topに戻ります

トンボ ミノムシ 文化 小春日和 電報 アパート 知恵の輪 レントゲン パズル  折り紙 皮膚 ニキビ シミ 七五三 くすみ レンコン 美白 緑のおばさん ピザ インターネット インターネットセキュリティ 勤労感謝 オペラ  歌舞伎 落語 ちんどん屋 浄瑠璃 文楽

2004年 11月30日 文楽
文楽は人形劇の1つで、能・歌舞伎と合わせて三大古典演劇と言われています。三味線の伴奏と語りからなる浄瑠璃に合わせて人形が操られ物語が展開していきます。

文楽は、太夫(だゆう)・三味線・人形遣いの「三業(さんぎょう)」で成り立つ三位一体の演芸で、男性によって演じられます。伝統的な人形劇であり、高度な舞台芸術です。文楽と呼ばれるようになったのは、大正の終わり頃からで、それまでは「操り浄瑠璃芝居」や「人形浄瑠璃」と言いました。
客席の上手側に張りだした演奏用の場所で、太夫と三味線弾きが浄瑠璃を演奏します。文楽は浄瑠璃に合わせて演じる操り人形芝居ですが、文楽が諸外国の人形劇と違うところは人間の微妙な心の動きを描くところです。
そのために、人形の表現を多彩で豊かなものにする必要があり、一体の人形を3人で操る事によって細かな心情を表現しています。カラクリ仕掛けで表情を変える文楽人形は、人間以上に情感こもった演技を見せるそうです。

16世紀末に人形舞わしの芸が、浄瑠璃と一緒に演じられるようになったのが、文楽の起源と言われています。その頃は人形遣い一人で人形を操っていました。
その後、竹本義太夫という人物がたくさんの浄瑠璃を統合し、大阪に竹本座を創設して「近松門左衛門」の作品を上演し、「曽根崎心中」など文学的に優れた作品が生まれ、演劇的に飛躍的な向上を得ました。
しかし、江戸時代後期には、その人気にも陰りがでてきました。そんな中で植村文楽軒という興行師が、地元で公演がうまく行かず、困って大阪で小屋を作って人形浄瑠璃を始めます。
そこでは常設の小屋なので野がけで行なう人形浄瑠璃のような大きな人形もいらず、一回り小さくしたものへと変化していきます。また、小屋で行なうメリットを利用して大ぶりな演技から小さく繊細なものへと移っていきました。
植村文楽軒が文楽座を大阪で旗揚げし、次第に流行って行った過程には近松門左衛門や竹本義太夫の存在、そして熱狂的に支持した大阪の人たちの存在があるそうです。

享保19(1734)年に、初めて現在のような3人遣いが考案されました。3人遣いは「主遣い」が首の胴串を 左手で握って人形全体を支え、右手で人形の右手を遣い、「左遣い」が右手で人形の左手を、「足遣い」が両手で人形の両足を遣う方式で、同時に人形の腹のふくれる仕掛けも考えたと言われています。
文楽で使われる人形の構造は単純で、肩板と竹でできた腰輪の間を布でつないだだけで、中はカラになっていて、肩先から吊るされた手、立役には足を吊るしますがほとんどの女役の人形には足もありません。肩板には衣裳を着けたときに丸みを出すため、立役、女形とも糸瓜がつけられます。

文楽は、歌舞伎ほど知られていないようですが、現在歌舞伎で上演される演目のうち、かなりの数が文楽から移されたものだったりします。なので人形を使う事を除けば歌舞伎とよく似ており、人形の動きの巧みさには観客も思わず引き込まれてしまうそうです。
今日は文楽について話しました。


2004年 11月29日 浄瑠璃(じょうるり)
浄瑠璃は三味線音楽における語り物の総称で、人形芝居や歌舞伎の音楽、あるいは純粋な語り物として広く庶民に愛好され、日本音楽の一大ジャンルを形成しました。

浄瑠璃は、伴奏によって拍子を取りながら語って聴かせる語り物の事を指します。浄瑠璃は多くの流派に分かれ、浄瑠璃は歌舞伎・人形劇などの劇場音楽として発展しました。現在「浄瑠璃」は、有名な一派である義太夫節(ぎだゆうぶし)を指す事が多いようです。
浄瑠璃は 義太夫節、一中節(いっちゅうぶし)、河東節(かとうぶし)などがあります。また、浄瑠璃と人形劇を組み合わせた人形浄瑠璃の1つである文楽も有名です。

もともと室町時代(1392〜1573)に誕生した平曲・謡曲などを源流にした語り物の中に、牛若丸と浄瑠璃姫のロマンスを題材にした浄瑠璃御前物語がありました。それが人気を博した事から、この種の一連の語り物の呼び名を浄瑠璃と総称するようになりました。
江戸時代(1603〜1867)に入ると、浄瑠璃は多くの流派に分かれ、人形劇とも結び付いて人形浄瑠璃として人気を集めました。

義太夫節を演奏するには、必ず三味線を使います。中国から渡ってきた三弦の楽器・三線(さんしん)に由来する、沖縄の蛇皮線(じゃびせん)をもとに日本的に改良して三味線が作られたと言われています。
16世紀後半、泉州・堺に伝わりました。蛇皮線は胴にヘビの皮を貼るのですが、三味線は猫皮(よつ)・犬皮(けんび)・合成皮を張り付けます。しかし皮を貼る糊(のり)が、湿気ですぐにはがれてしまいます。
また良い音の持続は通常で二年間が限度です。ちなみに、糊は餅米から作られます。弦は絹糸で出来た物を使い、駒は象牙や竹、ばちには樫の木や象牙が使われます。
三味線の棹の長さは約1m弱で、棹の幅によって太棹、中棹、細棹の種類があります。三つの棹はそれぞれ役割が違い、太棹は義太夫など、中棹は新内、常磐津、清元、小唄、民謡などで、細棹は長唄、河東節、荻江節などに適していて、俗に言う「旅芸人」が軽くて持ち運びやすいのでよく使っていたそうです。

江戸時代の全盛期に比べて、最近、浄瑠璃はなじみの少ない物になっています。いろいろと聴いてみたいものですね。
今日は浄瑠璃について話しました。


2004年 11月28日 ちんどん屋
ちんどん屋は、「東西屋(とうざいや)」「広目屋(ひろめや)」とも呼ばれてきた、日本独特の街頭宣伝業です。

ちんどん屋さんは人目をひく服装をして、鉦(かね、銅の合金などで作られた平たい円盆形の打楽器)や太鼓、三味線、クラリネットなどの楽器を鳴らしながら広告や宣伝を行う職業の人々の事です。5人組・3人組などがあります。
商店の開店や売り出し、催しの告知などを広く一般に宣伝して知らせる事を目的としています。その特徴として、人目を引きつけるために派手でユニークな着物を着て、かつらをかぶり、歌舞伎のようなメイクを施し、鉦や太鼓などの楽器演奏を行い、雑然とうねるように練り歩きます。

ちんどん屋は日本独自の職業であり、その起源は古く江戸時代にさかのぼります。
江戸時代、1845年(弘化2年)に、大阪千日前で、飴売りの「飴勝(あめかつ)」という人物が、飴を売り歩くのが口上と拍子木を使った身振りと口真似という、単純のもでありましたたが好評を博しました。
以後、彼はこの芸に専念し、やがてその声を生かして寄席(よせ)の客寄せを引き受けるようになり、「声を使い街を歩いて、何かの宣伝をする」というちんどん屋の業態を生み出しました。
飴勝の後継者である勇亀(いさみかめ)が、芝居好きだった事もあり、宣伝に「東西、と〜ざい」という芝居の口上を取り入れます。その事以来関西では、「東西屋」という名が広まります。その後、三味線などの和楽器中心の編成や、様々な奇抜なアイデアを生んだ丹波屋九里丸によって、その名は高まり、広く知られるようになりました。
文明開化の時代のこと、東京ではある商店主が小編成のブラスバンド「市中音楽隊」を作りました。「楽隊」や「ジンタ」とも言われました。園遊会、運動会、その他の催事での宣伝を主な仕事とする、宣伝屋でしたが音楽家的志向も強かったようで「ジンタ」は時に、前述の「東西屋」と結びつき活動したそうです。
そこに目をつけたのが秋田柳吉で、「ジンタ」が客に喜ばれるもの、分かり易いものであるように徹しました。それが巧を奏し、関東では「広目屋」と呼ばれ、広く知られるようになります。その仕事は客に広く知られるよう宣伝をする事であり、「広目」という言葉もそこからきています。時に、「披露目」(開店披露の披露目が由来)と書かれもしたそうです。
広目屋の「わかりやすさ」や客を喜ばせようという心は、現在のちんどん屋にも受け継がれています。ちんどん屋は街を歩きながら、客層をみてその場所に最も適した曲を奏でる。ちんどん屋の音楽とは、客あっての受身の音楽なのだそうです。

ちんどん屋は戦時中はなりを潜めますが、戦後になって物資が豊かになるとちんどん屋はまた栄えだしました。しかし、昭和30年頃よりテレビ・ラジオなどマス広告の発展や交通事情の悪化、後継者不足などの要因で衰退してきます。
しかし、1990年頃から高度情報化社会のなかで、ちんどん屋のもつダイレクトなコミュニケーションが見直され、大企業が宣伝やPRのために、ちんどん屋に注目しはじめました。
またちんどんの世界に飛び込む若者が現れはじめ、伝統的なちんどんの技術を受け継ぎながら、マスコミ出演、海外進出、ライブ出演など、時代に合わせた新しい活動を展開し始めました。

ちんどん屋の仕事は、楽器を鳴らしながら自らの足で練り歩き、「街」で宣伝活動を行う事です。客を集めるための庶民性溢れるその音と、自らの足を使ったその機動力こそが、最大の魅力でもあり、武器でもありました。
しかし、ちんどんは自ら音を奏で時に舞い踊りながら時に芝居の口上を使うなど、伝統芸能と共通する部分を持ってはいましたが、あくまでちんどん屋は宣伝業者であり、持っているものは宣伝するための商売道具でした。
商売と切り離して、存在する芸というものはありませんでした。ちんどんは人を魅了する「芸」ではなく、生きるための「術」でしかなく、それゆえに仕事が無くなれば、存在する事はできなくなってしまう。伝統芸能のように保護される事はありません。
しかし、富山市の町興しの一環である「桜祭り」の一大イベントとして「全日本チンドンコンクール」は始まります。東西から集まったちんどん屋に日本一を競わせるこの大会。まさに桧舞台でした。
ちんどん屋にとっては、ステージ上で己をアピールする絶好の機会であるため、ちんどん屋が己の腕を磨くモチベーションとなったのです。年々、参加するちんどん屋も増え、技術も高度になってきます。
そして芸能と言える段階にまで、それが達した時、ちんどん屋は「芸」として認知され始めました。そして芸に魅了されてちんどん屋を志願する若者も現れ、業界の活性化にもつながり、その仕事においても、工夫を凝らすようにもなりました。

ちんどん屋は芸能人としては認知もされ始めてきましたが、まだまだ「職業人」、宣伝屋としての認知は低いみたいです。日本と共に変化を遂げたちんどん屋。次はあるべき、宣伝屋としての姿を取り戻すのか、それとも違う変化を遂げるのでしょうか?
今日はちんどん屋について話しました。


2004年 11月27日 落語
落語は寄席演芸の1つで、町民の生活やお伽話(おとぎばなし)などを滑稽な話として語るもので、噺(はなし)の結末に落ちがつくのが特徴です。

落語は、落ちのある話「落とし咄(おとしばなし)」から生まれたそうです。「京都・浪花(大阪)・江戸(東京)」の三都で落語は生まれましたが、当初は「噺・咄・話(はなし)」と言われていました。上方を中心にした「軽口咄(かるくちばなし)」、江戸を中心とした「落とし咄」、身振りなどを加えた「仕方咄(しかたばなし)」などの呼び名がありました。
落語という表記は18世紀後半より見られますが、この当時も「おとしばなし」と呼ばれていて、「らくご」と言われ始めたのは明治時代の半ば頃みたいです。

落語という芸能はとても古く、できたのは戦国時代だと言われます。初めは落語家ではなく、「おとぎの衆」と言われていたそうです。戦国武将が戦で疲れた時に「おとぎの衆」をそばに呼んで、何か面白い話をさせて疲れをとったのだそうです。
また、お寺の法話に笑い話を交えた、という説が起源であると言う説もあります。堅い話だけだと信者が集まらないから、その合間に笑い話をして話を聴いてもらっていたようです。扇子を持ったり、高座で座布団に座ったりと現在の落語との共通点も多く、内容が難しい法話に、庶民を惹きつけようとした事から始まったという説です。
しかし実際には江戸時代になってから京都・浪花・江戸の三都において、人前で辻噺(つじばなし)という形で今の落とし噺のようなものをやったものが現在の職業落語家の始まりとされています。
その後このような噺しは一度粛正にあって廃れるのですが、江戸の後期になってから町の大工の統領だった立川焉馬(たてかわえんば)またの名を烏亭焉馬という人が料理屋の二階などに人を集めていわゆる落とし噺しをやったのが現在の寄席にあたるものとされています。
この立川門下から三遊亭円生や三笑亭可楽、朝寝坊むらくといった落し噺を専門とする職業芸人が多く輩出しました。ということでこの立川焉馬をもってして江戸落語中興の祖ともいっています。
こうして江戸の文化とともに次第に形を為してきた落語という演芸は更に紆余曲折をとげ、三笑亭可楽(さんしょうていからく)という人の出現をもって完成されたとされています。
明治・大正時代に入ると名人という呼ぶにふさわしい三遊亭圓朝が近代落語を完成させ、人情噺しや怪談ものといった語りの落語の発展に大いに寄与しました。その後、二大流派となる三遊派(三遊亭圓朝の一派)と柳派(柳家燕枝の一派)の分裂を経て落語という演芸は様々な団体を形成しながら発展し、現在の落語協会や落語芸術協会などに受け継がれていきます。
戦後の東京の落語界は僅かに戦災を免れた三つの寄席だけでスタートしました。落語は寄席に通って聞くものでしたが、蓄音機やラジオ、テレビというメディアが出現し落語の普及に大いに寄与しましたが、元来落語は寄席に通ってこそと言う世界だったようです。その中からホール寄席というものも盛んになり、現在よく知られている戦後の名人達が輩出していきます。
何百年も男性だけの職業であった落語家ですが、1980年頃から女性の入門者がみられるようになりました。まだ、多いとは言えませんが女性落語家が活躍しています。

落語の噺には「まくら」と言われる導入部と、「本文」といわれる会話・物語の部分と、最後に「おち」あるいは「さげ」と言われる要素があるものとされています。
本題に入る前にする世間話しですとか、時事問題にからめて本題に繋ぐもっていくいき方とか、故事言い伝えを前振りにしたりするものを「まくら」と言います。しかし必ずしもまくらを最初に演じなくてもよいもので、いきなり本題に入る噺家もいます。
一般的に会話で成り立つ物語の部分を「本分」と言います。演者は複数の登場人物の描写を目線や声色、仕種、道具などで演じ分け、その演じ方が噺家の実力を判断できるとも言えます。
「おち」には、よく考えないとその滑稽さがわからない落ちや、落語家のしぐさが落ちになっているもの、発音が似ていても意味の違う駄洒落が落ちになっているものなどさまざまな種類があります。また、落ちのない落語もあります。
落語の種類は、洒落や語呂合わせで面白く終わる「落とし噺」。親子や夫婦の情愛を描いたもので、涙を誘う場面があって落ちがない人情噺。幽霊の面を被ったり、鳴り物などの演出をする事もある怪談噺。芝居を題材にし、役者の声色などをまじえる芝居噺。これら4つの古典落語に加え、大正時代以降に創作された新作落語があります。
落語家(噺家)は座ったまま声と身振りでいろんな人物(子ども・町人・武士など)を演じ分けます。2人の人物が会話をしている場面では首を左右に動かしていますが、実はこれにはきちんとした決まりがあって、客席から舞台を見た場合右が「上手」、左が「下手」となっています。ですが、年や地位が上のものが上手にいなければいけないので主人や夫に雇い人や妻が話す時は首を「右」に動かし、その逆の時は「左」に動かさなくてはいけません。
落語に使われる小道具もいくつかあります。基本的に道具は手拭いと扇子のみです。扇子は、閉じたまま、少し開いて、全部開いて、扇子徐々に開いてキセルや包丁などとして使います。手拭は手紙・紙入れ・巾着・煙草入れ・焼き芋・チリ紙などとして使います。
上方落語ではさらに、見台(けんだい)・小拍子(こびょうし)・膝隠し(ひざかくし)があります。見台は演者が自分の前に置く小さな机で、見台を叩く事によって場面転換をします。小拍子は手の中に入る小さな板の事で、場面転換する時に鳴らして用います。膝隠しは見台の前に立てる低い衝立(ついたて)のようなものです。
他にも上方落語には「はめもの」という演出効果があります。噺の最中に三味線を用いて入れる効果音のようなもので、これが入る事により噺がさらに盛り上がるそうです。

昔の人のほとんどは、文字を読んだり書いたりできませんでした。どうやっていろいろな事を知るかというと、耳から聞いて覚えるのです。落語を聞く事は、本を読むくらい勉強になり、いろいろな事を知る事ができたのです。
落語は難しく思われがちですが、今でも子どもからお年寄りまで楽しめる娯楽の1つです。
今日は落語について話しました。


2004年 11月26日 歌舞伎
歌舞伎は、能や狂言や文楽と並ぶ伝統的な舞台芸術であると言われています。江戸時代にできた派手な演劇です。

かぶきは、「かぶく」という動詞の連用形が名詞になった言葉で、「傾(かぶ)く」と書いてかぶくと読みます。かぶくとは、どっちかに偏って真っすぐではないさまをいい、そこから転じて、人生を斜(しゃ)に構えたような人、身形(みなり)や言動の風変わりな人、アウトロー的な人などを「かぶきもの」と呼びました。
かぶき芝居のかぶきは、そんな「かぶく人たちのかぶく芸」の事です。そこに、さる国語学者の充てた漢字が「歌舞伎」でした。ですが、語源から「傾き」もしくは平仮名で「かぶき」と書くのが正しいとも言われています。

歌舞伎が生まれた江戸時代初期の日本では神社で、来年は豊作になるようにとか、災いが起きないようにといろいろな神事がたくさんありました。その中で巫女さんが踊りを通じて神様にお願いをしていたそうです。
踊りは清めるという意味があるようで、その舞を踊っていた出雲の国の「阿国(おくに)」という女性が、歌舞伎の原型を作ったと言われています。その人は神事で行う念仏踊を自分の踊りにしました。
その女性が脇差しを差して、男の扮装をして踊っていた姿が異風のかぶき者に映った事から「かぶき踊」「阿国かぶき」と評判がたち、阿国をまねる「女かぶき」「遊女かぶき」が増える中、阿国の人気は群を抜いたそうです。
そしてどんどん進化していって、やがて台詞もつく劇として歌舞伎が完成していきました。地方を回り歩く遊女でもあった阿国は、やがて大名をパトロンにつけるようになり、幕府はこれをいさめるため1942年に禁令を発します。
若衆の舞踏団も阿国に刺激されてかぶき踊りをやるようになっていたのですが、これが女歌舞伎が禁止されるようになると、若衆歌舞伎の時代がやってきます。阿国の女歌舞伎と同様に美貌や美声を売り物にするといった容色本位であった若衆歌舞伎は、女歌舞伎と同様1965年(承応)に幕府によって禁止されます。
この禁令を解いてもらう条件として前髪を剃り落とした成人男性に限って興業が許されるようになったので、これを野郎(やろう)歌舞伎と歌舞伎と言います。しかし、歌舞伎の名称は使えず、「物真似狂言尽し」と言いました。
明治になると歌舞伎を上品な芸術にする事に勤め、歴史上の出来事をまじめに再現しました。大正には、全国的に歌舞伎が演じられるようになりましたが、1945年日本は太平洋戦争に負けて、アメリカに歌舞伎を禁止させられて歌舞伎ができなくなりました。
しかし、1965年に歌舞伎を認められ演じる事が許されました。そして現在、日本の伝統芸能として高く評価されて、海外でも公演されるようになっています。

歌舞伎の歌、舞、伎のそれぞれの字は当て字で、意味があります。
歌は、音感の要素で、背景や行動をナレーションの様に語り歌う竹本や、舞踊の伴奏となる長唄、常磐清元、下座音楽と呼ばれる雨風雷などの擬音や、幽霊が出る場面などといった雰囲気作りの背景音楽が常に芝居を盛り上げています。
舞は、舞踊の要素です。舞踊などが主体の劇の事を「所作事」と言います。その所作事に限らず、歌舞伎ではどんな芝居でも役者の身振りは舞踊の様に綺麗な形である事が求められていて、それを強調して静止する「見得」と呼ばれる独特の演技の方法もあります。
伎は、身振り演技の要素で、歌舞伎の演技・演出には「型」と呼ばれる様々な様式があり、役者は長い歴史の中で繰り返し演じられてきた型を習得した上で、独自の魅力を加えるそうです。「型に入って型に出る」とはこの事で、個々の役者や家系によって型も変化するそうです。

歌舞伎は観客と役者が一体となって盛り上げていく芸能で、観客が声をかけたりするユニークな文化でもあります。また、歌舞伎から生まれた「見得」は演劇など後の作品で使われるなど大きな影響を与えています。
今日は歌舞伎について話しました。


2004年 11月25日
能は詩と舞と詞(ことば)とが溶け合って1つになった音楽劇であり、「能面」と呼ばれる独特の面を使う仮面劇でもあります。そこから、能はミュージカルやオペラに近い存在と言われています。

能の起源は定かではありませんが、五穀豊穣(ごこくほうじょう)を祈る民族芸能や田楽(でんがく)、物まね芸能の猿楽(さるがく)、中国から伝わった散楽(さんがく)などが、互いに交流、影響しあって徐々に発展していきました。
そして13世紀の終わり頃には、猿楽を専門に行う新しい集団(座)ができ、やがてそれまでの舞を中心とする猿楽に、物語の要素が入るようになり、今の能の原型ができていきました。
14世紀半ば(室町時代)には観阿弥(かんあみ)、世阿弥(ぜあみ)という二人の天才役者が現れます。父の観阿弥はそれまでの単調だった謡(うたい)に、拍子中心の「曲舞(くせまい)」という音楽を取り入れて新しい音楽を生み出します。一方、息子の世阿弥は台詞や物語の面白さで売っていた猿楽を、歌や舞を中心にする優美なものに変えます。
現在の能はこの時、完成されたと言われています。
100年以上後には歌舞伎という協力なライバルの出現もありますが、その一方で室町時代では足利義光に気に入られお抱え役者的な存在になります。それ以降、能楽師は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった歴代の権力者のお抱えとなり、能は武家の教養として発展したと同時に、能を武家の儀式に用いるようになってそれ以上の進化を封じる事となりました。
ですが、能は支配者の芸能として生活の安定を得れて、豊かな声量・快い声音・明瞭な発音・優雅で厳かな立振舞い、そして共通語の教師として武家社会に密着し、武士自身が演じるアマチュアの芸能として栄えました。またその装束は秀吉の桃山期と並んで世界最高の美術織物として評価されています。
19世紀後半、明治維新と第二次世界大戦で、能は崩壊の危機を迎えますが、政府の国劇振興策・稽古事としての支持を受け、現在まで日本の代表的な伝統演劇として存在しています。
また、戦前までは舞台には男性しか上がれませんでしたが、戦後女性能楽師も徐々に増えつつあります。最近では、能の海外公演も世界各地で行われるようになり、外国人が能に興味を持ち、稽古を受けることも珍しくなくなりました。

能は日本芸能の一種目で、通常は猿楽能(さるがくのう)を指します。シテ方と呼ばれる俳優が歌い舞う音楽劇です。伴奏は地謡(じうたい)という声楽と囃子(はやし)という楽器演奏で構成されています。
もう1つの特徴に、「能面」あるいは「面(おもて)」という仮面を使う仮面劇であるという事があります。能面を付けるのは、「シテ方」と呼ばれる能の主役を演じる役者や、シテ方を補助する役者が付けるもので、老人、あるいは神仏、仙人や亡霊といった超人的な存在、また、若い女性や老女、少年を演じる時にも面を付けます。
面は普段の自分と全く違う次元の役に変身するための道具で、役者にとってはとても大切なものです。ただし、すべての役者が面をつけるわけではなく、現実の男性を演じる「ワキ方」や、コミカルな演技を専門とする「狂言方」は面を付けないそうです。
能の一番の特徴である能面は、基本的に顔よりも少し小振りに作られていて、「かぶる」と言わずに「つける」と言うそうです。また、顔が面から少しはみ出していても不自然でなくピッタリとフイットしているように作られています。
能は能舞台という専用の舞台で上演されます。およそ6m四方の本舞台と、そこから左に伸びる廊下のような「橋ガカリ」という2つの空間からできていますが、それぞれに屋根が付いています。
現在ほとんどの舞台は建物のなかに家があるような感じです。能はもともと屋外で演じられる事が大前提でしたが、近代になって天候に左右されない室内で上演される事が多くなって、こういう形になったそうです。
舞台は、謡(うたい)という声楽を担当する人々が座るところと、太鼓(たいこ)、大鼓(おおつづみ)、小鼓(こつづみ)、笛などの「囃子(はやし)」を 担当する人々が座るところが決まっていて、くまなく舞台を使うようになっています。
謡や囃子方が座る舞台奥の屋根に傾斜がつけられていて、音が前に響きやすくなっていたり、舞台中央の床下に壺が埋め込まれていて足で床を蹴れば深い余韻を残したりと、随所に工夫がされています。

能の物語は現在約260曲が伝えられていますが、物語のテーマは神仏への信仰、戦のはかなさ、乙女の恋心、女性の嫉妬、親子の愛情、妖怪退治など様々で、古い日本の文学作品を材料にし、台詞も古い日本語がそのまま使われており、言い回しも独特です。
能の物語の主人公のほとんどが幽霊で、すでに完結した人生を物語ります。幽霊と言っても恐怖ではなく、時代や国によっても変わる事ない人間の本質や情念を描こうとしているそうです。
また、能ではギリギリまで省略された1つの動きの中にはいくつもの内容が込められ、一見無表情な能面には幾通りもの表情が隠されているそうです。

能を楽しむには簡単なあらすじだけでも事前に知っておいて、面、装束などの種類・意味を知っておけば面白みが増すそうです。また、能の全てを理解しようとするよりも、能面・装束の美しさ・囃子のリズム・舞台の緊張感などから何かを感じとれるようにしてみてください。
今日は能について話しました。


2004年 11月24日 オペラ
日本では桃山時代〜江戸時代初期にオペラが上演されていましたが、全く根付きませんでした。1894(明治27)年11月24日、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)奏楽堂で、明治以降日本で初めてのオペラが上演され、これが現在日本オペラの原点となった事から、11月24日をオペラ記念日としています。

オペラは、オーケストラをバックに台詞を歌い手が歌う舞台劇の事です。オペラ・イン・ムジカ(opera in musica、音楽の作品)という熟語を省略した言葉がオペラ(opera)で、語源はラテン語です。
オペラと言う言葉の最初の使用は、17世紀の中頃イギリスでと言われています。ドイツ語ではオーパー(oper)、イタリアではオペラという語は、普通名詞の「作品」という意味でも使われるため、オペ ラ・リリカ(opera lirica)という使われ方が一般的です。

ルネサンス後期の16世紀末、フォレンツェで古代ギリシャの演劇を復興しようという動きが始まりました。ギリシャ悲劇を模範に、歌うような台詞を用いる劇が考えられました。今日、オペラとみなされる知られる限り最古の作品は、1597年頃のヤコポ・ペーリによる「ダフネ(Dafne)」ですが、作品は現存しないそうです。
後のペーリの作品である「エウリディーチェ」は1600年以降に作曲されたもので、現在に残る最初のオペラ作品であるそうです。今日でも上演される最古のオペラは1607年にマントヴァで初演されたクラウディオ・モンテヴェルディ作曲の「オルフェオ」みたいです。
モンテヴェルディは後にヴェネツィアのサンマルコ聖堂で楽長の地位を得て、同地に新設された専用のオペラ劇場のために優れた作品を生み出します。この時期にはイタリア各地でオペラが上演されるようになり、18世紀に掛けてナポリで隆盛を極めました。
その頃、様式は朗唱だけでなく歌謡的なアリアの比重が高まり、伴奏の規模も拡大して、より充実した音響効果がみられるようになります。衣装や舞台装置も徐々に複雑できらびやかなものとなり、オペラ劇場は王侯貴族や富裕な市民の社交と娯楽の場としても発展しました。

一言にオペラと言いますが、実際はオペラにはいくつかの種類が存在します。
「オペラ・セリア」、セリアはイタリア語で、「まじめな・厳粛な」を意味する言葉です。オペラ・セリアでは、人間の心理や宗教的な題材を扱い、悲劇的な内容に喜劇的な要素も織り交ぜて、人間ドラマを展開していく総合的なオペラ作品です。
「インテルメッツォ」、オペラ・セリアの幕間に演奏された30分〜1時間くらいの小規模なオペラで、緊張を解きほぐすのを目的に作られた事から、主に喜劇的な内容が多いです。
「オペラ・ブッファ」、ブッファはイタリア語で、「滑稽な」という意味を表す形容詞で、内容も笑いをもたらす目的とした喜劇です。インテルメッツォの喜劇的な内容が聴衆に受けた事から、幕間の小規模なオペラから単独で1つのオペラとして確立されていきました。
「グランド・オペラ」、グランドは「大きな」という意味で、18世紀にフランスで流行した豪華絢爛な舞台、バレエ、大合唱等を揃えた大がかりなオペラの事です。ただ単に表面的な効果のみをねらった俗的なものとの避難が集まったため、人気はすぐ衰えていきました。
「オペラ・コミック」、フランスでのグランド・オペラとオペラ・コミックの関係は、ちょうどイタリアのオペラ・セリアとオペラ・ブッファの関係と同じです。
「オペレッタ」、オペレッタは日本語だと喜歌劇と訳されていますが、最後の語句の「ッタ」は、イタリア語、小さいものを表す時につけられる接尾語なので、小オペラと訳す方が正しいみたいです。18世紀に小規模の短いオペラを総称する言葉として使われていました。時を経て、ユーモアのある華やかな舞台、優雅なダンスなど、聴衆の目と耳を楽しませる目的のため、オペラとは少し違う方向へと発展していきました。
「楽劇」、ワーグナーの作曲した「トリスタンとイゾルデ」以後の作品を楽劇(ムジークドラマ)と呼んでいます。ワーグナー自身が自分の作品をこう読んでいたのではなく、後の音楽家や評論家たちがこれまでのオペラとは、区別するために用いた言葉です。楽劇が通常の歌劇と違うところは、その1つの歌劇の中に作者の思想、精神を表現するだけでなく、音楽と劇の限りなく完全な融合を目指して、作られているところだそうです。

オペラは一見、終始歌いっぱなしで物語が進んでいるだけのように思われがちですが、細かい構成があり、それは曲のテンポや歌い手の強弱などで、物語における感情の起伏や場面の変化などを表したりしています。
オペラというものは生身の人間が発する声の魅力とその可能性、そこに張りつめる緊張感、そしてそこから生まれる霊的な世界を直接肌で感じ取りながら楽しむ芸術です。もちろん事前に物語の内容や解説など読んでおくとより理解が深まりますが、難しく考えずに自分なりの聴き方で楽しむのが良いそうです。

オペラは音楽と言葉がとても重要なものです。そのシーンに適した音楽とそれに適した言葉でその構成がなされており、全てに意味を持っています。1つ1つの文節は休符で区切られていて、強い音節は強拍に置かれて、音節数が音符数に繋がります。
なのでオリジナルではきちんと音に歌が乗っているのに、他国の言葉に代えてしまうとそれが上手に乗らなくなってしまい、結局イメージを壊してしまう事になってしまうそうです。その事から、オペラはオリジナルの言葉に字幕をそえて上演されるそうです。

オペラは芝居を見るというより音楽を聴くという事が第一の目的ですから台本の出来が悪いところを音楽でカバーをしている事が多いようです。展開の強引さを消してしまう音楽、試しでも聴いてみたら良いかもしれませんね。
今日はオペラについて話しました。


2004年 11月23日 勤労感謝
11月23日は勤労感謝の日(Labor Thanksgiving Day)で、勤労を尊び(たっとび)、生産を祝い、国民互いに感謝しあう国民の祝日です。

元は新嘗祭(にいなめさい)で、1948(昭和23)年公布・施行の「祝日法」で制定され、戦前の新嘗祭の日をそのまま「勤労感謝の日」に改めました。新嘗祭は1873年から1947年までの祭日で、天皇が新穀を天神地祇に勧め、また親しくこれを食するという祭儀でした。
1872(明治5)年までは旧暦11月の2回目の卯の日に行われていましが、1873年から太陽暦が導入され、そのままでは新嘗祭が翌年1月になる事もあって都合が悪いので、新暦11月の2回目の卯の日に行う事として、1873年ではそれが11月23日でした。
翌年には前年と同じ11月23日に行われ、以降11月23日に固定して行われるようになりました。なので、現在11月23日という日付自体には意味はないようです。

勤労感謝、「働いている人に感謝の気持ちを込めて休んでもらおう」という解釈が一般的です。ただし、最近失業率がどんどん上がっている日本の現状では「働ける事を感謝しよう」と言う解釈もできてたりします。
ただ、新嘗祭本来の意味には「農家のみなさんありがとう」というのがあるようで、「働く人に感謝する」日だとするのが妥当みたいです。稲作が勤労の基本というのは、日本人のルーツが農耕民族である事の名残かもしれませんね。

私としては働く人に感謝して、働ける事にも感謝すべきだと思います。
今日は勤労感謝について話しました。


2004年 11月22日 インターネットセキュリティ
インターネットはネットワーク網の端末にPCなどの接続機器を接続する事で相互データ通信が可能になります。逆に、接続中はこちらからネットワーク上の情報にアクセスできるるかわりに、他のどの機器からもこちら側にアクセスできるという事になります。

だからと言ってインターネットを使わなければ、情報をやり取りできなくなってしまいます。その為、PC機器単位もしくは団体や会社単位で、それらを保護するインターネットセキュリティ対策をする事で、情報データの安全な通信環境を保つというわけです。
インターネットセキュリティというと難しそうですが、外出する時に家の窓やドアに鍵をかけるのと同じように、インターネットを使う時も鍵にあたる何かをするだけです。

一般的な使い方での対策方法は、OSのアップデートを頻繁に行う。ウィルス対策ソフトなどに任す。OSやブラウザやメールソフトは、常に最新のものを使う。不明なウェブサイトやアラートをクリックしない。不明のメールは即削除する。ファイル共有などの操作は、確実に解る人にしてもらう。
大事なファイルを管理する責任があるなら、バックアップをこまめに取る。最新のセキュリティ情報やウィルス情報もこまめにチェックするなどがあります。
他に狙われやすい傾向として、利用者が多くてOSそのものやインターネットへの接続方式が異なるMacよりウィンドウズ(マイクロソフト系)、利用者が多くて仕掛けやウィルスなどの設置や添付などがしやすいブラウザやメールソフト、電話回線やプロバイダ経由よりもADSLや光回線などの固定IPアドレスが狙われやすいそうです。

不正アクセスや不正プログラムによって攻撃を受けると、データが消えたり他の人にウィルスメールを送りつけたり個人情報が第3者に見られたりしてしまいます。攻撃をされてから対策をする事になる人が多く、あとで後悔しないようにしっかりと対策していきましょう。
今日はインターネットセキュリティについて話しました。


2004年 11月21日 インターネット
1969(昭和44)年、インターネットの元型であるARPAネットの公開実験が、カルフォルニア大学ロサンゼルス校・スタンフォード研究所・カルフォルニア大学サンタバーバラ校・ユタ大学の4か所を結んで開始された事を記念して、11月21日がインターネット記念日になっています。

インターネットの起源を限定する事は、実は困難な事で「気がついたらできあがっていた」類のものだからだとされています。
起源は米国防総省の高等研究計画局(ARPA)が始めた分散型コンピュータネットワークの研究プロジェクトであるARPAnetであると言われていますが、現在インターネットで使われている標準のプロトコル(手段)も使われていないし電子メールなども今とは全然違うものでした。
1986年に、ARPAnetで培った技術を元に学術機関を結ぶネットワークNSFnetが構築されましたたが、学術系の機関しか利用できませんでした。そして1990年代中頃から次第に商用利用されるようになり、現在のインターネットになりました。

インターネットができた時の目的は、電話のような中央集権型のコントローラを持つ通信網では軍事攻撃によりコントローラが破壊された場合、そのコントローラに接続している端末全てが通信網から切り離されてしまうため、特権的なコントローラを持たない通信網を作り上げる事でした。
そうして個々に存在していた閉じたネットワークが互いに繋がっていく事で、切り離されない接続網ができ、結果的に現在のような世界規模のネットワークに成長していきました。
インターネットは全体を統括するコンピュータの存在しない分散型のネットワークであり、全世界に無数に散らばったサーバコンピュータが相互に接続され、少しずつサービスを提供する事で成り立っています。
インターネット上で提供されるサービスやアプリケーション(WWWやFTP、電子メールなど)は、基本的にTCP/IPという機種に依存しない標準化されたプロトコル(手段)を利用していて、インターネット上では様々なコンピュータが通信を行なう事ができます。

インターネットでは、データを運ぶ(TCP/IP)、電子メール、データベースの機能、ネットニュースとメーリングリスト、WWW(World Wide Web)、電子カタログ、IP電話、インターネットバンキング、機械翻訳、遠隔医療などがあります。
インターネットの中を、文字も絵も音もみんな小さなデータの固まりに分けられて運ばれます。 運ぶ途中でデータがばらばらにならないようにする仕組みがTCPで、IPはインターネットの中できちんと宛先を指定するために必要な仕組みです。電子メールもWWWも、結局はデータを運んで処理するのが基本です。インターネットはこの2つの技術を基礎としています。
インターネットに参加するためには、インターネットに既に参加しているネットワークに専用回線で接続する必要があります。一般家庭から接続する場合は、公衆回線(電話回線やISDN・ADSL回線など)からの通信を受け付けてインターネットに接続してくれるインターネットサービスプロバイダと呼ばれる業者と契約しないといけません。
最近は携帯電話からも参加できて、さらに参加しやすくなりそうです。

本来「インターネット」という言葉は、このネットワークそのものをあらわす言葉ですが、最近では「ホーム ページ」「電子メール」のみを指して「インターネット」と呼ぶ事が一般化しています。
今日はインターネットについて話しました。


2004年 11月20日 ピザ
凸版印刷が1995(平成7)年に、ピザをイタリア文化のシンボルとしてPRする日として、イタリア王妃マルゲリータの誕生日である11月20日をピザの日として制定しました。

日本語や英語では「ピザ」と呼んでいますが、イタリア語の原音に忠実に表記すれば「ピッツァ」となります。pizzaの語源は、イタリア語の古語で意味は「ポイント」であると言う説、ラテン語のpinsere(押しつぶす、打ち砕く、粉にする)の過去形であると言う説があります。

ピザの原点となる円盤状の丸パンは、イタリアだけでなく世界各地の文明に存在していました。料理を乗せるつもりで作ったパンの皿を、勢い余って食べてしまった事が始まりで、イタリアのトスカナ地方に住んでいたエトルリア人の丸パンが、現在のフォカッチャ(focacia)に発展し、ピザの原型となったとされています。
フォカッチャというのは、「火で焼いたもの」という意味で、プレーンなパンをチーズと一緒に食べたり、肉や魚介類を乗せて食べたりしていたようです。ただし、乗せて焼きはしません。
pizzaという言葉ができてから200年くらいは、ピザはフォカッチャに似たものだったようです。また、トマトが伝来する以前のピザは、フォカッチャに限りなく近かったそうです。
17世紀に入ってもピザはナポリ以外の地域ではあまり知られてなく、ナポリの郷土料理のような存在でした。ピザは民衆の食べ物だったが、ナポリ王フェルディナンド2世がピザを気に入って、城にピザ作り用のキッチンを設置した事で貴族達の間にもピザが広がっていきました。
18世紀ではトマトが本格的に使われるようになり、最も古いピザの公式レシピができました。19世紀に入ってナポリでピザの店開店しましたが、ピザはナポリ以外の地域ではあまり知られていない食べ物でした。
でしたが、ピザに興味を持ったイタリア王のウンベルト1世とマルガリータ王妃は、ピザ職人の中で最も有名だったラファエル・エスポシートを城に呼び、ラファエルは緑色のバジル・白色のモッツァレラチーズ・赤色のトマトでイタリア国旗を表現したピザを献上しました。
このピザを王妃がとても気に入り、そのピザは王妃の名前にちなんで「ピザ・マルガリータ(Pizza Margherita)」と名付けられました。この事によって、ピザはナポリ以外の地域でも知られる料理となりました。
そして19世紀の末にはイタリア移民によって、ピザはニューヨークにもたらされ、ニューヨークでピザの店が開店しましたが、ピザはあまり一般化されませんでした。
ピザが本当に普及したのは第二次世界大戦後の事で、イタリア戦線に従軍したアメリカ兵がイタリアで食べたピザの味を忘れられず、ピザの店に通い出すようになってからなようです。
日本で初めてできたピザの店は、アメリカ人のニコラス・ザペティの「ニコラス」という店で、1955年東京でオープンしました。アメリカ陸軍の部隊をターゲットに店を始めたが、日本人の若者に大当たりし、日本でもピザが広まっていきました。

「ピザの基準」を定めているのは、イタリアのナポリにある「ナポリ・ピッツァ協会」で、この基準はナポリのピザの伝統的な製法を守るためのもので、非常に重要視されています。
生地は、水、塩、小麦粉、酵母のみを使用する事。
生地は手で伸ばす事(機械は論外、木の棒などもダメ)。
窯の燃料は薪・木屑(素材は樫かオリーブの木)、そして必ず窯の「床面」で焼く事。
周りは固く、中央は柔らかく焼く事。
トッピングはトマト(サンマルツァーノという種類)、オリーブオイル(エクストラバージンなら尚良いそうです)、チーズ(モッツァレラ、パルミジャーノ、グラーナ・パダーノ、ペコリーノの粉末ならいずれも良いそうです)。バジリコ(ナポリで愛用されているかららしいです)。
現在、世界各地で様々なピザが売られています。国によってそのスタイルは様々です。大まかに分けると、イタリア、シカゴ、ニューヨーク、日本などがあります。
イタリア人はピザを一人で食べるためイタリアタイプのピザは生地が薄く、トッピングも味もあっさりしています。
アメリカ及び日本ではもっともスタンダードなシカゴタイプ、いわゆる「ピザパイ」です。生地の周囲が厚くなっているのが特徴で、深皿のような形になります。
テイクアウト式ピザのニューヨークタイプ。生地はイタリアタイプのように薄くされ、6〜8枚に切られています。「ナポリ式」と呼ばれる事もある、欧州では有名なものです。最近は日本のパン屋でも、こうしたタイプのピザを販売されたりしてるみたいです。
日本は生地の厚い「シカゴタイプ」が主流ですが、生地の薄いイタリアタイプも流行りだしています。日本の場合、最大の特徴はトッピングの豪華さで、イタリアでは日常食ですが日本では「ちょっとしたご馳走」と捉えられているので、ボリュームを出す必要があるからみたいです。

いろいろ種類がありますが、ピザは生地が美味しいものを選んでいくのが一番良いみたいです。
今日はピザについて話しました。


2004年 11月19日 緑のおばさん
1959(昭和34)年、通学する児童を交通事故から守るための学童擁護員(緑のおばさん)の制度がスタートし、11月19日から緑のおばさんが登場するようになった事から緑のおばさんの日とされています。

緑のおばさんは、学童の交通事故を防ぐため、小学校の登・下校時に通学路で交通整理をする婦人交通指導員の通称です。交通整理員や学童擁護員とも呼ばれます。
緑色の制服を着ているところから緑のおばさんで、東京オリンピックの開催が決まって東京都内では大規模な建設工事が始まり、スピードを上げたトラックが道路を行き交うようになりました。
東京都は子ども達を輪禍から守るため、「学童擁護員制度(通称緑のおばさん)」を発足させました。1174人がシンボルの緑の上着を着て、23区内の小学校近くの交差点で黄色い手旗を振りました。
日当は315円で、本来は母子家庭の失業対策事業でもありました。発足に当たって警視庁から「経験も知識もないおばさんの交通整理はかえって危険」と横やりを入れられましたが、翌年には交通法規を無視した車を告発する権限を与えるなど、次第にその役割に期待するようになっていきました。
同制度は4年後に都から区へと移管され、それに伴い緑のおばさんは各区の非常勤職員となりました。その後、おばさんは昭和40年に正規職員となり、彼女達の待遇は更に改善されるようになります。

やがて高度成長期に入り、頭痛、目やノドの粘膜の刺激、めまい、咳、吐き気など自動車の排気に含まれる一酸化炭素と刺激性ガスによるもので、その後各区はマスクの着用、酸素吸入器の設置などの対策を取るようになりました。
そして、「交通戦争」が終わりの兆しを見せ、緑のおばさんの出番は地方の行政改革でリストラの対象とされるようになってしまいました。現在、交通事故対策の中心は「子ども」から「老人」や「体の不自由な人々」へと移っています。

現在では名称も変わってたり、補助がなくなってボランティアに頼っているとこになっていたりして、名前すら知らない子どもたちは増えてきています。できるなら、減らないでいてほしいですね。
今日は緑のおばさんについて話しました。


2004年 11月18日 美白
美白は、見た目にくすみやシミのないなめらかで透明な素肌を白いと感じる表現みたいです。

化粧品などで言う美白は、「肌の中に余分なメラニンのない、その人本来の透明な肌に戻す事」、「メラニンの生成を抑制し、シミ・そばかすのない美しい白い肌にする事」などと言われ、メラニンの生成を阻害する薬理作用などがあります。
白い肌の大前提は、「いかに日焼けしないでいられるか」です。つまり紫外線を浴びなければ肌が黒くなる原因であるメラニンは発生しないわけです。でも、白い肌にするためにはほとんどはメラニンだけなんですけども、それだけが問題というわけではありません。

美白化粧品は過剰に生成されて皮膚細胞の中にとどまっているメラニンを排出させたり、壊したり、メラニンのできる途中で邪魔してシミを薄くする働きがあります。
美白化粧品にはビタミンC(誘導体)、アルブチン、コウジ酸、甘草エキス、ルシノール、カミツレエキス、エラグ酸、プラセンタエキス、オウゴンエキス、ユキノシタエキス、フェルラ酸、ビタミンE、レチノイン酸(ビタミンA誘導体)、大豆抽出成分、ハトムギエキス、緑茶などがあります。
それぞれの美白化粧品に有効な成分が含まれておりますが、どれが効果的かなどは人それぞれで違います。それぞれ自分に合った化粧品を選択して使用する事が大切です。

化粧水だけでなく、他にも美白クリーム、美容液、美白パック、ファンデーション、ローション、美白水などいろいろ使用して、肌に潤いを与える事も重要です。また、正しい洗顔方法で肌を傷つけずに古い角質層をしっかりと落とす事なども必要です。
ですが、ストレスや便秘、体調など全ては肌、しかも「顔」にでてきます。人によっては健康的な精神と体を維持する事は、最も大切にするべきとも言われています。
それから侮れないのはよく笑う事です。笑顔でいると血行が良くなったり、免疫力が高まったり、ストレスを解消させたりなどの効果があります。また、表情豊かな人を見ていると多少のシワや荒れなどは気になりません。

本当の美白は、化粧など一切を落とした時にあらわれるもの、とも言われます。また、メラニンも皮膚にある程度は必要で、取り除きすぎるとダメージを受けすぎてしまいます。
正しい洗顔と生活改善だけで十分となる場合もあるので、小さい所から始めてもいいかもしれませんね。
今日は美白について話しました。


2004年 11月17日 レンコン
茨城県土浦市で1994(平成6)年の11月17日に全国の蓮根産地が集まって開催された「蓮根サミット」で、今日を蓮根(れんこん)の日と制定しました。旬は晩秋から冬で、7月の下旬頃から早掘りのが新レンコンとして出回り、翌年5月までに順次出回ります。

レンコンはスイレン科の蓮の地下茎で、これを食用にするのは日本や中国など限られた国です。水田を転換して蓮池にして作るのが一般的です。葉は水面から1m以上伸び、直径も1mに達するので強風に弱く、台風の被害が出やすいのが欠点なようです。
正月や節句その他のお祝い料理に使われる縁起野菜です。ただし、年末には高値になります。古来、中国では強精剤的要素のほか、文化的要素からも極めて有用な植物とされています。

原産地はエジプト説、アジア説、オーストラリア説などがありますが、中国説が有力です。日本にも縄文時代以前から自生していましたが、はっきりと食用にされた事が記録されているのは10世紀からみたいです。
中国種は明治時代初期に中国から導入されたもので、地下茎が浅くふっくらとしているので、掘り出しやすく、また病気にも強いので、主流となっています。在来種より粘り気が少なく、シャキシャキとした歯触りがあって肉厚なのが特徴だそうです。
在来種はスラリと細長く、茶色がかった肌色をしています。地下茎が深くて収穫量が少なく、一部の地域でしか栽培されていません。中国種より粘り気が強くて切り口から糸をひくのが特徴だそうです。

レンコンは主にデンプンで、また食物繊維の宝庫でビタミンCも豊富にあります。増血ビタミンと呼ばれるビタミンB12、鉄分、カリウム、亜鉛も含まれています。皮や節に多量のタンニンが含まれており、切ると出る細い糸はムチンです。
でんぷんやムチン質という粘り気の成分が特有の歯ざわりを持たせています。レンコンは健康や美肌を気にする女性に人気のある栄養価の高いヘルシー野菜です。

レンコンを選ぶ時は、形がふっくらとして丸く肉厚のもの、節と節の間が長く太くてまっすぐなもの、外皮が淡黄色か淡褐色で傷がなくつやがあるものを選びます。
切り口は白くて、穴が小さいものを選びます。穴の周囲に薄青いアクが出ていないものがよいみたいですが、色が白すぎるものは漂白されている可能性があります。穴の内側が黒っぽいものは、古いので避けましょう。穴に泥が入っているものは、調理の際に洗うのに手間取ってしまうそうです。
切ったレンコンは切り口を空気にふれないようにラップで包み、ポリ袋に入れて野菜室に保存します。上下に節のついたものは切らないままで、かなり長持ちします。節がついたまま湿らせた新聞紙で包んでからポリ袋に入れて冷暗所で保存します。
皮をむいたレンコンは、全体が水に浸かるように密閉容器で保存しておけば変色しませんが、ビタミンCが水に溶け出てしまうので早めに食べてしまいましょう。

レンコンはデンプン質が多いために、加熱しても相当量のビタミンCが残るので加熱しても使えるのが良いですね。また、蓮の実は「蓮肉(れんにく)」「蓮子(れんし)」と呼ばれ、強壮剤として用いられます。肝臓、腎臓、心臓に良いそうです。
今日はレンコンについて話しました。


2004年 11月16日 くすみ
くすみは女性の肌の悩みの中でも上位に位置していますが、ニキビのようにはっきりと症状が出ないため、あいまいな響きがあったりもします。

くすみは医学専門用語ではありません。化粧品業界で使用され一般に広がってきました。目で見て確認できる症状ではないのですが、肌のツヤや透明感がない、肌色が暗い、顔色が冴えない、血色が悪い、黒ずんで見えるなどと多くの女性がくすみを気にしています。
日本化粧品工業連合会が発表した定義によると、くすみは「顔全体、または目のまわりや頬などの部位に生じる現象。赤みが減少して黄みが増したり、肌の“つや”や透明感が減少したり、皮膚表面の凹凸などによる影で、肌が暗く見える状態」とされています。
また、肌の上の皮脂と細胞の脂が酸化して黒くなった状態が、くすみだとも言われています。皮脂や細胞だけではなくて、ファンデーションの脂も、酸化すると黒くなってくすみになります。
そして、その透明感のない黒っぽい状態が、常に続く場合には、酸化した脂が角質の上に乗っかって老化角質となってしまいます。 こうなると家での洗顔だけではとれにくい状態になってしまいます。

健康的な肌はうっすらと赤みを帯びていますが、それは血中にある赤いヘモグロビンのおかげです。顔の皮膚は薄いため、毛細血管の色が反映されやすく、疲れた時や加齢によって血中のヘモグロビンが減少すると、肌の赤みが減少してくすんだ印象になってしまいます。
以上のような血行不良の他、紫外線などによるメラニン色素の生成による黄みを増しやターンオーバーの乱れ、皮脂や化粧品の油性成分の酸化、肌の老化、慢性病などによる影響が考えられます。
外気の温度が低下して寒さを感じるようになり、お肌の表面温度下がって血行が低下していたり、日焼けや肌に合わない化粧品などがくすみの引き金になる場合もあるという事です。

くすみ対策にはいろいろありますが、やはり上で挙げた原因に対策を打っていくのが効果的です。
お風呂につかる(血行をよくするために、できれば半身浴)、 たっぷりと肌に水分を与える、古い角質を肌に残さない、マッサージ・運動をする(血液循環をよくするために)、サプリメントなどで補う、煙草はできたら禁煙(難しいようなら本数を抑える)などがあります。
洗顔ではとれないくすみができている場合には、ケミカルピーリングが非常に効果的で、一回行うだけで綺麗になるみたいです。
食事からだと、血行を良くして酸化を防ぐビタミンE、貧血を改善して血液の色を鮮やかにする鉄分、メラニン沈着を抑えるビタミンCなどの多いものを積極的に取るようにしましょう。

また、メイクテクニックで、血行不良な顔を隠す事ができます。
水分を含ませた柔らかく肌触りがソフトな角型スポンジで、目の下に滞った血液を目頭→上瞼(まぶた)→頬の方向へぐるりと流していくのを、メイク前に3回くらい。
普段のファンデーションに黄色系の色を混ぜる事で、くすんだ顔の色を明るく見せられます。さらにファンデーションを塗る方向を、黒目より外は塗り方を変えるなど。
頬紅を2色混ぜると、光の散乱が増して肌の色に深みが加わります。フェイスラインから頬骨の最も高いところに向かって下から上へ、薄く入れます。好みのチークを複数買っておくようにしましょう。

くすみの要因も複合的な事があるので、睡眠・食事・運動で総合的に良くしていくのもいいかもしれませんね。
今日はくすみについて話しました


2004年 11月15日 七五三
11月15日は、日本の祭りが集中する霜月の十五夜にあたり、収穫祭にも相当しています。旧暦で11月は冬祭りの時期に入っていて、二十八宿の鬼宿日に当たり、何事をするにも吉であるとされ、ちょうど次の新年に改まる直前のお祭りで、子どもたちが大きく飛躍する事を祈願するのにふさわしい日でもありました。
また、将軍徳川綱吉の子、徳松がこの日にお祝いしたので15日になったという説もあります。

七五三は、11月15日に「三才の男女児、五才の男児、七才の女の子」が神社(氏神様)に成長と健康を祈り、お祓いを受ける儀式を言います。平安時代から貴族の間で始まり、江戸時代になって庶民にも広まったと言われています。奇数を縁起の良い数と考える中国の思想もあるみたいです。
三才は「髪置の祝い」で、男児・女児とも祝い、誕生後七日目に産毛を剃り、三才まで丸坊主で過ごします。乳児の時に髪の毛を剃ると、黒い丈夫な毛が生えると思われていたからだそうで、三才になると髪をのばし「すが糸」を白髪になぞらえて子どもの頭にのせ、健康と長寿を願う儀式です。
五才は「袴着の祝い」で、男児が五才になると幼年から少年になった事を祝い、初めて袴をつける儀式です。「髪置の祝い」もそうですが、大人と同じ衣裳を着る事で社会を意識させ始める年齢のようです。
七才は「帯解の祝い」で、それまで幼児の着物は紐をつけて着付けていました。その紐をとり、本仕立ての着物と丸帯という大人の装いをする儀式です。元々は女性の裳着(もぎ)の式から発していると言われています。この式が終わると正式に結婚や入内ができるようになります。このように、七才になると大人の仲間入りをする成長の節目だったようです。
七五三は、栄養不足・健康への知識不足・病気・貧困などが原因で乳幼児が成人するまでの生存率はきわめて低く、乳幼児の生存を祝う節目として定着しました。男児が女児よりも早く祝うのは後継者としての意味合いもありましたが、女児よりも男児の生存率が低かったためだと言われています。

七五三では、千歳飴(ちとせあめ)を食べて祝います。千歳飴も節分の豆と同じく年の数だけ袋に入れると良いとされています。神前に供えられたお供物を参拝した子供たちがもらっていくのが原則ですが、神社のお土産品として、縁起かつぎの千歳飴が流行するようになったのも東京の風俗の一つだそうです。
千歳飴は、親が自らの子に長寿の願いを込めて、細く長くなっており、縁起が良いとされる紅白それぞれの色で着色されています。また、千歳飴は鶴亀や松竹梅などの縁起の良い図案の描かれた千歳飴袋に入れられています。
江戸時代の元禄・宝永の頃に、浅草の飴売り・七兵衛が売り出したのが始まりとされていて、現在は各地で製法や形状・色など違っているそうです。伝統や格式を重んじる菓子屋では以上の手順を経て作った千歳飴を神社に納め、お祓いを受けてから店頭に並べるそうです。

現在、一応お参りは11月15日(平日だったらその前の日曜日)に集中しますが、七五三もお宮参りと同じく、あまり仕来たりにとらわれずに都合の良い、お天気の吉日にするのが良いですよね。
最近では写真をとりにいったりするのも15日は大変込みあうので、10月末から11月中の休日に写真をとってそのままお参り、という事も多いようです。
また、近年は3歳の子どもが2歳だとまだ小さい、という事で満3歳の年に行う人も多いようです。
今日は七五三について話しました。


2004年 11月14日 シミ
皮膚は表皮、真皮、皮下組織の3層からなっていて、表皮の一番奥の基底層と呼ばれる部分に、メラノサイトという色素細胞があります。メラノサイトは紫外線やホルモンの影響を受けて活性化し、メラニン色素を作り出します。
このメラニン色素が、皮膚の表面に押し上げられ、そのまま表皮にとどまってしまったものがシミなのです。

一言でシミといっても、原因や症状の異なるさまざまなタイプのものが含まれています。おもに次のように分類できます。
老人性色素斑(ろうじんせいしきそはん、狭義のシミ)、50歳くらいで顕著になる事が多い一般的に見られる代表的なシミです。紫外線による皮膚のダメージが原因で、長年日光に暴露されてきた顔面や腕、手の甲などにできます。必ずしも高齢者だけに見られるわけでなく、早い人では20歳台で症状が現われる事もあります。
脂漏性角化症(しろうせいかっかしょう)、老人性疣贅(ろうじんせいゆうぜい)とも言い、シミが少し盛り上がったように見えるものですが、ほんのわずかに厚みが増した程度のものからイボのように大きく出っ張ったものまであります。また、色も黒いもの、褐色のもの、少し赤くなったもの、肌色のものなど種々です。この中で色が黒くて、隆起の少ないものがシミの範疇に入ります。
肝斑(かんぱん)、女性に特有の両頬に左右対称性に広がるシミです。妊娠や出産をきっかけに現われる事があります。また、日光に当たると悪化するので、夏になると色が濃くなる傾向があります。過労やストレス、ある種の薬剤(経口避妊薬、抗癲癇薬などの一部)も症状を悪くする要因です。
光線性花弁状色素斑(こうせんせいかべんじょうしきそはん)、プールや海で日焼けをした後に、肩や背中の上の方にできてくるシミで、金平糖あるいはカラスの足跡のような形をしています。
雀卵斑(そばかす)、5歳頃発症し、思春期に最も顕著となります。顔面の対側性に多発します。また、手背、前腕伸側などの露出部にも生じます。遺伝関係が重視されます。色白の人に多く発症しますので、白人に比べると日本人には少ないようです。
黒子(ほくろ)、ほとんどの人に見られる小型黒褐色のアザで、境界は明瞭になっています。直径1〜2mmの単純黒子の大部分は、生涯不変です。一部のものが、小児期から中年までに隆起・増大して、高齢者では退色・消退など年齢とともに変化します。悪性化の疑いがあるもの以外は、治療の必要はありません。美容上の問題でのみ、治療を行います。

シミを予防するためには徹底した紫外線対策が必要です。夏の海やプールに行く時は勿論で、天気の良い日に外出する時は常に日焼け止めを使用するようにしましょう。また過度のストレスや過労はシミを悪化させる事があるので、体調の管理も大切です。
それでもなってしまった場合、シミの治療になりますが、それぞれのシミによって方法を変えたりします。
レーザー治療は、もっとも代表的なシミの治療法です。これらのレーザーは、シミのもとになるメラニン色素をターゲットとして破壊するレーザーで、周囲の組織に対しては最小のダメージしか与えません。通常1回の治療で満足な治療効果が得られます。
外用療法(塗り薬)は、効果が現れるのに時間がかかりますが、比較的安全な治療法です。レーザー治療の効果を高めるため補助的に用いる場合もあります。メラニン色素をつくっているメラニン細胞に働きかけてメラニン色素の産生を抑える塗り薬や、表皮細胞に沈着したメラニン色素を早く排出させる作用のある塗り薬を用いて治療します。
内服療法(飲み薬)は、ビタミンC、ビタミンE、システイン、トラネキサム酸などが代表的です。各種外用剤と併用する事で、肝斑の治療においては劇的に効く場合があるそうです。
液体窒素冷凍凝固術は、超低温の液体窒素をシミの部分の皮膚に接触させて凍結させる治療法です。この処置を行なった部分は1〜2週間にかさぶたになって剥がれ落ち、新しい皮膚に生まれ変わります。脂漏性角化症の治療には有効ですが、他のシミに対しては他の治療法を優先します。脂漏性角化症に対しては保険適応があります。

シミの予防には他にも睡眠をしっかりと取る事、正しい洗顔をする事なども入っています。夏など日差しが強い時期は窓があっても、窓越しの紫外線を浴びてしまったりするので外出しなくても気を付けるようにしましょう。
今日はシミについて話しました。


2004年 11月13日 ニキビ
10代の思春期の頃はニキビ、20代以降の大人の頃は吹き出物と呼ばれます。これはどっちも同じもので、正式な病名は「尋常性座瘡(じんじょうせいざそう)」と言います。

人の皮膚にある毛穴には、それぞれ皮脂腺があり、そこで皮脂が作られて毛穴から外に出ていきます。皮脂は肌を保護し、保湿を保つために欠かせないものです。肌の角質層の新陳代謝がうまくいっている時には、毛穴が開いた状態にあり、皮脂が毛穴に残らず外に出ていきますが、何らかの原因で毛穴が詰まってしまうと皮脂が外に出ないため発症します。
発症の第一段階は「面皰(めんぽう)」で、皮脂が毛穴から皮膚表面に排出されなくなり、毛穴がふさがれた状態です。白ニキビ(閉鎖面皰)と黒ニキビ(解放面皰)があります。
白ニキビ(閉鎖面皰)は、洗顔が不十分であると古い角質が毛穴の出口を狭めます。皮脂が排泄されずに、毛穴(毛包)に貯まりつつある状態です。毛穴は押し広げられ目立ち安くなります。白っぽくポツンとできて毛穴が閉じている面皰で、炎症を起こしていない状態です。
黒ニキビ(解放面皰)は、白ニキビを経て毛包内に貯まった皮脂等が毛穴を押し広げて皮膚表面にでてきます。でてきた皮脂は古い角質と混ざり固くなります。黒ニキビとはこうして出来た角栓の表面が酸化したりして黒くなった状態を言います。毛穴部分を黒く見せ、毛穴を目立たせます。
毛包の中には元々細菌が住んでいて、貯まった皮脂を栄養源として繁殖し、炎症を起こす事になります。こうして炎症を起こすと赤ニキビ、黄ニキビと言われるようになります。
赤ニキビ(丘疹性座瘡)は、皮膚に常に存在している細菌によって、面皰が炎症を起こした状態です。赤くなって、触ると痛みを感じる事もあります。
黄ニキビ(膿疱)は、炎症したニキビが悪化し、膿を持った状態です。赤ニキビがさらに悪化し、炎症が皮膚の真皮や皮下組織にまで広がってダメージを与えたものです。この状態になると、毛包や皮脂腺を壊してしまうため、皮膚にクレーターのような穴があいてしまい、跡を残してしまいます。

ニキビを起こす原因は、思春期と大人とでは違うのですが、基本的にはニキビは毛穴に皮脂が詰まる事から起こります。
「ホルモン」、思春期ではホルモンの関係上、皮脂の分泌が盛んになりほとんどの人にニキビができやすくなります。男性ホルモンに皮脂腺の働きを活発にさせる作用があり、思春期には女性でも男性ホルモンの分泌がわずかに増えるので、男女ともにニキビができやすくなります。
「遺伝」、皮脂分泌が盛んな体質だと毛穴が詰まりやすくなり、ニキビはできやすくなります。また、毛穴が詰まりやすいか詰まりにくいかによってもニキビのできやすさは変わってくるみたいです。これには、遺伝的な要素がかかわっているとされています。
「食生活」、脂っこい食事や脂肪分や糖分の多いもの、香辛料の強いものを取りすぎるとニキビができやすくなります。また、ビタミンBが不足すると肌荒れの原因になってニキビを誘発し、ビタミンCの不足は肌を保護する機能を低下させてしまいます。
「化粧品」、油分を含むファンデーションやクリームは、毛穴を塞いでニキビを悪化させやすくなります。化粧品に含まれる化学成分が皮膚を刺激して、ニキビの原因にもなります。
「洗顔のしすぎ」、清潔にしようと思ってもしすぎると肌が乾燥から守ろうと自衛手段に出るので、余計に皮脂分泌を活発にさせてしまい、逆効果になる事もあります。
「ストレス」、ストレスが溜まるとホルモンのバランスが崩れて皮脂の分泌量が乱れ、肌に悪影響を及ぼします。
「便秘」、便秘により腸内に老廃物が長時間溜まったままになり、腸壁から老廃物が吸収されて、肌荒れを起こす原因になります。
「寝不足」、生活のリズムが不規則になると、ホルモンのバランスの乱れを生みニキビができやすくなります。
他にも外部からの刺激や、カビ・ダニなどによっても起こります。

思春期のホルモンが原因のニキビはある程度の年齢になると、状態が改善される事が多いです。それ以外では、バランスのとれた食事、正しいスキンケア、ストレスを溜めない、睡眠をしっかり取る事が必要です。
さらに女性の場合は月経前になると、黄体ホルモンの影響で皮脂分泌が活溌になるため、スキンケアに注意が必要です。また、この時期は肌のバリア機能も低下しがちで外的ストレスの影響を受けやすくなっています。

もしニキビが悪化して、赤く腫れて膿を持ったり炎症が広がった場合は、自己流のケアはやめて、早めに皮膚科に行きましょう。ニキビは治っても皮膚の陥没や色素沈着といった、あとあと残るトラブルを引き起こしがちです。皮膚科の先生の指示に従った丁寧なケアを心がけましょう。
今日はニキビについて話しました。


2004年 11月12日 皮膚
日本臨床皮膚科医学会が1995(平成7)年に、「いい(11)ひふ(12)」の語呂合せから皮膚の日と制定しました。今日この日は各地で無料相談会や講演会等が行われます。

フランス構造主義の代表的思想家ミッシェル・フーコーは、皮膚を境界として人間の身体を見立てた時、近代医学が始まったと言います。
皮膚の構造と働きを理解するためには「皮膚は身体を包んでいる大きな袋」と置き換えるのが簡単みたいです。この袋は身体の生命活動を外部環境から守り、生命活動に適した状態に保つ「保護」という役割を果たしています。
しかも皮膚(袋)は、買い物袋の紙やポリエチレンの袋と違って、袋自身が生きており、一つ一つの生きた細胞から作られています。約28日(年齢と共に延びていき、30代で約40日、40代で約55日、50代で約75日)を周期に生まれ変わり、この新陳代謝の現象を角化作用(ターンオーバー)と呼んでいます。こうして新しい袋になる事によって、また単なる保護皮膜ではなくさまざまな生理作用を行う事で、保護力を高め外部環境に対応し内部の生命活動を守ります。

皮膚は人体で最大の臓器です。大人の場合、皮膚の総面積は畳約1畳分、重さは4kgになります。どの器官よりも成長が速く、一生を通じて常に新しく生まれ変わっています。瞼(まぶた)は0.1mm弱、額はおよそ0.4mm、手の平だと1mm、足の裏になると2mmもあり、役割に応じて構造も異なっています。
皮膚の働きが悪くなると身体の健康も損なわれてきます。また、内臓などに病気があると、皮膚にもあらわれてきます。「皮膚は健康の鏡」とも言われています。
皮膚は暑くなれば汗腺から水分を出して体温を内部の生命活動に最適な温度に保ち、細菌からはpHを弱酸性に保つ事によってその侵入を防ぎ、危険物からは痛み、灼熱感などを感じる事で避ける事ができるようにするなど、すべての身体の生命活動を守る役目を果たしています。

他に皮膚には変化したものとして「指紋」「髪の毛」「爪」があります。
「指紋」は、一生変らないもので、母親の胎内にいる時から既にあります。指先の感覚を鋭くし、掴むための滑り止めとしてあるとも言われ、傷つけても元の形に戻り、消す事はできません。
「髪の毛」は、体を保護するための他、体温調整や触覚器としても役立っています。体の部位によって違いますが、頭のように保護が必要なところほど密集しています。毛の生えている孔を毛孔と言い、ここから皮脂が分泌され、皮膚を潤して乾燥を防いでいます。また、髪の毛を切っても痛くないのは、細胞が死んでしまった部分だからです。
「爪」は髪の毛と同じように皮膚の角質が変化したものです。根元にある細胞から絶えず新しく作られ、前へ前へと押し出されてきます。爪は指先を保護する役目をしています。

皮膚が正常に機能していれば、ニキビ・シミ・肌荒れ・くすみ・アトピーなどの肌トラブルにはなりません。逆に何らかの肌トラブルがあるという事は肌が正常ではないという事です。
健康な皮膚は、「キメが細かく表面がなめらかで感覚がソフトである事」「血液循環がよく、皮膚に透明感があり、弾力とハリがある事」「適量な汗と皮脂の分泌があり、正常な中和能力で皮膚表面が潤っている事」「メラニン代謝がスムーズに行われている事」「代謝が活発に行われ、角化が正常である事」「常に清浄され、清潔を保っている事」であると言われ、
健康な皮膚を保つには、「精神の安定」「生活環境への適合性を持つ事」「食事の選択(栄養と酸、アルカリのバランス)」「内臓その他の生理機能の正常化」「皮膚の清浄と保護」が必要になります。

皮膚はそのわずかな厚さで体の動きを邪魔をしないでおきながら、外からの菌や毒物が入るのを防ぎ、そして人間の体に必要な水分が広い皮膚の表面から失われるのを最小限に抑えています。
皮膚は生命活動を守る大切な臓器です。表面にあるので手入れもしやすいのですから、正常に機能させるようにしたいですね。
今日は皮膚について話しました。


2004年 11月11日 折り紙
1918(大正7)年ドイツとアメリカ合州国が停戦協定に調印し、4年あまり続いた第1次世界大戦が終結しました。そこで、11月11日を世界平和記念日とし、主戦場となったヨーロッパ各国ではこの日を祝日としています。
そして世界平和記念日である事と、1を4つ組み合わせると折紙の形・正方形になる事から日本折紙協会が今日を折り紙の日と制定しています。

折り紙がいつ始まったかは不明ですが、紙が発明されるとすぐ人はそれを折り始めたと考えられています。そこで紙の発祥の地である中国の折り紙が、最も古いと言えます。
日本は7世紀のはじめに韓国の修道士である曇徴から紙を作る方法を学びました。そのあと、方法や材料が変わり、畳んだり広げたりしても破れない柔軟で美しい和紙が作られるようになりました。
和紙の作成によって日本では独自に折り紙を発展させていきました。また1797年、日本は世界で最初に折り紙について書籍を出版しました。現在、折り紙は世界中で「Origami」として有名です。

折り紙は一連の工程で紙を折り曲げて、動物や道具などに具象的なのに似せる事を目指す遊びと考えられています。
また、折り紙は紙を折る事による芸術だとも言われたりしていて、折り紙は子どもの遊びというだけでないみたいです。その考え方として折り紙は、折る前には紙の中に隠されていた紙の本質を折る事によって引き出すものともあります。

創意工夫を重視する大正時代の教育界の中で、折り紙は教えられた通りに折る模倣であり想像的ではないという考えから折り紙は冷遇されていた時期がありました。また、戦争などによって衰退すると言う事もありました。
しかし、現在では創作も盛んになり豊かな可能性が認識されてきました。今や折り紙は教育や趣味の範囲も超えて幾何学やコンピュータグラフィック、リハビリや老化防止の分野でも研究の対象として活躍しています。世界でも愛好している人たちがたくさんいます。

例えば足が6本あって羽が4枚と角が5本生えている昆虫といった複雑な形を、1枚の正方形の紙から折る事ができます。1枚の紙からいろんなものができる、折り紙って素晴らしいですよね。
今日は折り紙について話しました。


2004年 11月10日
鍵と錠前は扉や物品などに取り付けて、簡単に移動や開閉ができないようにするための道具で、ほとんどは鍵と錠前をまとめて鍵と呼んでいます。

錠前は固定を行う機構の側であり、鍵はそれを開閉(施錠、開錠)するための道具です。錠前によっては合わせ数字などで開閉を行うため、鍵と錠前が一体のようになっている物もあります。

今より、はるか昔の原始の人たちは自分たちの家族や仲間を巨大な獣などから守る方法として、自分たちが穴に入りその入り口に岩石や丸太を転がして簡単に獣が入らないようにしていました。
この岩石や丸太を取り除くにはこん棒をテコにしていたと思われます。この方法が「鍵」のはじまりと言われ、岩石が「錠」の役割で、こん棒が「鍵」の役割をしているそうです。
現在の鍵の原型となるものは、紀元前2千年頃の古代エジプトに始まったと言われています。その後「古代ギリシャ錠」「古代ローマ錠」、中世ヨーロッパで18世紀前半まで発達した「ウォード錠」、18世紀以後には「タンブラー錠」というように発達していきます。

高度成長以前の日本人の多くは「襖(ふすま)や障子で造られた家」に住み、鍵のかかる部屋を持たない生活をしていました。そのため、いつでも、どこでも常に誰かに見られていると言った生活様式が、日本人独特のグループ・フィーリング(感情の共有)を作っていました。
家屋の構造、家族制度の関係、隣保組織などの影響によるものと考えられますが、上記の考え方や特性によって日本では鍵の技術はあまり発達していませんでした。
戦後、核家族化や公団住宅やマンションなどが普及するにつれて、日本人の生活にも鍵は浸透するようになりましたが、まだまだな部分もあるようです。

人間が何か財産を持つようになった時から、それを守るための工夫はされるようになります。そのうちの手段の一つとして鍵があるんですね、大切なものにはしっかりと鍵をかけるようにしましょう。
今日は鍵について話しました。


2004年 11月 9日 パズル
パズルはあらかじめ出された問題を、論理的な考察と試行錯誤によって解く事を目的とした娯楽の一つです。

歴史は紀元前2千年頃?の一般的な魔方陣(正方形のマス目に縦横斜めそれぞれの合計が同じになるように数を入れる遊び)が、この頃既にあったと考えられています。
その後、紀元前1700年、リンドパピルスのパズルというエジプトの数学の本リンドパピルスにあるパズルで、数学パズルでは最も古いものがあります。
紀元前500年頃?にはトリックのある不思議な壷、パズルの壷と呼ばれ発見された形のあるパズルでは最も古いそうです。
紀元前333年に、ゴルディウス王の結び目で、紐を使ったパズルでは最も古い伝説です。
紀元前3世紀?はストマッキオン(人を狂気に誘い込むという意味)と言われた、タングラムのような小片を組み合わせて形を作るタイプのパズルで最も古いそうです。
紀元前からあったと言われている、渡船問題は規則にしたがって駒を動かすタイプのパズルに入ります。とにかく古いようです。
200年頃にはチャイニーズリングがあり、アインシュタインも愛好したといわれる知恵の輪の原点とも言われます。諸葛孔明が発明したとか、プロシアの悲運の男爵発明したとかあります。
370年は、ヨセフスの問題は円形に並んだ人から、一定の順番の人を次々に除いていくパズルです。
16〜17世紀頃?にアフリカンボールという、アフリカで生まれた紐を使った知恵の輪が正確にいつ頃作られたか不明ですがあります。
17世紀前半にパズル錠という通常の開け方では決して開かない錠がイギリスやイランで作られました。
1710年、ソリテアは1710年ライプニッツの論文に見られますが、起源は古く、盤上のペグを飛び越し取り除いていくパズリです。
18世紀、組木の起源ははっきりとわかっていませんが18世紀には作られていたらしいです。日本では箱根の山中組木が有名です。
1760年頃にはイギリス人のジョン・スピルスブリーが教育用にジグソーパズルを作ったと言われています。
1803年のタングラムは、現在でも遊ばれている組み合わせパズルです。文献では1803年頃ですが、起源はずっと古いらしいです。
1913年ニューヨークワールド紙に載ったのが最初のクロスワードパズル、作者はアーサー・ウインで日本は1925年頃が最初になります。
パズルは長い歴史の中で進歩してきました。解く楽しみのためのパズルだけでなく、盗難を防止するための実用的な錠前パズルなどは、その実用性と必要性から生まれたものと言えます。

ジレンマやパラドックスに対して、唯一解が出せるものを「パズル」と定義できるそうですが、娯楽として提供される問題や謎全般を指す事が多いみたいですね。
他に特徴として、ほとんどの場合1人で試行錯誤から正解判定までが可能である事などがあるみたいです。

パズルは得体の知れない達成感を味わえるもの、と言う人もいます。技術などもありますが、情熱で完成を目指すのが良いみたいです。
今日はパズルについて話しました。


2004年 11月 8日 レントゲン
1895(明治28)年、ドイツの物理学者のレントゲン(Wihelm Konrad Rontgen)がX線を発見しました。その事を記念して11月8日をレントゲンの日としています。

レントゲンは真空管に高電圧をかけて実験をしている時に、真空管の外に置かれた蛍光紙が明るく光る事に偶然気づきました。試しに真空管と蛍光紙の間に千ページもの厚さの本を置いてもこの光は透過しました。そこでレントゲンは、この光に「正体不明」という意味で「X線」と名づけました。
後の研究で、X線は波長がたいへん短い電磁波であるため、人体などを通り抜ける事ができ、体の部位や状態によってその通り抜け方が違う事から、体の内部の様子を撮影できる事がわかりました。

レントゲンがX線を発見した功績を称えて、放射線量の単位やX線写真の事をレントゲンと言っていました。しかし、それが続いたのは昭和の終わり頃までです。
医学が進歩した現在では、病院で診察に利用されるのは、X線だけでなくいろいろな種類の放射線が目的に応じて使われています。また、放射線を使って病気の診断をするだけでなく、癌などの腫瘍を治療する放射線治療もあります。
なので、国際的にX線を使って行う検査をX線検査、X線を使って撮った写真の事をX線写真と言っています。
X線も放射線なので「X線の取扱い作業時間を短縮する」「X線の発生源から離れて作業する」「X線の発生源との間に遮へい物を置く」といった「時間・距離・遮蔽」を念頭におかれています。

まだ、X線と言うよりもレントゲンと言った方が馴染みのある人がいたりするそうです。それだけ、レントゲンの発見は大きな影響があったんですね。
今日はレントゲンについて話しました。


2004年 11月 7日 知恵の輪
朝日新聞社が1988(昭和63)年の今日、『朝日現代用語 知恵蔵』発刊の時に11月7日を知恵の日と制定しました。というわけで今日は知恵の輪について話します。

知恵の輪は2つ以上の物体が見かけ上くっついているように見えるものを、いじりまわして2つ以上のパーツに分解し、また再び構成しなおす事を目的に作られた物体を言うみたいです。
「知恵の輪が解けた」と言うためにはまず知恵の輪を分解し、さらにもとの形態に再構成して初めて言えます。ただ外れただけでは達成度は半分です。
知恵の輪の中には外すのが難しいもの、その逆に戻すのが難しいもの、またどちらも同等に手間がかかるものなど様々あります。知恵の輪はその外したりくっつけたりという過程が楽しくまた悩ましいみたいですね。

知恵の輪は、紀元前333年にアレキサンダー王が解けなくて頭にきて2つに切ってしまったという伝説のある「ゴルディウスの結び目」パズルや2世紀に中国で発明された「チャイニーズ・リング」は、9個の輪を使ったパズルで約300手でやっと解けるといった超難解ものが始まりのようです。
上の2つのように様々なのが発明されています。最近はキャストパズルという名称で、金属の鋳物でできたパズル(キャストメタルパズル)が盛んに売られています。

知恵の輪をやっていくうちに、市販の知恵の輪を自分で解く・戻す。から、市販の知恵の輪をできるだけ集める。そして知恵の輪をつくる(入手できない品物や自分で創案した知恵の輪をつくる)。知恵の輪を整理・分類する。とまでいくそうですが、ちょっと最初の目的と変わってる気がしちゃいますけどね。
今日は知恵の輪について話しました。


2004年 11月 6日 アパート
1910(明治43)年の11月6日、東京の上野に日本初の木造アパートが完成しました。東京・上野の「上野倶楽部」で、5階建て70室の木造アパートでした。この事を記念として11月6日をアパート記念日と呼んでいるそうです。

アパートはアパートメントハウス(apartment house)の略で、一棟の建物の内部をいくつかに仕切り、それぞれ独立した住居として貸すものです。また共同住宅です。
一戸建て以外の2階建て以上のものはアパートやマンションと呼ばれていて、一般に「アパート」は賃貸で、キッチン、トイレなどの設備があるものを言います。

一般に、と言うのは「こういった物件はアパートとする」などの明確な規定はありません。なので、不動産会社が広告する時に「これはマンション」と思えば「マンション」、「アパートだろう」と思えば「アパート」と表示している事が多いそうです。
ただ、一般的には木造や軽量鉄骨造の準耐火・低層物件を「アパート」、鉄骨鉄筋コンクリートや鉄筋コンクリート造などの耐火構造の集合住宅を「マンション」と呼んでいます。 アパートの特徴は、「木造や軽量鉄骨造の準耐火構造」「2階建てが多い」「構造上、高層住宅はできない」「建築費が安く建てられるので賃料は安め」「エレベータなし、管理人もいない場合が多く管理費が安い」などです。
マンションの特徴は、「鉄筋コンクリートや鉄骨鉄筋コンクリート造の耐火構造」「高層住宅も建てられる」「遮音性が高い」「高級感がある」「建築費もかかるので、賃料はアパートより高い」「エレベータがついていたり管理人がいる場合も多く管理費が高い」などです。

アパートやマンションといった名称は日本では目安にしかなりませんが、英語で「マンション(mansion)」と言えば、大邸宅の事になります。
日本語でのマンションに相当するのは、「apartment(アメリカ)」「flat(イギリス)」と言われ、高級分譲マンションは「condominium」と呼ばれています。

物件として探すなら、「マンションかアパート」といった物件種別だけでなく、「構造は何なのか」などを不動産会社さんにきちんと確認するのが外れにくいみたいです。
今日はアパートについて話しました。


2004年 11月 5日 電報
電報を申しこむ時の電話番号「115」から、11月5日の今日は電報の日とされています。

電報は電信施設を使用して送受する通信、またはその通信文を言います。電報事業は明治以降国営でしたが、戦後に国内電報は日本電信電話公社が、国際電報は国際電信電話株式会社が運営するようになりました。
最近では、電話やメールの普及により、結婚・誕生日・記念日等の慶祝電報や弔意電報に利用形態が変遷しました。現在は「言葉のギフト」として定着しているそうです。

メッセージ文字数+台紙=電報料金となっていて、「慶弔扱」、慶祝、弔慰、激励等の内容に合わせた電報台紙を使用します。と言ったように「配達日指定」、「受取人名連記」、「夜間配達」、「毛筆印字」、「配達通知」、「発信証明」などの種類があります。
電報では電報のタイトルとして明記される「表題」、配達先の住所や受け取る人の「宛先」、「メッセージ」、送り主の名前や住所などの「差出人」にそれぞれ書き込んで出します。

現在は電話やeメールの普及によってほとんど使われなくなりましたが、冠婚葬祭などで使う事はまだまだ多いかもしれませんね。
今日は電報について話しました。


2004年 11月 4日 小春日和
晩秋から初冬にかけてにあたる、旧暦の10月の別名を小春と言います。旧暦の10月は11月頭から12月頭くらいまで、厳密に言うと立冬を過ぎてからと言われています。

晩秋の移動性高気圧に覆われて、現れる穏やかな暖かい日和が「小春日和」です。10月の別名から来ているので、春先のうららかな天気の事ではありません。
小春日和を含む晩秋の天気は周期的に変わるそうです。小春日和→冷たい雨(雪)→木枯らし→小春日和→・・・と繰り返していくそうです。
何をするにも良い天気、小春日和が続いたかと思うと、天気が崩れて冷たい雨が降ります。この雨は標高の高い所では雪に変わる事もあります。冷たい雨が止んで青空が広がると、木枯らしが吹いてきますが、長くは続かずにまた小春日和がやってきます。

小春日和は移動性高気圧によって、冷たい雨は低気圧によって、木枯らしは天気図が縦じま模様の冬型の気圧配によって起こるものです。
この時期は大陸の高気圧の勢力が弱く、すぐ移動性高気圧になって日本列島にやってきます。木枯らしは1日程度でおさまる事が多いのですが、冬が深まるにしたがって気圧配置が冬型になり、冷たい季節風が長続きするようになっていきます。

小春日和のような陽気は日本だけでなく、日本と同じような中緯度にある国々にこの時期、似た陽気があって色々な言葉で呼ばれています。インディアンの夏(アメリカ)、聖ルカ祭りの夏(イギリス)、おばあちゃんの夏(ドイツ)、女性の夏(ロシア)などあり、どの国も夏と言われています。
これは、気候に関係があります。日本の夏は「蒸し暑い」ですが、欧米の夏は「快適な陽気」です。暖かな小春日和は、欧米では夏に当てはまるんですね。

どんなに暖かい小春日和でも季節は確実に真冬へ向かっています。冬への準備はしっかりとしていきたいですね。
今日は小春日和について話しました。


2004年 11月 3日 文化
1946(昭和21)年、平和と文化を重視した日本国憲法が公布された事を記念して、1948(昭和23)年公布・制定の祝日法で「自由と平和を愛し、文化をすすめる」国民の祝日に定められました。
戦前は明治天皇の誕生日である事から「明治節」という祝日でした。

文化は社会を構成する人々によって習得・共有・伝達される行動様式ないし生活様式の総体とされています。
言語・習俗・道徳・宗教などの制度などは具体例で、文化相対主義においてはそれぞれの人間集団は個別の文化をもち、個別文化はそれぞれ独自の価値をもっています。文化の間には高低や優劣の差はないとされています。
他の意味に、学問・芸術・宗教・道徳など主として精神的活動から生み出されたもの、世の中が開け進んで生活が快適で便利になる事(文明開化)、他の語の上に付いてハイカラ・便利・新式などの意を表すなどあります。

他の考え方で言う文化は、
芸術作品や芸能などのモノやコトといったものばかりではなく、見方・感じ方などを含む社会的規範の総体を指す。「文化とは社会的事実である」「文化とは後天的に学習されるものである」「一つの価値の体系をなしている」などで、これをよく示しているものが「言語」だという考え方。
人間が後天的に学ぶ事ができ、集団が継承している(いた)認識と実践のゆるやかな体系の事であるという考え方。
文化とは私的な財産であるとともに、共同信託財産でもあるという考え方。文化は商売ではなく、市民が専門外の事をやるのが文化であるという考え方。メシの糧ではなく、生活の手段ではないものを持つ事が文化であるという考え方などがあります。
文化は、「未開」の対極と考えられる事もあります。ラテン語colere(耕す)から派生した英語やドイツ語のcultureやKulturは「文化」という意味以外に「耕す」「培養する」「洗練したものにする」「教化する」といった意味合いを持っています。

文化は簡単に言えますが、奥がずっと深いものでもありますね。でも、決して難しいというわけでもなく、今までに人間達の中で生活してきたならそれに置き換えたりすればすぐ理解できるかもしれませんね。
今日は文化について話しました。


2004年 11月 2日 ミノムシ
ミノムシと言うのはガの中のミノガ科(日本には50種ほど)の幼虫が作る巣をミノ、中の幼虫をミノムシと呼んでいますが、両方あわせてミノムシと呼ばれる事が多いです。

葉や小枝を糸で綴り合わせた蓑のような巣を作り、雌は成虫になっても蛆(うじ)状で蓑の中で一生を過ごします。一般に見られるものはオオミノガ・ケヤミノガ・ミノガ・チャミノガの幼虫が多く、各種の樹木の葉を食害するため害虫として認識されています。

ミノムシがミノを作るのは冬を越すためで、ミノの中に閉じこもって、枯れ枝などにひっついています。ミノの作り方は、葉の巻き付け方が下手なものから、本物の雨具の蓑にそっくりなものまで、種類によって様々に異なります。身体の大きさに合わせて、口から出す糸で枯れ葉の欠片などを繋ぎ合わせ、少しづつミノを大きくしていきます。
そうして冬を越すと雄は羽化しますが、子孫を残すためだけに羽化するため、口はなく、エサを食べる事はないそうです。さらに雌は、完全に卵を産むためだけに成虫となるため、手足はおろか、目などの感覚器すらないそうです。

日本では近年オオミノガのミノムシは、ほぼ全滅状態になってしまったそうです。ヤドリバエによって寄生され、現在、オオミノガは本州九州ではまず全滅、四国の一部だけ極わずかに生息するだけらしいです。

ミノムシのミノは敵からの攻撃や、寒さから守ってくれます。ですが、それだけで万能というわけではない、私たちにおいても同じ事が言えそうですね。
今日はミノムシについて話しました。


2004年 11月 1日 トンボ
トンボは蜻蛉とも書き。アカトンボやオニヤンマに代表されるトンボ目の昆虫の総称です。

世界で約6千種が命名されています。熱帯に多く、日本に約200種がいます。目は大きな複眼で、発達した口器を持っています。胴は細長い棒状で、細長い二対の羽で飛びます。幼虫は水中に住み、ヤゴと呼ばれて成虫とともに害虫を捕食するので益虫とされています。
脚は飛行中に獲物を捕らえるつくりになっていて、二対の羽はそれぞれ独立に動かす事ができ、空中で静止する事もできます。

トンボは羽の形と腹の太さなどの特徴から、均翅亜目(きんしあもく)、ムカシトンボ亜目(むかしとんぼあもく)、不均翅亜目(ふきんしあもく)に大きく分けられます。
「均翅亜目」は、イトトンボやカワトンボなど言われている仲間です。4枚の羽の形がほぼ同じで、腹部も細く、弱々しい感じです。全部ではありませんが、羽をたたんで止まる種類が多く、4枚の羽が重なります。
「不均翅亜目」は、トンボとかヤンマとか言われる仲間です。前後の羽の形が違っていて、特に後羽のつけ根の部分が角ばっています。また腹部は太く全体にがっしりとしています。羽はほとんどの場合、広げて止まります。
「ムカシトンボ亜目」のトンボは、世界にたった2種類しかいない、珍しい仲間で日本とヒマラヤだけにしかいません。このトンボは、羽が前後とも同じような形をしていて均翅亜目に近く、腹部はがっしりしていて不均翅亜目に近い、ちょうど中間的な形をしています。三畳紀(約2億年前)の地層から、この仲間の化石が出る事で有名です。

アキアカネなどトンボによっては成虫になってから100kmもの距離を移動するそうです。あの小さな体で凄いですよね。
今日はトンボについて話しました。


topに戻ります