いやだわ、と女は呟いた。

声に出してみて、慌てて誰かに聞かれなかったかときょろきょろとせわしなく周りを見回すが、誰の姿もない。
日暮れ時、郊外で買い物を終え、バスから降りた時に、パトカーがバスの脇を通り抜けていったのが気になっていた。何かあったのだろうか。
空を見上げると、パトカーのサイレンがわんわんと響いているようでもある。

ここは、ちょっと市街地から遠いし、田舎だから殺人事件なんて起きたこともないし。

きっと火事か何かだろう、パトカーではなくて消防車かもしれない―――女は手に提げた買い物袋を持ち直して、バスが去った後の坂道を歩き始めた。

坂道の脇には、ブロック塀が延々と続いている。
女の記憶では、市内に数カ所しかない病院の院長先生の土地だった。

まぁ、好きこのんで坂道に土地を買ったのかなんだかしらないけども、金持ちの考えることは判らないわね。

影は、女と一緒に坂道を昇り続けていた。
―――が、突然、それを拒否するかのように、ぴたりと壁に張り付いた。

「…ひゃっ…」

女の足がぐらりと傾き、バランスを崩して、彼女は尻餅をついた。
その手から買い物袋が飛び、ばらで買ったリンゴが、坂道を重力に従って転がっていく。
慌てて追おうとしたが、動けない。
首だけ坂道の下に向かせてみるが、尻餅をついた格好のまま、それ以上動くことは出来なかった。

「ちょ…、なによ、これ…」

誰かに手をかしてもらおうと精一杯首を回して見回してみても、誰も居ない。
更に、坂を昇ってくる車も降りる車も、一台も無かった。
こんな格好のまま呼ぶのは恥ずかしいが、大きい声を出せば誰か気が付いてくれるかもしれない、と思い、彼女は口を大きく開けた。

そして。
開けたまま、 今度は頭が動かなくなった―――否、首から上は相変わらず自由だったのだが、彼女の視線の先にある院長先生の家の壁。
そこにある、自分の影から、何かが突きだしていたのだ。

それは、腕。
5本の指をめいっぱい広げて、伸ばされた、腕。 その色は赤黒く、どう見ても腐り爛れていた。
長い、黒い爪を持った指先と、女との距離は、1m足らず。
女の目は瞬きを忘れ、その喉からはひゅうひゅうという乾いた音が漏れた。

その目の前で、指は一旦ゆっくりと閉じられ、そして。
まるでバネのように指の一本一本が伸び、女の頚を鷲掴みにした。

爪が頚の後ろに食い込む。鮮血が飛び散った。女が叫び声を上げる間もない。
身体が地面から浮き、腕に引きずられるように壁に垂直に突き立とういう、その、瞬間。

銀色の閃光が空を薙いだ。

一閃目は空に、二閃目はブロック塀に向かって振り下ろされた。ブロック塀から伸ばされていた腕が、鋭利な切り口を残して二分され、女の頚を掴んでいた腕は力を失ってどうと倒れる。ブロック塀に頭が打ち付けられる、直前だった。

「…あ…、…」

女は意識を失っていなかった。地面に強かに打ち付けられはしたものの、ふるえる両腕で上半身を起こし、まだ自らの頚にぶらさがる異形の腕を振り払おうともがく。
だが、頚にめり込んだ爪が、激痛を与えただけだった。

「触らない方がいい」

涼やかな声は、頭上からふってきた。
女の前に、軽やかに降り立った姿は、銀色の細身の剣を手にしていた。異形の腕を一刀で二分したとは思えない。

―――あたしは、夢をみているのだろうか。

三度動けなくなった女の、その頚をなおも傷つけている腕に、金色の翼を持った青年―――少年と青年の中間ほどに、女には見えた―――の指先が触れた。指先からは虹色の光があふれ出し、異形の腕は、あっという間に光に包まれて崩れ落ちていく。

彼はそのままブロック塀を見据えたが、しかし、しばらくすると軽く溜息をついた。
女には、その姿すら、まるでギリシア神話の彫刻物のように映った。最も―――本物など、見たことは無かったが。
その視線が再び自分に向けられた時、女はどきりとした。あれが悪魔の腕だったら、自分の目の前にいるのはまさに天使だ―――。

「結界を解いた、まもなく道に車が戻るだろう。早く救急車を呼ぶことだな。―――毒は無いようだが、出血が多い」

金色の―――よく見ると、五色に輝いている翼が広げられた。そこからなんとも暖かい光がこぼれ落ちていき、その場に満ちる。

「…あの、」

女ははっと我に返り、お礼を言わなければと気付いた。が、金色の翼は一つ羽ばたいただけで、女の声など届かない上空に彼の姿を飛翔させていた。
やがて、その姿が夕焼け空に一閃の光を残して消えゆく太陽と同化していった―――。


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