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バーチャル女装大学生

利津21歳くらい ・・・だと思います


申・利津メモ・申
申.今回(3月31日)の更新をもって、毎日(正確には違いますが)更新を停止させていただきます。
  今後は今までに書いてきたレポートの加筆・修正、リンク整理などを主に行います。

申.ちなみにこちらは何時消えるかわかりませんので注意は必要です。お気に入りやリンクを張るならこちらへお願いします。
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申.利津メモと文中リンク、メニューからのリンクは基本的に新しいウィンドウが開くようにしてあります


申.利津レポ.申

鮫(サメ) シャチ(鯱)  ミシン 珊瑚(サンゴ) イルカ(海豚) クジラ(鯨) エスカレーター エレベーター サボテン パンダ 疲労 サンドイッチ ハンバーガー  国立公園 マンガ(漫画) 睡眠障害 カメラ レコード ランドセル CD(コンパクトディスク) 検診 結核 電気 失語症 自閉症 シルクロード 脳障害 コエンザイムQ10 教育


2005年 3月31日 教育
1947(昭和22)年の今日、公布して翌日から施行され、学校教育の6・3・3・4制が発足しました。その事から、3月31日は教育基本法・学校教育法公布の日となっています。

教育は、他人に対して意図的な働きかけを行う事によって、その人間を望ましい方向へ変化させる事と辞典にはあります。広義には、人間形成に作用するすべての精神的影響を言います。
教育は、一般に学校教育(学校で行われる教育、日本は6歳から15歳まで義務教育があります)・社会教育(社会(学校の外)で行われる教育)・家庭教育(親から子に言葉や生活習慣などを教育)に分ける事ができます。

ちなみに、教育にあたる英語は「エデュケーション(education)」ですが、この言葉の元となったラテン語のエデュカーレには「引き出す」という意味があります。知識を詰め込むだけではなく、「子どもが持っている素晴らしい可能性」をできるだけ引き出し開花させる事、これこそ教育の持つ本来の意味だと言う考えがあります。
教育は人と人とのぶつかり合いで、「教育するとは、どうしようもない自分と、自分とは違う他者を許す事」であると言う考えもあります。
「教育は世界の平和を希求し、人類の福祉に貢献し、人間としての尊厳を保障する恒久的な人類社会を構築し、維持し、発展させていくための、人作りである」という考えもあります。
これらのように教育は素晴らしい言葉として使われています。
ただし、教育も一歩間違えれば洗脳になってしまいます。教育者が教えたい事だけを教える・偏った情報のみ受け取るなどといった教育と言う名の洗脳はなかったとは言えません。

人間はいくつになっても教えられる事はたくさんあり、また教える事もたくさんあります。文字や言葉だけでなく、態度や行動でも教える教えられる事はあります。誰かが教えられている姿が、別の誰かに教える姿でもあったりします。
今日は教育について話しました。


2005年 3月30日 コエンザイムQ10
最近注目を浴びているコエンザイムQ10(CoQ10)ですが、身体に良いというらしい事まではわかっていますが詳しく知らない方の方が多いかもしれません。

コエンザイムは、コ(Co、補う)とエンザイム(enzyme、 酵素)で、酵素の働きを助ける補酵素の事です。コエンザイムQ10は、別名をユビデカレノンまたはユビキノン(語源はラテン語のUbuiquitous、普遍的に存在する)と言います。
また、コエンザイムQ10は「ビタミン様作用因子」とも呼ばれています。ビタミンの定義である、微量の栄養素で生体内で生合成されないわけではありませんが、ビタミンと同じような働きをしているからです。そのため、別名「ビタミンQ」とも呼ばれています。
コエンザイムQ10は、黄色からオレンジ色の結晶状の物質で、匂いや味はなく脂溶性です。人間の体内の全ての細胞に存在しますが、その濃度は組織により異なります。特に多いのが代謝活性の高い組織(心臓・腎臓・肝臓など)で、欠乏するとそれぞれに影響が出やすいと言われています。
体のエネルギーは、各細胞内で酸素が食物から摂取した栄養素を燃焼させる事で作り出されます。コエンザイムQ10は、この栄養素を燃焼させる仕組みを、効率良く回転させるために必要な補酵素です。

コエンザイムQ10は1957年にアメリカで発見されました。その後、世界で初めての製造法を確立した(大量生産する技術)のは、発見したアメリカではなく1967年に日清製粉株式会社(日清ファルマ)でした。
しかし、その後のアメリカのように一般的に普及したわけではなく、日本では医療用医薬品(心臓病の治療薬)としての利用に止まっていました。
それでも徐々にアメリカを始めとした国々の間で、サプリメントとしての存在価値が高まっていきます。また、医薬品としても主な副作用がみられなかった点が認められ、2001年には日本でのサプリメントとしての認可が下り、多くのメーカーが一気に商品化した事で一気に知れ渡りました。

コエンザイムQ10は身体にとって必要なものなんですが、不足してしまう事があります。基本的に体内での合成と、体外からの補給という2つの方法で供給されていますが、体内で合成されるものは40歳頃から減少していってしまうそうです。
また、補給する場合でも食材自体に多く含まれていないため、食事だけではまかないきれません。また、身体の中でコエンザイムQ10の原料として数種類のビタミンと微量元素が必要で、バランスよく食べる事も大事になります。
さらに、病気にかかってしまうと、血中のコエンザイムQ10の量が減ってしまう事も確認されています。

コエンザイムQ10には老化や低血圧、生活習慣病などの症状を改善させる働きや、 抗酸化作用なども認められています。肌の新陳代謝を活発にし、できてしまったメラニン色素を正常に排出してくれます。
また最近では、コエンザイムQ10の活性化作用が脂肪をエネルギーに変え排出する事からダイエットにも効果がある事や、花粉症・アトピーなどのアレルギー症状の改善もみられるそうです。

コエンザイムQ10は深刻な副作用は報告されていませんが、アメリカでも一日の摂取量の上限量は200mgです。いくら良くても摂り過ぎは良い結果に繋がりません。また、妊婦さんや授乳婦さんを対象にした臨床はされていないそうなので、控えるか担当医に相談しましょう。

コエンザイムQ10は水に溶けず、油に溶けやすい物質ですから、油分を含む栄養バランスのとれた食事直後に摂取するとよく吸収されるみたいです。
今日はコエンザイムQ10について話しました。


2005年 3月29日 脳障害
脳は人間が生きて行く上で大切な様々な機能をつかさどっています。この脳が、損傷を受け機能が部分的に停止してしまう事による障害を脳障害と言います。

脳は外側が硬い頭蓋骨で覆われ、直接傷つきにくくなっています。ところが、お母さんのお腹の中にいる時の何かによって、脳卒中などの病気によって、交通事故や転落など強く頭部を揺さぶられる事によって、変わってしまいます。
この変化によってドーパミンが過剰になったり減少したり(統合失調症)、脳の中で異常な放電が起こることによって発作がでたり(てんかん)します。
また、注意力がなくなったり、著しく不器用になったり、視認知に障害が起きたり、記憶が悪くなったりという後遺症がでる「高次脳機能障害」という障害も最近有名になってきました。

問題になっているのは病気や怪我から、医療の発達によって回復できても脳障害が出てしまった方の社会復帰や社会生活上の困難です。1人で外出できない人や仕事ができなくなった人など、傷は治っても社会復帰ができないままになってしまう事も少なくありません。
脳障害については社会の理解もまだ浸透しているとは言い切れません。重度の障害が残って、身体障害者福祉法等のサービスが受けられる者もありますが、リハビリテーションもなかったりするため本人や家族が一人悩んでいたり、福祉サービスの谷間になっている事もあります。

脳障害は薬で症状を抑えたり、他の脳の部分を使ったりして社会生活で問題ないくらいまで回復できます。もちろん、それには周囲の理解・援助が必要です。今後も脳の仕組みがわかるにつれて治せる可能性は高くなると思います

目に見える形での怪我や病気は理解されやすいのですが、脳障害は目に見えないため偏見に苦しんだり十分な援助を受けられない人がいます。
今日は脳障害について話しました。


2005年 3月28日 シルクロード
1900(明治33)年の今日、スウェーデンの探検家で地理学者のスウェン・ヘディンによって、廃虚になっていたシルクロードの古代都市である楼蘭が発見された事から、3月28日はシルクロードの日となっています。

シルクロードという呼び名ですが、昔の中国の人達やキャラバン(シルクロードを旅した人達)はそう呼んでいなかったようです。
ドイツの地理学者リヒト・ホーフェンは19世紀末に著した大著「ヒーナ(チャイナ)」の中で、中央アジアを走った交易路を「ザイデンシュトラーセン(Seidentrassen)(英語だとSilkroad、絹の道)」と表現しました。それからシルクロードは、ユーラシア大陸の東西を結んだ交易路の名称として使われるようになりました。現在では中国とローマを結ぶ交易路全体をシルクロードと呼ぶようになっているそうです。
中国でも日本のシルクロード熱の高まりの影響などを受け、最近では「絲綢之路(絹の道)」という言葉が頻繁に使われるようになっているみたいです。

シルクロードはホーフェンが地理学で東西交通の歴史を研究(各地の出土品等を調査)・概観し、古代中国とギリシャ・ローマ文化との交渉は「絹」によってもたらされていたと結論付けました。こうしてシルクロードはホーフェンによって体系化されました。
その後、アルベルト・ヘルマンによって彼の著書「中国とシリア間のシルクロード(1910)」によってシリアまで延長されました。そして第二次世界大戦後、東西の交渉の発達が進み実地調査や発掘が行われ新しいシルクロードが浮かび上がってきて、その後も考古学における新しい発見などによってシルクロードは発展拡大してきています。
現在では大まかに「中央アジアの乾燥地帯を走ったオアシス路」、「その北の草原を抜けた草原路」、「アジア大陸の南の海を結んだ南海路」の3つのルートに分かれている考えられています。

オアシス路(オアシスの道)は、シルクロードのメインルートで、普通シルクロードはこの道を指します。ホ−フェンが最初に指摘した中央アジアを東西に横断する道で、中国の長安(現在の西安)から、中央アジアの砂漠を通ってパミール高原を越え、西トルキスタン、イランの砂漠を経て、地中海岸に達し、ここからアナトリアを通るか、地中海経由でイスタンブールまたはローマに達する。中央アジアには砂漠が多く、点在するオアシス都市が中継地の役割をなしています。
草原路(草原の道、ステップ路とも)は、北緯55〜45度地帯は緑の牧草地帯が延々と広がっているステップ地帯を貫く最も古い東西交易路です。草原路では、機動力を利用した騎馬民族が東西に移動して支配権を争うと同時に、中継貿易にも従事しました。情報の収集に熱心で、積極的に新しい文化を受け入れようとした遊牧騎馬民族は、東西文化交流のうえで、直接・間接に大きな役割を果たしました。
南海路(海の道、陶磁の道とも)は、中国の広東付近から南シナ海より、インドを通り紅海やペルシア湾に到る回路です。接岸航行を主としましたが、危険性が高いため内陸コースより利用度が低かったと考えられています。それでも南海路の発達によって、南北の交流を持っていなかった内陸コースの各地の諸都市は、南北のシルクロードを持つ事になって更なる文化・経済の交流を持つ事になり、15世紀末に始まる新航路の発見以後は、一挙にメインルートの地位を占めるに至りました。

シルクロードで最も重要なのが、「東西文化の架け橋」ですね。シルクロードはキャラバンなどによって東西南北各地に文化が伝えられ、様々な土地で文化変容を受けながらも新文化の創造に貢献してきました。シルクロードが人類史上で最も重要視されてきたのはこの機能のためだとも言われています。

シルクロードはあくまでも概念的・包括的な表現で、どこからどこまでという確立された定義がありません。「長安からローマまで」が一般的ですが、「東の果ては奈良の正倉院」とも言われてます。シルクロードという言葉を使う人の数だけシルクロードはあるとも言えますね。
今日はシルクロードについて話しました。


2005年 3月27日 自閉症
自閉症は長く勘違いされてきた障害です。自閉症は脳障害が基盤に起こった先天性の発達障害です。その名前から連想される、引きこもりや何らかの理由で自ら心を閉ざしてしまう精神的な病気ではないんです。
先天性の障害なので、他人に移る事もなければ、周囲の環境・親の育て方の善し悪し・テレビの観過ぎで発症するなどの外部からの刺激や影響などに起因するものではありません。

自閉症は先天性(生まれつき)の障害で、完全に治る事はありません。自閉症そのものが治ると言うことは起こりにくいですが、適した教育を受ける事によってかなり社会適応を促す事ができ、またその人なりの自立的な生活を送る事ができるようになる、と、これまでの研究実践で判明しています。
自閉症の子どもの約70%に、ある程度の精神遅滞がみられます(IQが70未満)。このような子どもの成績にはむらがありますが、自閉症の子は言語能力よりも運動能力や空間感覚が優れています。また、自閉症の子の中には予想できない特殊能力があり、複雑な暗算や卓越した音楽の才能がある子もいます。
普通の喋り方やコミュニケーションのとり方、人や物事への適切な関わり方を習得する事は簡単ではありませんが、脳内の伝達システムにはいくつもの経路があるので、通常使われている回路に問題があっても、他の回路を使って機能を補う事ができます。
そうして、自閉症の子どもも治療を続けていけば、年月が経つうちに少しずつ機能を発達させていく事ができます。

自閉症の障害の診断基準は、「社会的な発達の質的な障害と想像性の欠如」、「言語性・非言語性にかかわらず、コミュニケーションの発達に質的な障害がある」、「興味関心が狭く限局的で、反復的な行動がある」と、アメリカの精神医学会の診断基準(DCM-4)によって決められています。
「社会的な発達の質的な障害と想像性の欠如」は、なかなか社会性が自然には発達しない。対人関係が上手にとれなかったりします。また、一緒にいる人の気持ちが読み取れなかったりします。社会性という点では、社会的な判断力の弱さのために、柔軟性に欠ける部分も強く持っています。そのため、一度学んだルールを自分が守っていて他人が守っていないとイライラしたりなりますが、逆に考えると一度学んで身に付けたルールなどは一生懸命守る、という強みでもあります。
「言語性・非言語性にかかわらず、コミュニケーションの発達に質的な障害がある」は、話せる・話せないにかかわらず、基本的なコミュニケーションの問題点を持っている、と言う事です。言葉が無い子どももいますし、喋る事ができる自閉症の子どもでも、言語を使う事で上手に人とコミュニケーションを図る事が難しい子が多いです。伝えたい・言いたい事があっても、ちゃんと伝えられないため、本人は苦しい思いをしがちです。
「興味関心が狭く限局的で、反復的な行動がある」は、よくこだわりとなって現れます。一般の人には思いもかけない事にこだわったりするので、奇妙な行動として見られがちです。自閉症の脳の障害の最も主たるものは脳内の情報処理の拙さだと言われています。その情報処理の拙さが、感覚的な問題を引き起こしがちになるので、自閉症の多くの子どもが感覚的に異常とも言える問題を持っているものです。例えば、音に恐怖心を示して常に耳を押さえていたり、皮膚感覚の問題から着る服が限られていたり、水遊びを止められなかったり、味覚情報処理の問題から食べられるものが限られていたり、人の匂いを嗅いだり、キラキラするものに強く惹かれたりしがちです。
そういった1つ1つの弱点が重なって、実際の生活の中での自閉症の子どもの行動は、一般の人には理解されない事が多いです。例えば、普通の人が気にならない音・光・物の配置など、彼らはとても気になり、時には苦痛なほどです。耳を押さえたり目を手で覆ったりしているかもしれません。言葉をかけられても意味がわからず、相手を無視したように見えるかもしれません。
そんな時に周囲の人が騒音を立て続けたり、本人には意味のわからない言葉をかけ続けたりすると混乱しやすくなります。混乱すると本人は大変苦痛を味わって、その苦痛を表現する方法を知らないために、「助けて欲しい」という思いで騒ぎ出します。
それに対して、苦痛の原因に気付かないまま、その「助けて欲しい」合図である「騒ぎ」を止めさせようとすると、自閉症の人はさらに怖くなって騒ぎだし、パニックに陥って自分の周囲の人に対して攻撃的な行動をとったりします。本人にとって自分のみを守るためなのですが、周囲の人はなかなかそれが理解できません。

自閉症の症状はまず生涯続きます。経過の見通し(予後)は、子どもが7歳までにどの程度言葉を習得できるかによって大きく左右されます。標準以下の知能の自閉症児は、成人後も施設で完全なケアを受ける事が多くなるそうです。
自閉症の子どもには集中的な行動修正手法が役立つ事があります。IQが正常な子の場合は、人間関係を築けるようにする事を目的とした心理療法が有効な場合があります。自閉症の子どもには特別な教育が有効です。
薬物による療法がありますが、自閉症そのものを治す事はできません。それでも、自閉症の子の問題行動を軽減するのに効果があります。ただし、薬には副作用の問題や依存度が増す問題などが取り上げられています。また、研究もまだ少なく様々な問題を抱えているので、医者や専門家と相談する必要があります。
あと、完全に実証されてはいませんが、ビタミンやミネラルの補給が自閉症には有効だと言われています。最も効果的なビタミンはビタミンBとCと言われています。ですが、すぐに子どもや自分にビタミンを与えるのではなく、医者や専門家と相談して下さい。

自閉症の人は、構造化されたある程度反復性のある仕事で最も成果をあげます。適切な配慮があれば、私たちと同じように職を持って社会に貢献しています。
自閉症はその程度や知的能力に合わせた生活を送る事が大切で、自立には周囲の理解が必要です。社会的に適応していくためには、治療教育によって的確な行動を身につけ、対人関係を作っていけるようにする事が重要です。
今日の自閉症についての話を通して、できる限り理解して協力できるようになってください。


2005年 3月26日 失語症
「知らない言葉を使う人(例えば外国人など)に話し掛けられる状態」、失語症はこれと似たような事が起こっているとも考えられています。
失語症の人の多くは見た目にはどこも悪くないのですが、このような状態ではコミュニケーションがとれるわけもなく、周囲から頭がおかしいと勘違いされてしまうそうです。

失語症は、脳卒中や頭部外傷など脳の損傷によって、一旦獲得された言語を操る能力が障害を受けた状態です。言い方を変えると、脳の中の「言葉を作る部分」や「言葉を理解する部分」、「その2つを結ぶ通路」の損傷によって言語能力が障害を受けます。
言語は、「話す能力」だけでなく、「聞いて理解する能力」「書く能力」「読んで理解する能力」も含まれています。失語症になるとこれらの能力がそれぞれ、多かれ少なかれ影響を受け、表現できない・理解できない状態になります。これらの能力の障害は、意識障害、発声や発音のための筋肉の運動の障害、視力・聴力の障害によるものではありません。

失語症の言語症状の改善は、一定期間の後は非常に緩やかになります。発症2〜3ヶ月で何らかの言葉の障害が残っている場合、病前にまで回復する事は困難ですが長期に渡って徐々に改善が見られます。
失語症から回復の意欲を持ち続ける事はどんな場合にも大切です。失語症の回復には時間がかかりますが、長期戦の構えで良くしていけます。
また、言葉や聴覚に障害のある方のコミュ二ケ−ションを専門的な立場から支援するために言語聴覚士がいます。言語聴覚障害に関しての総合診断と訓練、接し方など含めて家族や周囲の方への指導・相談を行います。人とのコミュ二ケ−ションを高め、より良い社会参加をともに目指すのが言語聴覚士です。

失語症は突然言葉を奪われてしまいます。「話す・聞く・書く・読む」などの能力が低下するので、コミュニケーションが上手にとれず、凄いストレスになるようです。
話す時の失語症の症状は、言いたい事がわかっているのに言葉が出てこない喚語困難、失語症に多い症状です。言いたい言葉とは別の言葉や少し音を違えて言ってしまう錯語。一度出た単語が別の単語を言おうとした時にも繰り返し出る保続、この保続は話す時だけでなく書く時や動作にも現れる症状です。
聞く時の失語症の症状は、入ってくる言葉の音の認知そのものが困難になったり、耳に入ってくる言葉の音の認知ができても言葉の音の重なりが意味と結びつかないといった事が起こります。程度にもよりますが、少なからず聞いて理解する事が困難になります。
書く時の失語症の症状は、文字が思い出せなかったり、間違った字を書いたり、障害が重い場合は一語も書けなくなる事もあります。仮名よりも漢字の方が比較的書きやすいようです。また、自分で思い出して書けなくても、書き写す事は多くの人ができるようです。書く事の障害が他の言語機能に比べて遥かに困難だとされています。
読む時の失語症の症状は、簡単な読み物なら理解できたり、身近なものの名前ぐらいはわかったり、障害が重いと全く文字が理解できなくなってしまったりします。仮名のみ読めなかったり、漢字のみ読めなかったり、仮名と漢字の両方が読めない場合もあります。また、声に出して読めても内容を理解していない事、その逆(声に出せなくても理解できてる)もあります。
その他の失語症の症状は、数を扱ったり、計算をしたりするのが難しくなる事(足し算より引き算が難しいようです)があります。そのため買い物や、時計を読んだりするのに不自由する事があります。また、疲れやすく注意の集中が持続できなっかったり、コミュニケーションが上手にできなくて、焦燥感や疎外感を受け、心理的に不安定になったりします。

以上のように失語症の人と接する時は、ゆっくり、はっきりと話すようにする。短い言葉や文章で話しかける。子ども扱いせず、言葉使いは相手が以前から使い慣れている表現を使う。話題を急に変えないようにする。表情やジェスチャー、絵などを使って話して、理解しやすくする。1回でわかりにくい時は、繰り返して言ったり別の言い方で言う。聞き手が急かしたり、言葉で言う事を強制しない。
など、多いようですが相手の事を考えて接すれば、さほど難しいものではありません。相手を思いやる心、相手と楽しもうとする心、相手のためになろうとする心などを忘れないようにしましょう。

言葉が不自由になっても心や人格は失語症になる前と変わっていません。時間はかかっても良くなっていく可能性はあります。焦らず慌てずゆっくりと話し相手になっていきましょう。
今日は失語症について話しました。


2005年 3月25日 電気
1878(明治11)年の今日、東京の銀座木挽町に開設された中央電信局の開局祝賀会が虎ノ門の工部大学校(現在の東京大学工学部)で開かれ、式場に50個のアーク灯が点灯されました。
それが日本で初めて灯った電灯だった事から、3月25日を日本電気協会が1927(昭和2)年9月に電気記念日として制定しました。

電気は、電子の移動です。原子(物体をこれ以上分解できないとこまでしたもの)は、中心にある原子核のまわりを電子が回っています。この電子の数は原子の種類によって決まった数になっています。
物体の材質によって、原子のまわりをぐるぐる回る電子と、自由に飛び回れる電子(自由電子)をもつものがあります。自由電子は普段自由な方向に動いていますが、これが決まった方向に動いて流れるとそれが電気となります。
電子の流れの事を電流といい、その向きは電子と反対の「+(プラス)から−(マイナス)に流れる」としています。

電気の歴史は古く、紀元前600年頃のギリシャのターレスは、琥珀を絹の布でこすると羽毛や軽い物を引き付ける事を知っていたという記録があります。これが静電気についての最初の記録とされていて、琥珀の事を指すギリシャの言葉(エレクトラ、elecktra)からエレクトロンという言葉が生まれたそうです。
東洋では、紀元前240年頃の中国の本「呂氏春秋」に「慈石召鉄」と書かれているのが最も古い記録で、日本では「続日本紀」の和銅6年紀に「近江国より慈石を献ず」と記されているのが最も古い記録とされています。
これまで、電気に関して知られていましたが、電気に関する発展のきっかけとなったのは、1752年の6月に行ったベンジャミン・フランクリンの雷雨の中で凧を揚げる実験です。この実験によって稲妻が電気現象である事を証明した画期的な実験でした。この実験は後の電気に関する科学者たちに大きな影響を与える事になります。
シャルル・ド・クーロンは1785年から1789年にかけて、非常に精度の高い秤の一種を用いて帯電した二個のコルク球の間に働く力を、精密に測定する実験によって「クーロンの法則」を発見しました。
1790年頃に、ルイージ・ガルバーニの蛙の脚の実験で、筋肉が電気によって痙攣するとの論文が発表されました。これを読んだアレッサンドロ・ボルタは異なる金属間に発生する電気を発見し、1801年頃に電池を発明しました。
このボルタの発明した電池を使ってハンス・クリスティアン・エルステッドは、1820年に電流を流した針金の近くに置いてあった方位磁石が電流に反抗する事を偶然に発見しました。エルステッドの報告に接したアンドレ・マリー・アンペールは、二本の針金を平行に並べ同じ方向に電流を流すと互いに引き合い、反対方向に電流を流すとお互いに反発し合う事を発見し、電流を力として正確に測定できるようになりました。同様にマイケル・ファラデーはコイルの中で磁石を動かして、磁気の変化によって電流が流れるという電磁誘導現象を発見しました。
ジェームズ・クラーク・マクスウェルはファラデーやクーロンの実験を基にして、電気と磁気に関する方程式を作り、電気理論を確立すると共に、その方程式を解いて電磁波の存在を予測し、電磁波の速度が光の速度に等しい事を証明して、光は電磁波である事を証明しました。ハインリヒ・ヘルツは電磁波を発生させる実験によって、電磁波の存在を実験的に実証し携帯電話には不可欠な、無線通信の基礎を築きました。
一般の家庭で電気が利用されるようになったのは、エジソンが1882年にニューヨーク市に発電所を建設し、エジソン電灯会社が一般家庭に電灯用の電気を供給したのが始まりです。それから、モールスの電信やベルの電話、エジソンの白熱電球・蓄音機・映画、ウエスチングハウスの電気機関車、スタインメッツの交流、テスラの多相交流・誘導電動機、マルコニーの無線通信、ラジオ・テレビジョンといった発明が次々と出てきました。
電力システムはウエスチングハウスがテスラから多相交流発電機の特許を購入し、これを軸に交流送電方式を開発し、現在の電力はこの方式によって発電所から送電線を通して一般家庭まで送られています。

電気の話に良く出てくる電流(単位はA、アンペア)は電気が導体の中を通る時のその流れの強さを表します。電圧(単位はV、ボルト)は電流を流そうとする圧力の事を表します。電力(単位はW、ワット)は電気のエネルギーを使って仕事をする力の大きさを表します。
また、電気には乾電池のような直流と、家庭のコンセントまで来ている電気のような交流の2種類があります。直流は電気の流れが一方向で、交流は電気の流れる方向と大きさが周期的に変わります。
電気は貯めておく事ができません。別の形で貯める事はできますが、それほど大きいわけではないようです。そのため、電気があまり必要でない夜間は発電を停止したりする発電所もあるそうです。

電気は現在無くてはならないものですが、感電やショート、漏電など扱いを間違えると危険になってしまいます。あと、使いすぎて電力不足なんて事のないようにしましょう。
今日は電気について話しました。


2005年 3月24日 結核
1882年の今日、ロベルト・コッホ博士が結核菌を発見した事から、世界保健機関が1997(平成9)年に3月24日を世界結核デー(World TB Day)と制定しました。ちなみに日本では9月24〜30日を「結核予防週間」としています。

結核は、エジプトのミイラから典型的な結核の痕跡が見つかるなど、人類の歴史と同じくらい古い病気です。
日本では、明治以降の産業革命による人口集中に伴って国内に蔓延し、「結核は国民病」と呼ばれました。1951(昭和26)年に「結核予防法」が制定されて死亡率は年々減少し、忘れ去られようとしています。
ですが、都市部の結核罹患率は高いところもあり、集団感染事例もあります。また、開発途上国では依然として公衆衛生上の大問題であり、交通手段の高速化・大量化・効率化によって感染は途上国だけという事ではなくなる事が指摘されています。
一方、エイズの世界的蔓延によってHIV感染者が増加し、結核との重感染者の重症化が心配されています。こうした事から、結核は「再興感染症」として再び注目すべき疾患となっています。

結核は、「結核菌」という細菌が直接の原因となって起こる病気です。結核菌は肺に巣食う事が多いのですが、身体中のいろいろな臓器にも病気を起こし、最初は炎症から始まります。
結核菌は結核患者の出す咳やクシャミの飛沫にのって、別の人の肺に吸い込まれるなどによって感染します。結核菌が体内に入ると、生体の防衛システム(免疫)が働いて結核菌をとり囲み、小さな「核」を作ります。それで「結核」という名がつきました。
大昔は「労咳(ろうがい)」と呼ばれ、明治になってから「結核」が正式名称となりましたが、つい50〜60年前までは「肺病」という通称が使われていたそうです。
初期の炎症が進むと、やがて「化膿」のようになり細胞組織が死んで腐ったような状態になります。この状態の時期が肺結核ではかなり長く続き、レントゲンなどに写る影の大半がこの状態の病巣です。
その後、死んだ組織がどろどろに溶けて、気管支を通して肺の外に排出されると、そこは穴のあいた状態になり、空洞となります。空洞の中は結核菌には住処となるため、空洞を持った結核患者が「感染源」になりやすくなります。
このような病巣からの菌が他の臓器に飛び火したり、またリンパや血液の流れに乗ったりして、他の臓器に結核の出店を作る事もあります。こうして結核は全身に広がって行きます。
そして最後には肺の組織が破壊されて呼吸が困難になるとか、他の臓器の機能が冒されるとかして生命の危機を招く事になります。

多くの場合は、結核菌が体の中に入っても、身体の抵抗力によって追い出されます。また、結核に感染しても普通は免疫の働きで発病を防ぎ、感染した人で一生のうちに発病するのは10人に1人程度と言われています。
感染後6ヶ月〜2年の間は、発病しやすい時期だそうです。この時期は普段以上の健康管理が必要です。たまに感染後数年〜数十年を経て発病する場合もあります。
結核の初期症状は風邪と似ていますが、風邪より症状がむしろ弱く長く続くのが特徴です。結核が発病すると、「長引く咳(2週間以上)」「痰が出る」「長引く微熱」「体重減少」「長引く倦怠感(体がだるい、活力が出ない)」「胸痛」などの症状が出ます。

結核にかかっても、4種類の薬を6ヶ月間毎日きちんと服用すれば完治できます。かつて「不治の病」と言われていた結核は、現在は良い薬が開発されてほとんど通院治療ですむようになりました。
たとえ、入院になっても、昔のように長期間、療養生活をするなどという事もなくなっています。また、結核医療費には公費負担制度があります。
ただし、薬の不規則な服用を続けると、菌がその薬に対して「耐性」をもつ事になり、薬が効かない菌(耐性菌)ができてしまいます。そこで、標準的な治療方式DOTS(ドッツ、患者が服薬継続できるように医療関係者が見守る事)が現在では大きな成果をあげています。

また、結核菌に一番弱いのが赤ちゃんで、感染すると一気に発病して重症化する事が多いため、BCG接種をします。赤ちゃんの体調をみて、なるべく早い時期に受けるようにしましょう。

戦前の結核患者は偏見をもたれる事がありました。患者の多くが死に至る病気と考えられていたためですが現在、比較的治しやすい病気になっていると思います。
今日は結核について話しました。


2005年 3月23日 検診
現在、さまざまな健診や検診が実施されています。ちなみにここでは、両方をあわせて「検診」とします。

ちなみに
健診は、職場や学校などでの「健康診断」や市区町村が実施する住民の「健康診査」などのように、身体の状態や機能を検査して、その時点での健康状態を総合的に判定・評価するために行われている、健康審査の略でもあります。疾病や異常の早期発見という効果もあります。
検診は、各種の「癌検診」「成人病検診」「循環器検診」「骨粗鬆症検診」などのように、特定の疾病や異常の早期発見を目的に行われています。

「検診」は、本来健康な人を対象にしたものなのですが、 健康な人ほど検診には無関心だったり、関心はあるけどその暇がなかったりといった現実があります。それらの方の為に、コンビニや郵便、ネット上で診断ができるような「検診」が増えてきています。
また、健康管理のため体重や体温などを定期的に測っておく自己検診(セルフチェック)もあります。自分で測定した情報をまとめておいて医師に見せると、医師も患者の健康状態を把握しやすくなります。

しかし「検診」を受けて「二次検査」「精密検査」が必要になった場合、検査に行かない人がいます。これは、受ける暇がなかったり、他の病気のせいだと勝手に自己診断してしまうからだと考えられています。
検査が必要な時にいかなければ、その間も病気が進行してしまう事もあります。安心のためにも、ちょっと強引になっても検査してしまいましょう。検査が恐くて逃げてるなんて言われてかっこ悪いでしょうしね。

進む技術で、短くて楽になっている検査です。健康を確認して安心を得るためという気持ちで、定期的に「検診」を受けていきましょう。
今日は検診について話しました。


2005年 3月22日 CD(コンパクトディスク)
CD(コンパクトディスクCompactDisc、CompactDiskとも)は、デジタル情報を記録するためのメディアで、光ディスク規格の一つです。

CDは円盤状で、主にプラスチック(ポリカーボネート)から作られています。レーザー光を反射させるため、CDはアルミニウム蒸着膜と保護層、印字膜の複数の層を重ねた構造になっています。
肉眼では見えませんが、非常に細かなピットと呼ばれる凹凸が連続して彫られていて、この凹凸によってデジタル情報を表現しています。CDの約十倍のデータを記録できるDVDも基本的にはCDと同じ仕組みを採用しており、凹凸を細かくする事などで記録容量の増大を図っています。

CDを作成するには、元になるデータから原盤を作成し、樹脂製の板に原盤を押し付け(プレス)、物理的に凸凹を生成するという方法がとられます。このため、CDは大量に生産するコストはあまりかからないのですが、1枚目を生産するために必要なコストは非常に高くなってしまいます。
そのため、個人で気軽にCDを作成はできませんでしたが、レーザーで媒体(CD)の物理的変化を利用して書き込みを行う方式が開発され、CD-RやCD-RWといったメディアが誕生します。それは既存の読取装置に近い設備で書き込みが行えるため、安価にCDを作成する事ができるようになりました。

CDは大きく分けて音楽用の「CD-DA」と、コンピュータ用の「CD-ROM」の2種類があります。材質はどちらも同じですが、データの記録方式が異なっています。CD-DAは音質を重視し、CD-ROMはデータの正確性と検索のしやすさを重視した方式となっています。

近年のCDは、音質の向上や著作権管理機能の強化を目指したディスク媒体の開発が引き続き行われています。ただ、音質の劣化や普及までには至っていません。
CCCD(コピーコントロールCD)もそれらの開発の一つでしょうが、音質の劣化や読取装置を壊してしまうなどの問題もあり。CDではないためCDプレーヤーなどでの再生は保証されていません。

CDはレコードにかわって音楽を記録するために開発されました。現在ではコンピュータ用のデータなど、音楽以外のデジタル情報も扱う事ができますが、著作権などの問題も起こしてしまいました。
今日はCDについて話しました。


2005年 3月21日 ランドセル
ランドセルをミニサイズに加工するお店「スキップ」の増田利正さんが、「3+2+1」が小学校の修業年数の6になる事から、3月21日をランドセルの日と提唱しました。

ランドセルは、小学生が背中に背負うカバンの一種です。小学生はランドセルで通学しなければいけないわけではないのですが、大部分の新入生はランドセルで小学校に通います。
ランドセルは幕末に西洋の軍制度が導入させる際に、背負いカバンの呼び名として、オランダ語のランセル(ransel)が転化して用いられたのが始まりです。ランドセルと言う呼び名が定着する前は、「ランドセイル」とも呼ばれ、「革袋」を「ランドセル」と読ませた事もあったそうです。

ランドセルの歴史は幕末の頃からはじまります。この頃、軍隊が次第に西洋式に変わってきたのに伴って、布製のカバン「背嚢(はいのう)」も海外から伝えられてきました。これがランドセルの起源になります。
1877(明治10)年に開校した学習院は、人力車や馬車で登校する子ども達がいました。ですが、1885(明治18)年になると「もっと鍛えなければいけない」という方針で、生徒の馬車や人力車での通学を禁止するとともに、軍用の「ランドセル」に学用品類を詰めて通学させる事になりました。
しかし形はあくまでも「背嚢」の形で、今のランドセルとは似ても似つかない山登りで使われる大きなリュックサックのようなものでした。これが現在の形となったのは、それから2年後の大正天皇の入学からです。
当時の内閣総理大臣であった伊藤博文が、大正天皇の学習院入学を祝して箱型で革製の頑丈なランドセルを特別に作らせて献上したものが、現在のランドセルの原型になったとされています。
このランドセルが本格的に庶民の間で使われるようになるには、戦後まで待たなければならなりませんでした。理由は「おしゃれすぎる」からみたいです。ちなみに当時は教科書やノートを風呂敷に包んで通学するのが一般的でした。
それでも戦後になると、子どもの負担が軽減できて両手が自由に使えるなどの安全性から、徐々に小学生用として普及し始め、1955(昭和30)年以降、全国の小学校にランドセルが普及していきます。
それからマイナーチェンジはあるものの、ほとんどそのままの形で今も使われ続けています。

ランドセルの種類は大きく3つに分けられ、本革を使用したもの、人工皮革を使用したもの、両方の長所を生かして組み合わせたものがあります。最近は強度の強い人工皮革、防水の牛革など、各々自らの欠点を改良した商品や、軽量をうたったもの、カラフルな色のバリエーション、ピカピカの光沢、マットなつや消し、しわ加工、などさまざまなものがあります。
ランドセルを選ぶ時は、背負いやすさ(変に肩に重さがかからないかなど)、快適さ(ムレにくさなど)、丈夫さ(フタや肩紐、背当ての部分など)、見た目(色や安全上の点など)などを重点的に見てみましょう。

最近は使わなくなったランドセルをデザインをそのままに解体して、ミニサイズの置物に加工してくれるサービスがあります。思い出の傷や名前、シールを残したい、汚れた部分を避けて綺麗な部分でなどと指定もできるようになっています。
また、NGO(非政府組織)などを通して物が不足している地域に送って使ってもらったりなどもしているみたいです。

ランドセルは背中に背負う事で左右均等に負荷がかかるため、手持ちや肩掛けのカバンに比べて、成長期の子どもの背骨に良いと言われています。高学年になるにつれて使われなくなる事も多いんですけどね。
ランドセルは赤色と黒色の2種類だけでしたが、水色やピンク、紺色、黄色など色の種類も増えてきています。色は変わっても、新しいランドセルを背負って歩いていく新入生の姿は見ていけそうです。
今日はランドセルについて話しました。


2005年 3月20日 レコード
1951(昭和26)年の今日、日本コロムビアからLPレコードが「長時間レコード」の名前で発売された事から、3月20日がLPレコードの日となっています。

レコードは狭義にはアナログディスクレコードを指し、広義にはカセットテープやCDなど物に音を記録したもの全般を指します。語源は記録するという意味を持つ英語のRecordからです。
アナログディスクレコードは、円盤状の樹脂等に凹凸を刻む事で音を記録したものです。音の再生にはレコードプレーヤーと針を用いますが、針のかわりにレーザーを用いた非接触再生もできるすです。針を用いた方は、レコードの回転とともに、そのレコードに刻まれた溝の凹凸が針に振動を与え、それが音に変換されてスピーカーから発せられます。

レコードの歴史はトーマス・アルバ・エジソンの時代にまで遡ります。
エジソンは1876年に電話機を発明した時に、送話口の振動盤が声に対して微妙に振動する事に気がついて、これを記録する方法を研究します。そして1877年、円筒に錫箔を巻き付けて音を録音・再生する蓄音機が発明され、フォノグラフ(Phonograph)と命名し、同年12月24日に特許申請しています。
電話会社ベル研究所のチェスター・ベル(電話を発明したグラハム・ベルの従弟)とサムナー・ティンターの2人は、錫箔を蝋を染み込ませたボール紙の筒に蝋を染み込ませる改良を施し、1886年にアメリカン・グラフォフォン社を設立して、1887年に「グラフォフォン」の名で製品化します。
これに刺激を受けてエジソンも1887年から再びフォノグラフの改良に取り組み、シリンダーを紙の芯からソリッドワックスに変更するなどした改良型を、「スペクタクル」と名づけて口述記録機として発表しています。
シリンダー方式の蓄音機に関する市場はここから始まったとされ、「蝋管式」蓄音機として知られている製品となって普及しました。1888年にはブラームスが「ハンガリー舞曲第一番」の演奏の録音を残し、同年にヨゼフ・ホフマンもフォノグラフに録音しています。

エジソンとベル&ティンターのシリンダー録音方式は、音の強弱や周波数を縦振動(圧力の強弱)で記録再生する方式でしたが、ドイツからアメリカに移民したエミール・ベルリナーは、音の振動を横振動に変換してシリンダーに刻む方法を考案し、さらに、シリンダーを捨て、円盤上に横振動を刻む方法を発明します。
ベルリナーは、亜鉛円盤に蜜蝋を塗って音を刻んだ後に酸を注ぐと、音が刻まれたところは蜜蝋が削り取られているため、その部分の亜鉛が酸で腐食し、音溝が亜鉛円盤に刻まれるというエッチングの技術を利用しています。
この亜鉛円盤から再生用の針で音の振動を再生でき、また、製版技術でネガを作ってこれを適当な材料に押し付ける事で複製を何枚でも作る事ができます。ベルリナーは、この方式の蓄音機をグラモフォンと名付け、1887年に特許を申請しました。
そして、1889年にベルリンの電気工業協会の定期総会でベルリナーとエジソンで公開比較実験が行い、グラモフォンの方が優れており、レコード、再生機とも安くでき、安定していて忠実な再生が行われ、将来性があると支持されたのでした。
当初、再生音が不安定だったハンドル手回し式からスプリング・モータに改良され、再生音の安定が得られるようになると、商品としての評価がさらに高まっていきます。
1904年にフランス・オデオン・レコードが両面盤レコードをライプチヒの見本市に出展し、1906年には米国コロンビア及びドイツ・グラモフォンから両面盤が発売されるに至って、エジソンの敗北は決定的になりました。
エジソンのシリンダ型蓄音機は音楽再生機としては円盤型に敗れましたが、再生機以外に録音機としての機能があり、ポータブルな録音機として各地で活用されました。ハンガリー出身の作曲家バルトークも、ハンガリーの民族音楽をフォノグラフで録音して回ったと言われています。民族音楽に根差したバルトークの音楽にフォノグラフが何らかの役割を担ったと考えると、不遇に終わったエジソンの発明も十分評価されるべきと考えられています。

それからレコードも進化しますが、当初はゴムやエボナイトなどが原料であったと言われていますが、やがてシェラックという天然樹脂がSPレコードの主原料となりました。そのため、レコードは摩耗しやすく割れやすい物だったそうです。
瓦のように落とすと割れやすい事から、「瓦盤」と呼ばれます。また、収録できる時間が短かったために作品の規模の大きい音楽などは多くの枚数が必要で、文字通りの分厚いアルバムに収納されていました。今でも「アルバム」と呼ぶ事があるのは、それに由来しているそうです。
その後の化学技術の進歩により、ポリ塩化ビニルを用いる事によって細密な記録が可能となり、長時間再生・音質向上が実現されました。さらに、取り扱いの面でも割れにくく丈夫で、扱いやすいものとなった。
これがLPレコードやEPレコードですが、CD(コンパクトディスク)の開発によって、一時衰退したが、CDで欠落する20kHz以上の周波数帯域が再生音に影響するなどから近年では再注目されています。

音楽が販売される媒体として、レコードは長い間存在し有名でした。このため、レコードがCDにとってかわられた現在でも、音楽を録音したものを制作・販売する会社は「レコード会社」と呼ばれ、CDなどを販売する小売店でも「レコード店」と呼ばれたりします。
レコードの大敵は埃と静電気で、埃があると物理的な振動を用いるレコード再生では「針飛び」が発生し耳障りな音が発生します。静電気は素材が塩ビであるため避ける事ができず、静電気が発生する事で埃を吸い付ける事もあるそうです。また、手の脂などにカビが生える事もあるそうです。

レコードは現在も作られているそうで、色や大きさ、形も実に様々なものがあるそうです。また、クラブのDJ(ディスクジョッキー)のパフォーマンスにも利用されたりしています。
今日はレコードについて話しました。


2005年 3月19日 カメラ
1839(天保10)年の今日、フランスのルイ・ジャック・マンデ・ダゲールが写真機を発明したとされる事からカメラ発明記念日とされています。ただし、ジローダゲレオタイプカメラの販売が開始された8月19日の8と3を間違えて、カメラ発明記念日にしてしまったのではないかという考えもあります。
ちなみに1977(昭和52)年、小西六写真工業(現在のコニカ)が世界初の自動焦点(オートフォーカス)カメラ「コニカC35AF」を発売した事から11月30日はカメラの日となっています。

カメラは、広義ではレンズを持った映像を撮影するための装置で、映画用カメラ、テレビカメラ、ビデオカメラ、監視カメラ、デジタルカメラなどがあります。狭義では写真を撮影するための光学機器で、写真機とも言います。
写真機としてのカメラは基本的に、本体であるボディに、レンズ、シャッター、ファインダー、焦点調節装置、フィルム装填部、を取り付けたもので、レンズには通常絞りが組み込まれています。

カメラの起源はかなり古く、原理そのものはアリストテレスが語っていたとされ、地中海地方にカメラ・オブスキュラ(ラテン語で暗い部屋)という装置が存在し、その名のとおり暗い部屋に映る風景を見る装置だったそうです。
このカメラ・オブスキュラは元来、絵を描くための道具でしたが、16世紀になると両凸レンズを小さな穴にはめ込んで像を得るカメラ・オブスキュラが考案されます。その後、17世紀、18世紀とカメラ・オブスキュラは大小様々な装置が作られ、この過程で現在の一眼レフカメラに通じる数々の装置が考案されました。ただし、この頃は外界を映し込んで見るためだけの装置として用いられていました。
そこで、この装置を用いて像を固定する事を試みたのがフランスのニエプス兄弟でした。1826年、アスファルトの感光性と、感光によって硬化するという性質を利用して、自分の家から見える風景を撮影、初めて画像を固定する事に成功しました。しかし、この写真は露光時間が6〜8時間にもおよび(現在のカメラは一瞬)、また画像も鮮明なものではありませんでした。
ニエプス兄弟はその後、画家のダゲールと研究を重ねて銀板写真法を発見します。銀板を用いたこの銀塩写真法のカメラはダゲレオタイプ・カメラと呼ばれ、1839年にジルー社から世界初のカメラが発売されました。それでもまだ露光時間は30分が必要で、しかも1枚しか写真を撮れませんでした。
1841年、イギリスのウイリアム・ヘンリー・タルボットは1枚だけではなく焼き増しのできるネガ・ポジ法を完成させました。このネガ・ポジ法は紙ネガから陽画に焼きつける方法でカロタイプと呼ばれます。ちなみにカロタイプでは露光時間が2〜3分と大幅に短縮されています。
1851年、イギリスのフレデリック・スコット・アーチャーが湿板写真法を発明し、この方法によって露光時間は10秒以下となりました。湿板写真法はガラス板にコロジオンという液体を塗布し、この感光膜が湿った状態での撮影が必要で、連続撮影が難点でした。
1960年頃からカメラが戦場や辺境に持ち込まれるようになります。辺境あるいは遺跡について絵画よりカメラの方が真実を伝え得ることを示した事で、カメラの力を生かす道を方向付けたと言われています。
そこで1871年に登場したのが乾板で、同じくイギリスのリチャード・リーチ・マドックスが発明しました。乾板は写真乳剤を塗布して乾燥させたガラス板を用います。銀板写真や湿板写真とは異なって、撮影者が感光膜を作る必要がなく、生産された製品を用いて撮影ができたため、写真への興味が大きく広がりました。
1880年代にはアマチュア写真家が急増します。1888年にはシャッターが取り付けられ、同年にイーストマン社がセルロイドに感光乳剤を塗布した100枚撮りが可能な現在のようなロール型のフィルムとカメラのセット、コダックを発売しました。
1895年頃から絵画的表現の独立手段として写真が位置付けられ、軟調の印象主義風な絵画的写真が全盛となっていきます。カメラもより性能を発展させていきます。
1913年に、ドイツのライプチヒ見本市で画面サイズ24×36mmでパーフォレーション付きフィルムを用いた小型カメラが試作されました。1925年に販売されたエルンスト・ライツ社のウル・ライカで、今もなお絶大なる人気を誇るライカの基礎となるカメラです。
1926年に、カール・ツァイス財団がいくつかの工学メーカーを吸収合併してツァイス・イコン社が誕生し、画面サイズ6×9cmのロール型のフィルムを用いるスプリングカメラを製造しました。
そしてカメラは小型化へと進み、1928年にフランケ&ハイデッケ社から画面サイズ6×6cmの二眼レフカメラが発売されました。現在でも広く愛用されているこのローライフレックスは二眼レフカメラの原点となっています。

ここで、日本のカメラの歴史に移ります。
1841(天保12)年の6月1日、日本初の写真が撮影された事から写真の日制定委員会が1951(昭和26)年に写真の日と制定しています。ちなみに日本写真協会が主催だそうです。後の調査によって厳密には6月1日ではないのがわかりましたが、6月1日のままとなっています。
というように日本には1841年にオランダ船によって、タゲレオタイプ・カメラが伝来されました。その後、1857(安政4)年、下岡蓮杖は写真を学ぶため、米使ハリスの滞在する下田玉泉寺の給仕役となって、ハリスの通訳ヒュースケンに近づき、その原理を教えられたと言われています。しかしその実技を知ったのは、横浜の開港後、その地に住んでいた写真家ウンシンによってみたいです。
アメリカではイーストマン社のロール型フィルムを用いたコダックが評判となっていた頃(1910年過ぎ?)、日本ではまだ安定性のある乾板写真が主で小西本店(のちにコニカ→コニカミノルタ)が数々の乾板用カメラを作り出しました。
フランケ&ハイデッケ社が製造する二眼レフカメラ・ローライフレックスは優れたカメラでしたが、非常に高価で日本では国産で安価な二眼レフの製造をはじめました。

1950年、世界初のペンタプリズム式一眼レフカメラコンタックスSが発売されました。1950年代はライカM3の全盛期であり、同時にドイツカメラの全盛期でもありました。
しかし、日本の一眼レフカメラの出現によって大きく変わります。特に1950年代後半になるとその流れは急速に高まり、今も高い評価を受けているニコンのFでその頂点を極めました。ニコンは戦前に軍の光学系製品を製造していて、その光学の技術を活かしてカメラの製造をはじめました。
それから、カメラの進化にともなって部分的に電子部品が組み込まれるようになります。自動焦点調節機能(オートフォーカス)や露出計、シャッター速度調節にも電子部品が組み込まれていくようになります。
ただし、電子式カメラと機械式と呼ばれるスプリングなどで構成されたアナログな機構を持っているカメラは、それぞれ一長一短があって現在どちらのカメラも使われています。
そして、1970年には、アメリカでCCDと呼ばれる映像記録装置が実用化されました。これがデジタルカメラの時代の始まりとなり、1981年には磁気で映像を記録する実用的なデジタルカメラが発表されました。
現在は、撮影したその場で画像を確認でき、消去も可能なデジタルカメラの出現でフィルムを用いるカメラ(銀塩カメラ)の流れが大きくデジタルカメラに傾いています。現像の必要がなく、必要な写真だけをプリントできるスピード性や経済性が支持され、報道の現場などでもデジタルカメラが広く用いられています。

カメラの仕組みはフィルムにあります。
フィルムは銀塩(銀を使った素材)が使われていて、ここに光が当たった部分が反応して化学変化します。強い光が当たったところは変化が進んで真っ白になり、光の当たらないところは黒いまま、というのが最初に作られたフィルムの仕組みです。なので、最初の写真は白黒写真でした。
そして、カラー写真のフィルムには光の三原色を利用して、赤い光が当たると化学反応を起こす物質と、青い光に反応する物質、緑の光に反応する物質が使われています。それぞれフィルムの上に塗り重ねられて、薄い層になっています。あとは銀塩フィルムと同じように光が当たった部分が反応していきます。
デジタルカメラは赤・青・緑のそれぞれの光に反応する専門の点(画素)が、順序良く並べられています。ちなみに1つの画素は赤・青・緑のどれか1つの色にしか反応しません。そこで、ある画素が青い光に反応した時、隣の画素がどんな風に反応しているかという情報をもらえば、3つで何色になるか決める事ができます。そうして全ての画素が、隣りの情報を見て色を決めているから、画素数の分だけ複雑な色が作り出せるという仕組みになっています。
デジたるカメラの写真の綺麗さは、画素の数で決まりますが、フィルムの写真は2000万画素にあたるほどの綺麗さだと言われています。そこでデジタルカメラは、それを超える事を目標にどんどん開発が進められています。

カメラで写真を撮る時はしっかり持つ事が大事で、そうするとピントがずれにくくなったりブレにくくなるそうです。外で撮影する時は太陽を背にすれば、写したい人や物に光が当たって綺麗な写真になりやすいです。
あとは、カメラで太陽を見ない事と、カメラを覗き込むのに夢中になって怪我しないよう周りにも注意を払うようにしましょう。

カメラはそれぞれに一長一短があり、どれが一番良いかは人それぞれです。自分に合ったカメラで楽しく撮れると良いですね。
今日はカメラについて話しました。


2005年 3月18日 睡眠障害
「睡眠障害」は、人間の睡眠と覚醒に関連する様々な病気のすべてを指す用語で、日本のみならず先進国に共通した社会的問題となっています。

睡眠障害には、「いびき」「寝言」など睡眠に伴う様々な症状がありますが、特に日常生活にまで支障をきたす代表的なものが以下の通りで、苦痛と感じたり生活に支障をきたすものです。
「不眠症」、いわゆる「不眠症」の代表的な症状には入眠障害(なかなか寝付けない)・中途覚醒(寝ても途中で何回も目が覚める)・早朝覚醒(暗いうちに目が覚めてもう眠れない)・熟眠障害(ぐっすり眠った実感がない)があります。その他、病気の治療薬による副作用として生じる不眠や身体疾患による不眠、精神疾患による不眠、痴呆を含む脳器質性疾患による不眠などがあります。
「過眠症」、ナルコレプシー(居眠り病)という病気に代表されます。日中に強烈な眠気が起こり、それが危険な作業中や食事中でも襲われ眠り込んでしまいます。また、脱力発作を起こす事もあります。
「概日リズム睡眠障害」、体内の活動と休息のリズムが、昼夜のリズムや社会の活動リズムと一致しないために起こり、睡眠のリズムが合わなくなってしまいます。「時差ボケ」と呼ばれる症状に代表されますが、交代勤務制によるものや遅寝遅起きを繰り返した結果、昼夜が逆転してしまう睡眠相後退症候群などがあります。
「睡眠呼吸障害」、代表的なものが「睡眠時無呼吸症候群(通称SAS)」。途切れがちに続く大きなイビキが特徴で、10秒以上の呼吸停止が一晩に数十回以上起こり、睡眠が中断されます。日中に強い眠気が生じる事もあり、高血圧・狭心症・心筋梗塞・脳梗塞などを合併する場合もあります。
その他に、足の関節や膝のあいだなどにムズムズした感覚があるために入眠が妨げられる「むずむず足症候群」や、一般的に「寝ぼけ」と呼ばれる睡眠時遊行症(夢遊病)などの症状も睡眠障害の1つと考えられています。

睡眠障害は、現在の病状や病歴と診察結果に基づいて診断されます。診断が確定しない場合には、より詳しく調べるために睡眠検査を行うように医者から勧められます。
睡眠検査は、ポリソムノグラフィ検査(呼吸、心拍数、その他の機能をモニタリング)と、1晩寝ている間中に不自然な動きがないかを観察します。

睡眠障害が起こる原因には「ストレス」や「病気」、「生活習慣」、「睡眠環境」のどれかが関係しています。
「ストレス」は、例えば「眠ろう」と意識しすぎる事が眠りを妨げます。そのため、不眠のきっかけとなったストレスがなくなっても、「眠ろう」という睡眠に対する過度のこだわりが残り、不眠が続いてしまうわけです。
「病気」は、うつ病や脳動脈硬化症、脳卒中後遺症、痴呆などが原因になります。病気の症状自体がそうさせたり、意識障害によって起こります。
「生活習慣」は、高血圧、アレルギー、心臓疾患、泌尿器疾患、胃腸障害、肝疾患などが原因で異常があると脳に信号を送るために脳が緊張し続けて睡眠が浅くなったりします。
「生活習慣」は、起床・睡眠時間が決まってなかったり、肥満や生活習慣病が原因になります。
「睡眠環境」は、寝ている間の騒音や光、身体に良くない寝具などにより、無意識に熟睡を妨げられている事があります。
また、女性の場合は女性ホルモンにも左右され、月経前には黄体ホルモンの作用により日中の眠気が強くなる事があり、妊娠中にも眠気が強くなるのも同じ理由で起こります。さらに加齢とともにホルモンバランスが乱れ、卵巣の機能の低下に伴って女性ホルモンの分泌が減少すると眠りが浅くなってしまう事もあります。更年期を迎えると中途覚醒などの睡眠障害を訴える人が増えるそうです。ただ、まだ研究が進んでいないため、不明な点が少なくありません。

睡眠は量(睡眠時間)より質(熟睡度)が大事であると言われています。睡眠障害にはいくつかの種類があるのですが、睡眠障害を解消するのには睡眠時間の長さはあまり問題ではないという点です。
睡眠時間が短くても、質の良い睡眠を取れていれば問題はありません。個人差はありますが、睡眠の質の差が原因と考えられています。
ですが、睡眠の質を上げるには、一定の睡眠時間をとる事ではありません。休日にまとめて日頃の睡眠不足を解消しようと寝続けると逆にそれが睡眠障害を悪化させる原因になったりもします。
質を良くするためには起床時間を一定にする事です。人間の身体は、朝の光を浴びて「起きた」事を感じてから、およそ14〜15時間後に休息する体勢に向かいます。そうして休息体勢になれば、熟睡しやすくなって睡眠の質を上げる事ができるのです。
何時に寝ても、起床時間を一定にしておけば、眠りの質は良好に保たれます。睡眠時間が短くなったとしても、起きる時間を一定に保つ方が、睡眠の質は良くなって熟睡度は向上します。これが睡眠障害を解消する1つの秘訣であると言われています。

睡眠障害は病気が原因な事もあります。最近ではナルコレプシーなどによく効く薬が開発されているので、気になる症状があれば軽い気持ちで心療内科、耳鼻咽喉科、精神神経料等に相談してみましょう。
診療を受けるときは、事前に「症状が出始めてからの期間」「就寝時刻と起床時刻」「布団に入って寝付くまでの時間」などを整理してメモしておくと診察がスムーズに進みます。

睡眠障害によって睡眠不足になると、集中力・記憶力・思考力が低下し、さらに気分や情動が不安定になってしまう事があります。また、免疫機能や代謝機能などの生命維持のための基本的機能の低下を招く事も示唆されています。
今日は睡眠障害について話しました。


2005年 3月17日 マンガ(漫画)
1959(昭和34)年の今日、日本初の少年向け週刊誌「少年マガジン」「少年サンデー」が発刊された事から漫画週刊誌の日となっています。
ちなみに1841(天保12)年、イギリスの絵入り諷刺週刊誌「パンチ・ロンドン・シャリヴァリ(通称「パンチ」)」が発刊された事から7月17日は漫画の日となっていて、これとは別に漫画本専門古書店「まんだらけ」が手塚治虫の命日から制定した漫画の日は2月9日です。
また、「漫画を文化として認知してもらいたい」と日本漫画家協会と出版社5社が2002(平成14)年8月に制定したまんがの日は11月3日となっています。

マンガ(漫画)という語の起源は不明ですが、中国語の「漫筆」からという説と、「漫画(まんかく、ヘラサギ(鳥)の一種)」の名から「種々の事物を漁る」意になったという説があります。いずれも元は文章に対しての用語で、それが絵の意味に転じたと考えられています。
漫画という言葉が使われはじめた頃の「北斎漫画」における「漫画」という語には「戯画的な絵」「絵による随筆」という意味が強かったそうです。明治になって今泉一瓢(いっぴょう)によってCaricatureの訳語として、「漫画」をあてたのが現代に通じる呼び名の始まりになっているみたいです。
現在、漫画という単語は中国にも逆輸出され、またMangaのつづりで英語圏でも通じる日本語の一つになっています。海外では漫画を「Graphic・novel(グラフィックノベル、写真・絵画図版を用いた視覚に訴える小説)」と捉える人もいたり、ローマ字でMANGAと表記して日本のコミックとして理解されていたりもします。

マンガのはじまりは絵画からと考えられています。数ある歴史的な壁画の中には漫画的要素の強い彫刻や、フキダシ内にセリフを書きこむ手法を用いたものが残っていたりもするみたいです。
日本ではマンガは落書きとして残っていて、古いところでは法隆寺金堂の天井板の裏に鼻の長い戯画風の人物が描かれています。また、作品として笑いを誘う目的で描かれたものに、平安朝の烏滸絵(即興的にさまざまの運動形象を描いた絵)の流れがあり、平安末期の「鳥獣戯画」が有名です。
マンガが民衆のものになるのは版画技術が発達してからです。江戸時代の享保年間、大阪に登場した漫画本(「鳥羽絵」本、世界最古の漫画本と位置付けられています)からと言われています。この頃から「漫画」と言う言葉が使われるようになりますが、「気紛れな絵」と言う意味みたいでした。他に、鳥羽絵や大津絵、狂画などと呼ばれ、近代に入っても引き続きこの呼称は使われたそうです。
この時代は、浮世絵の一分野として戯画・風刺画が描かれていたり、葛飾北斎も「北斎漫画」を残しています。また、絵に文が添えられた滑稽な読み物が作られたり、鼻息を表す線が描かれたり、「フキダシ」が使われるなど、現代の漫画に通じる技法が既にあったそうです。
それから文明開化の時期になって、日本が半ば無秩序に欧米諸国から輸入した文化の中に風刺漫画がありました。風刺画家のチャールズ・ワーグマンは1862(文久2)年、居留地で「ジャパン・パンチ」という風刺雑誌を発行しました。日本での風刺画の呼び名「ポンチ絵」というのはこれからきています。ただし、他にもあった風刺雑誌はいずれも殆どが文字無しの1コマ漫画だったそうです。
明治の末期から大正にかけて、さらに今のマンガに近づきます。絵の中に文が書きこまれ、また、「鳥羽絵」「ポンチ絵」「狂本」に対して、「漫画」という呼び名が使われだしました。さらに、この時期から子ども向けのマンガが少年雑誌や新聞に登場していきます。
昭和初期になると、この時代のマンガの代表ともいえる作品「のらくろ」が始まり、マンガの単行本が増加したりと、マンガは子どもの読み物としての社会的地位を確立しますが、戦争が始まって資源節約などの目的からマンガは小冊子になり、絵物語を中心とした誌面構成で細々と発刊されていきます。

戦争によって社会の表舞台から姿を消したマンガは、戦争の終結の後に再び姿を表します。後に黄金時代を築く「少年」「漫画少年」といったマンガ雑誌が創刊されていきます。ですが、当時人気があったのは「赤本」と呼ばれたマンガ本でした。
赤本は、粗悪な紙で作られた読み切りマンガ単行本で、表紙に赤色をよく使う事からそう呼ばれました。多くは弱小と言われる出版社が発行を手がけていて、100ページ以上(当時の雑誌は40〜50ページ)で1本のマンガを掲載していました。
後にマンガの神様と呼ばれる手塚治虫は、この赤本から新たなスタイルのマンガで「宝島」登場しました。ディズニーや映画の手法を取り入れたそれまでとは全く違うコマ割りの彼のマンガは、現代のマンガの直系の祖先と呼ばれています。
中央の大手出版社では、雑誌で紙芝居から発展した「絵物語」が1950年代初期から半ばにかけて流行るようになります。内容的には「黄金バット」「少年ケニヤ」といったSF、西部劇、剣劇、生活物などがあり戦前の少年・少女雑誌と深い繋がりが見られるそうです。
1950年代半ば以降、赤本や絵物語はほとんど姿を消します。この時期から、少年雑誌上には絵物語にかわってストーリーマンガ(風刺漫画や数コマによる物でない数十ページにわたって長編ストーリーを展開する、手塚治虫によって生み出されたマンガのスタイル)が、赤本にかわって貸本がマンガの主流になっていきます。貸本のマンガの中から、劇画(当時は写実的な作画で実録的な話などストーリー重視のスタイル)が登場します。
ちょうど、この頃に「悪書追放運動」が起こります。一般人だけでなく行政機関や警察までもが動いた社会現象となりました。これに対して出版社・編集者・作家達も集まって活動し、出版者側からの自主規制などを行って沈静化したそうです。この背景にはマンガの影響力や存在感が強くなってきた事があると考えられています。
1960年頃から週刊のマンガ雑誌が創刊され、月刊誌よりも部数を伸ばしていきます。ただし、部数を伸ばしたのは少年誌だけで、少女誌は週刊誌よりも月刊誌が主流になっていきます。また、1960年代に入ってからは大学生がマンガを読む事が現代風俗の一部となりました。
そして1970年代あたりから、マンガは「コミック」という新しい名前で呼ばれるようになる。同時に少女マンガに、手塚治虫の流れを受けた新しい流れを形作った若いマンガ家達が生まれます。
俗に「花の24年組」と呼ばれた女性マンガ家達は、独自の感性を前面に押し出した極めて個性的で、これまでの少女マンガにないスタイルと問題意識をもった作品群を生み出していきました。やがて少女マンガは流行となっていきます。
1970年以降も競争の激しいマンガは、作家達の切磋琢磨により画力やストーリーとも急成長していきます。

マンガには明確な定義は存在しませんが、視覚情報を絵として提示する事。絵は話の展開を動的に描写し、情報の本質部分を占める事。聴覚情報は、人物のセリフは文字として、音は擬音として表現される事。コマやフキダシなど独特の形式に沿っている事。などが定義として考えられています。
また、人によっては二コマ以上ないとマンガでないとして、一コマ漫画はマンガでないとする場合もあります。

マンガは面白いだけで無意味なものというイメージが根強く生きていたりもして、批判される事も少なからずあります。それだけ影響力の大きいものとも言えるかもしれませんね。
今日はマンガ(漫画)について話しました。


2005年 3月16日 国立公園
1934(昭和9)年の今日、内務省が瀬戸内海・雲仙(現在の雲仙天草)・霧島(現在の霧島屋久)の3ヶ所を国立公園に指定し、日本初の国立公園が誕生した事から3月16日は国立公園指定記念日となっています。ちなみに国立公園制定日は10月8日です。

国立公園は、環境大臣が指定する自然公園の中の1つで、自然公園法に基づき指定される国立公園、国定公園、県立自然公園(これは都道府県が指定)があります。国定公園が都道府県に管理を委託されるのに対し、国立公園は国(環境省)が管理します。
国立公園設立の主な目的は、国特有の美しい自然風景や野生の動植物、史跡を保護して、科学の研究、教育、レクリエーションなどの資産とする事です。現在、全世界百近くの国や地域で、千近い国立公園が設立されています。

世界最初の国立公園は、1872(明治5)年にアメリカ第18代大統領ユリシーズ・シンプソン・グラントによって指定されたイエローストーン国立公園です。日本では1931(昭和6)年に国立公園法が施行され、3ヶ所の国立公園が指定されました。

日本の国立公園の特徴は、アメリカなどのように国土が広くないため、多くの民有地も含んで指定されている事です。そのため集落や住宅地があったり、農林業などの産業が行われている公園もあります。そこで、国立公園の管理は、人々の暮らしや産業と調整しながら行われています。
制限は最小限ですが、工作物の建築、広告の表示、土石の採取、地形の変更などには届出が必要な普通地域。
風致の維持に重要な地域が指定され、その重要度により第一種から第三種までの区分がある特別地域。ここでは普通地域で届出が必要な行為に加えて、様々な行為に「許可」が必要になります。
特別地域内でも特に重要な地区を特別保護地区と言います。この地区では学術目的や地域住民の生活に必要な行為でなければ「許可」される事はほとんどなく、またこれらの地域では盗掘を防ぐ為、植生などの地図の公開を禁止される場合があります。
海中の地形や生物の景観の優れた場所で、指定動植物の採取、地形変更、汚水の排出などに許可が必要な海中公園地区。1970年の自然公園法改正で誕生しました。

当初、自然公園は景観のみに注目していて、最近になって生態系についても保護の理念が掲げられるようになってきたそうです。
今日は国立公園について話しました。


2005年 3月15日
1870(明治3)年の今日、西村勝三が東京の築地入船町に日本初の西洋靴の工場「伊勢勝造靴場」を開設した事から、日本靴連盟が1932(昭和7)年に靴の記念日と制定しました。
これは、陸軍の創始者の大村益次郎の提案によるもので、輸入された軍靴が大きすぎたため、日本人の足に合う靴を作る為に開設されたそうです。ちなみに6月第3日曜日は靴の日です。

現存する最古の履物は、古代エジプト時代の鼻緒の「サンダル」で、ミイラの棺の中からも発見されています。また、ヨーロッパ北方の騎馬民族が履いていた履物が「モカシン」の原型であると言われています。この「サンダル」と「モカシン」が、靴の原型にあたります。
それからギリシャ・ローマ時代には革を使った靴が登場し、現代の靴と似たような形になります。それから19世紀になって左右の区別がついたりヒールがつくようになります。

靴は、足を保護する事が本来の役割です。地面から受ける衝撃を靴底で緩和させたり、複雑な運動をしている足をサポートする必要があります。緩和機能や保護機能のない負荷を与える靴は、健康を損ねる事になってしまうのです。
足は第2の心臓とも言われていて、歩く事で筋肉が弛緩・収縮し血管を刺激、足に滞留する血中老廃物も正常な循環を行います。これにより心臓の補助機能を果たし、血圧や血糖値の安定、浮腫やだるさ、疲れの解消を促します。
そのため、靴の先進国の欧米では、運動力学的観点からの靴づくりが一般的になっています。

靴は眼鏡と似ていて、自分に合ってないものを使っていると視力が落ちるように、足を痛めたり膝や腰の痛みにまで発展する可能性もあります。合っていない靴の病気だけでも外反母趾、ハンマーツウ−、陥入爪、アキレス腱炎、扁平足、鶏眼(うおのめ)などあります。
まず、靴にはスニーカー、パンプス、サンダルなどいろいろ種類があり、それぞれで使用目的が違います。スニーカーはウォーキングなど、パンプスはファッション目的といったようになっています。
その上で、自分に合った靴を選びます。靴の合い具合を調べるには、靴を履いて立ち、両足に平均に体重をかけた姿勢をとります。
まず、趾先から靴の先までに1cm以上の余裕(捨て寸)が必要で。靴の中で足を前方へいっぱいに押し付けてみて、それでも前方、上方、内外側とも当たらない事。
ボールジョイント部(母趾と小趾の付け根をいい、足で最も幅が広く太いところ)が、履いた時靴のその位置に足が正しくおさまり、幅も回り寸法もよく合っているのが良いそうです。
土踏まず部分(アーチライン)は、筋肉や靱帯が何層にも複雑に重なり、血管や神経が細かく入り組んでいる重要なところです。その部分が締め付けも緩みもなく、触れるか触れないかといった状態が良いそうです。
トップライン(履き口)、高さ(深さ)と足への密着度がポイントで、くるぶしにトップラインが少しでも触れると痛くて歩けないので注意します。ただし低過ぎても足の支えが不安定で脱げやすくなります。
靴の踵部後背面の縦方向のカーブをヒールカーブといい、これが足のカーブより強いとその上端がアキレス腱に食い込み靴ずれの原因になります。また、踵全体が靴で軽く押さえられ安定している事が大切です。
最後に靴の中で足が余分に動かぬよう、しっかり保持されているのを確認します。以上の事に注意するとある程度良い靴選びができますが、第三者に触診してもらったり、歩きぶりと靴が合っているか、靴のしわのよりなどをみてもらわないと、より正確にはできないみたいです。

日本は靴の歴史が浅いため本当の良い靴を知らないまま、販売する側も造る側もいるそうです。これは、「間違った判断でのお客様の要望が多い」ためです。また、誇大なキャッチフレーズで幅広で外反に良いなどとアピールしている事が多々有ります。
靴を選ぶ時は今日話した靴の注意点だけでなく、他にも調べたり、店員やシューフィッター(足に関する基礎知識と靴合わせの技能を習得し、足の疾病予防の観点から正しく合った靴を販売するシューフィッティングの専門家)に聞いてみてください。
今日は靴について話しました。


2005年 3月14日 ハンバーガー
ハンバーガーは、牛挽肉を薄い円形に固めて焼いたハンバーグを、同じく円形に成形して2つ割にしたパンにはさみ込んだ料理で、サンドイッチの一種だと考えられています。

19世紀の終わり頃からドイツのハンブルグ(Hamburg)からヨーロッパ、そしてアメリカに渡ってきたハンバーグ・ステーキは人気を得ていました。
そして、アメリカのテキサス州アテンスでハンバーグを焼いて売っていたフレッチャー・デイヴィスが、そのままでは熱くて食べられないハンバーグを食べやすくするため、ハンバーガーを考えて売り出しました。当時はテキサス・トーストと呼ばれるカリッとした茶色い皮のある厚い白いパンに、ハンバーグを挟んで刻んだ生タマネギをお好みで食べるというものでした。
これが町で人気になり、勢いづいた彼は1904(明治37)年のアメリカのセントルイスで開かれた世界博覧会でも売り出してみたところ、大評判となりました。パンにソーセージを挟んだホットドッグも、その時同じように売られた仲間です。
それから、気取らず手軽に食べられるハンバーガーはアメリカ中に普及していきました。

オリジナルのハンバーガーは後にウォルター・アンダーソンによって改良され、現在の形に近いバンズスタイルになり、ホワイト・キャッスルという名前のハンバーガー・チェーンも創立されました。
ただし、今現在最大規模で有名なのはマクドナルドです。マクドナルドの創業者はマクドナルド兄弟で、1940(昭和15)年にドライブイン・レストランを開きます。その後、第二次大戦後の景気の上昇や生活のスピード化に目をつけた二人は、1948年にいったん店を閉じます。
そして、それまで数種あったメニューを、売り上げのほとんどを占めるハンバーガー一本に絞り、調理用の器具を考案したりしながら調理やサービスのスピード化を計りました。兄弟の見込みは大当たりし、フランチャイズ店が出来までに到りました。
しかし、経営に余り興味はなかった兄弟はレイ・クロックに権利を売ります。そしてレイ・クロックはシカゴのオヘア空港からすぐ近くの町に1号店を開きました。1号館は現在、記念として博物館として当時そのままの姿を保存してあるそうです。
ちなみに、1号館のレイアウトは現在のマクドナルド社の厨房と余り変わらない、というくらいマクドナルド兄弟の設計は素晴らしいと言われています。
そのマクドナルド社の成功に続きバーガーシェフ、バーガーキング、ハーディーズ、ウエンディーズ、カールスジュニアーなどのチェーン店が誕生しました。

従来のレストランの調理システムは、オーダーが入ってから調理をする、クック・ツー・オーダーでした。ハンバーガーはできたてで温かく品質は良いのですが、調理に時間がかかるという欠点がありました。
それに対して、マクドナルドの初期の頃のメニューはハンバーガーが1〜2種類、そのため全メニューで10品目くらいでした。そのためハンバーガーを事前に調理してウォーマーに保管しておき、オーダーがあったらすぐに提供できるようにしていました。これはストック・ツー・オーダーシステムと呼ばれています。
ですが、チェーン店ができてから15年もすると、ハンバーガー以外にも様々な料理を望まれるようになってきました。そのため、数多くの商品を保温する必要ができ、商品の保管時間を過ぎて破棄する必要が出たり、製造に時間がかかり、サービングタイムに問題が出るようになってきました。
そこで、調理に時間がかかるミートなどを事前に焼いておき、それを正確な湿度コントロールができる保管庫に保管しておく方法が出てきました。これにより、焼いたミートを30分〜1時間も保管する事が可能になり、作業が分散化して商品の破棄も少なくなりました。
これらによって、オーダー後の商品のサービングタイムが格段に早くなるというメリットが出てきた。これをアッセンブル・ツー・オーダーシステムと呼び、現在多くのチェーン店で採用されるようになってきているそうです。
ただし、やはり品質の良さを売りにしているチェーン店もあり、クック・ツー・オーダーで成功しているところもあります。

ハンバーガーは、肉(ハンバーグ、ミートパティとも)とともに、レタス、刻んだタマネギ、ピクルス、チーズなどをパン(バンズとも)に挟み込み、ケチャップ、水溶きマスタードなどで味付けし、手掴みで食べます。
付け合せにジャガイモを細く刻んで油で揚げたフライドポテトや、チキンナゲットなどがついたりします。

ハンバーガーは味があまり良くないと思われていますが、クック・ツー・オーダーのお店で食べるハンバーガーは美味しいです。また、パンの代わりにご飯を使ったもの、肉の代わりにフライにした魚を使ったもの、コロッケなどお店によって多種多様なメニューが用意されています。比較的安いので食べ比べてみるのも良いかもしれませんね。
今日はハンバーガーについて話しました。


2005年 3月13日 サンドイッチ
1が3で挟まれている(サンド1=サンドイッチ)事から、3月13日はサンドイッチデーとなっています。また、この日とは別に、サンドウィッチの名付け親とされるイギリスのサンドウィッチ伯爵の誕生日である11月3日が「サンドウィッチの日」ともなっています。

サンドイッチ(sandwich、サンドウィッチ)は、薄く切ったパンに肉や野菜などの具を挟んだり、乗せたりした料理を言います。
サンドイッチの名前の由来は、ジョン・モンターギュ・サンドウィッチ伯爵(1718〜1792年)です。彼はトランプ賭博が好きで、賭に熱中するあまり食事をする時間ももったいないという事で考え出されたのが、トーストの間にローストビーフ(コールドミート)を挟んだ軽食「サンドイッチ」だったと言われています。
ただ、サンドイッチと命名される前からパンに具を挟んだ食べものはあって、彼が考案したわけではないようです。多分、パン自体が発明された頃からずっとあったのだと思います。
他にも砂(サンド)と魔女(ウィッチ)以外は挟んで食べられるという事から来ているとかいう説もあるみたいです。

一般にサンドイッチは、耳を切り落とした食パンを使って具を挟みます。食パン以外にもフランスパン・ベーグル・ロールパン・ピタなどを使っているものもあります。パンはそのままかトーストにして、パンが具の水分を吸わないようにバターやマーガリンを塗ってから具を挟みます。
具は何を挟んでも良く、肉類・魚介類・惣菜類・スプレッド(ジャムなど)類・乳製品・卵・野菜・果物などがあって、複数を組み合わせる事が多いです。また、風味を付けるため、からしやマスタードを塗る事もあります。
具を挟まずパンに乗せただけのものは、オープン・サンドイッチ(オープンサンド)。サンドイッチを専用器具に挟んで両面を焼いたものはホットサンド。ごく薄くスライスした耳なしの食パンに薄切りにした具を乗せ、端から円筒状に巻いたものはロール・サンドイッチ(ロールサンド)。ピタ(中が空洞になったパン)を使ったものはピタ・サンドイッチ(ピタサンド)。
またバリエーションとして、パンに具材を挟んだものに溶き卵を絡めて油で揚げたモンテクリストサンドイッチなどもあります。

サンドイッチはパンの耳を残しますが、捨てずにかりんとうやクルトンにしてはいかがでしょう?
「かりんとう」は、耐熱皿に並べて水分が抜けてかりかりになるまで5分ほど電子レンジにかけます。砂糖50gに対しミルクとバター各大匙(おおさじ)1を容器に入れて、さっとレンジにかけます。パンの耳をからめて乾かせば美味しいかりんとうができます。
砂糖を黒砂糖にしたり、シナモン、インスタントコーヒー、または抹茶を混ぜたりと好みの味付けもできるそうです。
「クルトン」は、ちいさなキューブ型に切ってフライパンで炒ります。ガーリックバター味にしたりパセリを振ったりもできます。レタスやパルミジャーノを使ったシーザーサラダやポタージュスープの浮身につかってみてください。

サンドイッチは防水のためにもバターなどをきちんと塗り、具の水分も良く切る、お弁当にする時は鮮度に気を配る、というような基本を押さえれば何を挟み、どんな素材をプラスしても美味しくできそうです。
今日はサンドイッチについて話しました。


2005年 3月12日 疲労
疲労は一般にあまり良いものとは考えられていませんが、もし疲労がなければ私達は休む事なく働き続けてやがて疲弊して死んでしまいます。「疲れを感じる感覚」こそが私達にとって大切な警報です。

まず大きく分けて、「疲労」には「生理的な疲労」と「病的な疲労」があります。
「生理的な疲労」は、人が健康を維持するための防御反応の事を言います。仕事や家事、スポーツをすると「疲れ」を感じて休養が必要となるように、生命や健康を維持するためにも疲労はある程度必要です。これには肉体的な疲労だけでなく、精神的な疲労も含まれています。
「病的な疲労」は、基礎疾患がはっきりしている疲労と基礎疾患のない疲労とがあります。基礎疾患がはっきりしている疲労は、病気の症状として現れるものを言います。基礎疾患としては、心臓病・肝炎・貧血・気管支喘息・代謝性疾患・筋肉疾患・各種感染症・癌などがあります。基礎疾患のない疲労としては、慢性疲労症候群・うつ病・オーバートレーニング症候群などがあります。

「生理的な疲労」はさらに「精神的疲労」と「肉体的疲労」に分けられます。
「精神的疲労」は、精神的なストレスなどで、脳が疲れてしまっている状態です。自分が何に対してストレスを感じているのかをしっかり把握する事が大切です。
「肉体的疲労」は、体を動かすと疲労物質の乳酸が分泌され、いろいろな原因で体の代謝機能が低下するとこの乳酸が体内に貯まって肉体的疲労が起こります。基本的にこの乳酸を炭酸ガスと水に分解して、体外へ排出する事によって疲労は解消されます。
多くの場合、この2つが絡み合って疲労を感じています。同じ事をしていても、精神的なストレスがある時はより疲労感を感じます。例えば、つまらない単純作業はすぐに飽きて疲れてしまいますが、やりがいのある仕事やスポーツなどの楽しい場合、疲労感は少なくなります。
また、精神的疲労・局所的疲労・静的(動かなすぎ)疲労を現代の三大疲労と呼んでいるそうです。OA化の進んだ仕事環境やデスクワークの多い職種、人間関係などからくるストレスが原因とみられています。三大疲労は睡眠や体を休めても回復しない・しにくいのが特徴です。
さらに、「激しい疲れで、会話や食事をするのも面倒」「いくら寝ても寝足りない」「頭痛や微熱、不眠が半年以上続いている」などの症状は「慢性疲労症候群」の代表的な特徴です。これは「慢性疲労」と似ていますが、れっきとした病気で治療が必要です。病気ではないのに、仕事や家事など生活に支障をきたすほどの極端な疲労状態が半年以上も続き、疲労感の他に、微熱や頭痛、リンパ節の腫れ、関節痛、抑うつ状態、睡眠障害などの症状もみられるそうです。

疲労には必ず原因があります。なので疲労回復のためには、まず原因を知る事が大切です。基本的に運動、睡眠、食事が絡んでいます。
筋肉の疲れや軽いストレスが原因の疲労の場合は、軽めの運動を行います。筋肉にたまってしまった乳酸は、10分程度のウォーキングやストレッチなどで血流を良くすると、筋肉付近の毛細血管にたまった乳酸が再び心臓に向かって送り出されて早く除去できます。このように、運動後に軽い運動をして疲労回復を図る方法を積極的休養(アクティブレスト)と言います。
また、軽めの運動は、逆に全く体を動かしていないような場合の疲れにも効果があります。OA化の進んだ仕事環境やデスクワークなどで長時間同じ姿勢をとり続けると、全身の血行が悪くなってしまいますが、一部の筋肉だけはずっと緊張しているので乳酸がたまっています。そこで軽く動いて乳酸を筋肉から除去します。
さらに、運動する事で呼吸が活発になり、新鮮な酸素がどんどん脳に送られます。そのため、脳がスッキリと目覚め、軽いストレスも解消されると考えられています。
睡眠は、手軽で有効な疲労回復方法です。疲れを感じたら、睡眠をとるようにします。ただし、極端な寝だめは逆効果になりがちです。人間の体内時計は朝の起床時間を起点として動いているので、いつもより遅く起きると就寝時間もその分だけ遅くなります。
そのため、早く寝たい夜にすぐに眠れず、結局睡眠不足で疲れてしまいます。寝だめする時でもいつもより+1時間程度に抑えて、足りない分は30分程度の昼寝で補うようにします。
疲労回復に栄養補給は必須条件で、そのために食事が必要です。肉体疲労で消耗したエネルギーを、手っ取り早く補給したいなら炭水化物(糖質)が有効です。脳のエネルギー源は、炭水化物から作られるブドウ糖で、疲れた時に甘いものが欲しくなるのは、脳と体にとって理にかなっています。
また、筋肉の乳酸を分解するためには、クエン酸がおすすめです。他にビタミンB1、C、E、カリウム、セレン、カロテン、亜鉛、マグネシウム、コエンザイムQ10なども有効です。
逆にインスタント食品ばかり食べていると、栄養が偏ったり大切なミネラル成分を失う原因となるので注意が必要です。あと、カフェインも体からビタミンやミネラルを排出する働きがあるので、コーヒーや紅茶の飲み過ぎに注意が必要です。

疲労は、仕事・運動のしすぎ・睡眠不足・生活習慣の乱れ・人間関係などの精神的ストレスなどで、身体や心にかかってきた負担の結果です。疲労がたまるにつれて悩まされ、さらに進行すると細胞そのものが正常に機能しなくなるなど、全身に悪影響を及ぼしかねません。
疲れを感じた時は、「何かの対処をしなさい」という体からの警報です。ほったらかしにしないで早めに解消する事を心がけてください。
今日は疲労について話しました。


2005年 3月11日 パンダ
1869(明治2)年の今日、中国の四川省ムーピン(現在の宝興県)の民家で、伝道中のフランス人神父アーノルド・ダヴィトが白と黒の奇妙な熊の毛皮を見せられました。これが、西洋でパンダが知られるきっかけとなったそうです。
ダヴィトはパンダのレプリカ標本をパリの自然歴史博物館に送り、その1年後の1870年に、研究を進めたミレー・エドワードが、Ailaropoda-mlanoleucaという学名をつけました。
その事から、3月11日はパンダ発見の日とされています。

パンダにはジャイアントパンダとレッサーパンダの2種類がいますが、一般的にパンダと言うと白黒のジャイアントパンダを指します。パンダの名前の由来は、ネパール語の「竹を食べるもの(ネガリヤーボンヤ)」からという説があります。「大熊猫(ターシュンマオ)」はジャイアントパンダの中国名で、レッサーパンダは「小熊猫」だそうです。「シロクログマ」という和名もありますが、一般的には知られていません。
哺乳綱ネコ目(食肉目)に属していて、クマに似ていますがアライグマに近い特徴ももっているため、クマ科に属するかアライグマ科に属するかの論争が長年繰り広げられ、ジャイアントパンダ科に属するなどありましたが、遺伝子の解析によってクマの近縁である事が明らかになって落ち着いているみたいです。

パンダは竹をしっかり手で握って食べますが、これは手根骨の一部が進化して「六指突起」」という偽親指があるからです。パンダは私達人間と同じように、乳歯から永久歯に生え替わります。肉食動物の歯と似ていますが、大きく平らな臼歯(人間の約7倍)によって竹を噛み砕いて食べる事ができています。
白黒模様なのは雪に覆われた場所で、天敵の肉食獣から身を隠すためで、眼の回り、耳、鼻面、両脚、肩だけが黒く、その他の毛は白です。グルーミング(自分で、毛を整えたり、痒いところを掻いたりする)には、後ろ足しか使いません。
竹やタケノコが主食ですが、リンドウなどの花や、昆虫・小動物も食べます。ただし、竹以外の食べ物は全体の1%未満です。元々は肉食動物だったために腸が短く、栄養分の吸収率が非常に悪く、一日の大半の時間を食事に費やします。
竹であればどんな種類の竹でもよいわけではなく、パンダが食べる種類は決まっていて何種類かありますが、冷箭竹や華桔竹、大箭竹、豊実箭竹といった竹を好むそうです。また、竹自体栄養価が高くなく、エネルギーの節約のために一日の大半の時間を睡眠に充てています。

現在、野生パンダの数は2千頭以下であると言われています。減少した原因は、繁殖率や生まれた仔の生存率が他の動物に比べ低い事、珍しい動物であるため捕獲された事、生息地の減少などがあります。
その他では、1970年代の竹の開花(竹は、数十年に1回一斉に開花し、数ヵ月後に枯れてしばらく再生しない)が挙げられます。しかし何万年も続いた自然現象で、野生動物であるパンダが極端に減ったとは考えられず、1970年代の場合は、その頃すでに生息数が少なくなっていたところに、竹の開花が間接的に追い討ちをかけたと考えられています。
ワシントン条約で「今すでに絶滅する危険性がある生き物」として指定され、取引が厳しく制限されている。しかし、ワシントン条約で売買は禁止されていますが、密猟が絶えないそうです。

パンダはまだまだ謎が多く、興味深い動物です。その謎が解明されるまで絶滅なんてしないで欲しいと思うのは、人間の傲慢でしょうか。
今日はパンダについて話しました。


2005年 3月10日 サボテン
岐阜県巣南町の「さぼてん村」を経営する岐孝園が、「さ(3)ぼてん(10)」の語呂合せから今日をサボテンの日と制定しています。

サボテンはサボテン科に属する植物を呼びます。植物分類上、サボテンは多肉植物に分類されます。多肉植物は葉・茎・根に水分を多く蓄える組織を持つ植物の事で、貯水組織が発達しています。
サボテン科に属する植物は、およそ2500もの種類があり、人工的に作り出されたものなどを加えるとその数は8千種とも言われます。サボテンを大まかに分けると、形が進化した順に、葉の部分が木の葉に似ている木の葉サボテン、茎がしゃもじ状に厚くなったウチワサボテン、中南米の乾燥地帯で多く見られる背の高い柱サボテン、球形の球サボテンに別れます。
サボテン生息の発祥は不明ですが、約6500万年前の恐竜時代の末期から発達してきたのではないかと言われています。サボテンの化石はできづらく、2ヵ所でのみ発掘されています。アメリカのユタ州で6500万年前のもの、同じくアメリカのアリゾナで発掘された200万年前のものです。

サボテンは、英語でカクタス(トゲの多い植物の意味)です。日本にはサボテンと一緒にアロエが輸入され、アロエが畳などの汚れを落とす石鹸の役割を果たし、シャボン(石鹸)の発音から、サボテンをシャボテンと呼んだようで、そのシャボテンから現在のサボテンとなったみたいです。

サボテンと言えば砂漠を思い浮かべますが、砂漠以外の地域にも生息しています。暑い地域だけでなく寒い地域にもいたり広範囲ですが、基本的には乾燥した地域です。
そして、サボテンはその厳しい乾燥に耐える為に、極端に肥大した茎は厚い皮で覆われ、その皮はワックスを塗ったような表面をしていて、幹の中の水分の蒸発を防いでいます。
水分を逃がさないために極端に細くなった葉(刺)は、外敵から身を守る役割ももっています。根はもともとあまり水の無いところに住んでいる為か、身体を支える程度の長さしかないそうです。
また、乾燥に耐えるためにどんどん進化していったので、光合成の仕方が他の植物と多少違います。昼の内に身体の中で光合成を行い、酸素を発生させるより前の段階で一時的に反応を止めておいて、気温が下がる夜になってから一気に酸素を吐き出しつつ二酸化炭素を吸う生活を送っているそうです。

サボテンは比較的簡単に育てられるため、人気があります。ただし、水をあげすぎると根が腐ったりあげなさ過ぎると枯れちゃいます。基本的に土が乾いたらあげるようにします。他にも日光を浴びせすぎるとダメなものなどあります。あと、上手に育てると花を咲かすそうです。
今日はサボテンについて話しました。


2005年 3月 9日 エレベーター
エレベータ(アメリカElevator、イギリスLift)は人や荷物を載せた箱を垂直に移動させる昇降機の事です。ちなみに11月10日がエレベーターの日です。

エレベーターは紀元前236年の「アルキメデス」が、荷物の揚げ降ろしを行うために滑車付きの荷揚げ装置を考案したのが始まりだと言われています。そのとき、アルキメデスは数種類の装置を考案したそうです。
中世ヨーロッパでも滑車を用いた巻き上げ機が存在していて、一部で利用されていました。17世紀に入ると、カウンターウェイト(釣り合いを取るためのおもり)を用いたものが発明されたそうです。
19世紀前半頃になると、イギリスでは荷物の揚げ降ろしを行うために、蒸気機関を利用したエレベーターのような装置が利用されていました。当時はまだ、レンガや石造りの建物ばかりだったために、建物はせいぜい2〜4階建てであまり高くありませんでした。
荷物を運ぶ事を専用にしていた理由には、ロープが現在のように鋼製ではなく、麻製などの切れやすいロープを使用していたためで、墜落事故が絶えずとても人が乗るのには勇気のいるものだったからなようです。
19世紀中期頃になると、ヨーロッパの工業地域を中心に広く普及し出した、蒸気機関の荷物運搬用エレベーターは、アメリカでも受け入れられビルの高層化に一役買う事になります。が、高層化と言えるほどの建物の築造は「安全な乗り物」としてのエレベーターの登場を待つよりほかはありませんでした。
1852(嘉永5)年、アメリカのニューヨークで開催された万国博覧会の会場で、ロープが切れても落下しないエレベーターの安全装置の公開実験が行われました。この装置の登場により、それまであった「エレベーターはロープが切れたら落下するもの」という常識を覆し、「人が乗っても安全な乗り物である」という認識を高める事になりました。
1867(慶応3)年、フランスのパリ万国博覧会で、水道水を動力源とした水圧式エレベーターが公開されました。水圧を利用してエレベーターを持ち上げるこの方式は、広く受け入れられて普及していきました。
1870(明治3)年、アメリカのニューヨークでオフィスビルに初めてエレベーターが設置されました。それまで敬遠されてきたビルの高層階が羨望の眼差しを受ける立場となり、見晴らしの良い最上階が人気を集めるようになります。この年を境に本格的に乗用エレベーターが設置されるようになり、ビルの高層化が進みます。
1889(明治22)年、アメリカで世界初の電動モーターで動くエレベーターが登場しました。技術の発達によりエレベーターも急速に進化し、速く移動できるエレベーターが作られるようになりました。電動式のエレベーターは、超高層建築には欠かせないものとなっています。

エレベーターは、乗用と荷物用の2種類が基本となります。乗用は人が乗る為のエレベーターで、人を運ぶ事を目的としているため安全基準はもっとも厳しいものとなっています。荷物用は荷物を運ぶ事を目的としているために、その安全基準は乗用よりは緩和されたものとなっています。
他には、人と荷物両方を運べる人荷用、移動式寝台(ストレッチャー)を運べる寝台用、その名の通りの自動車用、さらに車椅子兼用や視覚障害・聴覚障害の人にも使用可能な福祉対応型、非常時に救助・消防活動ができる非常用などがあります。
最近は高齢化社会、バリアフリー、狭小地住宅などの需要が増えた事を背景に、低価格になったホームエレベーターもあります。これは個人住宅に設置されるエレベーターで、設置の際にエレベーターの確認申請を事前に役所へ提出するなどはありますが、やっぱりあると便利なようです。

エレベーターは便利ですが、狭い室内であって犯罪が起こる事もあります。不安を感じたらすぐに降りるようにしたり、緊急ボタンをすぐ押せる位置で壁を背にして立つなどしましょう。
また、地震などが起こったら近くの階のボタンを押してすぐにエレベーターから降りたり、起こった直後(エレベーターの会社が安全を確認するまで)は乗らないようにしてください。

エレベーターは便利ですが、使いすぎると足腰が弱くなっちゃうので、階差が少ない時はできるだけ階段を使うようにしましょう。
今日はエレベーターについて話しました。


2005年 3月 8日 エスカレーター
1914(大正3)年の今日、東京・上野の大正博覧会の会場に日本初のエスカレーターが設置されて運転試験が行われた事からエスカレーターの日とされています。当時は第1会場と第2会場をつなぐもので、秒速1尺(約30cm)で動きました。

エスカレーター(Escalator)は、主として建物の各階を移動する目的で設置・利用される階段状の輸送機器である。「エスカレーター」は、もともと米国OTIS社の登録商標で、商品名でした。ですが、当時この自動式階段を表す適当な語句がなかったため、一般にエスカレーターと呼ばれたため、普通名称となった経緯があります。(OTIS社は既に商標権を放棄しています)

エスカレーターの構成は「ステップ」と「手すり」に分けられます。
「ステップ」は、踏台(ステップのメインとなるところ)、駆動ローラー(駆動させるためのローラー)、駆動ユニット、ライザ(ステップの横の部分)、車椅子専用ステップ(特殊なステップがフォークを利用して車椅子が乗れる大きさにできる)
ステップの幅は1.1m以下と定められ、ステップの端から手すりの中心までの水平寸法も250mm以下とするように定められています。また、動く歩道の踏段の幅は勾配が4度以下で、踏段と踏段の段差が4mm以下の場合にのみ1.6m以下、手すり中心間の寸法は2.1m以下となっています。
また、欄干(内側板、エスカレーターの手すりの下の壁の部分)の幅(ステップの上面から600mmの高さの位置での内側板の幅)は1200mm以下、透明(ガラスパネル)型か非透明(ステンレス等の鋼板パネル)型かなどにも分かれます。
「手すり」は、手すり駆動ローラー(手すりを駆動させるためのローラー)、ステップリンク(ステップとの速さを合わせるためのリンク)となっています。

エスカレーターにはさまざまなバリエーションがあって、車椅子兼用のタイプ(車椅子利用者が1人で利用する事はできず、操作と介助をする専属の係員が必要)、中間踊り場付(エスカレーターの中間に踊り場(水平な部分)がある)、螺旋(らせん)状型(エスカレーターがらせん状になっています)、動く歩道(人が乗る部分は平らで階段状にならないため、エスカレーターとは構造が少し異なります)などがあります。

エスカレーターの設置場所は百貨店や大型スーパーマーケットなどの商業施設、駅、空港、フェリーターミナルなどの交通機関の乗り場、病院やホテルなどにあります。
エスカレータはステップが自動的に動くので、一度乗り込めば次の階に到着するまで立っているだけですが、急いでいる場合はさらにステップを移動して速くする事ができます。
動いている中での移動はバランスを崩して転倒や将棋倒し事故を招く危険がありますが、日常の中で多く見られ、左右どちらかの片側に一列に並ぶように乗り込み、反対側を急いでいる利用者が通れるように空けておくのが、暗黙のマナーとなっています。

エスカレーターにも事故防止のための装置(非常停止ボタンなど)がありますが、それでも限界はありルールを無視して使用された場合は死傷者が出ています。わずかな時間だからこそルールを守るようにしてください。
今日はエスカレーターについて話しました。


2005年 3月 7日 クジラ(鯨)
クジラ目(鯨目)は、哺乳綱に属する水生動物のグループの一つです。また、クジラはクジラ目に属する動物の総称です。ちなみに生物分類上、クジラとイルカの間に明確な境界はありません。

クジラは海に住む大きな生物の中でも大きなものです。その事から「大きい」を意味する「千、万、億、兆、京」の「京」を当てて、魚偏に京と書いた字でクジラ(鯨)を表わしました。

クジラの代表格とも言えるシロナガスクジラは、地球史上でも最大の体重(約130t)を誇っています。オキアミやプランクトンを食べるヒゲクジラ類と、魚類やイカ類を食べるハクジラ類では、食性が異なりますがどちらも広い意味での肉食性です。基本的には海の生態系の上位を占め、また多様な進化に成功した水棲動物です。
約5千〜6500年前にカバ類に近い偶蹄類から進化して海中生活に適応していきます。手がヒレ状に、足は退化させ尾ビレへと形を変えました。断熱用の毛皮も無くし厚い皮下脂肪を蓄える事で低温に対して強くなりました。見通しの利かない水中では視覚よりも聴覚を発達させ、さらには空気を吸う機会も少なくなった為か嗅覚も著しく退化してしまいました。
それでも陸上で生活していた名残は多分に残していて、陸上生物と同じ様な器官を水中生活に上手く適応させ、さらには水中専用の特殊な器官も発達させました。そのため繁栄できたと考えられています。

クジラは頭頂部にある鼻孔から肺呼吸をしています。この鼻孔から空気を溜めて海に潜り、再び海面で鼻孔から息を吐き出します。それが噴気(ふんき)で通称潮吹きです。白く見えるのは、クジラの体温が35〜37℃で肺に大量に溜めた息が温かく、それが一気に噴出され冷却される事により白い霧状になるからです。
また、シロナガスクジラなどヒゲクジラ類の鼻孔は2つ、マッコウクジラやイルカなどのハクジラ類は1つだそうです。
クジラは鼻道の皺の振動で声を出します。いびきもかくようです。また、音は下顎(あご)でとらえ、音伝道組織を通って内耳に届きます。低い周波数から高い周波数も聞く事ができるそうです。
クジラは110年以上生きる可能性があるとされていて、年齢は耳の穴に溜まる耳垢(耳垢栓)によって調べる事ができます。クジラは1年で冷たい海と暖かな海、エサを食べる時期とあまり食べない時期を繰り返すために耳垢が縞模様になって残ります。
この耳垢の年輪を数えてヒゲクジラ類は年齢を査定します。ハクジラ類の場合は歯の年輪で調べています。

日本では伝統的にクジラ漁が盛んでしたが、国際捕鯨委員会による捕鯨禁止の決定によって現在、指定された種のクジラについては、調査捕鯨以外の捕鯨をしなくなっています。ただし、未指定の種のクジラは、引き続きクジラ漁の対象になっています。

昔の日本ではクジラの事を「イサオ」「イサ」と呼んだそうで、万葉集では「イサナ取り」が海、浜、灘にかかる枕詞として、十二首に詠まれています。
今日はクジラについて話しました。


2005年 3月 6日 イルカ(海豚)
イルカ(海豚)は、哺乳綱クジラ目に属する水生動物のうち、体長約4m前後の小型のものを呼ぶ通称名です。

イルカは動物学的にはクジラ目に属していて、クジラ目はヒゲクジラ亜目とハクジラ亜目に分けられています。そしてイルカは全てハクジラ亜目に属しています。また、○○イルカ科となっていてもイルカとは限りません。
例えばゴンドウクジラやシャチはマイルカ科に属しています。クジラとイルカの区別は単に大きさによるものらしいです。地域によって違いがありますが、大体4m前後を境としているようです。

イルカは両顎(あご)に歯があり、人間と同じような眼球が両側面についています。頭頂部に呼吸のための独立した噴気孔をもち、そこから肺呼吸しています。睡眠は泳ぎながら一度に30分ほどとり、一定方向に回転しながら眠る事が知られています。
体形は紡錘状で、背びれは鎌形で横に広がっています。前足に相当する部分にヒレがあり、後ろ足は退化してわずかに骨のカケラとして体内に残っています。全般的に好奇心旺盛で人懐っこく、船に沿って泳いだりしてその姿を人間に見せる事が多いですが、凶暴な側面も持っている事が知られています。

イルカの知性はその潜在的可能性が古くから指摘され、世界的にも数多くの研究者の研究対象になっています。ただ、イルカの研究の中で過大に報告されている事もあったりするそうです。
ちなみに、イルカは食用として敬遠されていますが、これは知性を持つから云々よりも、肉が固くて調理がしづらく味が苦いのと、酸化が早くて管理が難しく、なおかつ血管の走り方が独特なため寄生虫の心配が多いからみたいです。

イルカはギリシャでは神聖な動物でした。それは船乗りたちに航海の季節を教えたのと、海神POSEIDONの使いであると信じられていたためです。
今日はイルカについて話しました。


2005年 3月 5日 珊瑚(サンゴ)
「さん(3)ご(5)」の語呂合せと、珊瑚が3月の誕生石である事から3月5日を珊瑚の日としています。

珊瑚は刺胞動物の一種で、クラゲやイソギンチャクの仲間であり、世界に約800種の珊瑚が確認されています。珊瑚の最小単位をポリプと言い、ポリプの群体となったものが、私達が目にしている珊瑚です。
体は口、消化管、筋肉、触手などからなり、簡単な構造を持った原始的な動物です。色は、珊瑚の体内に存在する褐虫藻というプランクトンの色素によるそうです。
珊瑚の歴史はとてつもなく長く、古生代の初めに現われて、中生代、新生代を通して生息していました。しかし同じ珊瑚の仲間でも、時代の変化とともにその種類や生態は、様々に変化していました。そのため珊瑚の化石は、示準化石(化石によって時代がわかる)、示相化石(化石によって環境条件の広がりがわかる)として重要になっています。
長い時代を生息してきた珊瑚なのですが、不思議な事に、古生代の終わりにある種類の珊瑚が絶滅してから新しい種類の珊瑚が出現するまで約500万年間、地球上のどこにも珊瑚が見つからない時代があったそうです。

珊瑚礁を作る珊瑚(宝石の珊瑚とは別のグループ)は石灰質の骨格をもっていて、これが積み重なって珊瑚礁という巨大な地形が作られます。また、珊瑚は体内に膨大な数の藻類を共生させていて、その光合成生産によって一般に生産の小さな熱帯海域にあって高い生産を維持しています。
生物の住み場所である地形とエサである光合成生産を珊瑚が提供する事によって、珊瑚礁は海洋でもっとも高い生物種の多様性をもっています。多様な生物の一部は熱帯に住む人々の食糧資源にもなっています。
多様な生物が作り出す様々な物質の中には、医薬品や付着生物の忌避物質など私たちの役に立つものがたくさん存在する可能性があり、珊瑚礁は遺伝子資源の保存の場としても着目されています。
さらに珊瑚礁の光合成生産と石灰化は炭素循環にも関わっており、これらを制御する事によって生態系を活用したニ酸化炭素の固定技術を開発するための研究も行なわれています。

ですが、近年珊瑚礁は、地球規模の環境変動や地域的な環境悪化のため破壊される危機にあっています。沖縄においては、1972(昭和47)年の日本復帰以降に行われる農業基盤整備事業が赤土汚染の最大の原因となり、珊瑚の生態系に多大な影響を与えています。また、農業基盤整備事業の他に道路や空港建設等も同様の影響をもたらす事が判明しています。
さらに、珊瑚はストレスに対して弱いため、大気の異変による海水温の上昇、並びに紫外線の増加により、白化現象(珊瑚の体内に共生する褐虫藻が出ていき、珊瑚本来の色が現れる現象)が引き起こされます。長期に渡る白化現象は褐虫藻からの栄養供給遮断を意味し、珊瑚は死に至ります。
これらの影響から珊瑚、珊瑚礁とその生態系を保護するために、既に様々な政策がとられていて、現在も破壊された珊瑚礁の回復・保護のために考えられています。

珊瑚は生態系を支える海の森みたいなものなのかもしれませんね。その森をなくしてしまわないように注意したいものです。
今日は珊瑚について話しました。


2005年 3月 4日 ミシン
ミシン発明200年を記念して日本家庭用ミシン工業会(現在は日本縫製機械工業会)が1990(平成2)年に、「ミ(3)シ(4)ン」の語呂合せからミシンの日と制定しました。
ちなみに「ミシン」という名前は、「sawing machine(裁縫機械)」のmachineがなまったものだと言われています。

最初にミシンらしきものが作られたのは1589年、イギリスのウイリアム・リーという人物が、妻が毛糸を編んでいるのを見て、機械編みを考えたのがミシンの元祖と言われています。ただ、現在のミシンとはずいぶん違ったものであったようです。
一番有力な説として、イギリスのトーマス・セントが、1790年(寛政2)に環縫いミシン(1本の糸で連続して鎖状に縫い上げる:チェーンステッチミシン)を発明して特許を取ったのが、実用第1号と言われています。
ところが、これが世界に広まったわけでもなく、これで大儲けしたわけでもなく、何故かその後83年間特許庁の書庫の中で眠ってしまいます。その理由は何かの間違えでこの画期的な考案が、機械の部門としてでは無く衣料品の部門に分類されてしまっていたからです。
その間に、アメリカでは何人もの発明家の手によってミシンが開発され、特許も取られました。ただし、実用化まではされていませんでした。
そのうちに1846(弘化3)年、エリアス・ハウが実用的なミシンを開発し特許を取得しましたが、事業化が上手くいかずいろいろしているうちに、アイザック・シンガーが同じようなミシンを開発して特許しエリアスは訴訟を起こします。それから1854(安政元)年に和解します。
この和解でシンガーは製造販売権を得て、積極的なセールス活動を開始して「シンガー」ブランドで、売り始めました。また、シンガーは世界ではじめて、割賦販売方式を発案し「シンガー」ミシンの拡販に多大な貢献をしたそうです。
その後もアメリカでは様々な発明家によって改良されたミシンが発明されていきます。この頃、アメリカでは200社近くのミシン製造会社があったそうですが、「シンガー」社によって淘汰されてしまったようです。
話は戻ってヨーロッパでは、1873(明治6)年、ロンドンで機械製造業を営んでいるニュートン・ウイルソンは、自分の製造品の件で特許庁に書類を調べに行き、その中に、このトーマス・セントの発明出願に出会い、5年の歳月を経てその考案の記録と図面を刻明に調査し、トーマス・セントの原理に基づいたミシンを手作りで再現する事に成功します。この試みによって、88年前(当時)にトーマス・セントがミシンを発明していた事が、当時の人に明らかにされたのでした。もうアメリカ製のミシンが出回っていたんですけどね。

また、1830年代はミシンが導入されれば、縫い子(手で縫う人)が職を奪われるのではないか? という考えから、勘違いの被害妄想によって数十名にも及ぶ暴徒を工場に乱入させ、跡形も無く機械を破壊するといった暴挙が繰り返されていました。
これはどの国においても共通の事情だったらしく、それから数年後、アメリカにおいてミシンに関する素晴らしい発明を行った人物も、仕立て職人達を敵に回す事を恐れて特許申請をしなかったという話も伝えられています。

現在出回っているミシンは以下の感じになっているみたいです。
「ミニミシン」、一般的な家庭用ミシンよりも更に小型・軽量が特徴のミシンで、玩具メーカーなどが出す遊具ミシンもこの部類に含まれます。知育玩具として、簡略にミシンが何をする物かを知るには適しているそうです。
「家庭用ミシン」、主に製品の大量生産ではなく、一般家庭での使用を目的に設計されているミシンで、趣味としての洋裁など家庭使用で必要な最低限の縫い方の機能を備えている機種を指します。縫いの能力よりも、使いやすさや手軽さを追求した製品開発が行われている。機種による駆動制御機能の違いで大別すると次の3種に分かれます。
・電動ミシン、速度制御や模様選択また運転・停止などの動作機構を機械的に行っているミシン。
・電子ミシン、速度制御や模様選択また運転・停止などの動作機構に電子部品を使ったミシン。
・コンピュータミシン、速度制御や模様選択また運転・停止などの動作機構をコンピュータ基板に集約し制御するミシン。機械的な機構を簡素化する事により複雑な操作を可能とします。自動糸切機構や、刺繍機能などを搭載している機種も多くあります。
「職業用ミシン」、もとは油の常駐を必要とせずにメンテナンス性を重視し、サイズをコンパクトにする事で、内職などの家内縫製作業の効率を高める事を重視したミシン。古くはシンガーミシンの開発番号から103(百三)の愛称で呼ばれたそうです。
「工業用ミシン」、アパレル産業など繊維製品の生産に主に使用されるミシンを指します。縫いの品質と生産性に重点を置いた開発がされていて、各工程において最適なミシンが選択できるように様々な機種が用意されています。複数の機能が違うミシンを併用する事により、製品を生産するのに用いられているそうです。

ミシンを選ぶ時は用途や使用頻度などを考えた上で買うのが一番です。
例えば、年に数回しか使わなかったりちょっとした直し程度に使用するくらいなら2〜3万円くらい。毎月必ず使うなら5万円くらい。毎日のように使うなら5万円くらい、または職業用などといった具合になります。

ミシンの場合は修理ではなく調整(みるだけ)だけなど、うさんくさい部分もあるみたいなので、事前にある程度調べておいた方が良いみたいです。自分に合ったミシンを手に入れられると良いですね。
今日はミシンについて話しました。


2005年 3月 3日
日本耳鼻咽喉科学会が1956(昭和31)年に、「み(3)み(3)」の語呂合せである事と、三重苦のヘレン・ケラーにサリバン女史が指導を始めた日である事、電話の発明者グラハム・ベルの誕生日でもある事から、今日3月3日を「耳の日」と制定しました。
耳や聴力への関心を高め、聴覚障害の予防・治療を徹底する為の記念日です。

耳は聴覚と平衡感覚をつかさどる器官で、外耳・中耳・内耳で構成されています。音波は外耳・中耳・内耳の働きによって、電気信号(神経インパルス)に変換されて脳に伝えられて脳で音として認識されます。
人間の耳は大体1000〜5000Hzぐらいの音にもっとも敏感です。それより高い音や低い音に対してはやや鈍感になります。内耳は体のバランスを保つ機能にもかかわっています。

「外耳」は、耳介・外耳道・鼓膜からなり、周囲の環境から届いた音を聴覚器官へと伝えます。耳介は音波を集め、外耳道で音波をラッパの管のように音を増幅させて中耳に伝えます。音波は鼓膜(外耳の奥にある薄い膜)を振動させます。この鼓膜の振動が中耳に伝わります。
「中耳」は、空気で満たされた腔で、人間の体の中で一番小さな骨である耳小骨(つち骨・きぬた骨・あぶみ骨)がてこの原理で鼓膜の振動を強くして内耳に伝えます。中耳には2つの小さな筋肉(耳小骨筋)もあり、つち骨に付着した鼓膜張筋は音の調子を整え、耳を保護する働きをもっています。これらの筋は大きな音に反応して収縮する事で、耳小骨の動きを抑えて音を伝わりにくくします。この反応は聴覚反射と言い、大きな音によるダメージから繊細な内耳を守るのに役立っています。
耳管は中耳と鼻の奥を結ぶ細い管で、外の空気を中耳の中に取り入れる働きがあります。ものを飲みこむと耳管が開き、鼓膜の内外の空気圧を等しくして、中耳に水がたまるのを防ぎます。空気圧に差が生じると鼓膜は圧の低い側にふくらみ、耳が詰まったような不快感や痛みが生じたり、音が聞こえにくくなります。飛行機やトンネルなどで、急な気圧の変化で鼓膜にこのような圧力がかかった時は、つばなどを飲みこむと自然に耳の中に空気が入り、鼓膜が元に戻ります。
「内耳」は、複雑な構造をもち、聴覚器官である蝸牛(かぎゅう)と、平衡器官である前庭の2つから構成されています。
リンパ液で満たされた蝸牛の全長に沿って、非常に小さな毛状の細胞があります。中耳の骨の振動を通して伝わった音波によって蝸牛内の液体が押し出される際に、毛状の細胞はしなります。蝸牛の各所にある有毛細胞は、それぞれ異なる周波数の音に反応し、その振動を電気信号(神経インパルス)に変換します。電気信号は、蝸牛神経を通って大脳に伝えられ、大脳皮質の聴覚をつかさどる部位がその信号を認知・処理した時「音が聞こえた」となって、それが何の音なのかを識別します。
半規管は、リンパ液で満たされた3つの管が互いにほぼ直角に交わったもので、三半規管とも言います。頭を動かすと管の中のリンパ液も動き、動く方向によって1つの管のリンパ液が他の2つより大きく動きます。管の中の有毛細胞がこのリンパ液の動きに反応して電気信号を生じさせ、頭がどの方向に動いているかを脳に伝えます。

こうして複雑な仕組みの中で聞こえるようになっているので、外耳・中耳・内耳のどれかに問題があれば、聴覚に影響が出ます。一般に加齢とともに難聴を生じるそうです。
難聴対策に補聴器がありますが、その人の耳の状態や環境などで最適条件が違うため、医者などでしっかりと調べてもらった方が良いと考えられています。
「補聴器」は、簡単に言えばマイクで音を拾って増幅し、イヤホンで耳から聞くというだけの簡単な増幅器です。しかし、それ以外に微妙な調節機能と使用方法を持った精密な医療機器の一つです。 難聴の種類や程度はいろいろありますが、すべてに合う補聴器というものはないそうです。

普段から聞こえているとあまりに気にしないかもしれませんが、耳も大事な器官の一つです。少し聞きずらい、耳鳴りがする、音が耳に響く、何か耳に詰まったような耳閉感がある、など聴覚の異常があれば、すぐに聴力検査をしてみてください。
今日は耳について話しました。


2005年 3月 2日 シャチ(鯱)
シャチ(鯱、学名Orcinus orca)は、クジラ目マイルカ科のハクジラの一種で、海の食物連鎖の頂点にいるそうです。

シャチは正式な和名を「シャチ」もしくは「サカマタ」と言い、「シャチ」の語源は「(魚を追い込む事で)漁を助け、海の幸をもたらすもの」に由来しているという説があります。他に「タカ」「タカマツ」「クジラトウシ」という漁師言葉を起源とするらしい呼び名もあります。
シャチの学名「ORCINUS ORCA」はラテン語で「冥府の魔物」という意味です。かつてはどん欲で残忍な動物と考えられていた事から「KillerWhale(殺し屋クジラ)」という呼び名が付けられていました。
1960年代後半以後、多くの研究者の努力により、シャチは複雑な社会と繊細な感覚を持った生き物である事が明らかとなり、 鯨類自体に対する世界的な認識の変化も手伝って、嫌われる事はあまりなくなってきているようです。

シャチは白と黒の体色と、最大で2mにもなる背びれが特徴です。雄(オス)は成長と共に背びれや胸びれが大きく目立っいきます。雌の背びれは鎌形で高さも雄の半分くらいになるそうです。パッチと呼ばれる白い模様は個体によって微妙に異なり、背びれと合わせて個体識別の材料になっています。
体長は雄が10mで体重は9t、雌(メス)は8mで体重が4.5tにもなります。生息域は北極〜赤道〜南極までの全海域にいるそうです。また、回遊型と定住型に分けられます。野生では雌(母親)を中心にしたポッド(群)を形成しています。寿命は雌の方が永く70〜80年生きると言われています。40歳以上の雌は更年期があるとも考えられています。
野生では主に海獣類・魚類が食糧となります。ですが生息域により「海獣類」だけ、「魚」だけを糧としている群があり、その個体の大きさや微妙な骨格の違い、背びれの違いなども見られるそうです。ハクジラの中で他のクジラやイルカを襲う種としては最大で、事実上海洋生物の頂点になっています。
泳力も優れていて最大で時速60kmにもなるそうです。白黒の体色はシルエットをごまかす作用があり、攻守共に役立っていると考えられています。

かつては、世界的にシャチは資源として捕獲されてきました。日本の沿岸でもかなりの頭数(千頭以上)のシャチが乱獲されたようです。現在は保護目的で、展示用や研究用に飼育するための捕獲も制限されています。
また、海洋生物の頂点でもあるため、生き物が分解できない汚染物質が体内に多く蓄積されている事も問題になっています。

シャチは特に好奇心が強く、飼育下で人間を観察しているような行動を見せると言われています。見ているつもりが見られているのかもしれませんね。
今日はシャチについて話しました。


2005年 3月 1日 鮫(サメ)
鮫(サメ)は、一般的に関東地方ではサメ、関西地方ではフカが多く用いられ、山陰の出雲地方ではワニと呼ぶ場合もあります。日本だけでも呼び名がこれほど違っていて、鮫にもいろいろな種類がいる事がわかります。
鮫の仲間は現在、400種以上存在すると考えられていますが、研究者によっては500種近くいるという人もいます。

鮫は、魚類の中の軟骨魚類の仲間です。軟骨魚類は、骨格が主に柔らかい骨、軟骨から成りたっています。対するのが硬骨魚類で普段よく食べられる魚で硬い骨を持っています。
軟骨魚類は、「全頭類(ぜんとうるい)」と、「板鰓類(ばんさいるい)」に分かれ、鮫やエイの仲間は「板鰓類」に入ります。鮫は一般的に紡錘形、エイは平たい体をしていますが、鮫とエイは種によって非常に似通っていて区別しにくいものもいるそうです。
そこで、簡単な見分け方にエラ(鰓)の位置があります。鮫はエラが体側部(体の横)についていて、エイはエラが腹面に位置します。ちなみに鮫やエイの仲間の場合、エラは本当は鰓孔(さいこう)と呼ばれるそうです。
鮫の特徴は軟骨、歯、顎(あご)、鱗(うろこ)、体形、ヒレ、エラ、奇網にあります。
鮫は軟骨魚類の仲間ですが、最近の研究で軟骨魚類は硬骨魚類から進化したものであるらしい事がわかってきました。海ではより軽い軟骨でできているほうが、すばやく動けるのです。ただし、軟骨は化石にならないため、昔の鮫の研究を困難にしてしまっているそうです。
歯は、独自の進化を遂げたもので、象牙質の核がエナメル質で覆われていて、それが顎としなやかに繋がっています。なので鮫の歯は比較的抜けやすくなっていますが、歯が抜けるとすぐに次のが後からせり出してきて空いた穴を埋めます。こうして歯がどんどん再生するので、永久に歯がなくなる事はありません。
現代の多くの鮫には、顎(アゴ)に共通の構造が存在します。これらの鮫は、捕食の時により獲物を捕らえやすいように、顎がやや前方に飛び出すしかけになっています。
鱗(ウロコ)は、基本的に歯と同じ仕組みを持っています。鮫の鱗は正確には盾鱗(じゅんりん)と呼ばれています。鮫の歯はこの盾鱗から発達したものだと現代の科学者は考えています。「鮫肌」と言われるように鱗はざらざらしていますが、この鮫肌は盾鱗と盾鱗の間の小さな隙間にに水を含む事で、周りの水と摩擦を起こさないような構成になっています。この事によってつるつるした肌よりもはるかに速く、また安定した泳ぎを可能にしています。また、盾鱗は「盾」のつく名称のとおり盾の役割を果たしますが、外洋性の鮫はスピード重視のため水流安定のための機能が強く、盾としての機能はあまり果たしていません。
体形は、種類によって大きく異なりますが、基本的に平べったいか、紡錘形をしています。紡錘形の体躯は、実際イルカやマグロといった高速に泳ぐ生き物たちとそれほど変わらず、この型が水中を泳ぐのにもっとも適しているからと考えられています。この涙型と呼ばれる形で、多くの紡錘形の鮫に共通しているのは、まず頭部はやや横に平たく、身体の真ん中はやや縦に長い楕円形で、尾びれのつけ根は、また横に平べったくなっている形状だそうです。
鮫はヒレの調和的な運動によって泳いでいます。ですが、他の魚と違ってヒレを前後に動かす事ができないので、バックができません。まず背ビレは遊泳に大きな安定を与えます。第一の背ビレの後にある第二の背ビレは、体がローリングする時に調整する役目をします。胸ビレはやや後方に傾いた角度で体についていて、浮力を増大させる事ができます。さらに尾ビレは前進力を与えま、普通は上端の方が下端よりも長いのですが、高速の鮫は両方の長さがほぼ一緒になっています。
鮫は水を口から取り込み、エラで酸素を吸収してエラから水だけを排出します。これが基本で、遊泳性の鮫は常に泳いでいないと酸素が取り込めずに呼吸困難に陥って死んでしまいます。ただし、岩陰に隠れて待ち伏せしたりといった行動をとる鮫は、停止していても呼吸ができるように噴水孔と呼ばれる大きな穴が発達していて、そこからより多くの海水を取り込める仕組みになっています。
奇網は、動脈と静脈が絡み合っているものです。普通は、エラ呼吸する時に熱を海水に出してしまうため体温が低くなるのですが、静脈は熱を保っています。奇網は、動脈と静脈を近づける事によって、動脈も暖めるのです。そうして鮫の体内には暖かい血が巡り、常に水温より約5〜6℃、極端な場合は10℃も体温を高く保つ事ができます。奇網は活動的な鮫が持っています。

鮫は、非常に優れた感覚機構の集合体で、獲物や危険を察知するのにこれ以上はない能力を備えています。鮫はまず、獲物が数km以内にいる事を聴覚で聞き取り、次に臭覚で接近、そして獲物を視認し、至近距離になると獲物の出す弱い電気でより正確な位置を知り、最後に触覚、味覚で相手をエサかどうか確認すると言われています。
耳は鮫の最も優れた能力と言われています。外耳はなく、内耳で音を聞いています。40Hz(ヘルツ)以下の低周波で不規則な音を、約2kmも先から感知する事ができ、弱っている魚などの位置がすぐにわかります。また、鮫は魚のもがく時に出る不規則なパルス状の音にはよく反応しますが、船のスクリューのような規則的な音には無関心だそうです。
鼻は、狩りの時によく使われ、嗅覚は脳の3割を占めていると言われています。鮫は魚の肉に多く含まれるアミノ酸や、排泄物内にあるアミン、脂肪酸、そして血を嗅ぎつける事ができます。これらの情報から相手の距離までわかるそうです。また、何億分の1の濃度に薄められても感知した事があるくらい優秀です。
目も、種類によって差はありますが基本的に人間が考えているよりかなり良いみたいです。しかも、獲物に襲いかかる時には、瞬膜と呼ばれるまぶたのようなものや、目をひっくり返すなどの方法で、敵から目を守ります。また、暗いところでも良く物が見えます。これは光がほとんど届かない深海にすむ鮫や、夜間の狩を行う鮫に特に顕著だそうです。
ロレンチーニ瓶は、鮫にしかついていない器官です。17世紀の解剖学者ロレンチーニによって名付けられました。この器官は海の電磁波を感知するためのもので、鮫の尖った鼻先に点々と空いた穴です。この中にはゼリー状の物質が詰まっていて、そこは「瓶嚢(びんのう)」と言い、さらにそれは神経に繋がっています。この器官は、動物が動く時にだす弱い電力を感知するためのもので、地球上に存在する動物のなかでもっとも優れています。しかし、専門家によれば、この器官は相手の数十cm近くまで近付かないと機能しないそうです。そのためロレンチーニ瓶は、砂の下に隠れてしまった魚を発見して捕食する事に向いていると考えられています。また、この器官は磁気も感知する事ができ、これが何の目印もない外洋の中で磁石の役目をはたし、正確な方角を知る事ができると言われています。さらに、最近発表された学説によると、鮫はロレンチーニ瓶によって0.001℃の差まで水温の違いを感知する事が可能かもしれないそうです。
鮫は、口の中に味蕾と呼ばれる獲物の味を確かめる器官を持っています。これで鮫は、本当に口に咥えたものを食べて良いのかを判断します。人間が鮫に噛まれてすぐに吐き出される事があるのは、エサでないと判断されてるからみたいです。
側線は、鮫の鼻から尾ビレにかけて体の側面に沿って走っている線で、これも狩に非常に重要な役割を持っています。中に液体が詰まっている細管の集合体で、低周波の音や水流の微妙な流れを感知するのに役立っているそうです。この器官で魚がもがく音などの乱れた水流を感知します。ちなみに、側線は他の魚類も持っているそうです。

以上のように鮫は獲物を遥か離れた所からでも探知できるように非常に敏感な感覚器官を備えています。ですが、かえって「敏感すぎる」とも言えます。あまりに多くの獲物の臭いや音、水流が存在するところでは、混乱してありとあらゆるものに手当たりしだいに噛みつこうとします。これが有名な鮫の狂乱索餌です。

鮫の多くの種類は、魚類では珍しく卵胎生(体の中で卵を孵す)のものが多いそうです。卵胎生とは言っても鮫の種類により様々で、母親の体内で別の卵を食べて成長するもの、体内で孵っても、母親から栄養を受け取らずに、腹に抱えた卵黄で成長するものなどがあります。
他の種類の鮫は胎盤性(本当の胎生)や、卵生(固い殻で覆われた卵を産み付ける)ていたりもします。

鮫は400種以上いますが、そのうち人を襲うのは10種程度と言われています。普段は出会いませんが、素人が簡単に見分ける事はできません。
対策としては、泳ぎ回る鮫は大抵危険。急深になっている場所などに大きな鮫が集まりやすい。鮫の好きな音(魚が暴れる音など)、好きな臭い(魚の内臓や血など)、目立つ色(きらきらしたネックレスなど)は鮫を寄せやすくする。早く発見して避難する。水に入ったら周囲を確認する。水が濁っている時や夜間などは発見が遅れるので危険度が増す。鮫に手出しをしない。大人しそうな鮫でも見るだけにする。
などがあり、以上の事に気を付けるだけで安全性はかなり上がるみたいです。

鮫は結構知能が発達していて、種類によって様々ですけど理論立てて考えられる鮫や、敵や人などに対して威嚇行動をしたりします。他に鮫についてまだまだ未知数な部分もあるみたいです。
今日は鮫について話しました。



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