一人でもそもそと昼食を食べ、几帳面に洗って片づけをし、自室に戻った正樹はベッドにつっぷした。
やたらと、眠かった。朝起きられないくらい眠くなり始めたのは、梅雨に入る前頃だったろうか―――それまでも、なんだかどっと疲れた事はあったのだが。
かといって授業中に眠るわけにもいかず、昼休みに机につっぷすというのが日課になっていた。
湊太や幸はずいぶんと心配してくれるのだが、いかんせん8時間はきっちり寝ているのに眠いというのは、正樹には、自分が単なるねぼすけであるという以外の理由が思いつかなかった。

西向きの部屋はまだ日がさしてはいなかったが、窓を開けてもなお暑かった。こんな部屋で寝るのも嫌だなぁとはぼんやり思ったものの、瞼が落ちてきてしようがない。
そのまま、正樹は眠りに落ちていった。

―――どれくらい、経った頃だろう。
額にじっとりとかいた汗を手でぬぐいながら、正樹が起きあがってきた。
ベッドの上に一度正座して、頭をかるく振る。目の焦点があっていない。
机に目をやって、ベッドから起きようと試みようとしているようだった。―――が、ベッドからは離れがたいように、動けないでいる。

「…は、はは、あーっっはっはっっはっはっは!」

頭上から浴びせられたのは、笑い声。
中空に浮かんで身をよじっているのは蒼胡だった。

「お、凰藍、あんたが寝ぼけてるなんて、め、めっずらし―――!」
「…」

答えが無いのを良いことに、蒼胡は更に笑い続けた。

「こりゃもー、は、は、はく、珀氷に言うしかない!言うしかないわね!!」

のどの奥で笑いながらもふわりと近寄って、蒼胡は、本当に何も言い返さないでいる少年の頭を撫で撫でする。
されるがままになっている所をみると、言わないでくれという無言のお願いに、彼女には思えた。

「ま、ナイショにしてあげてもいいわよっ、おねーさまって呼んでくれるならっ」

ちっちゃい頃は、あーんなにお姉様って呼んでくれたのに、今じゃ生意気に名前で呼ぶなんて、と珀氷に憤然と抗議したことがある。珀氷の答えは生まれたのが何分先か後かだけじゃ別にいいじゃありませんか、だったのだが。
蒼胡は常にムッツリしている弟に、かまうたびに冷たくあしらわれてしまうのが気に入らないだけだったともいえるが。

「…おねーさん」

―――ぎょっとして、蒼胡はなでなでしていた手を離した。まさか、本当に呼ぶとは思わなかった。続いて、正樹が首をかしげながら呟いた。

「…だれ?」

蒼胡の動きが、完全に止まった。正樹の焦点は、合っていた。両者の視線がぴたりと重なる。

「お…お―――っほっほっほっ、こ、これは夢よ!正樹くん、君のゆ・め!」

とっさに思いついた大嘘を正樹が信じるとはとても思えない。が、これしかなかった。
冷や汗をかきながらひきつる頬でにっこり笑うと、しばらく首をかしげて考えていたらしい正樹が、小さく、そっか夢かと呟いた。

―――よ、よかった。この子ちょっとワンテンポずれてるんだわ…。

蒼胡の心臓は早鐘を打っていた。このまま強制的にでも眠らせてしまうに限る。

「さぁさぁ、正樹くん!君は今夢の中にいるのよ。もう一度ベッドで寝れば、そのうち目が覚めるに違いないわ」

正樹は、こくんと頷いた。まだ半分寝ぼけているようなその仕草が可愛くて、蒼胡は別の意味でどきりとした。そして、次の言葉が色んな意味で決定打になった。

「…そうだねぇ…。こんなに綺麗なお姉さんが僕の部屋にいるなんて、夢だよねぇ…」

蒼胡は完全に舞い上がった。

「ええ!?綺麗な、お姉さん!?や、やっだ―――!!!も―――!」

嬉しさと恥ずかしさのあまり、蒼胡は正樹の肩をバンバンと力一杯はたいた。

「い、痛いよ…」

本当に痛くて顔をしかめた正樹の脳裏に、なんかおかしいぞという疑念がふつりと湧いた。
―――夢って、こんなにリアルだろうか?
普通は最初に思い浮かびそうなものなのだが、この時点でようやく疑問をもったあたり、正樹はやはりワンテンポずれているのかもしれなかったが。

「お姉さん…。実は、これって夢じゃないんじゃないの?」

蒼胡の動きが再びかちりと止まった。心に冷水を浴びせられたような顔に、笑いがはりついている。

「お姉さん、さっき、僕のこと違う名前で呼んでたよね。…僕、なんなの?」

蒼胡を見つめる少年の目に、真摯な光があった。一瞬、その真剣な眼差しに気圧される。

「僕、ニジュウジンカクなの?TVでやってた。その間のこと覚えてないって。家族が前にケンカしていた家の子が、時々そうなっちゃうんだって。それに夜に時々窓が開いているのも、ムユウビョウなんでしょ?僕、ぼ、僕、心の病気なんだ。お医者さんでもなかなか治せないって、TVで言ってた…」

水晶のような純粋な瞳から、大粒の涙がこぼれていく。

「小学校に入ったばかりの時になんて、湊太とケンカした。友達なんていらないって思ってた。僕はそんなこと思ってなんかいないんだよ?最近になってようやく湊太と仲直りできたし友達もたくさん出来たのに、僕が眠っている時に、誰かが友達と話したんだ。僕は知らないんだよ。ニジュウジンカクの、もう片方が、きっと色々知らないうちに僕を動かしているんだ」

蒼胡は、何のことかすぐにピンときた。おそらく、公園での一件だろう。
あまりにも色んな記憶障害が、少年の心を酷く―――凰藍すらそこまでと思わないほどに―――傷つけている。
ベッドに腰掛け、蒼胡が正樹の肩をそっと抱いた。

彼女の腕のなかで、少年はしゃくり上げて泣き続ける。

「僕は、きっと病気なんだ…」

それを、友達に知られるのが怖くて。せっかくうまくいっている両親にもいえなくて。
今まで誰にもいえなかったに違いなかった。
TVで氾濫する情報を得れば、子供の想像力はどこまでも広がるだろう。
堰を切ったように泣き続ける正樹の肩を、蒼胡は強く抱きしめた。


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