酷く、体が重かった。
力が全く入らず、どうしてだろうとぼんやりする頭で考えると、どうやら腹が空いているという結論に達する。
うっすらと目を開けると、薄暗く白い空間。
天井には蛍光灯らしきものもあるが、消されているようだ。光は、違う所からさしているように見えた。

何度か目をしばたいてみるが、なかなか焦点が合わない。
最初に感を取り戻したのは嗅覚。
つん、と鼻をつく消毒液のにおい。
入院をしたことはないが、病院のにおいだと感じた。

顔を光の方に傾けると、ガラスの壁が見えた。そこの一部が音もなく開いて、誰かが入ってきたのをようやく視認する。
背は高くない。
茶色の髪と、きびきびとした動作。ヒールが床を叩く音で、女だと判った。

「―――。」

何事かを話しかけながら、女が近づく。
よく見ると、トレイに水が入ったコップを持っているようだ。トレイを脇にあったイスの上に置き、ベッドの脇にかがみ込む。
電子音がしたと思うと、ベッドの上半分が自動的に持ち上がった。あまりムリのない程度の角度で止め、女が枕を背に回してくれる。ようやく、それで安定した。

「―――。」

水を差し出されたが、それを手に取ることを躊躇うそぶりが判ったのだろうか―――女は―――はためにも、若くないだろうとは思える年齢だと判った―――にこりと笑って、一口、口に含む。
安心していい、というジェスチャーだ。

もう一度差し出されたコップを受け取ろうとして、右手の管に気づいた。
天井から点滴のパックがつる下げられている。
やはり、病院なのだろうか。
点滴をしている腕って、あまり動かさない方がいいんだっけ、と思いながら、左手でコップを受け取った。
冷たい水が喉を伝わる。
酷く美味しかった。
いったい、何時から水を口にしていなかったのかという位、水が美味しかった。

一気に飲み干したせいでむせりかえった、その背を、女の手が優しくなでてくれ、新しい水をグラスに注いでくれる。
涙目になりながらも、女の顔を注視してみると、その顔立ちは欧米人のようであることが判った。
先ほどからかけられている言葉はほとんど理解出来なかったが、英語のようでもある。

ようやく咳を止めて落ち着いたところで、光のさすガラスの向こうを見ると、男が二人。
両方ともに欧米人の顔立ち。一人は、銀色の髪をした長身の若い男。車の整備士のような、つなぎを着ている。イスに座ってこちらを見ている男はさほど若くは見えないが、栗色の髪で、白衣を着ている。

女の服装は、と、目を戻すと、胸に徽章が見えた。
自衛隊がこんな服装だったかな、と思うような、軍服。
3人の組み合わせは判らなかった。

でも、と、目を伏せた。正樹は確信していた。

結局自分は逃げ切れなかったのだ。
チャールズに捕まって、イギリスにいるのだと。
ここは研究所かなにかで、その医務室の一部屋なのだろう―――という結論に達した。

「―――?」

グラスを持ったまま動かなくなった青年を、不審に思ったのだろうか―――女が、何か話しかけた。
その女に向かって、 正樹が鋭い瞳を向けた。

「それで、僕をどうするつもりなんです」

相手に日本語が通じるとは思わなかったが、もらった水のおかげで声は出せるようになったのを感じた。
だからこそ、何か言ってやろうとしたのだが。

ぎょっとしたのは、身を引いた女だけではなかった。
正樹自身も、次の句がつなげなくなっていた。

声が。
自分の声では、無かった。

手の中のグラス。
揺れる水面に映る姿に、目が移った。

―――この顔は、だれのもの。

左手の中のコップを床にかなぐりすて、女の手にあった銀色のトレイを奪い取る。
派手に砕け散ったガラスも、腰を浮かせて後ずさった女も気にすることなく、正樹はトレイに自分の顔を写した。
そして―――、手が、ふるえた。

髪の色は黒。目の色は茶色。
顔だけが―――否、おそらく声もが。よく見知った顔、声になっていた。

「違う」

トレイが。トレイに写った顔が、ゆがんだ。

「違う」

―――これは、自分じゃない。

「違う、違う」

体に遺された、その痕。―――自分が、それを望んだのか。

「こんなのは、違う」

―――これは、凰藍のもの。

「どうしてっ…!」

もう、いないのに。
分かたれてしまったのに。

―――すまない。

凰藍の声が、鮮やかに蘇った。

―――すまない。

あのとき、何度繰りかえされたろう、その謝罪の言葉。

―――ああ

それとも、遺していったのは―――?


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