足下を、何かが通り過ぎたような気がして、男は振り返った。
夕暮れの町、まだ日は没しきっていない。

―――影だろうか。

残業続きの毎日で、疲れているのかも知れない。アタッシュケースを構え直し、ネクタイに手をやって、男は再び歩き始めた。

その足が、急に止まった。普通に歩いていたはずなのに、前に進めなくなってしまったのだ。誰かに足を掴まれているというような感触はない、だが、動けないのはどうして。

男は再び振り返った。
そして、見てしまった。

―――シャープペンを持っていた正樹の手が止まった。
机の前の窓からは、茜に染まった空が眺望出来る。その空にパトカーのサイレンがこだまし、救急車のサイレンも覆い被さっていった。

胸がどきどきするのは、サイレンが鳴っているからだろうか。
宿題の国語ドリルを閉じて、窓の外をよく見ようと立ち上がった正樹は、その瞬間猛烈なめまいに襲われた。
目の前が、金色に光る。確か貧血の時には、目の前が真っ暗になって銀色の光が点滅していたけど、これは、違う―――?
思考を押しつぶす圧力に耐えようとは試みたが、努力は徒労に終わった。
その身体は床の上に崩れ落ちた。

「一人やられたわ」

緊張した声の主は、蒼胡だった。金粉の入った袋を懐に仕舞って、現れたときのように、ふっと消えた。その姿を見送ることは無かった。
凰藍として、やらねばならぬことがあるのだ。

姿勢を正した凰藍の口から呟き出た言葉は、言葉にならずに虹色の光を形作る。淀みなく紡がれる虹色の光は、やがて彼の全身を覆った。それは、魔法だった。

最初に現れたのは、金の光に包まれた、五色の一対の翼。
すらりと伸びた姿態は、身長にして180cmほどあるだろうか。
開かれた眼の色は、深い森の色を映した、緑。ふわりと舞う長い金髪は、後ろで小さな髪飾り一つでまとめられていた。
その身を覆うのは、漆黒の服。動きやすいようと配慮されたものか、さほど布は多くない。

凰藍は、次いで部屋全体に魔法を施した。この部屋に入ろうとする人間に、あたかも正樹がいるように思わせるまやかしの魔法である。
更に、自分自身にも魔法をかけた。姿を隠すための魔法であるが、これはあまり持続しない。魔法によって正樹の身体から凰藍の身体を出し、更に家に魔法をかけ、そして自分の姿を隠すのでは、凰藍の力も尽きようというものだった。
むろん、ここから飛び立つ所さえ見つからなければいいのであって、さして持続しなくてもよいのだが。

―――時間が無い。

完全に眠っている時間帯だったらともかく、まだ日が落ちる前である。
金粉の力は、10分程度が限界。
急がなくてはならなかった。

凰藍の身体が窓を乗り越え、空を舞った―――。


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