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2004年 12月31日 除夜の鐘
一年の最後の日を大晦日または大晦(おおつごもり)と呼び、その日の夜更けに全国のお寺で鳴らされる108つの鐘を「除夜の鐘」と言います。

鐘はお寺でお勤めが始まる合図の役割、時を知らせる役割、さらに非常事態を伝える役割を持っていました。後者の方は現在サイレンや時計の普及で必要がなくなり、今ではお寺の鐘は法事の案内だけになっています。
大晦日の行事は、古くは平安時代から行われていたようです。寺の鐘をつくのは中国の宋代にさかのぼり、日本では鎌倉時代と言われています。中国からの禅宗の伝来とともに、各寺院で中国の寺院と同様朝夕の2回、108の鐘をつくようになったそうです。
室町時代からは除夜にだけ鐘をつくようになり、その音を聞いて年を迎えようと考えるようになったようです。

人間には眼・耳・鼻・舌・身・意といった6つの感覚と、色・声・香・味・触・法といった6つの感情があるとされ、そこに執着が生じて煩悩となります。
6つの感覚には「好」「嫌」「平(どちらでもない)」の3種の感情があり、6つにそれぞれ3つの感情で合計18の煩悩が生まれます。また6つの感情には「楽」「苦」「捨(苦しくもなく楽しくもない)」の3種の感情も生まれます。こっちも合計18の煩悩となって、全て足すと36の煩悩となります。
そして、この36の煩悩が、過去・現在・未来の3つにわたって生じるという考えから、36×3で108の煩悩となるとされています。
他に、12ヵ月と24節気(気候の変わり目)と72候(気象上の区分)を足したもであると言われていたり、心の状態を分析した古代インドの唯識論に出てくる煩悩の数が108つに近いという説があったりします。

除夜の鐘は、古い年を除くと言う意味です。夜を除くという意味から一晩中眠らないという風習もあり、眠ると白髪になるとか、顔にしわができるなどの言い伝えもあります。
煩悩とは「心を惑わし、身を悩ませる」一切の精神作用を言います。鐘をつく事で、これらの煩悩を一つ一つ取り除いて清らかな心で正月を迎えようとしたわけです。
また、108回の最後の一回は年が明けてから突つきます。これは、今年一年煩悩に惑わされないように、という意味だそうです。

と、いろいろ講釈たれましたが、「煩悩と戦ったり取り除くのではなく、上手に付き合っていく事」が一番だと私は思います。
今年最後は除夜の鐘について話しました。


2004年 12月30日 水炊き
鍋の仲で一番食べられていると言われる水炊き、作り方も簡単で栄養もあって風邪のひきやすい冬にはぴったりの料理です。

水炊きは具材からでる美味しいだしのみの鍋で、各人が薬味や調味料で好みの味にして食べるます。なので料理初心者でも比較的失敗なく作る事ができます。塩味のない昆布だしで野菜を中心に煮込んだ水炊きは、すっきりとした味わいが楽しめます。
一般的に水炊きでは調味料を使わないので、鍋の材料が調味料に含まれる塩分などの影響を受ける事がほとんどありません。このため、長く煮ると材料の成分が科学的に変化する事も多いそうです。
そうして材料本来のうま味を引き出す事に水炊きの特徴があります。なので、水炊きは材料の組み合わせが重要です。鳥肉はほぼ共通ですが、東京はタラ、大阪はブタ肉を入れる事が多いなど水炊きの具材にも地域性が出ています。

水炊きの下準備は、鳥肉とネギの青い部分でスープをとって灰汁(あく)取りをします。野菜やきのこは適当な大きさに切って器に並べておきます。豆腐は軽く水を切り、大きめに切っておきます。固い野菜は下茹でしておくと追加する時に待たなくてすみます。
調理は、鍋に鳥のスープを張って必要ならだしで割ります。野菜、きのこ、鳥肉を入れて煮えるまで待ちます。煮えてきたら豆腐や春菊を加えて、さらにしばらく待ちます。春菊がしんなりしてきたら食べ始めです。
具がほとんどなくなったら仕上げの雑炊を作ります。水炊きはスープにあまり味が付いていないので、仕上げはうどんより雑炊のがお勧めです。醤油を適量加えてスープをしばらく煮詰め、程良く煮詰まったらご飯を加えて充分にほぐれるまで煮ます。火を弱めて、溶き卵多めに回しかけます。様子を見ながらかき混ぜて、ご飯と卵がふんわり混ざったらできあがりです。

風邪をひいた時の食事として水炊きがお勧めです。水炊きにはビタミンB群を豊富に含んだ豚肉、鶏肉をたっぷり出汁として、風邪に対する抵抗力となるビタミンCの入った野菜と、鼻・喉の粘膜の保護作用で著名なビタミンAの豊富な人参を入れるようにします。タレはビタミンCも豊富な大根下ろし、柚子(ゆず)やレモンの入ったものにします。
水炊きが風邪に良い理由は栄養だけではなく、鍋から出る赤外線が風邪状態の身体を芯から暖め、鍋から上がる蒸気は粘膜を潤してくれます。

水炊きは、昆布だしで煮る九州、博多の水炊きは中国、蒙古が発祥の地と言われ、起源がその辺にあって関西へと伝わってきたのではないかと考えられています。
今日は水炊きについて話しました。


2004年 12月29日 しゃぶしゃぶ
しゃぶしゃぶは、薄く切ったお肉や野菜などを熱湯の鍋の中でゆり動かしてさっと煮て、たれ汁・薬味などで食べるものです。

日本のしゃぶしゃぶは、歴史が新しく戦後からです。もとは中国のシュワンヤンロウという、中央の煙突の部分に炭を入れてお湯を沸かす「火鍋子(ホーコーツ)」が使用され、羊の肉を薄く切って、ゴマダレをつけて白菜やネギと一緒に食べる鍋料理です。
日本に伝わったのは1948(昭和25)年頃で戦後中国で生活していたお人から食べ方を聞き、京都のお茶漬・水炊きの店の主人が日本人向けに羊肉を牛肉に替えてお茶漬の上に牛肉を乗せたのが始まりで、牛肉の水たきで売り出したのちに純和風の会席料理として日本料理に取り入れられましたという説があります。
また、別の説として、「永楽町スエヒロ本店」の店主の三宅忠一氏が、終戦後しばらく経った1952(昭和27)年から約2年をかけて考案したのが「しゃぶしゃぶ」だという説があります。
三宅忠一氏は、「しゃぶしゃぶ」をすき焼きやステーキよりも肉をあっさり、沢山食べられる料理としました。牛肉をお湯で煮てポン酢で食べる「肉の水炊き」と、前述の「シュワンヤンロウ」から「しゃぶしゃぶ」を考えたそうです。

「しゃぶしゃぶ」の名前は、店で出すおしぼりを従業員が洗濯している時、タライの中でおしぼりをすすぐ様子が、鍋の中で肉を振る様子と似ていて、その時の水の音がリズミカルで新鮮に響いた事や、しゃぶしゃぶ鍋のスープの蒸発の音などから、三宅忠一氏本人が名付けたそうです。
そして、響きが良く親しみやすい名前のしゃぶしゃぶは、高級料理でしたが人気メニューとなり、類似メニューをしゃぶしゃぶとして出す料理屋が多く登場しました。

余分な脂が落ちると言われる「しゃぶしゃぶ」は、お肉の脂がお湯に溶け、カロリーを減らしながら肉の旨味が適度に残り、野菜もたっぷり摂れるヘルシーな料理法と言われます。
また、「しゃぶしゃぶ」による加熱は他の調理法に比べて低温で短時間のため、熱に弱いビタミンB1、B2が効果的に摂取できるという利点もあるそうです。一緒に豆腐など加えたりすると栄養バランスがかなり良くなります。

一般にしゃぶしゃぶと言われる「温しゃぶ」は加熱し過ぎないのがコツみたいです。肉は微沸騰のお湯の中ですすぐようにして、牛肉の場合は表面の色が変わり始めたら引き上げます。豚肉の場合は完全に火を通しますが、あまり加熱し過ぎないようにします。
最近増え始めた「冷しゃぶ」には脂の融解温度が低い豚肉があうそうです。豚肉は冷えた脂でも体温によって口の中で溶け、口当たりが良くなるからです。一方、牛肉は脂の融解温度が高いため、脂の多い肉では口当たりが良くありません。「牛肉の冷しゃぶ」には脂の少ない赤身の方が向いています。また、肉を茹でた後に氷水などで冷やすと脂が固まって口当たりが悪くなるので自然に冷ますようにします。
他に灰汁(あく)は肉の血やタンパク質がお湯の中で固まったもので、臭みの元になります。なので灰汁は取り除いた方が、すっきりとした美味しいしゃぶしゃぶが楽しめます。
お肉をお湯で加熱すると、グルタミン酸やイノシン酸などの旨味成分が溶け出します。茹で湯に昆布と料理酒を加える事で、昆布や料理酒のアミノ酸と肉から浸出したイノシン酸が組み合わされて、いっそう旨味が強くなるそうです。
旨味を強くすると、野菜も美味しく仕上がります。習慣通り、「しゃぶしゃぶは肉が先、野菜は後」とすると、野菜が美味しくたくさん食べられます。

しゃぶしゃぶにはポン酢とゴマが定番のタレですが、当初は醤油と生卵に付けて食べていたそうです。
ポン酢と言えば、オランダ語、柑橘類がベースになっている果汁を意味します。Pons(ポンス)で語尾のスを酢の字を当てポン酢となりました。日本古来の鍋とかに(酢)柑橘類(だいだい・すだち・ゆず)のものが取り入れられ、鍋といえば、ポン酢たれが受け入れられました。
戦後、中国北方の名物料理シュワンヤンロウのだし汁をまねて、ゴマダレを使うようになりました。ゴマにはビタミン・ミネラル・食物繊維が豊富に含まれていて、主成分の油脂は悪玉コレステロールの発生を抑制すると言われる不飽和脂肪酸が含まれています。

しゃぶしゃぶは似たような料理が中国のシュワンヤンロウを始めとして、いろいろな国で食材を変えたりしてあるみたいです。いろいろ茹でたりして試してみるのも良いかもしれませんね。
今日はしゃぶしゃぶについて話しました。


2004年 12月28日 すき焼き
すき焼きは、牛・鳥肉などにネギや焼豆腐などを添えて鉄鍋で「煮焼き」したものと言われています。割り下を用いた甘辛い味つけの料理の総称として、すき焼き風のように用いられます。牛鍋や鳥鍋とも言います。

657(斉明3)年、天武天皇は「牛、馬、犬、猿、鶏」を食べる事を禁じました。仏教の殺生禁断によるものとされています。この中でも牛は、主に荷物を運んだり、農耕のために使われている家畜なので、公然と食べるという事はしませんでした。
江戸時代のすき焼きは、牛肉が禁止されていたため、鴨肉や猪、鹿などの肉が使われ、現在の焼肉や鉄板焼きのようなもので、関西風すき焼きにその名残をとどめています。
そして、1872(明治5)年1月24日に明治天皇は料理長に命じて牛肉料理を食べました。牛肉を食べて体力を増強し、文明開化・富国強兵の道を進むべしという主旨だったそうです。
こうして牛肉が広く食べられるようになり、食べ方はそれまでの猪や鹿などの調理法と同じように始まりました。これが、牛鍋と呼ばれるものです。
初めて、すき焼き屋が登場したのは幕末の京都と言われています。三条河原で調理したものを橋のたもとの店で出したと言われています。まだ、この頃は牛を食べるという事に抵抗があったようでしたが、その後すき焼き屋は各地に広まっていきました。

すき焼きは江戸時代から見られる名で、最有力なのが、鍋の代わりに農具の鋤(すき)の金属部分の上を火にかけて、肉や魚、豆腐を焼いて食べた事から、「鋤焼(すきやき)」と呼ばれるようになったと言う説です。
その他の語源には、肉を薄く切るため「剥身(すきみ)」から「剥き焼き」となったとする説や、「杉焼(すぎやき)」という古くからある日本料理からとする説、好きなものを焼くからといった説もあります。
全国的にすき焼きと呼ばれるようになった時期は、それほど古くないようです。また、牛肉を用いるすき焼きが一般的となったため、「すき」に鍋物の意味を持たせ、その他の材料を用いる時は「魚すき」「鳥すき」「うどんすき」などと呼ぶようになりました。

一般的なすき焼きは薄切りにした牛肉が用いられ、ネギ・春菊・椎茸・豆腐などの具材が添えられます。すき焼きの薄切り肉はシャブシャブに用いる肉よりも厚い事が多いようです。味付けは醤油と砂糖が基本で、生卵をからめて食べます。
関東と関西ではその調理法に違いが見られます。関東のすき焼きは明治に流行した牛鍋がベースになっていて、だし汁に醤油・砂糖・みりん・お酒などの調味料を混ぜた「割り下」をあらかじめ用意しておき、これで牛肉を煮ます。関西のものは名前の通り牛肉を「焼く」料理で、焼けたところに調味料を直接加えて味付けをし、割り下は使わないそうです。

すき焼きは食塩の量が多めになってしまうものの、野菜やカルシウムなどバランスよく含まれています。多めに摂ってしまう塩分は、カリウムを多く含んでいる食品で身体から排出するなど工夫するのが良いみたいです。

すき焼きは日本の代表料理であり、高級料理としても認知されています。作り方も各家庭によって違いがあり、こだわりなどいろいろありそうです。
今日はすき焼きについて話ました。


2004年 12月27日 ピーターパン
1904(明治37)年、イギリスの劇作家ジェームス・マシュー・バリーの童話劇「ピーターパン」がロンドンで初演された事を記念して、ピーターパンの日となっています。

古くは1902年の「小さな白い鳥」というのが原作で、何回か筆が加えられて1904年にはもう、ロンドンの劇場で「ピーターパン」で上演されます。演劇は大成功し、その後さまざまな改良が施され上演されつづけますが、1912年に最終版として作者自ら、小説「ピーターパン」を刊行しています。
その後ニューヨークでも大ヒットして、1953年にはウォルト・ディズニーの映画に登場しました。テレビアニメとしても放映されたりして、かなりのロングランとなっています。

原作では、ピーターパンはロンドンのケンジントン公園で乳母車から落ちたところを乳母に見つけられず迷子となった事から年を取らなくなり、異世界ネバーランドに移り住んで妖精ティンカーベルと共に冒険の日々を送る永遠の少年です。
ネバーランドにはピーターパンと同じように親とはぐれ年を取らなくなった子どもたち(ロストボーイ)がいて、ピーターパンは彼らのリーダー的な存在です。ですがピーターパンは子どもの長所と短所をデフォルメしたキャラクターとして描かれていて、純粋で一途な反面、善悪やけじめの見境がなく身勝手な性格描写が顕著になっています。
原作者バリーも本編で、そのようなピーターパンの態度に対して皮肉ったりたしなめたりする文章を書いているそうで、ヒーローではなく子どもの象徴として書いているみたいです。
その敵役は、海賊ジェームズ・フック船長です。フック船長は狡猾で頭の切れる海賊でありながら、合理的で紳士な人物として描かれるといった、矛盾する人物像となっています。
これは状況によって顔を使い分けて世渡りをしなければならない大人の象徴として描かれた、ピーターパンの子どもの象徴と対極の位置にいると考えられています。

ピーターパンは大人と子どもについていろいろと考えさせる作品でもあるわけなんですね。少しずつ手を加えて完成されたピーターパン、子どもの時と大人になってからで違う風に読めるかもしれませんね。
今日はピーターパンについて話しました。


2004年 12月26日 おでん(関東炊き)
冬と言えば鍋ですが、その中で鍋の定番中の定番はやっぱり「おでん」ではないでしょうか。最近は夏でも冷やしおでんなど出回ってきています。

現在のおでんの語源は、串に刺した豆腐の味噌焼き「田楽」です。「田楽」は平安時代の末期から室町時代に盛んだった芸楽で、田楽法師と呼ばれる芸人が一本の竹馬のような棒に乗って踊る田楽舞の事です。
その踊る様子が、串刺しの豆腐料理に似ていた事からこの食べ物をそう呼ぶようになったそうです。それがやがて丁寧に「お」をつけて「お田楽」となり、さらにそれが略されて「おでん」となったそうです。
江戸時代になると、少しずつ、餅や田楽、煮しめを売る店が現れてきます。そして、1785(天明5)年の大飢饉をきっかけにして、急速に屋台が増え始めました。そして、うどん屋・鰻屋・団子屋・そば屋などが現れるのと平行して、田楽の種類も豆腐・ナス・里芋・コンニャク・魚などと増えました。魚の場合は「魚田(ぎょでん)」と呼ばれ、味噌を表面に塗る以外に、背割りにして中に詰めた事もあったようです。
ここらまではわかっていますが、江戸時代に普及した「田楽」が現在の「おでん」になるまで、まだまだ不明な点があります。江戸後期には煮込みおでんが現れていたという説、明治期にできたという説、関西で最初に作られたという説など、さまざまな主張があるようです。

おでんに関しては、関東風・関西風という区別は当てはまらず、汁気が少ない煮物風の「江戸おでん」、汁気たっぷりで甘辛の「関東煮」、関東煮を飲めるスープに改良した一平の「東京おでん」というように、時代別に整理してみるという考え方もあったりします。
この考え方で分けると、江戸・明治・大正・昭和のそれぞれの時代に特徴的なおでんが存在していた事になります。田楽に始まったおでんの歴史は、時代の流れとともに姿を変えてきているというわけです。

「おでん」は煮込んでいるうちに、だしとおでん種の旨味が絡み合って、特有の美味しさになってきます。なので、種の種類は多い方が複雑な味になるわけです。味の決め手になるのは、練り製品です。練り製品からの旨味なしには、「おでん」の味になりません。
おでんは低脂肪高タンパクなものが多い練り製品の多さで味が決まるので、必然的に栄養価も高くなります。ミネラルだけでなく、昆布やコンニャクから食物繊維もとれます。ただ、だしと練り物だけだと、ビタミンCやAは不足気味になります。これの対策にじゃがいもや卵を加えると解決できます。
上のようにするだけでも栄養のバランスがとれますが、野菜が少ないので大根やロールキャベツを加えたり、味の変化を持たせるために、酢の物や和えものなどの小鉢もので、野菜を添えるようにするのがお勧めです。
健康管理として、塩分の摂り過ぎにも注意をすると、「おでん」はだしを利かせて薄味に仕上げて解決します。薄味にすると、おでん種の美味しさが引き立つようになります。

コンビニにも置いてあるおでんですが、やっぱり家で食べるおでんが一番な気がします。地方だけでなく各家庭でもおでんの違いを楽しめるでしょうね。
今日はおでんについて話しました。


2004年 12月25日 スケート
12月25日はスケートの日として、日本スケート場協会が1982(昭和57)年に制定しています。
1861(文久元)年に、函館に滞在していたイギリスの探検家トーマス・ライト・ブラキストン(正しくはブレーキストンらしいです)が、日本で初めてスケートをしたとされています。
これとは別に、1792(寛政4)年にロシアの使節ラクスマン一行が根室で一冬を過ごした時に、結氷した根室湾内で滑ったのが日本初であるとする説もあります。

スケート、アイススケートは、氷の張った面(スケートリンク)の上を、刃のついた靴(スケートシューズ)で、刃の先を氷に当てて滑るスポーツです。
新体操のように氷上で踊ったり回ったりするフィギュアスケートと、氷上で陸上のように速さを競うスピードスケート、サッカーのようにパックと呼ばれる円盤状の球をゴールに入れて得点を競うアイスホッケーがあります。

スケートは、原始時代に今のスケートのブレードにあたる骨で出来たソリのランナーのようなものが発見されています。当初は動物の骨で作られ、主に氷の上を移動するための道具として使用されていました。
やがて北欧放牧民で、凍った川や湖を渡る運搬用具として生活必需品になり、各地に広まったそうです。その後、1250年頃に木の靴底に鉄製のブレードを固定したスケート靴がオランダで作られました。
生活に結びついたスケートは、その後発達し、遊び、スピードスケートの競技会、さらにスケーティング技術の進歩とともにフィギュアスケート、アイスホッケーの順で発展したそうです。

また、ローラースケートは、合成樹脂製のウィル(ホイール)と呼ばれる車輪に相当するものを専用のプレートに取り付け、さらにそれを靴に取り付けて地上を滑る事ができるようにしたものです。
ローラースケートは、元々アイススケート選手の夏期におけるトレーニング用として考案されたものですが、アメリカ西海岸における若者のレクリエーションとして広まり、世界的にもその広まっているそうです。
元々のローラースケートは自動車の車輪のように前方・後方に配置するタイプのものでしたが、1990年代に入ってアイススケートの滑る部分(ブレード)のように、ウィルを縦1列に4個配置したタイプのもの(インラインスケート)が現れ、現在ではこれが主流になっています。

スケートを滑る時は、ペンや携帯電話などは危険なので持たないようにしましょう。スケート靴を履く前に準備運動をして、スケート靴の紐も固くきっちりと結びましょう。事故や怪我防止のため手袋は必需品です。できれば帽子などで頭を保護すると良いでしょう。
慣れないうちは基本姿勢から覚えます。足はかかとをつけて、爪先を開いた八の字型にし、膝を少し曲げて肩の力を抜いて自然体で立ちます。
1歩2歩と氷上を歩く事からスタートします。腰を落としながら膝を曲げて、体重を前に移すようにします。そして爪先を開いたまま右足を少し出し、かかとを左足の土踏まずにつけます。そしてそのまま膝を伸ばして立ち上がり、また腰を落としながら膝を曲げ、今度は違う足で同じ動作を繰り返します。足先を見ないで遠くを見るようにするのもポイントです。
滑る時は、初めに正しい姿勢で立ち、腰を落として足首と膝を曲げます。そして左足のインエッジで氷を押しながら上体を右足の爪先の方に向け、体重を右かかとに移して右足で滑り始めます。次に浮いている左足のかかとを右足のかかとに近づけるように引きつけ、V字型の正しい位置に戻します。次に逆の足で同じ動作を繰り返します。このように上下の動きと左右の動きとを組み合わせて前進していきます。
止まる時は片足を平行にして外側にザッと広げると簡単なようです。滑り出す前に練習しておきましょう。
バランスを崩して転んでしまったら、まず両手と両膝をついて四つんばいの姿勢になり、そこから足を交互に立てて、八の字型の基本姿勢へ持っていけば、スムーズに簡単に立ち上がれます。すぐに起き上がるのも練習の1つだそうです。

スケートで滑れるのは、ブレードによって圧力をかけると氷が水になり(氷より水の状態の方が高密度なため)、その水のために良く滑る。というのとブレードと氷との摩擦で溶けて水ができて滑れるというのがあって、後者の説が有力となっているそうです。

冬の季節で運動不足になりがちですが、簡単・気軽できるスポーツ&レジャーのスケートを始めてみるのも良いかもしれませんね。
今日はスケートについて話しました。


2004年 12月24日 通天閣
現在の通天閣は2代目で、完成した年は東京タワーのできる2年前の1956(昭和31)年10月26日に開業しました。2代目の設計者は、東京タワーと同じ内藤多仲です。

初代通天閣は1912(明治45)年7月、第5回内国勧業博覧会の跡地の西半分に開業した新世界ルナパークの中心に建てられたパリのエッフェル塔と凱旋門を組み合わせた破天荒で、高さ64mの塔で当時東洋一の高さだったそうです。
太平洋戦争が勃発すると空襲の目標とされるという事で全体を迷彩色に塗装されたりもしたのですが、1943(昭和18)年1月に初代通天閣は火災にあってしまい、解体される事になりました。そして初代通天閣は大阪の町から姿を消しました。

昭和20年3月の空襲で一面焼け野原となった新世界ルナパーク地区ですが、終戦とともに復興の歩みが始まりました。梅田や難波に比べて新世界は立ち遅れ、商店主らが「通天閣がないといかん」と言う事で、1954(昭和31)年10月に再建、1956年に2代目通天閣の開業となりました。
高さは初代を上回る103mで円形のエレベーターを備え、落成時にはそれなりにモダンな建物だったようです。

2代目通天閣の再建時、町内会では建設費工面のためにネオン広告料の10年分、3千万円の前払いという苦肉の策を取ります。この条件をのんだのが日立製作所でした。
ネオン広告は、5年に1度掛け替えられて、開業時は「モートル」「テレビ」のコピーと、西面をまるまる使った高さ36mの巨大な寒暖計がお目見えしました。それから時代とともにビデオやエアコンなどにかわっていきます。

通天閣の展望台には幸運の神様「ビリケン像」が置いてあります。ふしぎな表情や愛嬌のあるポーズが人気で、いつもお願いする人が絶えないそうです。また、足の裏をさすりながら願い事をすると願いがかなうと言われてます。
このビリケン像なのですが、1908(明治41)年アメリカの女流美術家フローレンス・プリッツという女性アーティストが、夢で見たユニークな神様をモデルに制作したものと伝えられています。
「幸福の神様」「福の神」としてアメリカを始め世界中に大流行し、オープンしたばかりの新世界ルナパークでは「ビリケン堂」を造りビリケンを安置しました。これが大当たりして、新世界名物となったのを始め、ビリケンまんじゅうなどの土産物まで作られました。しかし、ビリケンはルナパークの閉鎖と共に行方不明になってしまいました。
オイルショックが去って2代目通天閣の灯が復活して新世界地区にも活気がよみがえった1979(昭和54)年、なにわ文化の拠点を目指した「通天閣ふれあい広場」ができ、シンボルとして新世界に馴染みの深い「ビリケン」の復活も決まりました。
しかし、資料になるべき写真がみつからず、思案にくれている時、田村駒株式会社が版権を持っている事が判明し、田村駒さんのご好意で同社の「ビリケン」をもとに木彫りで復元されたそうです。

「天に通ずる高い建物」と言う意味の通天閣。その命名は藤沢南岳という明治維新前夜「朝敵」と目された高松藩の藩論を佐幕から勤王に転換させるなど、政治の舞台で活躍した高名な儒学者によってされたと、1986年に遺族からの証言によってわかりました。

通天閣では塔頂部から天気予報サインを1979年より開始しました。日立のエレクトロニクス技術が気象協会と通天閣を専用回線で結び、この天気予報を実現しているみたいです。あと、天気予報サインは広告ネオンの付け替え作業の間は休業中となっているそうです。

戦後の復興のあと、低迷期に入ったりしましたが、NHK連続ドラマ「ふたりっ子」で脚光を浴びてからかまた人気を取り戻しているそうです。
今日は通天閣について話しました。


2004年 12月23日 東京タワー
1958(昭和33)年、東京の芝公園に東京タワーが完成し、12月23日に完工式が行われて開業した事を記念として、東京タワー完成の日とされています。

東京タワーは高さ333mでパリのエッフェル塔より13m高く、当時世界一の高さの建造物となりました。使用鋼材(3700t)がエッフェル塔の半分、工期(約18ヵ月)も半年以上短かったそうです。
総工費は28億円と言われ、日本の技術、国産の材料による当時、世界一の自立鉄塔の東京タワ−は戦後の急速な経済成長のシンボルとして注目を集めました。ちなみに名称は一般公募で選ばれました。

東京タワーは当時、開局していたNHKや開局予定のテレビ局の電波塔を一本化するための総合電波塔として建設されました。現在でも放送電波の受発信機能は日本一で、東京地区すべてのテレビ放送用電波(9波)とFM放送用電波(5波)を各放送局から受信し、これを首都圏に送信しています。
最近になって地上デジタル放送用アンテナも取り付けられて、送信されていたりもします。現在の地上アナログ放送も、2011年までは並行して放送されていて、これをサイマル放送と言うそうです。
さらに、大規模地震を想定して東京圏(東京駅を中心とした100km圏内)を運行する列車の防護のために、緊急停止信号を発射するJR東日本の防護無線用アンテナ(災害用非常通報装置)も設置されています。
電波塔以外としても、高さを生かして東京都環境局の風向風速計、温度計、硫黄酸化物測定器などが高度別に取り付けられています。他に、大展望台2階には強震計が取りつけられています。
また、タワーに包まれるように4階建ての東京タワービルが建っていて、展望台(150mの大展望台と250mの特別展望台)への入退場口が設けられていたり、土産物屋・水族館・ろう人形館などのテナントが入っています。

東京タワーは赤と白に塗装されていて、当時の鉄骨が錆びつかない最も進んだ表面処理方法のショプコ−ト方式を採用しました。そして5年に1度の周期で約1年間かけて塗装のし直しを行っています。
また、1989年1月1日午前0時に、タワ−を下方から照らし出すライトアップが始まりました。午後6時頃から天候によって見計らって開始して午前0時頃まで点灯されます。冬季(11月〜3月)はオレンジ色、その他の時期には太陽光に近い光でライトアップされます。

東京タワー、昭和33年に333mと言うのは偶然らしいのですが、さらにその翌年に多大な被害を出した伊勢湾台風に遭いましたが、結果はテレビをつけるまでもなくわかりますね。
世界有数の地震国であり、台風の多い日本ですが、東京タワーは風速90mや関東大震災以上にも耐えれるほどの設計がされています。まさに日本の技術力の結晶ですね。
今日は東京タワーについて話しました。


2004年 12月22日 硬貨
硬貨は、狭義には本位通貨(本位金貨、銀貨)を指す言葉ですが、広義には金属で作られた貨幣をあらわします。まあ、コインとも呼ばれます。

紀元前約2000年頃に銀が通貨となり、様々な商品の価値を銀の重さに換算する事が行われ始められました。そうして世界最古の貨幣は、紀元前7世紀末に現在のトルコ西岸地帯で誕生したと推定されています。
日本で円形が採用されるようになったのは明治以降の事で、明治2年3月大隈重信の「貨幣を円形に改めた方が良い」という建議が採択され、政府の方針として決まったためです。

硬貨は丸い形をしているものが多いのですが、四角・五角・六角・七角・八角十二角をしたものも流通しています。真ん中に穴を開けたものも存在します。世界各国の貨幣も、生産時や使用上の利便性を考え大体円形になっています。円形以外の貨幣を使っている国もありますが、ほとんどが円形に近い正多角形です。
ギザギザはもともと高価な素材でできた金貨や銀貨の外縁が削り取られるのを防止したり、装飾としてつけられたものですが、最近では、偽造防止のほか目の不自由な人に対する配慮としての意味が大きいようです。
孔(穴)もまた偽造防止と目の不自由な人への配慮のほか、原材料節約のメリットを考慮したものとされています。ただ、現在では原材料の価格以上に穴をあけるコストがかかるようになったため節約の意味は失われるようになりました。

時代にあわせて変化をし続けてきた硬貨、使いやすさを求めつつ技術の進歩がある度に進化してきました。最近は偽造防止に技術をつぎ込んでいますね。
今日は硬貨について話しました。


2004年 12月21日 クロスワード
1913年、「ニューヨーク・ワールド」紙が日曜版の娯楽のページにクロスワードパズルを掲載しました。原型は1875年9月の「St.Nicholas」誌に見られるという説もありますが、一般的にはニューヨーク・ワールドのものが最初とされています。
日本では、クロスワードの「ク(9)ロ(6)」から9月6日が「クロスワードパズルの日」と制定されています。

1913年にクロスワードを考案したのは、イギリス・リバプールからの移民でアメリカの新聞の編集をしていたアーサー・ウィンです。その土台は19世紀の子どもの本、さらには古代のワードゲームにまでさかのぼるようです。
当初、ウィンは「Word-cross」という名をつけましたが、これが印刷の手違いでひっくり返って「Crossword」になりました。
1924年には、鉛筆1本をおまけにつけた初のクロスワード本が発売され、爆発的な人気を巻き起こしました。熱狂的なファンが急増して社会現象になり、世界中にクロスワードパズルが広まるきっかけとなった。日本では1925年に「新知識遊戯・嵌め字」として雑誌で紹介されたのが初めてと言われています。

クロスワードは、縦横のカギをヒントに、クロス面の空いたマスを文字で補います。 言葉は対応する数字のマスから指定された方向(縦なら上から下へ、横なら左から右へ)に1マスに1文字ずつ書き込みます。黒マスまたは外枠が言葉の区切れ目となります。
拗音(「キャ」「シュ」「ミョ」など)の促音(「ャ」「ュ」「ョ」「ッ」「ィ」)などは、 大きい文字(「ヤ」「ユ」「ヨ」「ツ」「イ」)と同じと見なせます。「ハ」「バ」「パ」などの清音・濁音・半濁音は、別々の文字と見なします。
意味の無い言葉は入りません。クロス面に書き込む文字はひらがなでもカタカナでも構いませんが、カタカナのほうが外来語などが出てきた時に混乱しなくてすむので、カタカナの方が良さそうです。
クロスワードパズルの基本ルール(文字の方向、表記の方法など)は他のワードパズルでも応用として使われるので、覚えておくと便利です。

逆にクロスワードをつくる時は、一つのクロスワードパズルに同音異語を二つ入れてはいけない。基本的に、名詞のみを使用する。差別語・隠語や人を不愉快な言葉は使わない。1文字だけの白マスは作らない。
黒マスを2つ以上連続して縦横に繋げてはいけない。黒マスで囲まれて孤立した「シマ」を作らない。黒マスの配置は対称にする(線対称、点対称など見た目にも美しくする)。グリッドの四隅には黒マスを配置してはいけない。
といった事を守って作ります。

クロスワードは順番に解いていくより、わかるところからどんどんとマスを埋めていくのがコツです。
今日はクロスワードについて話しました。


2004年 12月20日 お札(さつ)
お札(さつ)は人の手から手へと渡り、何度も折ったり広げたりされます。このお札が、すぐに破れたり、ボロボロになったのでは、役目を果たす事ができません。そこで、お札には強くて丈夫な、特別の紙が使われています。

硬貨は重さもそれなりにあるため、大量に持ち運ぶのが大変でした。そこで硬貨のかわりに紙でできたお金として、お札を使う事を考え出しました。世界で最も古いお札は、西暦997年頃の中国で作られた交子(こうし、またはジャオスと読みます)だと言われています。
日本での最も古いお札は、1600年頃に伊勢山田(現在の三重県)で流通しはじめた山田羽書(やまだはがき)です。これは山田の有力な商人が発行元となった、いわゆる私札(しさつ)でした。現在のお札とは違って、「1匁の銀を受け取りました」という証明書のようなものとして考えられていたようです。また、縦長の短冊みたいな形をしていました。
江戸時代になると幕府発行の貨幣だけでは領内に流通するお金が少なすぎるので、藩札(はんさつ)と呼ばれるお札が使われていました。各地の大名が藩札をつくり、その各藩の中で使われたお札です。各大名ごとにお札の種類があり、1871(明治4)年の調査によると244種類あったそうです。
明治時代になると藩札は廃止され、日本中で同じお札を使えるようになりました。また、お札の形も、縦長から横長に変わり、少しずつ現在のお札のような姿に近づいていきました。
1871年には現在のお札を作っている国立印刷局ができて、技術も大きく進歩しました。藩札の図柄がシンプルだったのに比べ、印刷は細かくなり、偽札を作られないような工夫が加えられました。
古くは、金(または銀)との交換ができる事を保障に、金本位制(または銀本位制)という呼び名で紙幣を発行していました。しかし、1929年の世界恐慌の時に、金の保有量しか紙幣が発行できない金本位制では、政府が必要な際に紙幣を発行できません。そのため公共事業などができずに不況を悪化させる事がわかり、各国で金本位制を廃止し、管理通貨制へ移行しました。
現在は日本銀行券を、日本銀行が日本銀行法に基づいて作成している日本国で通用する紙幣としています。 実際の製作は国立印刷局が担当し、1万円券、5千円券、2千円券、千円券の4種類の紙幣を発行しています。

お札には偽造を防止するための、さまざまな技術が用いられています。
「透かし」、日本を含めほとんどの国の紙幣は紙(植物繊維:主に楮、三椏、綿、マニラ麻など)製で、繊維の厚みを加減して透かしを入れています。一部の国にはプラスチック製紙幣も存在していて透明の窓を作ったり、ハイテクな透かしも存在するそうです。
「ホログラム」、日本のE券にも初めて採用されたが、薄い金属泊にレーザー光線を使って模様を描いた物で、角度によって色が変わって見えます。現在各国の紙幣には普通に見られ、ユーロやポンド、スイスフラン等には複雑な模様が採用されています。
「紫外線インク」、紫外線を当てると発光するインクです。日本のD券の改札から採用されていて、表面の印章の部分などに採用されています。また、デンマークやノルウェーの紙幣では、紫外線ランプを当てると、紙幣のデザインに関連の様々なモチーフがあらわれるそうです。

日本銀行券は通しの番号がつけられており、同じ番号の紙幣は通常存在しませんが、全桁を使い切ってしまった場合には、番号の色が変更されて再度同じ番号が使われています(改札)。ごくまれに同じ色番号の紙幣が出回ったりするなどの印刷ミスもあるそうです。
また、偽造防止のために、原則として約20年に一度、日本銀行券はデザインが変更されます。変更の際には常に最新技術を導入して偽造対策を施し、 デザインの変更がなくてもマイクロ文字などあとから偽造防止策が導入される事もあります。

2004年11月に1万円券、5千円券、千円券が新しいデザインに更新されました。ただ、色や大きさなどで旧札の方が良かったと言う声がたくさんあったりします。偽造防止だけでなく、使いやすさも良くなって欲しいですね。
今日はお札について話しました。


2004年 12月19日 牛乳パック
牛乳パック、だけではないんですが、牛乳を入れてもふやけたり破けたりしません。今ではとてもありふれていますが、いつ頃・どのようにして発明されたのでしょう?

初めて牛乳用紙容器について残っている記録として、1908年アメリカ・シアトル州のWinslow博士の文献中に、サンフランシスコとロサンジェルスで1906年街角で売られていたとあります。しかし、当時の紙容器は実用的なものではなかったため、市場からすぐに消えてしまったそうです。
その後1915年アメリカのJoan Van Wormer氏によって特許が出され、後にAmerican Paper Bottle Companyに譲渡されました。この時代はパラフィン(ろう)にドブ付けして耐水性を与えていました。そして試行錯誤の末に紙容器を成形、充填する充填機が6台製作されました。
1934年American Paper Bottle Company社はアメリカ・ミシガン州のEX-CELL-O社に充填機を製作するように依頼しましたが、結局プロジェクトを断念しEX-CELL-O社に充填機の製造、販売権利を譲渡しました。
1936年EX-CELL-O社最初の充填機がBorden社に設置されました。その当時は現在のような注ぎ口ではなく、頂点を折り返しホッチキスで留めたものでした。現在の注ぎ口が登場したのは1950年になってからの事です。
日本では1961年以降に使われ始め、当初はスウェーデンの会社が作った四面体(三角錐)の容器でした。そして1964年の東京オリンピックでの採用、スーパーマーケットの発展、学校給食への牛乳の普及などと共に急速に広まっていきました。

牛乳パックなどの紙容器は、ガラス瓶と比べると軽く、割れにくいという利点から便利な使い捨て容器として使われています。
牛乳用途におけるラミネート紙の基本的な構成は、ポリエチレン・紙・ポリエチレンの構成で、熱によってポリエチレン同士をくっつけて箱をつくります。
牛乳パックを作る場合、原料は厳格に乳等省令に基づき定められていて、ポリカーボネートは使っていないようです。これとは別に、お酒やオレンジジュースなど用途によってさまざまな原料の構成をとっています。お酒の容器にはアルミが必須、オレンジジュースの容器には香りを吸わない内面成分するのが一般的になっています。

牛乳パックは良質のバージンパルプから作られているため、森林資源の保護の観点から消費者団体などを中心に回収運動が進んでいました。しかし、牛乳パックの再利用先は、現在のところ中小の衛生紙メーカーに限られているため、使い捨てのトイレットペーパーにしか再生されていません。
さらに、再生の段階で本体をコーティングしているポリエチレンが廃棄物として残るという問題があります。また、回収運動が盛んになる一方で、牛乳パックを再生したトイレットペーパーの消費が伸び悩んでいて、自治体などに買い取ってもらうしかないといった状態になっていたりもします。

日本での紙容器の使用の割合は9割近くです。意外にも紙パックが誕生したアメリカでの使用率はわずか14%しかなく、家庭で飲む量がとても多いから、1ガロン(約3.8l)入りの大型プラスティック容器が主流になっています。
容器の素材の特長を生かし、ニーズに応じていろいろ変えているんですね。
今日は牛乳パックについて話しました。


2004年 12月18日 ティッシュペーパー
ティッシュペーパーはいろいろな用途に使われる、薄くて柔らかい紙です。

ティッシュは「織物」の事です。金糸を布のように織ったものを「ゴールドティッシュ」と呼び、それを重ねる時に間に挟み込む薄い紙を「ティッシュペーパー」と言ったのが由来となっています。

1924(大正13)年、アメリカのキンバリー・クラーク社が「クリネックスティシュー」を発売します。最初のティッシュは、アメリカでフェイシャル(化粧落とし)として誕生しました。
1953(昭和28)年にティッシュペーパーが日本に上陸します。そして1963(昭和38)年に山陽スコットが「スコッティ・トイレットティシュー75m」を発売します。
1964(昭和39)年には日本初の箱入りティッシュが、山陽スコットから「スコッティ・ティシュー」を、十條キンバリー株式会社が「クリネックスティシュー」をそれぞれ発売しました。また、 十條キンバリー株式会社は、現在のポケットティッシュの起源となる「クリネックスポケットパック」も発売しました。
1968(昭和43)年、明星産商の森宏社長が、広告宣伝用のマッチ箱から広告宣伝用ポケットティッシュを考案して、広告用ポケットティッシュを作る機械を完成させます。この後、銀行などで「粗品」として使われるようになっていきます。

ティッシュは美術品の包装に使われていたり、ちり紙や拭くものとして使われたりします。重ねかたは特殊で、1枚ひけば次がひけるように出た状態になっています。
ポケットティッシュが出回る以前は、ちり紙をたたんでポケットに入れていました。かつて遠足の持ち物に、ハンカチ・ちり紙と一まとめにされて書かれていました。

ティッシュはお手軽にいろいろなものに対して使う事ができて、手に入りやすくなっています。昔の高級ちり紙と言われていた時代とかなり変わっていますね。
今日はティッシュペーパーについて話しました。


2004年 12月17日 ダンボール
ダンボールは「波型に成型した中芯原紙の片面又は両面にライナーを張ったもの」(JIS-Z-0108:包装用語)です。

ダンボールの起源は1866年、帽子を被る時の汗とり紙として作られたとされています。1909(明治42)年に、日本に段ボールが入ってきたそうです。そして「井上貞次郎」と言う人が綿織り機を応用してボール紙に多くの段をつける事に成功し、初めて段ボール製造を事業化しました。
ダンボールの当初は、段ボード(ボ−ドは板の意味)という名だったのですが、ボード紙が訛ってボール紙になったと言われています。「段」の意味は、波形に張り合わせた段の事です。
昔は、段ボールと書くのが一般で、1945(昭和20)年の後半頃から、日本全国で木箱から段ボールへの切り替えが起こりました。それまでの主流だった木箱に取って代わり、現在のように段ボールが主役になりました。

ダンボールは「波型に成形した中芯原紙の片面又は両面にライナーを貼ったもの」で、両面ダンボールの構造は下記のような内容になります。
________←表ライナー
/\/\/\/\←中心
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄←裏ライナー
また、ダンボールは段の組合わせによって色々な種類が作られており、基本的には片面・両面・複両面ダンボールに分類されています。
両面ダンボールの場合、「表の紙」「中芯」「裏の紙」の3枚の用紙でできています。その3枚の材質をそれぞれ変える事によって、強いものや軽いものができます。また、中芯は、規格で波の高さが決まっています。

ダンボールは昔から高度なリサイクルシステムが整っているため使用後7割が回収されています。また、ダンボールは生分解性を持った天然素材で製造されているため、万一捨てられても土中で分解され土に戻ります。
外部の衝撃から商品を守る優れた緩衝性と内容物の紛失や異物混入を防止する機密性があるため、目的地まで商品を安全に届ける事ができます。ダンボールは軽量ながら頑丈であり、内容品に見合った最適な包装設計が可能な事から包装費用を押さえる事ができます。
受注製品なのですが短納期で大量生産が可能で、高速自動包装ラインによる商品の梱包が可能となり、生産性が向上します。あと、美しい印刷が可能で、商品を効果的にアピールできる動く広告媒体にもなります。
耐久性に優れているので、積み重ねる事ができます。組立て式なら使わない時の収納場所もあまりとらずにすみます。

便利でコスト、環境面でも使いやすいダンボール、普段あまり使う機会のない人の方が多いかもしれませんが、使う時は上手に使うようにしたいですね。
今日はダンボールについて話しました。


2004年 12月16日
1875(明治8)年の今日、東京の王子の抄紙会社の工場で営業運転を開始しました。抄紙会社は実業家・澁澤榮一が大蔵省紙幣寮から民間企業として独立させたもので、(旧)王子製紙の前身となりました。
その事から12月16日を紙の記念日としています。

紙は簡単に言うと「植物の繊維(パルプ)を取り出して水の中で分散させて、それを薄く、平らに漉(す)きあげたもの」です。また、「植物繊維その他の繊維を膠着(こうちゃく)させて製造したもの日本工業規格 JIS)」と定義されています。
紙には、情報を記録し保存する、物を包み保護する、拭き吸い取るといった基本的な機能があります。また、他素材との親和性、加工性に富み、多様化するニーズに合わせて様々な機能を付加した紙の開発がされています。

紀元前2500年頃に、ナイル川畔に生える多年草の「パピルス」の茎を裂いて、シート状に重ねて作ったエジプトの「パピルス」がありました。このパピルスは英語のペーパーの語源にはなっていますが、「漉く」と言う工程がないため「紙」に似てはいるものの「紙」とは違うという事になります。
紙の起源は紀元前2世紀の中国で、この紙は大麻から作られていて、発見された地名をとって「覇橋(はきょう)紙」と言われています。製紙技術は労働に従事していた中国前漢時代の名もない人々により発明されたと言われています。当時は包装紙として使っていたそうです。
日本に紙の作り方を伝えたのは5世紀ごろ、高句麗(現在の北朝鮮)からやって来た、曇徴という僧だと言われています。ですが、実際に国内で紙を生産するようになったのは7世紀(聖徳太子がいた飛鳥時代)の事で、主に法律やお経を書き写す道具として使われました。そして和紙として独自に発展していきます。
12世紀に入って紙がヨーロッパにも伝えられ、当初は紙と同じ植物の繊維である、ぼろ布を原料にして作られていました。しかし、紙の需要が高まるにつれてぼろ布にかわる原料をが研究され、1845年にドイツのケラーという技師が木材を繊維にする機械を作り上げました。
そうして1875年に抄紙会社の工場が営業を開始し、1965年頃には生活が豊かになり紙の使用量や種類が増えていきます。

最近は電子文書の出現などによって使用される事も少しずつ減っていますが、紙は今後も変わる事なく我々の生活の中にあるのでしょうね。
今日は紙について話しました。


2004年 12月15日 超能力
超能力は、一部の人間が持っているとされる科学の範疇を超えた能力です。超心理学の研究対象となっており、一般には疑似科学またはSFの分野として扱われます。

超能力を持つ人を超能力者(エスパー)と呼びます。エスパーの語源は英語のExtra Sensory Perception(超感覚的知覚)を略したESPであり、これは透視やテレパシー、予知の3つを併せて言う言葉だそうです。
知覚能力を意味し、なんらかの物体に働きかける能力の事は本来指しませんが、現在日本ではほぼ超能力と同義語として使われています。一方念力はサイコキネシス(Psychokinesis)と言い、PKと略します。英語で超能力全般を意味する言葉はpsi(ψ)またはpsionicsです。
サイ-(psy-)は、ギリシャ語で心・魂を意味するプシュケー(psyche)から来ていて、霊能(霊能力)と呼ばれるもののほとんども、それぞれ「超能力」に対比する能力の種類があるとされます。

超能力を強引に分けるとすると
「物理的超能力」、超能力者の意志で行なう念写、念力、透視、瞬間移動など物理的要素のある能力です。視覚的にわかりやすい能力で、贋者が多かったりもします。
「精神的超能力」、テレパシーや未来予知など精神的な感応能力で、相手の考えがわかったり、植物同志の意思伝播方法はこの種の能力なのでは?と考えられています。
「物理的超常現象」、ボルターガイストや人魂など自然発生的な物理的要素の高い現象です。球状雷の説が圧倒的に支持されていて、雷は小さな電子レンジの様なものであり、超常現象と呼ばれる事を平然としてしまうと考えられています。
「精神的超常現象」、いわゆる心霊現象、輪廻転生など精神的要素の高い現象です。過去に存在した人物の現世への思念の強さが、その人の波長に合致する他人に影響を与えると言う考えができるみたいです。また、思念は他の有機物や無機物にも憑依できると考えられています。

超能力の認識の仕方も人それぞれで、金メダル選手などは超能力者であるという人もいれば、空を飛んだり手を触れずにものを動かしてこそ超能力者であるという人もいます。
今日は超能力について話しました。


2004年 12月14日 シンクロニシティ
全く別の人たちが、同じ運命をたどる事をシンクロ二シティと言います。双子の場合に、こういう事例が結構報告されていたりします。

シンクロニシティは日本語で言うと共時性と言って、意味のある偶然の一致の事を言います。シンクロニティと言う言葉はユングがはじめて使った言葉で、この定義はユングが唱えたものです。
ユングは、シンクロニシティを3つに分類しています。
「心の内容(思念とか感情)と外で起こる出来事の間の一致」、電話をかけようと思った途端、その相手から電話がかかってくる。など
「夢やヴィジョンが遠くで起こっている出来事と一致する」、遠くに住んでいる友人が怪我をする夢を見て起きたら、その友人が怪我をしたと知らせが来た。など
「人がある事についてイメージ(夢、ヴィジョン、前兆など)をもち、それが将来実際に起こったという場合」、占いで言われたとおりに物事が進む。噂をすれば影。など
ユングはシンクロニシティが実際に有り得る事を証明しようとしていました。

現在、シンクロニシティを証明する方法はまだありません。ただ、将来発見される可能性はあるようです。科学の発展によって発見できるとか、人間の思考も結局は物理現象なので説明できるとかあります。
ただ、シンクロニシティに似たような事を起こす事は可能で、昔からの諺にいくつかあります。「噂をすれば影」「類は友を呼ぶ」「朱に交われば赤くなる」「泣きっ面に蜂」多少強引なとこもありますが、可能そうには見えます。

偶然の一致を単に偶然と見るか、それともどこか見えないところで繋がっている現象で決して偶然では無く意味が有るのだと見るか、によって現象の受け取り方も全く違ったものになります。
シンクロニシティって、何か起こった時に「最高」と思うか、「最低」と思うかで未来が変わるかもしれない。そんな事なのかもしれませんね。
今日はシンクロニシティについて話しました。


2004年 12月13日 双子
1874(明治7)年の今日、「双子の場合は、先に産まれた方を兄・姉とする」という太政官布告が出されました。それまでは、後から産まれた子を兄・姉とする地方もありました。というわけで、12月13日は双子の日となっています。

双子または双生児と言われたりするのは同じ母親から生まれた二人の子どもの事を言います。三つ子などは多胎児と言われていたりします。
双子は大きく分けて、一つの受精卵が何らかによって分裂して産まれる一卵性双生児と、卵子が何らかによって二つ排出され受精して産まれた二卵性双生児があります。

「一卵性双生児」は、一個の受精卵が二個に分離して成長した場合に産まれてくる双子の事です。一卵性は人種、環境、年齢差、などの影響はほとんどなく、受精卵に何らかの刺激が加わって発生するのだと考えられていますが、どのような刺激が、いつ、どこに、どのように加わるのかはまったくわかっていません。排卵の遅れた場合に双子の発生率が高いという報告がされたりされてますが、まだよくわかっていないようです。
「二卵性双生児」は、二個の卵子が二個の精子とそれぞれ受精して受精卵となったものと、一個の受精卵が受精後48時間以内に分離し、成長し生まれてくる双子の事です。二卵性双生児の誕生は様々な要因(人種、年齢、経産回数、遺伝など)が関係していると言われています。
一卵性双生児の場合は、その双子によっても微妙な差があると言われますが、DNAを始めとして生まれ持ったものはほぼ一緒であるそうです。そのため、男女の一卵性双生児が産まれる事はありません。
一卵性双生児はほぼ同じですが、二卵性双生児の場合は時期を置いて産まれた兄弟と同じくらいに似るそうです。

シャムの双生児は、身体の一部が融着したまま産まれてきた一卵性双生児の事です。産まれながらに悲劇を背負って生きている双生児です。
一卵性双生児は、もともと一人であるはずの細胞が受精後10日以内に分裂して双生児になるものですが、13日以降に分裂すると身体の一部ができあがっているため、つながったまま成長してしまいます。こうして産まれる双生児をシャムの双生児と言います。

双子には特別な事が起こるといった現象があったりしますけど、シャムの双生児のような現象は起こらないで欲しいですね。
今日は双子について話しました。


2004年 12月12日 インフルエンザ
インフルエンザは風邪(普通感冒)と間違われますが、ウィルスの種類が違い、高熱がでるだけでなく場合によっては重症化、合併症も引き起こす恐れがあります。そのため、法律で「感染症」に定められています。

インフルエンザの語源は、1358年にイタリア人によって「星、もしくは寒い気候による影響」と言われたのが最初で、病原菌が天から降ってくると考えられていました。
インフルエンザウィルスは元々鴨など鳥類の腸内ウイルスが起源であり、感染したアヒルやニワトリなどから、ほとんどが豚を介して人に感染します。
ウィルスの抗原性の違いから、A型、B型、C型に大きく分類されます。A型ウィルスは、ウィルスの表面にある2つの糖蛋白の抗原性の違いから、多くの亜型に分類されます。
現在、人に広く流行しているのは、Aソ連型ウイルス(H1N1亜型)、A香港型ウイルス(H3N2亜型)、およびB型ウィルスの3種類です。
そして、インフルエンザが冬に流行する理由ですが、寒さと乾燥に強く、暑さと湿気に弱いインフルエンザウィルスにとって、冬は最も活発になれる季節だからなのです。
ただ、突然変異して大流行を起こす新型ウィルスは、高温多湿の環境でも強い感染力を持つ事があります。1918年から1919年にかけて、世界で2千万〜4千万人の死者を出した史上最大のインフルエンザ「スペインかぜ」で、最も被害が大きかったのは、熱帯気候のインドだったと言われています。

典型的なインフルエンザの症状は、インフルエンザウィルスに感染後1〜3日間の潜伏期間を経て、突然38〜40℃の高熱が出て発病します。同時に、悪寒、頭痛、背中や四肢の筋肉痛、関節痛、全身倦怠感などの全身症状が現れます。これに続いて、鼻水、喉の痛みや胸の痛みなどの症状も現れます。発熱は通常3〜7日間続きます。
普通の風邪に比べて全身症状が強いのが特徴です。気管支炎や肺炎などを合併し、重症化する事が多いのもインフルエンザの特徴です。また、インフルエンザは流行が始まると、短期間に小児から高齢者まで膨大な数の人を巻き込み、特に65歳以上の高齢者や慢性疾患患者で死亡率が高くなります。
健康な成人であれば一週間ほどで治癒に向かいますが、インフルエンザウィルスは熱が下がっても体内には残っているため、他人にうつす可能性があります。流行を最小限に抑えるためにも、一週間は安静にしておく事が大切です。

インフルエンザの予防の基本は、流行前に予防接種を受ける事です。これは世界的にも認められている最も有効な予防法です。ただし、受ける事ができない人や副作用があるので意思とよく話し合ってください。
また、インフルエンザは空気中に拡散されたウイルスによって感染するので、感染予防のために人込みは避けましょう。また、常日頃から十分な栄養や休息をとる事も大事です。
インフルエンザ感染の広がりには空気の乾燥が関連しています。室内では加湿器などを使って加湿しましょう。外出時のマスクや帰宅時のうがい、手洗いは、普通の風邪の予防と併せてしておきましょう。

インフルエンザだけではないのですが、早期発見すると効果的な治療ができ、また周囲への感染を防ぐ事ができます。かかったかもしれないと思ったら早めに診てもらいましょう。
今日はインフルエンザについて話しました。


2004年 12月11日 イグノーベル賞
イグノーベル賞、ノーベル賞に比べて認知度はかなり低いのですが、日本はイグノーベル賞大国で、多数の受賞者を輩出していたりしちゃいます。

イグノーベル賞は、ノーベル賞を作った団体とは全く別の団体(米国のハーバード大学系パロディ科学誌「風変わりな研究の年報 Annals of Improbable Research」)が創った賞で、「人々を笑わせ、そして考えさせてくれる研究」に対して与えられる賞です。
ノーベル賞のパロディ的な賞で、1991年に創設されました。イグノーベルの名は、「ノーベル賞」に反語的な意味合いの接頭辞を加えたもじりであり、「卑劣な、あさましい」を意味する「ignoble」と掛けていたりします。
工学賞、物理学賞、医学賞、心理学賞、化学賞、文学賞、経済学賞、学際研究賞、平和賞、生物学賞の10部門で、毎年各部門において風変わりな研究や社会的事件などに対して時には笑いと賞賛、時には皮肉を込めて授与されます。

授賞式は毎年、ハーバード大学のサンダーズ・シアターで行われていて、受賞者は実費で出席しMITで受賞講演をするようになっています。授賞式には本来のノーベル賞の受賞者らも出席します。
ちなみに去年2003年は「ナノ」がテーマであるため、トロフィーは透明なプラスチックの箱に入った長さ1nm(10億分の1m)の金の延べ棒だったそうです。さらに、「ナノ」に合わせて受賞後のスピーチは24秒に制限され、続いて発表の要旨を明解に7語にまとめるよう求められたそうです。

この賞の性質上、名誉と考える受賞者もいれば、不名誉と考える者もいます。その一方で、脚光の当たりにくい分野の地道な研究に人々の注目を集めさせ、科学の面白さを再認識させてくれるという点も指摘されています。
今日はイグノーベル賞について話しました。


2004年 12月10日 ノーベル賞
スウェーデンの科学者アルフレッド・ノーベルが1896(明治29)年に亡くなった日、12月10日にノーベル賞授賞式が行われます。ノーベル賞は彼の遺言により1901年に始まった世界的な賞です。

「物理学」「化学」「生理・医学」「文学」「平和」「経済学」の六部門からなり、一賞あたり二分野、最高三人まで受賞できるようです。物理学、化学、生理・医学、文学、経済学の各賞はスウェーデンの首都ストックホルム、平和賞はノルウェーのオスロで授賞式が行われます。
賞の選考はノーベルが生まれたスウェーデンの研究機関が行い、平和賞だけは、創設当時スウェーデンと連合王国だった関係でノルウェーで選考されます。賞ごとに選考委員会が作られ、世界中の大学や専門家に推薦依頼を送って、その返答を元に受賞者が選ばれます。
経済学賞は1968年に設立され(1969年から授賞)、その原資はスウェーデン中央銀行の基金によります。この賞は実際はノーベル賞ではないそうです。

ノーベルは有名な話の通り、ダイナマイトの製造に成功して、また一方で油田の開発を行うなどして莫大な財産を得ました。ノーベルはその死に際して遺言状を遺しました。「遺産を換金し基金にして、その利子を人類のためにもっとも貢献した人に賞として与えること」と
ノーベル賞は、当初親族や国からも反対を受けましたが、どうにかしてソールマン氏が財団を設立し1901年、つまり20世紀の始まりに、初のノーベル賞受賞者が誕生しました。
賞は候補者の国籍は考慮されず、また、候補者の推薦も国外に幅広く依頼しました。選考は、委員によって厳格に行われ、合計200名ほどの人が1年間賞の運営に携わるようになっていました。
最後に、スウェーデンは大国と距離を置いた国だったため、中立国家として他国から政治的圧力や差別を受けにくいと言う利点がありました。ノーベル賞は受賞の地、スウェーデンにとっても、国家の誇りとなり、安全保障の手段となりました。

ただ、ノーベル賞は科学者の目から見ての判断であって、「その仕事が人類に大きな功績を与えた」とは言えない事があると言う話もあります。核などの兵器として応用されるようなものにもたくさんの賞が贈られていたりします。
兵器に使われる事もなく、本当に人類に大きな功績を与えられる、そんな人ばかりが賞を取れるといいですよね。悲しみから生まれたはずなんですから、悲しみを生むなんて事はしない欲しいです。
今日はノーベル賞について話しました。


2004年 12月 9日 障害者
国際障害者年の1981(昭和56)年の12月9日に開催された総理府(現在の内閣府)主催の中心記念事業「広がる希望の集い」で障害者の日と制定しました。
厚生省(現在の厚生労働省)が実施していて、1975(昭和50)年、国連総会で「障害者の権利宣言」が採択されました。

障害者、何気なく使ってるこの言葉ですが、どこからどこまでの範囲を指すのか、よくわかりません。例えば、身体に何らかの障害があるという事を考えれば、ほとんどの人が障害を持っていると言っても過言ではありません。
程度の差はあれ、誰でも何らかの不具合や病気、怪我などを抱えていたりするものです。ですが、それら全ての人が障害者と呼ばれる訳ではありません。

障害者基本法第2条によると「障害者とは、身体障害、知的障害又は精神障害があるため、長期にわたり日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける者」と定義されています。
また、国際連合は「障害者の権利宣言(1975.12.9 第30回国連総会決議)」において、障害者を「先天的か否かにかかわらず、身体的又は精神的能力の不全のために、通常の個人又は社会生活に必要なことを確保することが、自分自身では完全に又は部分的にできない人」と定義しています。

その症状や状態によって身体障害者、知的障害者、精神障害者に区分されています。
身体障害者は、視覚・聴覚・平衡機能・音声機能・言語機能・咀嚼機能・肢体不自由と、内部機能(心臓・腎臓・呼吸器・膀胱・直腸・小腸・免疫)に障害がある人の事を言います。
知的障害者は、知的機能の障害が発達期(概ね18歳まで)にあらわれ、日常生活に支障があるために、何らかの特別の援助を必要とする人の事を言います。
精神障害者は、統合失調症(旧精神分裂病)、アルコールや薬物依存、その他の精神疾患がある人の事を言います。
その他の障害者として、身体障害者障害程度等級が7級のため身体障害者とならない者又はその身体の障害が障害者法別表に掲げる身体障害に該当しない肝臓病、膠原病等のいわゆる難病、小人症、色覚異常等の疾患若しくは精神障害には至らない精神疾患により、長期にわたり、職業生活に相当の制限を受け、若しくは職業生活を営むことが著しく困難な人の事を言います。
人によって障害の内容も程度も様々で、いくつかの障害が重複している人もいます。また、高齢化が進んでいて、歳をとる事による病気や怪我が元で、障害が生じる人も増えています。

ただし、障害者と言われる人たちが、全員「私は障害者」と思っているわけではありません。例えば、車椅子を使っている人が、「駅や建物にエレベーターがついて、自由に車椅子で移動できれば、わたしたちは障害者ではなくなる」と話していて、障壁がなくなれば障害を感じなくなくなります。
極端ですが、ほとんどの障害者が障害と感じなかったために、「障害と言う言葉が浮かぶ事がない時代」。障害と言えば悪い意味でしかとらえられない、「障害と言う言葉が否定的に浮かび上がる時代」。障害を持っているからこそ役に立つ・立てる、「障害と言う言葉が肯定的に浮かび上がる時代」。
今は否定的・肯定的の両方で浮かび上がってる時代だと私は思います。
今日は障害者について話しました。


2004年 12月 8日 西遊記
西遊記は玄奘(げんじょう)三蔵法師、孫悟空(そんごくう)、猪八戒(ちょはっかい)、沙悟浄(さごじよう)の四人が活躍するお話が有名ですが、別の西遊記もあったりします。

時代順に言うと長春真人西遊記、長編小説の西遊記、東西遊記があります。
長春真人西遊記は、中国・元代の旅行記で二巻です。李志常(りしじよう)撰。1220〜24年、長春真人(丘処機)が、西征途上のチンギス・ハンの招きに応じて西行した際の記録です。13世紀の東西交通の資料として重視されています。
長編小説の西遊記は、中国・明代の口語体で呉承恩が作ったと言われています。1570年頃成立で四大奇書の一つです。唐の三蔵法師がインドへ行き、中国に仏教の経典をもたらした史実を軸に、そのお供の孫悟空・猪八戒・沙悟浄が妖怪どもを退治して玄奘を助ける活躍ぶりを描いてます。それまでの同種の説話・芝居・物語類を集大成し、登場人物に強い個性を与えて作りあげたものです。
東西遊記は、紀行・随筆で正編・続編各五巻あります。橘南谿(春暉)が書いたもので、1795〜98年刊行されました。角書(つのがき)に「諸国奇談」とあるように、作者が1782年から山陽・西海・南海に旅した際に見聞した奇事・奇談を収めています。「東遊記」と併せて「東西遊記」と言います。

先にも書いてますが玄奘三蔵法師は、実在の人で俗名を陳緯(ちんい)、13才の時に得度して僧名が「玄奘」となります。7世紀、当時唐には数が多くなかった経典を求めるため、危険を承知で唐の国禁を犯し出国し、中央アジアの砂漠地帯や天山険路を抜けインドへ辿り付きます。
ただし、インドではヒンドゥー教によって仏教は衰退していました。そこで三蔵法師は仏教の学校とでもいうべきナーランダ寺へ向かい、勉強のためと経典を持ち帰る準備のために何年かかけて、インドを遊行したそうです。
玄奘の前にもインドなどに出向いて経典を持ち帰った人物はいるそうですが、膨大な量を持ち帰り、唐皇帝の助けを借りて翻訳作業を行った者は玄奘だけなようです。

ちなみに三蔵は、仏教の開祖ブッダの説法やそれにまつわる物語(経)、僧が守る戒律(律)、ブッダの教えについての解釈や注釈(論)の三つを指し、ブッダの入滅後に編纂されたそうです。
つまり、三蔵法師とは三蔵を熟知した僧の尊称です。また、「西遊記」では太宗が玄奘に与えた号になっています。

私たちのほとんどは西遊記を知っていますけど、原作では後半部になると「前半と同じような話の繰返し」で「二番煎じ」になってしまっていて、省略されたりしていてあまり記憶に残ってる人は少ないようです。
今日は西遊記について話しました。


2004年 12月 7日 京劇
京劇は中国の古典歌舞劇で元は地方劇の一つでしたが、宮廷や国家の保護で国を代表する舞台芸術となりました。今では日本の歌舞伎に相当するような、中国伝統の演劇となっています。

京劇を中国語ではチン チュウ、日本語ではキョウゲキ(明治の頃はケイゲキとも)、英語ではBeijing classical Chinese opera(ペキン・オペラ、マンダリン・オペラ、チャイニーズ・クラシック・オペラなど)と読みます。
「京劇」という名称が定着したのは1949年の新中国建国以降で、それ以前は二黄(二簧・にこう)、皮黄(皮簧・ひこう)、京戯(けいぎ)、平劇(へいげき・北京が北平と改称されていた時代の呼称)、国劇(こくげき)など様々な呼称で呼ばれていました。

京劇とは北京の歌劇というような意味ですが、元来北京で生まれ育った戯曲ではないそうです。その歴史は意外と浅く、1790年清代の乾隆帝の80歳の誕生を寿ぐためからだと言われています。
当時、四大徽班の一つ「三慶班」を筆頭として、他の徽班も相次いで北京に進出して成功しました。その後、彼らは崑劇(こんげき)など地方劇の特長を吸収して京劇が形成されていきます。
京劇は異民族支配下の清朝に生まれましたが、舞台衣装は明朝以前の漢民族の服飾文化を基礎とし、演目も漢民族の伝統的価値観を鼓吹する歴史ものが多く、清末から民国期にかけての民族意識覚醒の時流に乗り、社会の幅広い階層に支持されて全国に広まります。
また、北京の京劇が正統派の伝統を重んずるのに対して、上海京劇(海派京劇)は娯楽性と革新性を追求するなど、地域による個性も出てきます。多くの名優も輩出し、国際的名声を得た女形(おんながた)の梅蘭芳(メイランファン)は中国語の原音で名前を日本人に記憶された最初の中国人と言われるほどです。
新中国建国後、中国共産党は文芸政策の要として京劇改革に力を入れました。文化大革命後、改革開放路線のもと様々な大衆文化が勃興すると、京劇は娯楽の最高位からは退きますが、今日でも中華民族文化の象徴として中高年層のあいだで根強い人気を保っています。また、海外の演劇との合作公演など国際文化交流の一翼を担っています。

本来の伝統京劇は、日本の能楽と同じく緞帳(どんちょう)や幕は使いませんでした。舞台装置も机と椅子くらいで、伴奏楽隊も旋律楽器・打楽器あわせて数名と小規模だったそうです。
民国期以降、京劇が西洋式の大型劇場でも上演されるようになると、緞帳や幕、大規模な舞台装置も使われるようになりました。
京劇の数千に及ぶ伝統演目の大半は作者不明なようです。伝統演目は歌中心の文戯「猟老」と立ち回り中心の武戯「冷老」に分けられます。概して前者のほうが品格が高いとされるそうです。新中国建国後は、旧来の伝統演目に社会主義の視点から多大の改編が加えられた他、多数の新編歴史京劇(新作の歴史もの)や現代京劇(近現代もの)が作られました。

京劇俳優は「唱(歌)・念(台詞)・做(仕草)・打(立ち回り)」の四技能を修得している事が要求されます。俳優が演ずる役柄は、男性役「生(せい)」、女性役「旦(たん)」、顔に隈取りを描く男性役「浄(じょう)」、道化役「丑(ちゅう)」の四つに大別され、それぞれ更に細分化されています。
昔の京劇は男優のみで演じられ、「旦」も男優(女形)が演じましたが、民国期から女優の舞台進出が始まり、新中国では一部の例外を除き旦は女優に一本化されました。
京劇の台詞には、韻を踏む中国独特の「韻白」と、北京語の「京白」があり、韻白と京白が混ざったのを「韻京白」と言います。一般に、「韻白」は身分・地位が高いものが使い、「京白」は庶民などが使うそうです。
京劇の舞台衣装は中国の封建社会をベースとするデザインは人物の性格を象徴する重要な要素で、登場人物の地位や身分を表しています。生地は緞子などを使い、金、銀の糸で龍や鳳凰、動物、魚、虫、花、雲、水、吉祥紋様などの刺繍が施されています。
京劇の音楽は、二黄や西皮など既存の伝統的旋律を使い回しにします。演目によっては他の地方劇の音楽を借用したり、新曲を自製する事もするそうです。

京劇では顔にドーランを塗り、きらびやかな衣装に身を包んだ役者たちが、舞台の上で高らかに歌い、そして舞います。
今日は京劇について話しました。


2004年 12月 6日 雑技団
雑技は数千年の歴史を持つといわれる中国特有の芸能で、雑技団と言えばほぼ中国雑技団の事を指します。

雑技団は簡単に言ってしまうと「中国式サーカス」なんですが、倒立、皿回し、自転車芸など超人的なまでに披露します。中国国内にはいくつかの雑技団があり、才能を見込まれた人が幼少の頃から厳格なトレーニングを施されます。
そうして長年の練習によって、肉体の限界やバランス感覚の極限のところでの、決して一般人では真似のできない芸当の数々を披露する人達です。

中国の雑技には三千年以上の歴史があると言われています。元々は物を遠くに投げたり、縄を渡ったりなど日々の生活や労働から生まれたもので、熟練した技は人々の驚嘆を誘い、やがて人前で演じられるようになったと考えられています。
文献から、春秋戦国時代にプロらしき人々が生まれていたようです。諸王はこの時代広く人材を集め、富国強兵を競いましたが、投擲や綱渡りに秀でた者たちにも機会が与えられました。そして主君のために、その腕を鍛え、時には戦場でその技を生かしつつ、雑技の基礎を築きました。
秦、漢の時代はかなり発達し、「角抵」という現代の相撲の様なものや、「百戯」という百種類の技など形式が形になり、高い芸術水準に達していました。また、漢の時代には「頂竿」という竿を頭に乗せる技が生まれ、今でも雑技団の主要演目の一つとなっています。
北朝時代には奔走する馬の背や腹を自在に移る技が普及しましたが、それは遊牧民が伝えたものと言われています。唐代に入ると西域や天竺の技がシルクロードを経て伝えられいっそう国際色豊かになり、雑技はほぼ完成の域に達しました。
明清時代になると雑技は宮廷の保護を離れ、市中の見世物として発展しました。芸人たちの一部は重い税を逃れて流浪の旅に出ました。
現在でも雑技の発達は続いていて、現代的な新しい演目を始めとして、音楽、服装、道具、照明の面でも改善され、総合舞台芸術として再編されました。

現在は中国だけでなく世界各国で公演している雑技団、各国の人々から熱烈歓迎と高い評価を受けているそうです。見てみたいですね。
今日は雑技団について話しました。


2004年 12月 5日 サーカス
サーカスは主にテント内などの移動可能な舞台の上で、動物を使ったり、さまざまな曲芸・軽業を行なったりする興行団です。

サーカスは「サーカスの芸(術)」と「その他の芸術(演劇、音楽、ダンス、具象芸術)」、そしてその他様々なノウハウを使って舞台を構成する芸術であると考えられてます。
小説や童話などにサーカスは多く登場していて、特に宛てもなく彷徨うイメージが多いのですが、ほとんどのサーカス団は本拠地を持っており、興行のない期間は本拠地で休んだり新しい技を開発したりしています。

サーカスの語源はローマ時代の円形競技場「circus(キルクス)」にあります。その元はcirculus(円、仲間)で、それが英語のcircleやcircuitになりました。ここでローマ市民の慰め物として演じられたのが、グラディエイターの闘いであり、戦車レースでした。
中世に入ると競技場の熱狂は忘れ去られ、旅芸人が遍歴しながら動物芸や軽業を見せて回る時代になります。1769年、これをサーカスとして復活させたのが、イギリスのフィリップ・アストレーでした。彼は元騎馬隊将校で乗馬の名手でロンドン郊外に見世物小屋を建て、馬の曲乗りを演じます。それが大評判になり、翌年からは会場の周囲に席を設けて見物料を取るようになりました。
それから約10年後の1780年までには、怪力男・フォーチュンリーとバートと言う道化師二人・曲芸師数人などが在籍するようになります。最初の曲馬ショーのみの見せ物から、中央の円形舞台で馬が疾駆し、道化師が次の出し物までの間を繋ぐという近代サーカスの原型が誕生しました。
サーカスは新大陸アメリカで黄金期を迎えますが、その立て役者はP.T.バーナムと言われていて、彼はテントで各地を回りながら、シャム双生児や小人を使ったショーで客を集めました。
サーカスに大型獣が登場するのは1816年、パリで興業をしていたフランコニー・サーカスでの事です。ババとキウニと言う二頭のゾウがデビューし、鼻でリンゴを受け止めたり、ビンのコルクを抜いて中身を飲んだりする芸当を披露して人気を博していました。
本家のアストレー・サーカスも負けてはならじと、1838年にアメリカ人調教師モロックを招いて、ライオンやヒョウなどのショーを開催しました。 ですが、近年は世界的に見て動物を使ったサーカス団が減っていて、動物に対して芸を覚えさせる訓練を虐待と考える人が多くなってきたからみたいです。

1970年半ば、サーカスに「敬意」を表する演劇関係の異端児たちが、アクロバット、演劇、音楽を混ぜ合わせた舞台を巡回公演し始めます。彼らの目的は、全ての人と向き合う事(大道芸、大道演劇の意味もここにある)、つまり演劇が失った大衆性を取り戻す事、ジャンルを問わずに色々なものを取り込み、また物語性を大切にする事、そして身体を用いたあらゆる芸(術)を取り入れる事、でした。
スタイルとしては不条理、挑発、ユーモア、メルヘンなどがそれぞれ違った分量で混ぜ合わされており、その多様性あふれる表現は、それまでの古典的なサーカスのスタイル(至る所に使われた赤色、スパンコール、マーチを連想させる音楽)の対極にあるものでした。
さらにほとんどが動物の調教芸をしない、そして円形の舞台に批判的な者も多い、などありますが、多様化がうたわれ、明瞭さよりも微妙さに関心が集まる今日の文化状況では、ヌーヴォー・シルクと呼ばれるシルク(サーカス)が確立されたとも言えそうです。

サーカスは本来、大衆的なものではないようで、中には「難解」な作品もあります。ですが、大部分のサーカスは大衆性、親しみ、人間性を獲得していると言えます。新旧含めて良いサーカスは「小さな店の主人から大学教授までが同じ列に座っている」ようなサーカスであると言われています。
今日はサーカスについて話しました。


2004年 12月 4日 パントマイム
パントマイムと言えばカベやロボット(マネキン)などを連想する方が多いですが、パントマイムは実物は使わずに観客にあると感じさせて再現する芸です。

辞書からだとパントマイムは、「無言劇」や「言葉を使わず身振りだけで表現する劇」といった定義になっています。オーソドックスなパントマイムは、(原則として)言葉を使わず、また、小道具や大道具も(原則として)使わない劇の一種です。
これは普通の演劇に比べると、ずいぶんきつい制約のようですが、どんな場所でも演じる事ができ、言葉の通じない人に対してもわかってもらえるという良さがあります。それに、「絶対に言葉やものを使ってはならない」という義務があるわけではありません。
必要なら言葉を使っても構いませんし、小道具などは実際よく使います。ただ、一般の芝居とは違って、「長台詞で観客を魅了」とか「豪華なセットで観客を眩惑」などは、パントマイムでは狙わないという事です。

パントマイムのパント(panto)は「すべて」という意味があり、マイムは古代ギリシャ語ミーモス(Mimos)の模倣する、真似するという意味の言葉からきています。パントマイムは、通訳なんていなかった古い古い時代、言葉の通じないもの同士が、身振り手振りで情報を交換するために生まれてきたと言われています。
紀元前後のローマ帝国では、皇帝が政治をほったらかしにしてパントマイムに夢中になったという記録が残っています。当時は身振りを中心にした演劇やダンスのようなもの(パントマイムは演劇・ダンスの起源)だったそうです。

目に見えない壁や綱を引く表現など、いわゆるパントマイム独特のテクニックは、身体を使った説明のようなもので組み合わせる事によって言葉となります。マイミストは自分の様子をしゃべる言葉ではなく、身体の動きだけで見せようとします。
言葉で説明しなくても、空間にある身体を見て、壁があるとか綱があると感じるのは、観客がそれまでの記憶や想像力を働かせて見ているからなのです。見方や感じ方は人によって違い、解釈は観客の数だけあります。

パントマイムに必要なのは、「想像力」と表現する「体」です。また、パントマイムを見る時は、よく見て、そして「想像」してみましょう。
今日はパントマイムについて話しました。


2004年 12月 3日 バレエ
バレエは子ども時代からでなく、大人になってから始める人も増えていて、バレエは姿勢も良くなるし、柔軟性や筋力もつくし、最高の美容体操だと言われたりしています。

バレエ(Ballet)は、舞台芸術の一つで一般に伴奏音楽を伴いますが、台詞や歌唱はなしの舞踊を主たる表現とする西ヨーロッパ発祥の舞踏形式です。また、バレエ作品を構成する個々の舞踏もバレエと言われます。
ほとんどの作品には事前に振付家によって音楽にバレエ独特の所作を指定され、振付の仕方を振付術(コレオグラフィー)と言うそうです。バレエは元来オペラの一部として発達したため、物語性をもちしばしば複数の幕をもつ演劇的舞踏作品が多いそうです。
バレエ(Ballet)の語源は、イタリア語の「BALLO(バロ、踊り)」と呼ばれ、のちに語尾が加わって「Balletto(バレット)」となり、複数形の「Balletti(バレッティ)」と呼ばれるようになりました。やがてこのバレッティがフランスへ渡って「Ballet(バレエ)」と呼ばれるようになります。

バレエはルネッサンス期のイタリアで行われたスペクタクル的祝祭の踊りが起源であると言われています。当時のバレエは王侯貴族の宮廷舞踊と変わらないもので、動きも技術も今とは勿論全然違うものだったと言われています。
イタリアのバレエはメディチ家の娘のカタリーナがフランス王のもとに輿入れするに当たってバレエ好きのカタリーナと共にフランス宮廷で人気となります。続いてルイ14世が自らで踊るようなほどのバレエ好きだったために更に発展し、バレエの5つのポジションが確立され、基本が成立しました。 1669年にパリでオペラ座が建設され、1713年オペラ座バレエ学校が設立されるに到り、いよいよプロのダンサーが養成されます。
男性中心であったバレエの世界で、女性の踊り手・バレリーナが活躍するようになったのは、ロマン主義運動が起こった19世紀以降からです。この頃になると、芸術の世界では女性が理想化されるようになり、バレエにおいても男女がパートナーを組んで踊り、男性が女性のパートナーをリフトすることが行われるようになりました。
その後、バレリーナはバレエの花形となり、男性はバレリーナを支える補助的な役目を務める存在にすぎなくなりました。
こうしてバレエは新たな完成の極みに達する事となり、その舞台となったのが19世紀のロシアです。ロシアは海外から優秀な舞踊家を招き入れて、優れたバレエ団が誕生していきました。

一口にバレエと言っても色々な呼び名があり、細かく言うのは難しいみたいですが大まかには分けられています。
「ロマンティック・バレエ」は、ロマン主義運動がバレエ作品に現れたようなもので、内容としては妖精と人間の恋愛のような神秘主義的なものと、異国情緒あふれる冒険ものが多かったようです。長く膨らんだチュチュ(ロマンティック・チュチュ)が特徴的で、ポアントの技術が発展し、妖精のようにひらひらと踊るバレリーナたちがもてはやされました。しかしロマンティック・バレエは、1870年初演のコッペリアが最後で終焉を迎えます。
「クラシック・バレエ」は、19世紀も後半に入ってバレエはロシアで飛躍的に発展しました。技術はどんどん複雑になり、脚捌きがよく見えるようにクラシック・チュチュが誕生します。また、踊りとマイムが分離されて演じられるようになったのもこの頃です。クラシック・バレエというと、広い意味ではダンス・クラシックの技法を用いた踊り全般を指しますが、バレエ史を語る場合はほとんどプティパ・イワノフの作品をいう事になるそうです。
「モダン・バレエ」、ロシアで構築されたクラシック・バレエを壊すかのように、ディアギレフのバレエ・リュスが誕生しました。この20世紀初頭に世界最強のバレエ団となった集団の演目は、古代エジプトやギリシアなどに題材を取り、かつてクラシックバレエが思いつきもしなかった斬新でエキゾチックなテーマでパリにセンセーションを巻き起こします。それまでは綺麗な衣裳を纏ってお決まりの物語をなぞるだけだったバレエ界に一石を投じたのでした。ダンス・クラシックにとらわれない、その先のコンテンポラリー・ダンスにも通じるモダン・バレエへの道を開いたと言われたりします。
現在、言わゆるモダン・バレエは、ベジャールやプティ、フォーサイス、キリアンなど現在進行形のコリオグラファーの作品を指します。美しいが技術的に制限があるクラシック・バレエと違い、人間の体を使った最大限の表現と技術を駆使して行く事が根底の理念となっています。
「モダン・ダンス」、モダン・ダンスの祖と言われるイサドラ・ダンカンは、バレエの稽古は拷問のようだと言い、ポアントはリンチのようだと言ました。それまでいかに軽やかに舞うかを競っていたようなバレエを捨て、もっと自然で人間的なダンスを求めました。体を締め付けるチュチュを脱いでギリシャ風のチュニックのような薄衣をまとい、トゥ・シューズを脱ぎ捨て、裸足で大地を踏みしめて踊りました。
「コンテンポラリー・ダンス」、コンテンポラリー(同時代)は、モダン・ダンスから発展したものでバレエとは全く関係がありませんが、コンテンポラリー・ダンスのレッスンを授業に入れているバレエ学校もあります。ドラマ性を否定して、更に強烈なエネルギーの発露を求める傾向はコンテンポラリー・ダンスに顕著に見られ、音楽も多種多様になり、ハイテク技術の導入も関連して更に革新、複雑化してきているのが現在です。

バレエの上演に関係する芸術家には、バレエ音楽の作り手である作曲家、マイムを含めた舞踊を指定する振付家、指揮者を含むバレエ音楽の演奏家、そして舞踏によってバレエを実現し完成する舞踊家などがあります。また、優れた上演には照明や舞台装置などの効果的使用が欠かせません。
このため、バレエの上演には一般に費用を要し、多くの国で国立のバレエ団が組織されます。民間のバレエ団も著名なものは多額の寄付を集めて運営する事が多く、国立のバレエ学校を持つ国も多いそうです。

バレエは、アクロバティックな技巧を競うためのものではなく、思考や感情といった観念的なものを音楽が持つそれとシンクロさせながら、身体で表現する芸術であるとも言われています。
今日はバレエについて話しました。


2004年 12月 2日 ミュージカル
ミュージカル(Musical)は、芝居・歌・ダンスを組み合わせた演劇で、ミュージカル・コメディの略です。近年、日本でもミュージカルのジャンルが確立してきているそうです。

ミュージカルには、全編を通じて一貫したストーリーが進行するブックミュージカルと、ストーリーが無いブックレスミュージカル(またはコンセプトミュージカル)があります。
ミュージカルでは歌も台詞の一部で、歌やダンスが行われている間も歌い手・踊り手を含んだ登場人物によって会話やストーリーが進行していて違います。歌とダンスが行なわれている間ストーリーの進行が停止してしまう作品はミュージカルとは言えないそうです。
芝居、歌、ダンスがそれぞれ独立したものではなく、一体となって劇的効果を高めている事がミュージカルの理想的な形だと言われています。

ミュージカルは通常、30分ほどの休息を挟んだ2幕構成で、上演時間は大体3時間ほどになります。まれに1幕構成の作品があるそうです。
音楽はオーケストラやバンドによる生演奏が基本ですが、日本では興業的な問題でしばしばテープによる演奏が行われる。通常は舞台下または舞台手前に設けられたオーケストラピットで演奏されますが、演出によっては舞台上に設定されたり、俳優に混じってと演技の一部として演奏する事があります。
舞台で上演するほかに、ミュージカル映画としても数多くの作品があります。代表的なものに「サウンドオブミュージック」「南太平洋」「踊る大紐育」があります。
これらのミュージカル映画は舞台作品を映画化したものと、映画のためにオリジナルの作品を新たに作るものと二種類がありますが、近年では逆に有名な映画作品を舞台ミュージカル化する事も見られるようになりました。

ミュージカルの原型は、パリで演じられていたオペラコミックであると言われています。それがオペレッタで近代化し、アメリカに持ち込んでニューオリンズで行われていたショーとなり誕生したと言われます。
最初はストーリー性が低くてショー的要素の強いレビューが中心だったり、男女の恋愛を描きハッピーエンドに終わる単純なストーリーの作品が多かったそうです。その後、徐々に人種問題やエイズなど社会性の高い問題を取り入れて複雑なストーリーを描く現代的ミュージカルに発展してきました。
もともとミュージカルはアメリカで作られたものなのでブロードウェイがミュージカルの中心地でしたが、1980年代になると完成した「CATS」「オペラ座の怪人」「レ・ミゼラブル」といった、イギリス生まれのミュージカル作品が世界を席巻し、賞もイギリス作品ばかりが受賞する事態に陥り、一時はブロードウェイ初のアメリカ産ミュージカルの存在感が薄くなりました。
現在は、ニューヨークのブロードウェイとロンドンのウエストエンドがミュージカルの本場となっています。オペラの本場ウィーンでもミュージカルが作られています。

ミュージカルの特徴は踊りです。他の演劇と違って踊りの比重が大きくなるのは、米国におけるアフリカ系アメリカ人の存在だと言われています。
今日はミュージカルについて話しました。


2004年 12月 1日 映画
1896(明治29)年11月25日、神戸で日本で初めての映画の一般公開が開始されました。この会期中のきりの良い日を映画の日と、映画産業団体連合会が1956(昭和31)年に制定しました。

映画は、フィルムで撮影した動画作品の事。日本ではかつて活動写真と呼ばれた。英語ではMovie(ムービー)、Film(フィルム)と言います。芸術・娯楽作品としての劇映画と、イベントや生活風景など実際の出来事を記録するドキュメンタリー系映画(記録映画、教育映画)に大別されます。
映画は従来、専用施設(映画館など)の中でスクリーンに投射し、不特定多数の人々に有料公開するものでした。しかし最近では、劇場公開しない(スクリーン投射しない)動画作品であっても、フィルムで撮影されたものであれば、映画と呼ぶ事が多くなっています。
また、作品の元素材の撮影がフィルム以外の媒体(写真、ビデオ)であったり、撮影の過程自体を含んでいない(フルCGなど)場合であっても、完成形態がフィルムであり映画館などでの上映が可能な作品であれば映画と見なされる事も多くなってきています。

かつて現在放映されている映画を発明するには、まず現実の像を他の場所に投影する事、そしてその像を銀板・ガラス・紙などに定着し長時間安定させる事、そしてその像を連続的に動かす発明が必要でした。
古くから人類は石に刻んだり、木片に書いたり、紙を発明して絵や文字を残してきました。また、カメラオブスキュラ(ラテン語で暗い部屋)と言われる部屋や洞くつに外の景色などが小さな隙間(ピンホール)を通して結像する事が知られていました。
イギリスでおこった産業革命以後、機械文明への進展が加速度的に進み、1839年フランスのダゲールにより写真が発明され、投影像を乾板に定着・安定させる事ができるようになります。
映画につながる技術は19世紀後半からフランスのマレー、アメリカのマイブリッジ、ドイツのアンシュッツなど、多くの人々によって写真技術を、現実の運動の記録と再現に応用しようと研究されてきました。
これらの人々の積み重ねを経て、1893年にアメリカのエジソンが自動映像販売機(映写機)キネトスコープを一般公開しました。さらに1895年、フランスのリュミエール兄弟がシネマトグラフ・リュミエールという、現在のカメラや映写機と基本的な機構がほぼ同じ複合機(カメラ+映写機+プリンター)を開発しました。
エジソンが開発したのは箱を覗き込むと、その中に動画をみることができるというものでした。対してリュミエール兄弟が開発したのは、その仕組みを箱から、スクリーンへと投射するものへと改良し、一度により多くの人が動画を観賞する事ができるようにしたものでした。
現在の映画の形態を考慮すると、リュミエール兄弟の最初の映画の公開をもって映画の起源とする方が有力な説となります。

初期の映画は、画像のみで音声のないサイレント映画と呼ばれるもので、日本では別名「活動写真」とも呼ばれて映画館は「活動小屋」とも呼ばれました。日本独自の上映手法として、上映中の場面に合わせて解説を行う「活動弁士」と呼ばれる人が活躍していたと言われています。ただ、当時は上映時間数分のショートフィルムでした。
1910年代になるとメジャーになりつつあった映画制作会社からの制約や支配を嫌い、またニッケルオデオンで消費されるだけのショートフィルムに飽きたらずに新しい表現を求めた若い映画人達が西海岸に移住し、映画都市・ハリウッドが形成され始めます。
1927年、アメリカで世界初のトーキー映画「ジャズ・シンガー」が公開され、世界的に受け入れられて急速に普及しました。もっとも日本特有の映画職業であった活動弁士らや、アメリカのチャールズ・チャップリンなど、サイレント映画に固執した人々もいました。
1929年にアメリカでアカデミー賞、1932年にイタリアでヴェネチア国際映画祭、1946年にフランスでカンヌ映画祭、1951年にドイツでベルリン国際映画祭が始まります。

1935年には世界初のカラー映画「虚栄の市」が公開されたり、テレビの普及による観客動員数の減少に頭を悩ませたアメリカ映画界は、テレビでは実現できないこ事を目指して画面サイズの拡大や大作主義に手を伸ばし始めるなどされていきます。
しかし、戦時中では政治権力は映画の持つ影響力に目を付け、プロパガンダの手段として使うようにもなりました。そのため、時の権力者からの迫害などによって映画作家の亡命などもありました。

映画は写真技術、連続撮影技術などの積み重ねで多くの無名な人たちの努力の結晶であるとともに、以前からあった絵や音楽の多くが一部の富裕な人々の娯楽であったのに対し 、映画は庶民のものともした事で大衆文化としての発展を遂げました。
今日は映画について話しました。


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