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若者の手には、真新しい財布があった。
鼻歌を歌いながら中身を見、にやりと笑って、抜き取る。
無造作に投げ捨てられた財布は、持ち主の足下に転がった。
「結構もってんじゃん、オジサン」
答えはない。薄汚い壁にもたれかった男性は、濃紺のスーツを泥と血だらけにして、口から泡をふいている。
オジサンが一番簡単さぁ、ちょっと脅してつまんでやれば、すぐひっくりかえっちまうからさ。カイシャに行ってザンギョーして帰ってくるだけなんだから、弱っちぃんだしよ。
若者は仲間に放言して憚らない。
実際、彼らにとって、深夜に居酒屋から出てくる中年男性はいい収入源であった。
泥酔して自分たちの顔すらろくに覚えていないのは明白だ。場所を変えていく必要はあるものの、随分といい実入りになる。
手元には財布から抜き取った3万円あまり、それを、薄汚れたジーンズのポケットに突っ込む。ポケットの中には、今日の分として、ほぼ同額が納められていた。
男性に一瞥もくれることなく、若者は踵を返して歩き出した。すぐに大きな通りに出、繁華街のネオンが彼の高揚感を更に煽る。
―――とりあえず6枚か、悪かねーな。そろそろ遊びに出るかな。
今日はどこの店に足を向けようか、と上を向いた瞬間、彼の目に何かが覆い被さった。
驚いてひっつかむと、それは小さな紙切れだった。
一瞬、札かと期待した若者は、真っ白な両面に小さく舌打ちすると、真ん中で破いた。
それを捨てようと手を振り払ったのだが。
片方は風に吹かれて飛んでいってしまったが、もう片方は、手から離れない。
静電気でも ここまで頑なに離れないことはないだろう。
ぶんぶんと腕を振り、手の甲を叩く若者に、通行人が不審の目を向けていく。だが、誰も声をかけようとはしない。若者も、紙ごときで誰かに助けを呼ぶような気は全くなかった。
なかったのだが。
甲に張り付いた小さな紙切れが、突如、包帯のように伸び始めた。
ぎょっとして振り払おうと力を込めた腕にきつく絡まり、更に胴体、腰、足を絡め取っていく。叫び声は、あがらなかった。
一瞬のうちに顔を覆い尽くした白い紙が、彼の口を塞いでしまったからだ。
数秒後、縫い止められたように動けなかった通行人達は、誰かが悲鳴を上げたのを合図に、一斉に散会した。
白い紙が重力に逆らうようにするりと風に舞った後、アスファルトに崩れたのは、灰褐色に変色した案山子のような物体。若者のなれの果てだった。
逃げ遅れて座り込んだ、派手な柄の洋服を着た女性の上を、悠々と紙は泳ぎ渡っていく。頭上を越えてゆく白い紙は、徐々にその幅を拡げているように見えた。
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酷い喧噪が街を覆っていた。
都心をぐるりと廻る路線の駅の近く、人通りはかなり多い。 正樹の住む町とは比べ物にならないほど、そこには無数のビルが立ち並ぶ。
サイレンの音がひっきりなしに響いてビル群と反響し、不協和音を醸していた。
サイレンの音も大きくなってはいったのだが、魔物の感覚もまた、最初は小さな波動だったものが、ある時を境に、急激に大きくなっていた。
何かあったに違いなかった。
気配を探して目を巡らすと、人が逃げてくる方向から、何かが中空を渡ってくるのが視認できた。
布―――例えるなら、巨大な一反木綿。
幅は片側2車線道路を悠々と渡れるほど。おおよそ10m。長さは、おそらくは30m以上。波打っているため、長さは正樹には正確に読みとれなかった。
街灯の上に降り立つと、ようやく人の声が喧噪の中、切れ切れに伝わってきた。
―――男が襲われた。ミイラになった。白い紙に捕まるな。
布だと思っていたのだが、どうやら紙だったらしい。だが、あれだけの大きさの紙が、中空を漂っているというだけでも不自然である。今までとは少々様相が違うようだったが、間違いなく、人を襲う魔物であろう。
「燃やす―――のは、まずいよね」
万一、火の粉がどこかにとんでしまったら、大火事になってしまうし、避難を終えていない人々が多数、その近くに見えた。
正樹と白い紙との間は300mほど、そして、白い紙の渡る大通りの先には、駅がある。両脇には線路沿いに片側1車線の道路があるが、紙がどういう動きをするのかは全く判らなくても、少なくとも両脇の道路にあの巨体が収まるとは思えなかった。
駅に激突するか、もしくは上昇するか。だが、上昇するにしても、既に明かりを落とした10階建ての大型デパートが駅の上にそびえている。
上昇をやめて突っ込んでしまう可能性も大きかった。
正樹は紙を見据えた。距離は200mほどに縮まっている。
丁度、駅と同距離。あと400mの間にケリをつけなければ、甚大な被害が出ることが予想された。
道路に引きずり降ろすのは、これが一番簡単そうに思えた。紙の真下はさすがに無人だが、かねてよりの渋滞に加えて逃げる道を失った車が脇道に殺到し、まだ紙の延長上に多数残っている。事故になっていないのがいっそ不思議なほどだ。
『どうする?』
「あまり時間もなさそうだし。一番てっとり早くて確実な方法を、試してみるよ」
それはどんな、という内の声には答えずに、右手がビルの上にさしのべられた。パン、という軽い音と共に、滝のような水が空を渡ってきた。風と水の精霊が、正樹を濡らすことなく、その周りを踊る。
そして、給水塔の水をあらかた周囲に集めた所で、その足で、軽く街灯を蹴った。
水とともに風に乗り、紙よりほんの少しの上空まで舞い上がり、間合いを計る。
そして勢いをつけて、突風を巻き起こしながら一気に滑り降りていった。
紙の真上に向かって。
おもむろに、左腕を掴んだ。小さな光彩を放って、細身の白木の杖が姿を現す。
それを、突き刺すかのように構えた。
異変に気付いたか、紙が鎌首をもたげた―――が、それは囂々と吹き付ける風に遮られ、浅瀬を泳ぐマンタのように中心部に大きく谷間を作り出した。
その谷間に、周囲を水で巡らせた正樹の体が入った。
突き刺すように構えた杖は、紙を切ることはなかった。
切る寸前で勢いを止め、そのまま、後尾に向かって一直線に谷間を進んでいく。両側の壁を大量の水で濡らしながら。
正樹が後尾を抜けた所で、紙が体勢を変えた。
全体をVの字にしながら、前を進んでいた方が、弓なりに反り返る。
後尾のすぐ後ろに浮かぶ正樹に向かって、唸りをあげながら上段から襲ってきた。
間髪入れず、正樹は輪を形成した、その中に滑り込んだ。
潰される寸前に直角に曲がり、紙の支配圏から逃れる。
がくん、と紙の浮遊力が落ちた。
折り畳まれた紙の大きさは1/4。大量に吸った水の重みと、自らの重みで支えきれなくなったように見える。
動きすら鈍くなった紙を、杖で水平に薙いで折り目を付け、そこに大量の水を吸い込ませる。
折り畳まれた所で、また折り目を付けた。そしてもう一度。
全部で5回。
それで、最後だった。
無人の道路に、轟音を響かせて、巨大な紙の塊が落下した。
ほぼ、2.5m四方の、箱のような塊が。
砕けたアスファルトの破片が、濡れて重くなり、それでもなお動こうともがく紙にまとわりついていた。
その傍らに降り立ち、注意深く杖を構える。が、紙はそれ以上広がることすら出来ないようだった。
『…ただの水じゃないのか?』
「水だけだと不安があったから、糊にしてみた。成分はよくわかんないけど、とりあえず強力接着剤を思い浮かべて」
紙って折り畳む限界があって、どんなに薄くても10回以上はムリなんだって、だから攻撃回数は少ない方がいいかなと思ってやってみたんだけど。
正樹の答えに、凰藍は肩を竦めた。
確かに、一番てっとり早く被害は少ない方法であろう。
左手の杖が塊に向かって掲げられた。先端に小さな火が点り、そして塊に移った。
濡れていたはずの塊が、徐々に乾きながら燃えていく。乾いた瞬間に復活しないよう、接着剤の支配力をギリギリまで持ちこたえさせながらの浄化である。
全体が火に包まれるまで、ゆうに10分はかかった。
白かった紙が黒く炭化し、なんの力も発揮することなく塵となって消えて、はじめて、ようやく正樹は安堵の溜息をついた。
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