なにか、速いものが空を切り裂く音がした瞬間、男の視界がいきなり開けた。
目の前にあった鋭い歯と赤黒い口が、急に消えたように男には思えた。

代わりに、佇んでいたのは、小柄な影。
子供のように見える。右手に、彼の背丈では大きすぎるとも思える細身の刃を握っていた―――剣、だろうか。

「怪我はないな」

闇夜にあって、その顔は見えない。声は、しかし声変わりをしていない子供のものだった。男が本当に怪我をしていないのかを確認するでもなく、足下で首と胴とを切り離された異形の物を一瞥すると、それに背を向けて、ふわりと浮き上がった。
まるで、重力が彼の周りだけ全く影響していないかのように、彼は静かに身体を浮き上がらせ、二階建てアパートの上まで揚がった後にスピードを増し、飛び去っていった。

男の目の前で、いつしか異形の物は腐臭を放ちながらぐずぐずと腐り果て、やがて小さな黒い液体となった。

―――はじめて、男が、長い長い悲鳴を上げた―――。

次の日、春日大和市は蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。
目と口だけの頭、長い首、ムカデのような胴体を持った化け物に襲われたと、ほぼ同時多発的に通報があったのは3件。うち、1人は化け物にのしかかられた時に無数の傷を負ってしまったが、全治2,3週間。ほかの2人は完全に未遂であった。

3件に共通しているのは、「子供に助けられた」こと。いずれも全く面識がないか、もしくは顔が判別できなかったかで、子供の特定には至っていない。
だが、その子供が人間かどうかは、被害者たちは懐疑的だった。
子供は空を飛んで、剣を振りかざしていた、というから、少なくとも彼らや警察やマスコミの常識では、人間ではないはずだった。

地元紙のみならず、TVのワイドショーや全国紙までもが、こぞって春日大和市に押し掛けた。まず穴はどこに空いたのか。被害者が襲われる特別な理由があったのか。子供とは、誰なのか。
人口5万人の、大きいとは言い難い街は、にわかに沸き立っていた。

正樹のクラスも、例外ではなかった。
朝の学級会がはじまる前には教室や廊下では各々が持ち込んだ新聞やスポーツ誌を広げ、学校中がものすごい騒ぎになっていた。
普段、自分たちの街にどのくらいの小学生がいるかなど全く興味もなかったのだが、地方紙によると小学生で約3,200人、中学生で2,000人ほどが市内にある7校に通学しているらしい。
もちろん、話題の子供が春日大和市以外から飛来したとも考えられるが、小さな街の、声変わり前の4,000人弱の子供に該当するのなら、それはすごい事だと子供達は噂しあった。

「ねぇ、五十嵐君はどう思う?」

話に加わらず、ランドセルの中身を机の中に移し替えていた正樹に話しかけてきたのは、女子の中でも比較的活発な遠藤幸だ。
男子は湊太の一件もあってか、積極的に話しかけようとはしないが、女子はさほど気にしていないようである。

「どうって?」
「だから、あの助けに来てくれる子供って、どういう子だと思う?」

幸は、化け物がきたらこうやって倒すだとかああやって倒すとか、好戦的な話に終始する男子よりも、物静かな正樹に意見を求めたいようだった。
少し考えてから、正樹は思っていたことを口に出してみた。

「助けにきた子供がどうっていうよりも、きっとまた怖い化け物が現れるかもしれないっていう方が、僕にはずっと怖いと思うんだけど」

黒板側に集まっていた男子から、笑いが爆発した。

「五十嵐、おまえなんだよ、怖いのかよ」
「よい子は日が暮れたらおうちへ帰るんでちゅよ〜」

本気か冗談か、男子達が正樹を嘲弄するのを聞いて、幸が机を威勢良く叩いた。一瞬、男子がびくっと後ずさる。

「怖いに決まってるでしょ!大人だって食べられそうになってるんだよ!」

それは全くの正論だったのだが、何か言い返さないとならないぞと男子達は意固地になってしまった。―――こういう時の子供の反応は、たいがい決まっているものだ。

「うわー、なんだよ、遠藤は五十嵐とラブラブなのか〜!?」

誰かがわひゃひゃと嗤ったあと、他の男子も同調するように手を叩きながら「ラーブラブ、ラーブラブ」と調子を付けて連呼しだした。
怒りか恥ずかしさか、真っ赤になって幸は正樹を振り返ったが、幸の目には当の正樹は相変わらずぼーっとしているように見えた。
怒りの矛先は、黒板でなおも騒ぎ立てる男子達から正樹へと移った。正面に向き合って、詰め寄る。

「五十嵐君、なんかいうことないの!?くやしくない!?」

「…べつに」

瞬間、幸の右手が踊った。振り上げられた平手が、正樹を打ち据える音を、誰もがきく―――はずだった。
直前で右手の手首を掴んでいたのは、正樹の左手だった。
左腕で右手を抑えたり、払いのけたりするのなら、判らないでもなかった。
が、どうやったらいきなり伸ばされた右の手の、それも手首を掴むことなど出来るだろうか?

「…僕は、間違ったことは言っていないと思うから、いいんだ」

幸の右手が自由になった。返す手で、もう一度叩こうとは、幸は思わなかった。逃げ去るように、女子が集まる輪の中に戻っていった。
一瞬静まりかえった教室に、再び喧噪が戻ったのは、それから更に数秒後だった。

「今の」
「…うん」
「すごくなかった?」

今度は別の意味で、男子は正樹を遠ざけたいと思ったようだった。
一方、女子からの視線の意味を、正樹はまだ知らずにいる。

別クラスに行っていた湊太が級友からその話を聞いたのは、全校放送で一時間目が自習になると連絡があった後だった。
多分、と前置きを置いて湊太が級友達に話したのは―――正樹が小さい頃からスイミングスクールに通っていて、体力や瞬発力はあること。いくら幸だからといって、女子の平手をうけとめるくらい、さほど難しくないんじゃないかという事だった。

そうだよな、たかが女子の平手だもんな―――と、声をひそめて男子は納得しあった。
そうだぜ、気にすることなんかないんだから―――と、湊太は相づちを打った。
自分自身は、全く納得していないのにもかかわらず。

「あたし、こわい」

幸は隣の席の女子にささやきかけた。

「あたしの手を掴んだときの五十嵐君、なんだか違った」

気のせいだよさっちゃん、あたしは格好良かったと思うし、と笑ってたしなめられても、幸は首を振った。

きっとあの目は―――なんだか身体が動かなくなるような視線は―――気のせいじゃない。すぐに、普段通りに戻ったけれども。あたししか見なかったんだろうけど。

幸は、右の手首を押さえていた左手をそっと退けてみた。
白い手首に、くっきりと赤い指の痕が残っていた。


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