THE STEP TO THE GLORY OF SPANKY K

 鬼塚はライバルの辰吉丈一郎とは対照的にその言動からマスコミからは嫌われていた。ほとんどの世界戦が僅差だったため、彼の試合の記事には疑惑の判定という文字がたびたび踊った。しかし彼のストイックな姿勢に数多くの熱狂的ファンが存在し、その中のひとりに自分も数えられる。網膜剥離を患い、壮絶に散ってから早5年。伝説化しつつある彼の全世界戦をここで振り返る。


1992年4月10日(金)  東京体育館
WBA世界J・バンタム級王座決定戦
同級1位 鬼塚勝也(協栄) [判定12回 3−0] 同級2位 タノムサク・シスボーベー(タイ)
    19戦19勝(16KO)                    40戦37勝(21KO)3敗

 生まれて初めて観に行ったボクシング興行が、この鬼塚-タノムサク戦だった。鬼塚勝也を崇拝し、このスポーツにのめりこんで行ったのも、すべては1992・4・10に端を発する。俺が本格的にボクシングを見るようになったのは辰吉丈一郎(大阪帝拳)対アブラハム・トーレス(ベネズエラ)戦。その前にも浜田剛史(帝拳)の王座奪取、陥落もテレビで見ているし、大橋秀行(ヨネクラ)がリカルド・ロペス(メキシコ)が力の差をまざまざと見せつけられた試合も記憶に残っている。でも当時、野球少年だった俺は他のものには一切目もくれなかった。それが中2の後半からボクシングに興味を示すようになり、高校受験で志望校(某有名な若貴の母校)に合格することができたらという条件でこの試合のチケットを買ってもらう約束をした。結局、受験には失敗したものの、頼み込んでチケットを買ってもらうことには成功。某駅前のチケットセゾンでスタンド3階南側自由席1万円のチケットを3枚購入(母親と弟の分も)し、運命の日を待った。
 
 当日、雨が降っている中、高揚を抑えながら会場である東京体育館に向かった。千駄ヶ谷駅の目と鼻の先にある会場に足を踏み入れた瞬間に感じたボクシング会場独特の雰囲気は新鮮で、この時の感触を未だに覚えている。会場に入ってまず最初に1000円する試合のパンフレットを購入した。表紙には鬼塚がバンテージを巻く姿。このパンフレットの表紙は俺が買ったすべての中で一番センスが良く、カッコイイものだ。着いた時はまだ前座の4回戦が始まってしばらく経った頃だと思う。俺は試合をそっちのけでパンフレットを食い入る。パンフは保坂誠JBCコミッショナーの挨拶に始まり、原田政彦全日本ボクシング協会会長、少し飛んで金平正紀協栄ジム会長と続く。余談だけど、後に保坂発言によって鬼塚引退騒動が沸き起こり、原田-金平は犬猿の仲だったと記憶するが。そうこうするうちにセミファイナルが行われる。東京三太(元WBC世界ライト級チャンピオン、ミゲル・アンヘル・ゴンサレス=メキシコ)の代役、当時東洋太平洋ライト級1位にランクされていたグッシー・ナザロフ(協栄)が1ヶ月後に控える東洋太平洋タイトルの前哨戦としてタイ国同級チャンピオンでナザロフと同じ戦績を誇るノバラットナエ・ワオワラボルと対決、あっさりと2回KOに退ける。その後時間が余った為、細野雄一(角海老宝石、元日本ストロー&J・フライ級チャンピオン)のスパーリングや予備カード、太鼓の演舞で時間を潰していた。
 
 そしてとうとうメインイベントがやってくる。日本期待の鬼塚の世界初挑戦とあってショーアップも素晴らしく、ロベルト・デュラン(パナマ、元世界4階級制覇)がゲストとして招かれ(というより藤原組・船木誠勝との異種格闘技戦の為、たまたま来日していた)、両選手の入場時にはレーザー光線の使用。鬼塚はオリジナルテーマ曲「SPANKY K」をバックに登場し、黒を基調に金ラメの散りばめられたガウンとトランクスに身を包むなど、それまでの暗く、血なまぐさいボクシングのイメージを一掃させる演出だった。ちなみに近代的に生まれ変わった東京体育館はこれが新装後、ボクシング初興行である。対戦相手のタノムサクは19度防衛を果たしてリタイアしたカオサイ・ギャラクシーの後継者として、地元では早くから期待されていた選手。このカオサイ引退に伴って返上されたタイトルを争奪するのがこの決定戦で、タノムサクのプロモーター・ニワットには当然、大きな勝算を見込んでいたのは間違いないだろう。話はずれるが日本人なら区切りの20度防衛を遂げてから引退すれば良いのではなんて考えるのが自然だが(現在は残念ながら離婚してしまった日本人のカオサイ元夫人も同じことを指摘していた)、どうもタイでは9という数字が縁起が良いらしいのだ。話を元に戻そう。実は鬼塚が日本5位の時、マネージャーの片岡鶴太郎と一緒にタイヘタノムサクの試合を見に行き、試合後に控え室で握手を交わしている。その時、タノムサクにとって鬼塚など目にもかけない存在だった。だが時は経ち、ランキング上では立場は逆転して雌雄を決することになるのだ。大方の予想は鬼塚の圧倒的有利。俺もそれに対して何も疑うことはなかった。しかし当の本人である鬼塚だけはクールな反応をしていた。「今まで味わったことのない苦しみを味わうことになるだろう」と・・・。

 はたして試合は鬼塚の予測通りの展開で推移していく。初回こそ静かな立ち上がりを見せたものの、2回からは早くも打ち合いに突入。ここで鬼塚は後手を踏んでしまう。左右フックを上下に打ち分けられ、鋭い右アッパーを食うシーンが目につき、ロープを背負うことが増えてしまう。3回も苦しい状態は続き、鼻血を流し始めてしまう。4回、鬼塚は両脇を絞り込んでブロックの態勢を作るが、タノムサクはその間から右アッパーをねじ込んでいく。鬼塚がパンチを返しても、そのほとんどをきれいにブロックで防がれ、なかなかダメージを与えることができない。5回もタノムサクが前進、鬼塚が下がりながら応戦する展開に変わりはなく、とうとう鬼塚はここで右目上から鮮血を滴り落とすというピンチに追い込まれた。ここまではタノムサクの一方的なペースだった。

 世界初挑戦という事を考えると、並みのボクサーであれば、この劣勢を跳ね返すのは至難の業だ。しかし、ここから持ち前の精神力をいかんなく発揮してポイントを挽回していくのが、鬼塚の真骨頂。そして世界王座を手に取れる人間にしか持ち得ない運も大きく後押しする。タノムサクは6回から突如、アウトボックスに切り替える。セコンドからは「倒しに行け!日本人をかわいそうと思うな」という指示が出ているにもかかわらずだ。おそらく前半の貯金でタノムサク自身に余裕が出たこと、減量の影響を考えてスタミナをセーブし始めたと思われるが、これが逆に鬼塚のリズムを甦らせることになった。7回、鬼塚のワンツーが決まり出す。単発なのでダメージングブローとは成り得ないが、タノムサクは前半のハイペースが祟り、めっきり手数が減る。鬼塚の決定打が決して多いわけではない。ただ両者とも有効打が少ない以上、鬼塚にポイントが振り分けられる。8回は両者の疲労がピークに達したせいか手数が少なく、有効打は見られない。9回も鬼塚ペースで進む。10回になると鬼塚はスタートからジャブを突いて前進し、左右ショートフックを上下に打ち分け、右ストレートをタノムサクの顔面に数多くヒットさせ、完全にペースを掌握したのに対し、タノムサクからは前半の切れ切れな攻撃が完全に影を潜めてしまう。11回、鬼塚はゴングと同時にダッシュでコーナーを飛び出し、波状攻撃を仕掛ける。タノムサクの右ストレート、フックのカウンターをもらってヒヤリとするシーンもあったが、そんな局面を歯を食いしばって耐え抜き、全体的には鬼塚が手数で圧倒したという印象を与える。そして最終12回、果敢に打って出て右を幾度となく当てるが、タノムサクも右フック、アッパーを打ち返す。中盤以降、タノムサクは「これなら勝てる」と察したからか、サイドステップ、バックステップを多用して、試合終了のゴングに駆け込んだ。

 こうしてインターバルを含めて47分間の死闘は幕を閉じ、後は判定が読み上げられるのを待つだけとなった。しばしの沈黙後、山口リングアナのコールは「勝者赤コーナー鬼塚!!」。こうして鬼塚は22歳と29日で子供の頃からの夢を成就させた。抱きかかえ揚げられ涙を流しながら喜びを表現する鬼塚。一方、敗者となったタノムサクは苦虫を噛み殺すような表情で憮然とそれを見ていた。すぐにリング上でインタビューが始まる。「今日はみんなのおかげで勝てたと思う。どうもありがとうございました」とファンに対して礼を言う鬼塚。それは喜びのあまり言葉になっていなかった。直後、鶴ちゃんにマイクは向けられ「オニイは僕の宝でした。だけど今日で日本の宝になりました。オニに万歳をお願いします。オニ万歳!万歳!万歳!」という名言?が誕生したのだった。

 この戦いで脚光を浴びたのは、試合よりもむしろ判定問題だった。マスコミは一様に”作られたチャンピオン”と騒ぎ立て、それに対して鬼塚はクールな反応を示したことのよって、ますますバッシングを煽る結果となってしまった。しかし多くの熱烈的鬼塚信者はこのようなマスコミに対しても媚びないという姿勢に強く惹かれるのだろう。問題の判定に関して、会場で実際に採点をつけながら観戦していた俺の見解を述べると、試合が終わった瞬間は「勝った!」と思った。細かな俺の採点は下に載せてあるのでそれを参照して欲しいが、オフィシャルのジャッジと採点傾向はほとんど同じだった。2〜5回はタノムサク。それ以降は鬼塚。確かに試合全般を通じて有効打はタノムサクの方が多かったかもしれない。ボクシングは相手に与えるダメージの大きさを競うスポーツである。しかし、採点はあくまで各々ラウンドが独立した戦いの積み重ねという概念の上に成り立っている。つまり全体的印象を競うのではなく、どちらがより部分点を得たかを競うものなのだ。現在、世界戦では極力どちらかに優劣を振り分ける採点法を採用している。このシステムだと、10−9・4とつけたい時も、10−8.6とつけたい時も同じ10−9となる。ダメージの大きさが明白に異なるにもかかわらずだ。この試合においてタノムサクの取ったラウンドは10−8.6が多く、鬼塚は10−9.4が多かった。よって現行の制度上、鬼塚とタノムサクに下された採点は何ら問題はなかったように思われる。もしこれを是正したいなら、20点法を採用するしかない。20点を基準として、微差の場合は1点、明らかな差がついた場合は2点、ダウン相当のダメージで3点、1度のダウンで4点を減点する方式だ。

 残念だったのは元世界チャンピオンという人がこれらに対して批判を浴びせていたことだ。具体的な名前を挙げるとガッツ石松(元WBC世界ライト級チャンピオン)。アンタは選手の立場を知ってるはずなのに・・・。大体、あんたに採点のことでとやかく言われたかないね。井岡弘樹(グリーンツダ、元WBC世界ストロー,WBA世界J・フライ級チャンピオン)の世界戦を解説なんかは、ひどいもんだったぜ。平気で何ラウンドも10−10をつける。挙句に果てにデビット・グリマン・メンデス(ベネズエラ)戦の時にはルール上存在しない、「スタンディングダウンを取れ!」と連呼。現役時代は名選手だったかもしれないけど、解説するんだったらもっと勉強するべきじゃないの(今もDIREC TVで解説してるけど見れないからよくわからない)。まあ元世界チャンピオンの解説者で真のプロといえるのは浜田(剛史)さんくらいしかいないよね。だからあちこちでひっぱりだこになっている(大橋さん、もう少しガンガレ!)。そういえばこの時、輪島(功一、元WBA世界J・ミドル級チャンピオン)さんはちゃんとフォローしてくれていた。もちろん苦言も呈していたと思うけど、さすが炎の男は温かみのある、度量の大きい人だ。

 取り乱してしまい申し訳ない。結びに取りかかろう。プロボクサーは試合内容で魅了させるのも必要だが、それ以上に勝つということが重要である(あくまで選手の立場として)。よくこの試合はどうしても勝たなければいけない試合とかいうが、プロボクサーにとってそんなものはない。もちろん立場の違いにモよるが、プロボクサーは全ての試合に勝たねばならない。なぜなら他の競技と違って、年に3試合くらいしかこなせないプロボクサーはひとつの負けによって、大きな回り道を余儀なくされるからだ。だから1試合にかける集中力にすさまじいものがある。そんな才能に秀でているからこそ、鬼塚勝也は世界の頂点に辿り着くことができた。L.Aのウエストミンスター・ジムでスパーリング・パートナーを務めたことのある、ジェシー・リード・トレーナーの門下生、当時IBF世界バンタム級チャンピオンのオーランド・カニザレス(アメリカ、後に16度防衛を達成して、同級の防衛記録を樹立する)にはまだまだ遠く及ばないが、彼のようにプロフェショナルの香りを漂わせるチャンピオンに成長するのをこの時、期待していた。


鬼塚 勝也 10  9  9  9  9 10 10 10 10 10 10 10 116 
        @  A  B C  D E F  G  H I J  K
タノムサク  10 10 10 10 10 9  9 10  9  9  9  9 114 

1992年9月11日(金)  東京・日本武道館
WBA世界J・バンタム級タイトルマッチ
チャンピオン 鬼塚 勝也(協栄) [TKO5回1分26秒] 同級5位 松村 謙一(JA加古川)
        20戦20勝(17KO)               19戦12勝(7KO)6敗1分

 この当時、日本ボクシング界は活況を呈していた。鬼塚のほかに辰吉、井岡、ユーリ海老原(協栄)、平仲明信(沖縄)の5人が王座に君臨し、そのうち平仲が9月9日、辰吉が9月17日に防衛戦を控える世界戦ゴールデンウイークの最中に鬼塚の初防衛戦は挙行された。2日前、同会場で行われた平仲のこれまた初防衛戦は、前評判を覆し、挑戦者6位のモーリス・イースト(比)がまさかの11回TKOでタイトルを奪取し、日本ボクシング界にとっては波瀾の幕開けとなった。そしてすぐに第二弾はやってくる。疑惑の判定で貼られたレッテルを払拭すべく鬼塚はリングに上がる。常日頃から「どんなにみっともなくてもいい。とにかく勝ちにこだわりたい」と言い続けているものの、数々の批判を受けて気分がいいはずはない。今回の挑戦者は同じ日本人の松村。タノムサク戦の時に松村陣営は挑戦状を出していた。それを鬼塚サイドは正々堂々と受けて立つ形となった。日本人同士の世界戦はこれが7年ぶり7度目である。ここで面白いエピソードを紹介しよう。中野新橋在住のタレント松村邦洋がある時、銭湯に行ったところ、そこに中野坂上在住の鬼塚がいた。その存在に気がついた松村は「鬼塚さん。松村です」と挨拶したら、鬼塚はファイティングポーズをとりながら「松村 松村」と繰り返していたというのだ。ちょうどその時は松村戦の前だったというオチがつくのだが(これは弟から聞いた話なのでうまく伝わっているか不安だが)。ボクサーの方の松村は警官や中学校の体育教師(そういえば俺の中1の時の担任と雰囲気が似ている。ちなみにその人も体育教師)という安定した職を捨ててボクシングの世界に飛び込んできた異色の選手。過去にタノムサクに勝って東洋太平洋フライ級王座に就き、WBA世界同級チャンピオンのカオサイ・ギャラクシーに日本で2度(神戸と横浜)、WBC世界同級チャンピオン文成吉(韓国、ムン・ソンギル)に敵地で1度、挑戦しているが、いずれも敗れ去り、この32歳7ヶ月での4度目のチャレンジは選手生命を賭けてのものだった。地元、兵庫県高砂市での週2回のウエートトレーニングで筋力をアップさせ、リングネームを34画が天下獲りの最大幸運数ということで謙二から謙一に改名するなど、世界王座奪取に向けてでき得る努力をやり尽くした。しかし鬼塚にとって松村は安全パイと見られていた。

 まず最初に挑戦者松村が観客の手拍子に乗せて入場する。会場にいる観客はおそらく鬼塚ファンの方が多かっただろう(会場に足を運んでいないから詳しいことはわからないが)。しかし彼等も松村の立場を良く知っているため、温かい拍手で出迎えた。俺も鬼塚ファンでありながら松村も頑張れと言う心境だった。次いで鬼塚が真新しいWBAのチャンピオンベルトに先導されてリングに登場した。ほどなく試合開始のゴングが打ち鳴らされる。立ち上がり、両者ともに好調さを披露した。二人ともスピードがあって体の切れがいい。鬼塚はスピーディーかつ力強い左ジャブで突き放しにかかり、松村は左右フックで仕掛けて乱戦に持ち込もうとする。完全にボクサー型V.Sファイター型の図式だ。また、鬼塚からは初防衛戦の緊張感からくる固さは見受けられない。この回はさほど差はないものの、鬼塚がポイントを奪う。2回になると両者の実力差が顕著に表れてくる。真っ正直に正面から左右フックで切り込んでいく松村の攻撃パターンはあまりも単調で、鬼塚はこれらをお見通しとばかりにブロックしていく。反対に鬼塚の左ジャブはより精度が増し、ワンツー、右ショートストレート、切れ味鋭い逆ワンツー(右ショートストレートから左ショートストレートのコンビネーション)で自在に攻め込み、完全にペースを掌握する。3回はスタートから松村が積極的に打って出るが、鬼塚は冷静に対処し、主導権を挑戦者の手には渡さない。打ち合いでも鬼塚のパンチの多彩さが松村を上回る。この回から鬼塚のパンチで松村の動きが止まったり、バランスを崩すシーンが増える。そして試合は4回に大きく動く。開始直後、松村の右フックがヒットしたのをきっかけに激しい打ち合いに突入する。ここで松村も意地を見せるものの、1分過ぎに鬼塚が右ショートで老雄の動きを止め、すかさず左フックを返すと、たまらず挑戦者はたたらを踏み、そのチャンスに鬼塚は連打を浴びせる。松村も懸命に逃げるものの左アッパーが決まると、レフェリー森田健はロープにもたれかかった挑戦者を見てダウンを宣告する。規定の8カウント後、試合は再開されるが、22歳の若きチャンピオンは容赦のないパンチの雨を降らせて2度目のダウンを奪う。残り時間はたっぷりあり、松村にとっては絶体絶命の危機だったが、ここで瀕死の状態の挑戦者は果敢に打って出て、執念でゴングになだれ込んだ。その精神力は驚嘆すべきものがあったが、松村のリミッターには余力は残っていなかった。5回、松村は必死に抵抗を見せたものの、1分過ぎに捕まり、ロープ際で連打を浴びせたところで、レフェリーは両者の間に割って入った。この瞬間、難しいと言われる初防衛に鬼塚は成功した。

両者とも自分の能力をMAXまで出し切った素晴らしい試合だったと思う。しかしこの時点で二人の間には大きな能力値の差が存在していた。つまり実力差がそのまま出てしまったということである。上り調子の鬼塚と下り坂の松村の違いもあった。松村は「筋力はアップしているし、走るスピードも速くなっている。衰えは感じない」と戦前、インタビューに答えている。誰だって自分の衰えなど認めたくないもの。まして体力を商売道具とするスポーツ選手ならなおさらだ。松村に自覚症状があったか、なかったかは定かではないが、ダウン後のヒザの柔軟性に肉体的限界を見て取ることができた。かといってワンサイドの面白みにかける試合だったかというととんでもない。鬼塚はスピード感あふれる活きのいいボクシングで見ている人を惹きつけ、松村の敢闘精神には誰もが頭が下がったことだろう。松村は技量をアピールすることはできなかったが、世界タイトルマッチに相応しい戦いをしてくれたと思う。この試合のレポートを書いたボクシング・マガジン誌の記者、石本氏は「4度目の挑戦もまた善戦以上の結果を残すことができなかった松村だが、この試合でもまた勇気と闘志を十分に証明して見せた。何ひとつ恥じ入ることのない立派な戦いぶりだった」と挑戦者に対する感想を誌上に掲載したが、俺もこれにはまったくの同感だった。

 見事な快勝を収めたものの、世間はまだ鬼塚を世界チャンピオンとして認知してくれなかった。その理由は挑戦者が弱かったからというものだ。でも自分が納得するためにリングに上がり続けている鬼塚はそのような雑音には耳を貸さない。顔には出さないがこの試合の会心の勝利は鬼塚も嬉しかったようだ。リング上でのインタビューに冷静に受け答えした後、リング下に詰めかけたファンに握手をして回った。このような光景はその後、見ることはなかった。控え室に戻ってから祝勝会が行われた。祝勝会がテレビで生中継されるのは史上初だったらしいが、この時のインタビューでは「ちょっとだけ大きくなれたような気がする」とチャンピオンは話していた。有森裕子(女子マラソン、バルセロナ五輪・銀,アトランタ五輪・銅メダリスト)のように自分を誉めたりすることはない男だけに、よほど満足感にあふれていたのではないか。

 松村のジムの会長である熟山進之助会長は「ジムの会長として(松村を)辞めさせます」と明言した。限界を感じた上での親心だったのだろう。俺ももう松村のファイトを見ることはないだろうと思った。松村の家族ももう辞めて欲しいと思ったに違いない。しかし、自分が限界だということが信じきれない松村はKTTジムに移籍して再起を果たす。1993年4月6日、東京・後楽園ホールで日本J・バンタム級1位にランクされていた松村は日本同級王座に挑戦する。相手は川島郭志(相模原ヨネクラ)。試合はまたもや一方的になり、川島の巧さ、強さばかりが目立ち、鬼塚戦と同じ5回TKOで敗れ去る。相手が悪かったとはいえ、何もすることができなかった松村は今度は再起することはなかった。それから松村はプロゴルファーを目指すと伝えられたが、プロテストに合格したという情報は聞かない。アグレッシブなファイター・松村謙二(本名)は今、何をしているのだろうか?

 鬼塚対松村戦の翌日、大きなニュースが流れてくる。翌年(1993年)4月にオープンする福岡ドームで、「鬼塚を(当時WBC世界バンタム級チャンピオンだった)辰吉丈一郎に挑戦させたい」と金平正紀会長が発言したのだ。これに対する辰吉本人の口から発せられたコメントは「やりたいというなら、やってもかまへん。悪いけど鬼塚やったら安い仕事ですわ。圧倒的な勝利で勝つし、恥かくのは向こうですよ。(中略)せっかくつかんだ世界チャンピオンの座やのに、もったいないことになりますよ」というもの。結局5日後に辰吉がビクトル・ラバナレス(メキシコ)に敗れて計画はなくなるものの、この一件を機に辰吉の鬼塚に対する口撃はエスカレートし(これは辰吉のターゲットが薬師寺保栄に変わるまで続く)、鬼塚教の俺は辰吉を応援する熱が一気に冷めていった。

1992年12月11日(金)  東京・有明コロシアム
WBA世界J・バンタム級タイトルマッチ
チャンピオン 鬼塚勝也(協栄) [判定12回 3−0] 同級1位 アルマンド・カストロ(メキシコ)
      21戦21勝(17KO)                   53戦39勝(34KO)12敗2分

 本来、鬼塚は初防衛戦でこのカストロと指名試合をこなさなければならなかったが、待ち料を払ってカストロとの防衛戦を引き延ばした。あらかじめ断っておくが、防衛戦の挑戦者を決めるのはチャンピオン自身ではない。よって鬼塚が望んでカストロを避けたのではない。それは彼をよく理解してくれている人ならわかってもらえるだろう。プロボクシングの世界にはビジネスも存在する。そういったものが絡んでのことである。ただカストロは対戦相手が逃げたくなるような選手であることは確かである。世界のトップ選手としては多い12敗を喫しているが、これは過去のこと。ここ2年間では14戦して13勝全KO1敗の見事な数字を残している。唯一の敗北も前年(1991年)12月にカオサイ・ギャラクシーと対戦した時もので、この試合でも2回にダウンを奪っている。ボクシングスタイルは細かなテクニックはないものの、それを補って余りあるパワーと、どこからでも手が出る荒っぽいファイターで、モンストゥルオ(怪物)というニックネームがぴったりと当てはまる、文字通りの最強の挑戦者であった。前評判は上昇気流の乗る鬼塚が有利ではあった。がそんな中、不安視する声が少なくないのもまた事実であった。

 これが臨海地域にある有明コロシアムで行なわれる初のボクシング興行だった。本来はテニス専門の競技場であるこの建物は近代的な素晴らしい作りになっている。現在こそ、そうでもなくなりつつあるが、この当時は交通の便が悪い所に位置していた。しかし、会場には9000人の観衆が詰めかけた。とはいうものの、この会場には暖房設備がない。季節は冬の真っ只中。鬼塚がカストロと戦っている時、見ている人たちは底冷えする寒さと格闘しなければならなかった。7時40分、カストロはアリ−ナに姿を見せた。この入場時に、TBSの宮澤アナはカストロの意気込みをこう表していた。「右のパンチで鬼塚を打ちのめし、左手に大金を掴んでメキシコに帰る」と。ここからもカストロのハングリーさがうかがえる。そして真打ち、鬼塚の登場である。いつもと同様、黒のガウンを纏っている姿に変わりはない。だが大きな違いがある。トレードマークの後ろ髪をバサッと切っているのだ。それは我々に新鮮な雰囲気を与え、また爽やかで幾分、若返って見えた。こういった行動もこの試合に対する気持ちの表われだろうか。一連の儀式の後、とうとう試合が開始された。1分過ぎ、早くも大きな山が訪れる。鬼塚がロープ際で右のロングフックをもらってぐらついたのだ。その後の2分間、鬼塚はロープを背に左右フック、右アッパーを食らい続けてしまうのだ。所々で右ストレート、左フックのダブルを返すものの、この回はカストロが手数、有効打で大きく上回り、ポイントで先行する。傍目にはかなりのピンチに見えたのだが、鬼塚本人はここでも冷静だった。「ダウンすることも想定していたから、冷静に戦うことができた」。これが鬼塚の強みなのだろう。2回、鬼塚は離れると左ジャブ、右ストレートを多用し、接近を受けると左右フック、左ボディを放つ。メリハリのあるボクシングを展開する鬼塚は、すぐにペースを奪回することに成功した。3回の鬼塚の力みのないコンパクトなパンチがカストロによく当たり、4回からは右ボディーストレートをよく伸ばすようになり、打ち合いにも勝つ。5回にはしきりに鬼塚得意の上から下に返す、左ダブルフックを繰り出し、これで動きを止めて右ストレートをクリーンヒットさせた。6,7,8回は基本的には足を使ってカストロを捌こうと試みる。左ジャブが冴えるが、構わず入ってこられると右を放ち、また打ち合う時にはしっかりと打ち合い、クリンチを有効に活用して、相手の突進を寸断させるなど、自分のリズムで進めていく。それにしても鬼塚は相当数のパンチを当てているのに、ダメージも見せないし、突進も衰えない。モンストゥルオの本領を発揮している。9回は打ち合いになる。鬼塚も結構、パンチをもらうのだが、ここでもスピードのある鬼塚のパンチの方が数多く、相手の体をとらえる。10回は鬼塚が距離を取って、左ジャブ、右ストレートでカストロを空転させる。11回も鬼塚がポイントを奪い、迎えた最終回。ここまでの採点は圧倒的に鬼塚がリードしている。本来なら安全策を取って、足を使ってゴングに逃げ込もうとするだろう。プロなんだから、そういう戦法は決して汚いわけでもなんでもない。WBAの立会人を務めたエリアス・コルドバ氏も「勝っているのに無理をするべきではない」と言っている。しかし鬼塚は自ら、打ち合うことを選択した。リスクだけが伴う戦術にもかかわらずだ。こういったところが我々を惹きつけたのだろう。開始と同時にダッシュをかけ、倒すために仕掛けて行った。終盤、打ち合いに最中に声をあげて自分を鼓舞する。カストロにいくらパンチを当てても効いた素振りは見せてくれない。そして鬼塚優勢な中で試合は終わった。

 判定は文句なかった。3−0、鬼塚の堂々の勝利である。勝敗を分けた最大の要因は段違いのスピード差にあった。いくら馬力があっても、カストロのパンチは相手に当たるスピードではなかった。それに比べてカストロのタフさは尋常ではなかった。やはり世界のトップ・コンテンダーになるだけのものがあった。しかしボクシングはパンチを出しても当たらなければ勝てないのである。鬼塚はうまく戦った。基本的には足を使うものの、これだけパワーがある選手を試合全般に渡って捌き切る事はできない。よって打ち合いもしなければならないのだが、その辺の切り替えが見事だった。試合運びに優れていた。そしてこの試合のなによりの収穫は、世界レベルでの鬼塚勝也の逞しさ、力強さを見せつけたことである。この試合によって鬼塚は王座決定戦後からの雑音を封じこめることができた。鬼塚勝也を世界チャンピオンとして認めてもらうことができた。この激闘によって鬼塚は1992年度の年間最優秀選手に選ばれることになった。おそらく鬼塚のベストファイトはこのカストロとの2度目の防衛戦だという人も多いのではないか。

 カストロはその後、今をときめく破天荒な王子、現WBO世界フェザー級チャンピオンのナジーム・ハメド(英)が世界を獲得する前に対戦し、鬼塚を苦しめたタフネスを発揮することなく、KO負けに退いた。そして現在はボクサーは開店休業状態でタクシーの運転手をして生計を立てているようだ。以前、鬼塚がNHK衛星の番組で旅人としてメキシコを訪れた際、カストロと対面していた。あれからもう7年、あの死闘を繰り広げた二人も既にリングを降りて久しくなっている。時は確実に流れている・・・。

1994年5月21日(金)  東京・日本武道館
 WBA世界J・バンタム級タイトルマッチ
 ャンピオン 鬼塚勝也(協栄) [判定12回 2−1] 同級2位 林 在新(韓国)
        22戦22勝(17KO)                

 鬼塚が3度目の防衛戦で迎え撃つ挑戦者は、京都にある洛翠ジムに所属する韓国人の林小太郎こと林在新(イム・ジェーシン)。韓国人はファイター型が多いのだが、この林はしっかりとした技術を持ったボクサー型。韓国では芽が出ず、日本に来てから大きく成長した選手だ。世界2位とはいうものの、さしたる実績は残しておらず、世界ランカーのエミール松島(洛翠)に大差判定勝利を収めたのが目立つ程度。協栄ジム側ではこの林を組し易しと見て、鬼塚の初防衛戦の前座に起用するなど、以前から挑戦者候補として考えていたようだが、鬼塚はこの林との対戦が決まった時、難色を示したようだ。相性的に噛み合わず、崩しにくい相手と考えていたのがその理由だ。周囲はカストロに勝ったことで浮かれていたのかもしれない。今考えると、当の本人だけが冷静な判断を下せていたのが唯一の救いだった。結局、タノムサク戦同様、鬼塚が抱いていた不安はずばり的中することになるのだ。

 なんとリングアナウンサーに以前から俺が熱望していた新日本プロレスの田中秀和氏が起用された。しかし、リングの上には上がらせてもらえない。2階の観客席からアナウンスすることになる。この仕打ちは何だろう。やはりボクシング関係者はプロレスに敵対心があるのか。そして林が緑のガウンを羽織って入場する。陣営もラクスイのロゴが入ったお揃いのTシャツを着ている。対する鬼塚はいつも通りのブラックだ。さあ、臨戦体制は整った。後は林を倒すのみだ。

 まずは林がペースを掌握する。林のシャープな左ジャブがよく当たる。鬼塚の手数は少ない。後半に入ると林は右ストレートを一発、クリーンヒットさせた。2回も展開は変わらない。林の小刻みなジャブの前にリズムを乱されたままだ。3回も林がストレートを主体にした攻撃で、鬼塚に間合いを作らせない。後半に入ると鬼塚も強引に林をロープに詰めてパンチを放つが、クリーンヒットは奪えない。4回1分過ぎ、林のワンツーがジャストミートする。林はバックステップして様子を見る。攻める、そしてまた距離をとる。この攻撃に鬼塚は翻弄されっ放しだ。鬼塚が攻めても距離感が悪く、パンチが届かない。まさに鬼塚が危惧していた通りの展開だ。5回、林は右をきっかけに鬼塚をロープに詰める。そして右ストレート、アッパーで鬼塚を攻めたてる。この時、林はしきりにポジショニング、パンチの角度を変えている。これに鬼塚は戸惑ったのだろう。約2分20秒間、ロープに釘つけのままだった。カストロ戦の初回と同じような状況である。が、あの時はいくらか打ち返し、それが当たっていたが、それがない。ブレイクした場面もこの間2,3度あった。それでも鬼塚はロープから離れようとはしない。林を誘ってカウンターを狙っていたのだろうが、効果はなく、むしろそれは逆効果だったように思う。6回に入ると鬼塚の手数は増えるが、そのブローにはまだ的確さが足りない。7回もペースの奪回はできない。ようやく8回、鬼塚の左ジャブが断続的ながらに当たりだし、ボディへのワンツー・ストレートもよく繰り出す。完全とは言えないものの、確実にペースは流れてきているようだ。9回、ついに鬼塚に山場が訪れる。右ショート・ストレートがカウンターでアゴを捕らえると、林はヒザをガクッと落とし、鬼塚の体にしがみついてくる。林は足を使って逃げ、チャンピオンはそれを追う。林は手が出ない。鬼塚はいいパンチをいくつか当てる。しかし、思うようにパンチをまとめられず、チャンスを逸してしまう。相手はダメージが明らかにあるはずである。しかし一度狂った歯車はなかなか戻せないのだろうか、易々と相手を休ませてしまう。ポイントはゲットしても、もったいないラウンドだった。11回も鬼塚は明白な印象を与えることができず、12回にはロープに詰められ、右ストレート、アッパーの連打を仕掛けられる。応戦したものの、大事なところで失点してしまった。林は終わった瞬間、満面の笑みを浮かべて万歳し、勝利をアピールした。

 当時、俺はこの試合の採点を114−114のドローとした。しかし、今もう1度ビデオを見てみると、鬼塚の劣勢は否めない。でも結果は鬼塚の防衛と出た。林はリング上で苦笑いを見せて、悔しさを噛み殺していた。林が勝てなかった一番の要因はパンチ力に欠けることだろう。そして、挑戦者としての積極性にも欠けていたかもしれない。後に林本人の口からこう語られている。「自分が最大限の力を出し尽くしていなかった、燃え尽きるような試合をしなかった。判定が微妙だっただけにもっと手を出していたら、前に出てポイントを取りに行ってたら、今、俺はチャンピオンだと思うと悔しくてたまらない。もっとも試合自体も勝っていたとは言い切れない。ただ、あの時のジャッジが全員中立国だったらなとは思うけど・・・。鬼塚選手は根性のあるいいチャンピオンだった」。このように林は相手を称え、素直に自分の消極さを認めていた。問題なのはこのコメント内にもあるように3人のうち2人のジャッジが日本人だったことにある。この構成の理由は林が日本のジム所属の選手だからということだが、この時の林は興行の都合で本名を名乗り、韓国人としての挑戦ということになっていた。これが林小太郎(洛翠)としてのチャレンジでならまだわかるが、このケースでは中立国のジャッジを配しておかなければ公平さに欠けるというのはわかっていたはずだ。

 この防衛戦は鬼塚にとってタノムサク戦以上に苦しい戦いだったように思う。それでも鬼塚は勝ち残れたことに満足していた。途中でサミングを受け、それが苦戦の引き金にもなったようだが、それに対しても「反則を取られなければテクニックと一緒」と言い訳めいたことは言わなかった。とにかく鬼塚は望み通り、生き残ることができた。これはプロとして非常に重要なことである。

 そして数日後、大事件が勃発する。保坂JBC・コミッショナーがあくまで私見と前置きした上で「鬼塚は負けていた」と発言したのだ。この時、鬼塚は欧州に旅行に行っており、日本には不在だったが、代わりに金平正紀会長が激怒。「鬼塚を引退させる」と言って一騒動が起きたのだ。俺は少しは焦ったが、本人が発言したわけでなかったので、それほど心配はしなかったと記憶している。帰国後、鬼塚は「自分の引退は自分で決める」(確か?)と言って、金平会長もフライングによる引退騒動は収束した。
                            



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