別に光学的に避けられない問題があります。
それは、眼鏡のレンズが目から離れたところにある為に起こります。眼鏡は目から12mm離れた所に、レンズの中心が設定されています。このため、凸レンズを使う遠視用眼鏡では虫メガネのような拡大効果、凹レンズを使う近視用眼鏡では縮小効果、またレンズに対して視線が斜めになるとものが歪んで見えます。
大きさの変化も、歪みも、眼鏡の度数が強いほど 大きくなります。なので、強い度数の目にはコンタクトレンズの方が適しています。

眼鏡は本来「眼鏡処方箋」を医師が発行し、その処方箋の指示通りに眼鏡店が作成・調整を行って販売するものです。もちろん眼鏡店だけでも視力を測って、調整する事は可能ですが、近視の場合にはピント調整の影響や、乱視の影響のためにいつも正確な度数が測れるとは限りません。
眼科では、ピント調節の影響が強いと考えられる時は、特殊な点眼薬でピント調整を解除してから検査を行ったり、目が疲れやすい場合などは、疲れ目の治療を行ってから眼鏡処方を行います。

眼鏡は、使用目的に応じていくつかを使い分ける事が大切です。眼鏡で眼の異常を矯正して、日常の生活に支障を来さないようにして下さい。遠いところも、近いところも焦点が合い、よく見えるように調節しなければなりません。
高校生くらいまでの間は調節力がまだ十分にある年齢ですので、近視の場合は最良の視力の出る凹レンズの中で、一番弱いものをその度としなくてはいけません。強めの凹レンズを使うと、目に入る光線が散開し過ぎて、網膜の後方にピントを結ぶため、調節力を働かせて網膜上に像を戻さなければならず、疲労する原因になります。
矯正の過不足の微量調整には赤緑2色テストを行います。レンズの入った試験眼鏡枠を装用して、赤緑視標テストを見せます。近視の場合は緑の中の十字がはっきりと見え、赤のほうの十字がぼんやりすれば過矯正です。その反対に赤の中の十字が、緑のそれよりはっきりするようであれば矯正不足という事になります。遠視の場合は反対になります。

片方だけ視力が悪い場合、眼鏡では両眼の視力を充分に出せない場合があります。このような場合を不同視と言い、医学的な立場からコンタクトレンズの使用が勧められます。
両方とも悪い場合は早めに検眼を受けて眼鏡を所持すべきです。日常生活で眼鏡を持っていてかけないのと、持っていなくてかけられないのとでは、不自由さがずいぶん違います。
「眼鏡をかけると近視が進む」「眼鏡をかけたり外したりすると目に悪い、近視が進む」などと、言われる事がありますが、正しい使い方をすればそうなりません。軽度の近視の場合には、かけたり外したりの方が望ましい場合もあるので、眼科でしっかりと聞いておくようにしましょう。

現在、日本人の眼鏡人口は6000万人と言われています。コンタクトを使うとしても、問題があった時などには眼鏡が必要になります。自分にあった眼鏡を持っておきたいですね。
今日は眼鏡について話しました。


2004年 9月 4日 色覚異常
色を見分ける感覚を色覚と言いますが、色覚に異常があると色を正しく判断できない場合があります。ほとんどの人は色がわからない訳でも白黒の世界を見ている訳でもありません。色の区別が普通の人より困難なだけです。

色覚異常は色の見え方や感じ方がいわゆる色覚正常と言われる人と異なっている状態をさします。先天性のものと後天性のものがありますが、そのほとんどが先天性(遺伝性)のものです。
先天色覚異常は、全色盲、赤緑色覚異常、青黄色覚異常に分けられますが、大部分を占めるのが赤緑色覚異常です。

人間の網膜は、赤・緑・青の3色を感じる能力があって、その刺激の強さにより色々な色を認識できます。灰色と赤の区別がしにくいものを第1(赤)色覚異常、灰色と緑の区別がしにくいものを第2(緑)色覚異常といい、この他に青と黄を混同する青黄異常の第3色覚異常がありますが非常にまれです。
色の区別がしにくい程度により、1色型色覚、2色型色覚、異常3色型色覚に分けられています。1色型色覚はいわゆる全色盲と言われ、色に対する感覚がまったくなく全てが灰色(モノクロ)に見えてしまいます。この場合は視力も非常に悪く、きわめてまれな病気です。
2色型色覚は3色のうち1色の区別がほとんどできないもので、いわゆる色盲と言われています。異常3色型色覚は、3色全てを感じる事はできますが、その感じ方が正常者とは異なり、紛らわしい色の区別がしにくく、いわゆる色弱と言われています。

先天性の色覚異常の原因は伴性劣性遺伝といって、性に関係して遺伝します。人間の性を決定する性染色体には、XとYの二つがあって、男性はXY、女性はXXの組合せになっています。色覚異常の遺伝子はX染色体にあり、劣性遺伝します。
男性の場合はその染色体に色覚異常の遺伝子があれば発病します。女性の場合はX染色体が2個あるので、1個のX染色体にのみ遺伝子がある場合には発病はしませんが保因者になり、両方に色覚異常の遺伝子がある場合に限り色覚異常となります。
なので、男性の方が色覚異常になりやすく、日本人の場合は男性で5%、女性で0.2%の割合で色覚異常と言われています。

後天性色覚異常の原因には様々な要因がありますが、主なものを上げると網膜病変、緑内障、視神経病変、大脳性病変、心因性要因、視覚中枢の加齢変化などがあります。後天性色覚異常では、程度の差はあれ必ず青黄異常と赤緑異常が混在します。

以前は色覚異常者である事により、進学や就職、各種資格試験などで差別されてきましたが、現在では進学や就職などの制約、職業適性や身体検査基準の基準緩和など、少しずつですが改善されてきています。
ただ、色を扱う仕事(染色、織物、インテリアデザイナー、青果市場の仲買人)などは、作業を処理や判断しなければならず結構きついとみられています。

色覚異常は身近なものであり、色覚異常の方は障害者ではありません。色覚異常の方は眼鏡などの器具による矯正の手段がありません。
ですが、生まれてからずーっとそれで見てきた色なんですから、その人にとっては今見えている色の方が正常なんです。できない事はそう多いわけではありません。
今日は色覚異常について話しました。


2004年 9月 3日 夜盲症(鳥目)
鳥目は鳥の多くが夜目が効かない事を語源とする夜盲症の俗称です。

夜盲症は網膜にある桿状体の働きが低下したため、薄暗くなると物が見えにくくなる状態です。夜盲症の人が暗いところでものを見るためには、健康な人の100倍以上の光を必要だと言われています。
後天性のビタミンA欠乏や先天性の網膜疾患によってなります。夜盲症は網膜のさまざまな故障で起こるのですが、代表的なのは網膜色素変性症です。正しく眼科で確認する事が大切です。

夜盲症の代表格な網膜色素変性症は遺伝による病気で、夜盲→視野狭窄→視力低下の順に進行し、現在のところ確実な治療法はありません。ただ、病気の進行には個人差があって、若いうちにはほとんど失明状態になってしまう人がいれば、会社が定年になるまで仕事を続けられる人もいます。
効果的と言われる治療法はありませんが、真夏の強い日差しを浴びたり、過度の照明の環境で過ごしたり、といった事は悪化に繋がるので気を付けるようにします。

光に対する感度は眼の色と関係があるようです。眼の色は 虹彩のメラニン色素の量で決まります。日本人のようにメラニン色素の多い眼を通った光は網膜に至るまでに光量が大幅に吸収される為に光に対する感度が悪く、少ない眼に比べて夜目がききにくかったりします。

夜盲症の場合、明るい所ではサングラスなどをしておいて、暗いところでは外して調節などしているようです。
今日は夜盲症について話しました。


2004年 9月 2日 結膜炎
結膜炎になると白目が充血して赤くなり、目やにや涙が出たり、瞼(まぶた)が腫れる事もありますもあります。
結膜は目の表面を覆う薄い透明な粘膜で、黒目(角膜)のまわりの白目の表面と、瞼の裏を覆うピンクの部分からなっています。目の表面の粘膜には、目に入ってきた異物や病原体が目の中に侵入するのを防ぐ働きがあります。
結膜が何らかの刺激を受ける事により、それらの血管がより太くなって、たくさんの血液が流れるようになります。この状態を結膜炎と言い、症状は原因によって異なりますが、共通するのが白目の充血と目やにがおこります。

「アレルギー性結膜炎」、空気中のいろいろな物質に対する、結膜のアレルギー反応です。アレルギー反応の原因となる物質には、ほとんどが花粉ですが、他にハウスダスト(ダニなど)、真菌(カビなど)、動物の毛などがあります。花粉症は花粉を抗原とするアレルギー性結膜炎です。
症状は、目にかゆみがおこります。同時に鼻水、くしゃみが出る事もあります。軽い充血や、粘った目やにが出て、白目がぶよぶよに腫れる場合もあります。
治療はまず、目薬で治療します。抗アレルギー薬のほか、ステロイド薬や血管収縮薬を用います。症状が強い場合は飲み薬を併用します。皮膚反応や血液検査などで、抗原が明らかな場合は、抗原に少しずつ体を慣らす減感作療法を行なう事もあります。

「流行性角結膜炎(はやり目)」、アデノウイルス3、4、8、19、37型の感染が原因となっておこります。感染力が大変強く、家庭・学校・プール・職場・病院などで集団感染する恐れがあるので、一定期間休む事になります。
症状は、感染して5日から1週間すると出てきます。目の充血、涙、瞼の腫れで始まり、ものが入っているようにごろごろします。耳の前のリンパ節が大きくなり、押さえると痛む事もあります。目やにや充血は、発病後5〜6日にもっとも強く、2〜3週で治ります。後から発病した目の症状は、比較的軽くすみます。発病約1週間後、角膜の表面に砂をまいたような濁りができ、まぶしさや見にくさの原因になる事があります。
治療は発病すれば、自然経過にまかせるしかありませんが、細菌の混合感染の予防のため、抗生物質の点眼を行ないます。対症的に、血管収縮薬や副腎皮質ステロイド薬の目薬を用いる事もあります。

「咽頭結膜熱(プール熱)」、アデノウイルス3、4、7型などの感染が原因となっておこります。子どもに多く、プールを介して伝染したり発熱を伴う事から、プール熱とも呼ばれています。
症状は発熱、のどの痛み、急性結膜炎が特徴です。目の症状は流行性角結膜に似ていますが比較的軽く、1〜2週間でなおります。

「出血性結膜炎」、エンテロウイルス70、コクサッキーA24ウイルスの感染によりおこります。流行性角結膜炎と同様に、強い感染力で集団感染を引き起こします。
約1日の潜伏期のあと、流行性角結膜炎と同様の症状とともに、白目に出血斑が現れるのが特徴です。

「単純ヘルペス性眼瞼結膜炎」、単純ヘルペスウイルスの初めての感染や、再発でおこります。
目の充血、涙、目やになど、流行性角結膜炎と紛らわしい症状のほか、角膜に傷がついてまぶしさや目の痛みを伴う事もあるので注意が必要です。瞼に小さな水ぶくれ状のぼろができたり、赤みや腫れを伴う事もあります。
治療は主に、抗ウイルス薬の軟膏を使用します。

「細菌性結膜炎」、細菌感染(黄色ぶどう球菌、肺炎球菌、ヘモフィルス菌など)が原因となっておこります。
白目の充血とともに目やにが多いのが特徴で、子どもでは、よく、風邪などのあとにみられます。治療には抗生物質の目薬を用い、だいたい一週間以内になおります。

「クラミジア結膜炎」、クラミジアトラコマティス(トラコーマ病原体)の感染でおこります。衛生環境が悪い時代に多かったトラコーマはまずみられず、現在では性感染症によるものがほとんどで、成人と新生児にみられます。
症状は、成人で瞼の腫れ、充血、目やに、ごろごろするなどの症状がおき、しばしば耳の前のリンパ節の腫れが見られます。流行性角結膜炎と紛らわしい場合がありますが、経過が長く、片目の事が多いのが特徴です。瞼の裏に大きい粒状・堤防状の隆起がみられ、粘膜の検査で診断をつけます。のどの炎症や泌尿生殖器の炎症をおこし、性交渉により伝播します。また、お産の時に産道で感染すると、新生児に結膜炎がおこります。
治療は抗生物質の目薬、軟膏、必要により内服ですが、治るのに数週間から2ヶ月を要します。

結膜炎にかかった場合は、目を触らないようにして、触ってもその手であちこちを触れないよう心がけましょう。基本的には朝起きた時に、少量の目やにが目頭につく程度で、他に自覚症状がない場合は治療の必要はありません。
ただし、目が赤くなる原因は結膜炎だけではありません。とくに目の痛み、かすみ、まぶしさなどを感じる時は、単なる結膜炎ではなく緑内障や角膜潰瘍、眼内炎にかかっている場合があります。
これらを放っておけば失明につながる事もあるので、目が赤い時には眼科医の診察を受けるようにしましょう。
今日は結膜炎について話しました。


2004年 9月 1日 防災
関東大震災の惨事を教訓とし、防災意識を高める日として、9月1日を防災の日と伊勢湾台風が襲来した翌年の1960(昭和35)年に閣議決定されました。
そして毎年、各地で防災訓練が行われています。

防災は「災害を防ぐ事」また「市民の生命や財産、町の公共的財産に損害を与え、失わせるような、突然の災害や惨事を防ぐ事」を意味しています。
災害対策基本法では、防災を「災害を未然に防ぐ」「災害が発生した場合その拡大を防ぐ」「災害の復旧を図る」の3つの柱で定義づけています。災害を未然に防ぐ方法として防御・制御・避難の方法があると言われています。
防御の方法は災害発生の原因を取り除く砂防工事や河川改修工事を指しています。制御の方法は災害を起こす自然の力を弱める方法(防風林や消波ブロックの設置など)です。しかし、この防御・制御の方法は技術的にも予算的にも限界があります。
避難の方法は、防災情報を利用して日常生活を一時中断し、安全な場所に避難する事で人的被害を免れる方法です。気象台は災害情報発信基地として、様々な防災情報を発表しています。この他にも、自治体なども防災情報を出しています。

防災訓練は避難をするための訓練ですが、それが実際に役立っているとは言い切れないようです。実際に避難場所に高齢の方などがたどり着けるかどうか、各自治体で把握するように求められています。
災害時には道路やライフラインが絶たれて、消防車や救急車が来られない事もあります。各自治体からも支援が無い事もありえるので、その事を頭に置いて考えてみましょう。

防災は常に新しい情報を入手し、正しく理解する事が必要です。また、普段から身の回りの自然をよく観察しておいて、異常を素早く感じ取って避難に結びつけるようにしましょう。
今日は防災について話しました。


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