どこか、奥底の方から、何かの―――波だろうか―――押し寄せてくる『何か』が、そこにあった。
決して、怖い物ではない。ふと、新聞で見た化け物の姿が浮かんで消えた。
怖い物を怖いと思う―――認識するのは、きっと大切なことだと思うのだけど。

声だろうか。
厚い霧を通して、何かが押し寄せてきていた。が、霧にはばまれて、そのものは見ることも、聞くこともできない。

誰?

最初は小さく、次には大きい声で霧の向こうに呼びかけた。
答えは、ない。
代わりに届いたのは、暖かい風だった。
ふんわりと。色をつけるなら、橙色とピンク色の中間。

なんだろう?

つと、腕を伸ばして触れてみた。風は、指先でまぁるくなった。
―――風は、暖かい気持ちだった。

ふ、と目を開けると、カーテンの隙間から朝の光が射し込んでいた。
10月中旬の、鋭くはない、暖かい日差しが部屋を明るく包んでいた。
時計を見ると、午前7時。そろそろ起きる時間だ。目覚ましのスイッチを切って、布団を退ける。
心に、暖かい気持ちが満ちていた。
夢だ、という思いと、夢ではないかも、という思いが交錯する。

―――なんだったのか、よくわからないけれど。

きっと、悪い物じゃないと思う。悪い物じゃなければ、別にいいや。
ずいぶんすっきりした気持ちで、正樹はうーんと伸びをした。

その日、登校すると、くつ箱の前で、おはようと声をかけられた。振り返ると、幸だった。
なんだか普段と違って、自分の前では珍しくにこにこしているのが不思議に思えた。

「五十嵐君ち、犬飼ってるの?」
「犬?…たまに散歩に連れてる犬だったら、あれは近所に住んでるおじいちゃんの。足が悪いから、散歩を手伝ってあげてるんだ」
「ふーん、そうかー」

幸と連れだってくつ箱から教室へ向かう階段を上がりながら、どこかで犬の散歩しているのを見たんだろうなと思った。

「うちもほら、コリーじゃない?あ、名前、ユイっていうんだけど。なんか、仲良しになったみたいだったから、また、公園であったらよろしくね」

…仲良し?また?またって、何時のまたの事?
正樹の頭の中にクエスチョンマークが無数に飛来していた。幸と公園で会ったことは、ないはずだ。それに幸が犬を飼っていることなんてしらないし、もし、どこかで散歩をみかけたというのでなければ、どうして幸が正樹が犬を―――それも一緒のコリー犬を―――連れているのを、知っているのだろう?

目線を漂わせて懸命に記憶を辿る正樹に気付かない様子で、幸はなおも続ける。

「もっと、笑えばいいのに」
「え?」
「昨日、犬に笑いかけていたみたいに、学校でもみんなと遊べばいいのにって」

―――昨日。
たしかに、隣の吉田さんに頼まれて、散歩をしていて、公園まで行ったのは覚えていた。
なんだか眠くなって、ベンチに腰掛けた。
気が付いた時には、ランは砂だらけで、息も荒かった。
もし、その時に幸が来ていて、ランと幸の犬であるユイが遊んでいたとしたら。

「謝るって、すごーく勇気いるかも。こう、やるぞって気持ちかな。うん。…又聞きだからよくわかんないけど、高崎君に謝るんだったら、あたしは早いほうがいいんじゃないのかなって思うよ」

話がポンポンとよくとんで、正樹は少し混乱していた。
なんで、湊太の話になるんだろう。謝るって、一体なんなのか。それよりも何よりも、昨日って一体。
声に出す前にあれこれ考えて結局無言のままの正樹に、階段を早く昇り終えた幸が振り返った。

「やだ。あたしまだ許してもらってないじゃん」

3Fの踊り場に、素っ頓狂な声が響く。幸は元々声が大きいのだから仕方ないとしても、周りにいた同じフロアの子供達を一斉に振り向かせるには充分だった。
それに気付いて、慌てて正樹の腕をひっぱり、廊下の柱のスミに引っ張り込んだ。

「うん。あたしは、ごめんっていったから。…五十嵐君に、いいよって言ってもわらないと、困るんだけど」
「…」

既に正樹の頭はぐるぐるのぐちゃぐちゃだった。よくわからないけど、と頭の中で前置きをして―――そうでないと離してもらえなそうだったので―――、2度3度、こくこくと頷いた。

「僕は、ホントに気にしていないから」
「ホントのホントに?」
「うん、ホントに。いいよ」

ようやく幸はほっとした様子で、手を離してくれた。正樹の方が、数段ほっとしていたことなど気付かないようだったが。

「それじゃ」

教室から顔を出した友人達の元へ幸は駆け去り、正樹はぐるぐるの頭のまま、立ちすくんだ。
とりあえず、幸の気持ちは落ち着いたようだったが―――正樹にはどうにも気になることが多すぎた。
寝ている時に、何かが起こったことは確かだった。
幸は公園にコリー犬を連れてきたら、正樹(だと思う)がランと遊んで(?)いた。
幸は正樹(らしい)にごめんと謝った。謝って、気が済んだ。
多分、正樹(かもしれない)は謝っても答えられなかった―――もしくは、今さっきの自分みたいに、気圧されたのかもしれない。

でも、それは、間違いなく、自分ではなかった。ランを連れていたというのだから、そっくりさんではないだろう。
もしかしてニジュウジンカクとやらだろうか、それとも怪奇特集でやっていたドッペンナントカだろうか、ムユウビョウかもしれない。

正樹はなんだか泣きそうになってしまった。幸の言葉にウソがなければ、ほんとうに、自分はどうしてしまったんだろう。

たまたま通りかかった副担任の教師に気分でも悪いのかと聞かれるまで、正樹は腕を組んで悩み続けていた。


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