学校が終わると、たいていの場合正樹はまっすぐに家路についた。クラブにも入っていなかったし(4年になれば、必ずなにかに入らなければならないという決まりはあるようだったけれども)特に残っておしゃべりをする友人がいるでもなかったからだ。

が、今日は、違った。
正樹の足は校庭に向かっていた。否―――湊太の所へ。
昼休みには、考え事が多すぎて話をすることもできなかった。結論が出るわけでもなかったけれども。
が、幸の言葉が気になって仕方なかった。

―――謝るなら、早いほうがいい。

今日は朝から頭がすっきりしていた。振り返ると、誰かに話しかけるのが今まではずいぶん億劫だったし、話しかけられるのもなんだか嫌だったのだ。
けれども、あの夢のせいだろうか。
暖かい気持ちがすうっと心に入ってきたような瞬間に、色んな事が手元に戻ってきたような気がしていた。ずっと忘れていた宝物が、思いがけない所から見つかったような。

湊太は、だが、グラウンドにはいなかった。
湊太だけではなく、サッカーの玉を蹴っている姿が、どこにもない。サッカー部の練習は毎日あるはずなので、練習がないということはないはずだったが。
あちこち首を回して探してみると、何時もサッカー部と一緒に練習をしているテニス部の上級生が、たまたま近くをとおりかかったので聞いてみた。

「ああ、サッカー部?なんか今日は試合とかで、南部小学校だったかな、行くって昨日言ってたぜ」

がっくりと肩を落として、正樹は今度こそ家路についた。
坂を下りながら思っていた―――湊太に謝れなくて、逢えなくて、こんなに残念に思ったのなんて、いつぶりだろう?

その日の夕飯の時にも、母親からびっくりしたように「正樹、あんた、今日はずいぶん喋るわねぇ」と言われ、そうかなぁと笑うしかなかった。
そうしたら、もっとびっくりされた―――「そんなに笑うなんて、珍しい」。
そんなヒドかったかな、と首をひねる正樹に、母親は、そうそうと言いながら書類の入った袋を見せた。

「お父さんから昨日あずかったんだけど。新しい家の契約書」

正樹は、ぱっと顔を上げ、母親はそれをうけて嬉しそうに頷いた。

「ちょっと古い家だから、リフォームしないとならないみたい。半年くらいしたら、引っ越しよ」

家の中にも、暖かい風が吹いてきたようだった。

「まぁ、あたしなんかが論評するのはどうかなーとは思うけど」

ベッドに腰掛けた女が、正樹に笑いかけた。手首に巻きつけた金色の装飾が、蛍光灯の明かりをうけて光る。短いスカートから現れた細い足は、見事な脚線美を誇っていた。

「多分、アレじゃないかなー。凰藍、あんた、ずいっぶん正樹にちょっかい出してたでしょ。かっわいそうに、友達もどんどんいなくなっちゃってさー」

魔法書から目を離して、凰藍はにがりきった顔を女に向けた。

「必要と思ったまでだが?」
「そーうかしら?珀氷だってあんたの意見にはさいしょっから同意してなかったとは思うけどぉ?」
「…それで?人間界の事にお詳しい、蒼胡はどういう見解なのか?」

あとすこしで調理師免許がとれるらしい獅子の姉は、不敵な笑みを見せる。

「人間の女の子が謝ってきたってことを、なんとか伝えようとしたって言ってたよね。まぁ、結果的には失敗してるんだけど。―――ちょっと、にらまないでよ。で、ね。今まで、正樹に伝える為には…なんていうかな。圧力?こうしろとかああしろとか、そういう方ばかりじゃなかった?友達つくるなーとか、余計なことに興味をもつなーとか。―――…なんで知ってるかって?だって珀氷は色々と教えてくれるんだもん。だから、さ。正樹に対するアプローチが、かなり違っていたんじゃない?正樹の気持ちを尊重しつつ、っていうのかな?」
「…気持ちを尊重…」
「そ。心があるものはみんな一緒じゃない。頭ごなしにガンガンやっつけられたら、誰だって心が痛むもの。正樹自身、気付かないうちに、頭ごなしなあんたを排斥しようと思っていたのかもしれないし。…言葉が通じなくても、心は通じるんだもの。珀氷や母さまは心を分離する魔法を勉強しなさいっていってるけど、あたしは違うな。人間の心を―――奥深い所を、魔法なんかで無闇にいじるの事なんて、出来ないんじゃないかって思う」

だいたい、黄妃様は宝物殿の鍵をお貸しくださっただけで、何をしろとも仰ってないのよ―――蒼胡は自分の考えが正しいのだと、うんうんと頷いた。
―――完全には同意できかねるところはあるのだが、一理、ある。
凰藍は思い返していた。
今日一日、何時も通り学校に行く前には凰藍は正樹と共に意識を共有して、授業中は沈んで、また放課後になったら共有をした。

が、湊太に会いに行くと決めた正樹を、とめることが出来なかった。
正樹との間に、今まで無かった薄い壁が既に出来上がってしまっていた。

「今回はかーなーり偶然だったけど、効果としては上出来だわね。あたしは、対等になろうっていう気持ちが、正樹と凰藍を分離する鍵じゃないかって思うの。 あんたの心のどこかに、正樹を利用しようなんて気持ちがあるなら、まずそっちをなんとかするべきね。―――ああ、それから」

蒼胡の腕に、ふっと新聞が現れ、彼女はそれを大きくつきつけた。一ヶ月前の新聞だ。春日大和市の事件が大きく報じられている、全国新聞である。

「正樹の顔、バレちゃまずいっしょ?それもなんとかしなさいね」
「…帽子にサングラスにマスクでもしろとか?」

はぁ、こりゃダメだわと蒼胡はおおげさに溜息をついてみせた。

「正樹の身体にはあんたの心だけじゃなくて、身体もついでに封印されちゃってるわけよ。完全分離は難しくても、元々融合しているものを一面だけ出すってのは、そう難しくないらしいの」

例えば、今の自分のように、か。
正樹の意識がなければ、とりあえず自由にはなる。

魔法書の厚みをちらりとみやる凰藍を後目に、蒼胡は、じゃ、明日あたし早いからと言い残し、窓を開けて外に飛び出した。
彼女の身体は闇の中でくずれ、道を挟んだアパートの屋根に足をついた時には、金色に輝く一頭の獅子の姿をしていた。
長く優美な尾で軽く挨拶をすると、くるりと背をむける。
そして月明かりを受けながら空を駆り、何時しか消えていった。


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