「珀氷」

空中に現れたその女に、正樹は不快な視線を投げつける。その表情は、10歳の子供には、あまりにも似つかわしくない。

「なんのことだ」

問われて、目の前に陽炎のように現れた女―――珀氷―――−は、蛇のような琥珀色の瞳を伏せた。風が、その漆黒の長い髪をからめとっていく。

「その身体には正樹の心があるのでしょう。あなたの意のままになさるのは、どうかと」
「必要ない物は、切り捨てる。何が足かせになるかわからないからな」
「子供の意識を押さえ込んで意のままに操る事ほど、むごい事はございませぬ」

紅色の唇が、反論を許さぬというようにきつく結ばれた。
立ち上がり、正樹は吐息をつく。

「3年前までは、私もそう思っていたが…」

正樹の瞳に映り込んでいた景色が、珀氷へと映る。

「黄妃様は、この街にあれが出ることを予測され、この子供の身体に私を封じたのだろう。私に封じを解く術が無いことを知っておられた上で」

しかも、自分がこの身体を使えるのは、子供の意識が無い時だ。そうでない時には、意識が弱っている時や、不安定な時に、干渉できるくらいで。
だから、と続けた。

「この街の魔物は、私が―――正樹が始末せねばなるまい?お前達は都心の守りで精一杯なのだから。だとしたら、私は、正樹の行動を誰からも干渉されない方が動きやすいと思ったまで。…無論、この身体で何が出来るかわからないが…」

夕日で作られた、小さな長い影に目を落とし、彼は小さく苦笑した。
ムカデほどだったら、さして力も要らないのだが、と口の中で呟く。

「黄妃様のお考えは、わたくしには分かりませぬ。…黄妃様は母上に、宝物殿の鍵をお貸しくださった」
「鍵を?…母上に!?」

珀氷はうなずいて、ゆっくり彼の近くに歩み寄った。何も無かった空間に光が満ち、その中から2冊の古い本が現れた。

「一冊は、天上の魔法書。わたくし達では読むことはかないませんが、兄弟の中でも魔法に長けた、凰藍、あなたにならと」

そして、と取り出したもう一冊の表紙には、金色の刺繍文字が施されていた。

「これは人間の書いた魔法書。母上が仰るには、人間の目でしか読めない物だとか。いずれも、この中に、封印を解く鍵があるやもしれぬとの事でした」

ぶ厚い本を受け取ったものの、正樹―――否、凰藍は信じられないというように瞬きをした。が、ある事に気付いて吐息が漏れる。

「『時空の魔法』は、まだ使えないんだったな…。ということは、時間を逆戻りして分離する、というような方法は使えないか…」
「凰藍」

厳しい声に、凰藍はふと目を上げた。

「母上は、正樹の事を心配なさっておいでです。正樹はまだ子供です。どこまでがあなたなのか、どこまでが自分なのか、はっきり分かっていないのでしょう。まず最初に、意識体を完全に分離する魔法から研究なさい、と伝言をうけております」

そうでないと、と、珀氷は柳眉を顰める。

「後々、正樹自身の成長に悪影響があるでしょうし、それに戦いの最中に正樹の意識が目覚めてしまったら、どうします。あなたは意識だけではなく肉体も正樹の中に封じられています。二人が共に危うくなってもわたくし達は助けることができませぬ。万が一の事を、よくお考えなさいませ」

黄妃が助けてくれる、とは、凰藍は思わなかった。そんな簡単に逢えるレベルの存在ではない事を知っているからだ。

「凰藍、わたくし達の手助けにも限界があります。どうか、気を付けて」
「…わかっている。礼をいう。母上にも、皆にも、心配しないよう伝えてくれ」

蛇の瞳を持つとは思えないほどの優しく、柔らかな笑みと共に、珀氷の纏うその幾重にも重ねられた衣が徐々に透けていき、やがて、溶けて消えた。


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