その週末、めずらしく会社からの呼び出しもなく家に居た父親と、何故かとても機嫌がよさそうな母親とが揃った夕飯の食卓で、思いがけない発表があった。

「家をね、買おうと思うんだ」

いえをかう?
一瞬、なんのことやらと首をひねってしまった正樹に、父親は照れ隠しのような笑いを見せた。

「まぁ、父さんの安月給じゃ大した家も買えないかもしれないけど、電車が通る頃にはきっと値上がりして買えなくなってるかもしれないしね」

余計なことはいわなくていいの、と母親に小突かれて、慌てて咳払いをする父親。こんな両親をみるのは、正樹にとっては本当に久しぶり―――もしかして初めてかもしれなかった。

「えー、まぁ、そこで、母さんにもパートで働いてもらおう、と思って。正樹が帰ってくる時にはもしかしてまだ居ないかもしれないけど、正樹はいいか?」

母親が前から仕事に出たがっていたのは確かだったし、家もずいぶん欲しがっていたことをよく知っていたので、当然、正樹に否応もなかった。

―――その方が、都合がいい。

ふつりと湧いた思考に疑問など抱かず、正樹は笑って「もちろんOKだよ」と答えた。

男は、酔っていた。
何もかもが気にくわなかった。ささいな事にめくじらをたてる女房にも、小さな失敗をいつまでもねちねちと叱責する上司にも、夕方ともなると人の気配が失せる街も。
2軒飲み屋を廻って、追い出されるようにして転がり出た夜の道には、切れかかった街灯が薄仄かに点滅しているだけだった。

ああ、タクシーをよばねぇとな―――

どのみちこの街にはタクシーが頻繁に通るような大通りも、駅も完成していなく、手近な公衆電話で呼ばないとならなかったのだが。

暗いアスファルトを舐めるように歩くうち、どこかの民家のブロック塀にしたたか頭をうちつけ、男はそのまま座り込んだ。
なにもかもがどうでもよくなっていた。

―――どうせ、死んだら、みんな手をたたいて喜ぶだろうさ―――

だいたい、喜ぶ人間すらいるかどうかもあやしいもんだ、と考えながら、塀にもたれて闇色の空を見上げた。
月が無い夜だった。会社の同僚と月見をしたのは、ほんの二週間ほど前のことだったろうか。

―――ああ、お月さんともサヨウナラだなぁ―――

そうしてうつらうつらと目を閉じかかった時、視界の端を何かが過ぎった。
猫だろうか。それにしては、大きい。屋根を音もなく飛び越えながら、だんだんと男の近くまで近づいてくる。

薄闇の中、その大きさが猫などではないこと、そして、その影がすでに尋常ではないことが、徐々に男の思考を研ぎ澄ましていった。

―――ウソだ。アレは、あの話は、酒飲みのヨタ話じゃなかったのか。

男の歯が上下に噛み合わずにかちかちとふるえ始める。充血したその目を、すでに影から離せなくなっていた。
影の形は男の常識の範囲にはありえない形をしていた。
そして、ついに、男との距離は、50mを切った。
道の反対側の二階建て木造アパートの屋根におりたった影。
頭とおぼしき部分には、あまりにも巨大な目と口があり―――否、丸い頭部のほとんどは目と口だけという方が正確だろう―――、ひょろりと長い首の下に続く胴体には無数の足。昆虫の足である。

夜の闇に慣れた男の目には、はっきりと全てが映った。

―――殺される。殺される。殺される。

化け物の巨大な目は、男を捕らえていた。巨大な口がじんわりと開き、鋭い牙が立ち並ぶのを男は見た。

化け物が、男を見据えたまま、すっと身を低くした。
パニック状態の思考の中でも、男はそれが獲物を狙う時の姿勢だとはっきり感づいた。だが、どうしようもなかった。

―――たすけてくれ、たすけてくれ、しにたくない、しにたくない、ころされる。

汗が目の中に入り、視界がにじんだ。
―――瞬きを一つする間に、「それ」は、男の目前にいた。
体全体から発する腐臭。化け物は、完全に獲物を捕らえた歓喜からか、目を細めた。

―――たすけてくれ、たすけてくれ、どうしてオレが、たすけてくれ

化け物が、男の頭部を飲みこまんとばかりに、その大きな口を開いた―――。


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