がたん、とイスの倒れる乾いた音が、正樹の耳を打った。
子供はもう寝る時間よ、と、22時を回って早々に母親に寝かされたのだが、小学3年生にもなってこんなに早い時間に寝る友達なんていやしないよと思いながらも黙ってベッドにもぐりこんだのは、今夜、父親が久しぶりに深夜にならずに帰ってくると電話があったからだ。

友達の父親が、皆、0時を回って帰宅するのかどうかは、それはなんとなく聞くに聞けずに至るのだが。

思ったとおり、母親は帰宅したばかりの父親にくってかかっているらしい。

アタシハモウガマンデキナイ、シャタクグラシナンテタクサン
コドモガショウガクセイニモナッテセンギョウシュフナンテ
アナタハオカアサンノミカタナノソレトモアタシノ、ドッチノ

正樹が小学生になってから、しばしば繰り返されるようになった言い合い。親は正樹の耳に入れたくないと思っているのか、正樹の前では決して口論などしなかったが、もう4年も繰り返し同じ口論をしている。
仕事の忙しい父親が、たまに早く帰ってくる時には。

どうやら、母親はこの社宅の上階に住んでいる、ブチョウノオクサンとかカチョウノオクサンが嫌いであるようだ。正樹には、どのオクサンなのかがさっぱり分からなかったけれども。
だが、きっと、昼間からヘンな匂いをぷんぷんさせている、あのオバサンの事だろうと正樹は心の中で確信していた。
オバサン達の子供はとても楽しそうなおもちゃをたくさん持っているのに、一度も貸してもらったことがないし、そもそも遊んだこともなかった。

「上の階の子と、ケンカしちゃだめよ」

ケンカは勿論、嫌われるようなことを一つもしていないのに、彼らはいつだってニヤニヤしながら、正樹達を後目に制服のある小学校に通って、高価なおもちゃをみせびらかすようにして遊んでいたから、母親に諭されなくても近寄るつもりなどは無かった。
それにケンカをしてしまったら、きっと母親がとても困るんだろうと、なんとなく分かっていた。

だが、正樹が気を遣う以上に、母親は社宅内の関係に気を遣っており、神経をすり減らしていたようだった。
学校から家に帰ると、家の中が真っ暗で、母親がキッチンの狭い机の前でじっと座っている事が何回かあった。 正樹に気付くと、にこりと笑う様は、子供心に怖いとすら思ったものだ。

一方の父親の言い分は、きまってこうだ…

シャタクノホウガヤスイダロ、アパートヤチンタイナンテドブニステテイルヨウナモノダ
コドモガイエニカエッテキテハハオヤガイナカッタラサミシイダロ
オレダッテムカシハオフクロガイエニイテクレテウレシカッタンダヨ

二人の口論は何時も平行線、決して結論は出やしない。そもそも、お互いの言い分を聞いているのかすらあやしいという所だ。

狭い社宅の一室に与えられた自分の部屋−ほんの4畳半ほどの−の小さなベッドで、二人の声が聞こえないように布団を深く被って寝返りを打ち、正樹は眠るために目を閉じた。

眠りが楽しみだった。なぜなら、とても楽しい夢を見られるから。そして決まってそれは、自分が鳥になったかのように、高原や森や海、そしてビルの谷間を飛んでいく夢。

『どこか遠くにとんでいけたらいいのに』

翌日、正樹は道徳の授業の作文で、そのタイトルの詩を書いた。


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