最初にベッドに入ったのが午後11時。サイレンに飛び起きたのが午前2時。部屋に戻って毛布を被ったのが午前4時。
そして、耳障りな音にたたき起こされたのは、ようやくうとうとしかけた時だった。

覚醒しきっていない脳で「目覚ましを止めなきゃ」と思いながらのろのろと伸ばした手が、音を鳴らして明滅するボタンにかかった。目覚まし時計のボタンを押せば音は止まるだろう、とぼんやり考えて押してみたのだが。

時計とおぼしき機械から聞こえてきたのは、怒号に近い男の声だった。しかも、その声量といったら家具のガラスがビリビリというほど。
正樹の半分寝ていた脳には、まるで電気ショックが与えられたようだった。
一拍を置いてその電気ショックが脳の神経を刺激し、ようやく正樹は「電話がかかってきた」事を認識した。
―――したが、あ、とも言えない間に通話は切れてしまう。

いきなり静かになった部屋の中で、唐突にその声の主を思いだして、正樹は今度こそ、文字通りベッドの上に跳ね起きた。
それは、コック長トルテの声に違いなかった。
昨日「ラブローレン教官の部屋に居候する」と伝えた時に、トルテから言われた事が間髪置かずに脳裏に蘇ってきた。曰く、 「訓練生の食事は6時からだから、俺達は4時半に厨房に集合だ。遅れるなよ」。

無論、目の前の機械は目覚まし時計などではなく、慌てて正樹は時計を探し、そして、主の居ないアナスタシアのベッド脇にデジタル表示の数字を見つけて、生きた「ムンクの叫び」となる。
時計は、午前4時45分を指し示していた。

おかしい、自分の特技は起きたい時間に起きれることじゃなかったっけ、と無意味な自問自答をしながらうす暗い廊下を駆けていくと、近づくにつれ、厨房からはいい匂いが漂ってきた。枝道が多く、公共施設のように標識など一つもない―――艦内には部屋のネームプレート以外に標識というものがほとんどなかった―――中では、何より確かな道しるべではあった。

「遅れてすみません!」

広い厨房で忙しく動く人々が、一斉に、開いた扉の方を振り向いた。
ひときわ目立つ風貌の、巨大な壁のような男がのそりと身体を動かした―――トルテだ。はっきりいって、顔はかなり強面で、そのうえ横幅も体重も1まわり違う。コックをかき分けながら向かってくるその姿に、正樹は遅刻したことを心の底から後悔した。

―――殴られるかな。殴られたら廊下の向こう側まで飛ばされるかも…。

早鐘のように打つ心臓をなだめる余裕すらなく、ただ立ちすくむ事しか出来ない正樹の前に、トルテが立った。180cm近い正樹よりも、まだ、頭1つ分高い。

「おい」

トルテの顔が、ぐっと近づいた。眉根を寄せた顔は凶悪なほど怖い。

「…やっぱり顔色、悪いじゃねぇか。だから、休んでいろっていったのに」

思いがけない言葉に、目をしばたかせて見返した顔は、少なくとも怒っているようには見えなかった。

「どうせ戦闘騒ぎで眠れなかっただろ。寝不足だったら来なくていいぜ、って言ったじゃねぇか」
「…え…でもすごい声で…怒られたと思って…」

寝起きで、翻訳魔法は使っていなかった―――だから、てっきり、寝坊を怒られていると思いこんでいたのだが。

「ああ、俺の部屋、倉庫の近くだからな。帰還した戦闘機の音が響いてきて、うるさかったんだよ。で、どうだ、気分悪いのか?だったら帰っていいぞ」

大丈夫です、と正樹は慌てて答えた。実際、あの怒鳴り声でしっかり目が覚めてしまった。今から寝ろといわれても寝れそうもないだろう。
トルテはそうか、と頷くと、正樹を厨房の中に招き入れた。

厨房の中のコックは、全部で10人。200名からなる訓練船のクルー・訓練生の胃袋を満たすには、最低限必要な数だという。
忙しく手を動かす彼ら全員と一通り挨拶を終えた後、名前と顔を一致させるのが難しいぞ、と小さくため息をつきながら白い制服に着替えた。

真新しい白い制服は、それまでの落ち着かない気分を切り替えてくれた。正樹はバイトすらしたことがなかったが、「仕事」という物に携わる気持ちが、少しだけわいてきたように思えた。

「とりあえず、今はやることが無いからな、邪魔にならないように周りを見ていてくれ」
「あの…皿洗いとか、掃除とかは…」

見習いといえばたいがい皿洗いと掃除から始まるものである、と正樹は思っていたのだが、トルテにはそれが冗句に聞こえたようだった。
爆発したような笑い声を響かせて、正樹の肩を勢いよく叩く。

「今までどんな所で暮らしてきたのかしらねぇが、ウチの船はそこまでアンティークでも高級でもねぇよ、安心しな。ま、最新鋭でもないけどな!ホントはライアン社の超最新鋭システムを入れてほしいんだけどよ、訓練船だからしょーがねーな!」

赤く腫れてきそうな肩を押さえて微妙な表情を浮かべる正樹を後目に、トルテはコック達と同様に手を動かし始めた。

その動きを見ていると、TVで見ていたようなレストランの厨房とは全く違っていることがよくわかった。たいがい、切る、煮る、焼くという作業はすべて人の手で行うものだった。が、かなりの部分でオートメーション化されていて、例えば大きな釜で野菜をゆでる時には、前日に洗浄したのか俯せになっていた釜を抱え起こして、その釜が入る大きな穴に入れてやると、自動的に水が蛇口から落ちてきて、いっぱいになると、ボンと音がして、火がついたようだ。それを見ているでもなく、釜をセットしたコックは既に別の場所に移動している。

野菜や肉を切っている者など誰もいない、何かの機械にポンポンとほおりこむと、下からスライスされて出てくる。皿はどうするんだろうと目を巡らすと、ベルトコンベア式の機械が中央を円状に走っていて、盛りつけ台からせり上がってきた皿がスライドしながらベルトの上に乗っていく。

その皿にできあがった料理を乗せるのだけは、これは人手がいるようだった。だが、頭がはげ上がった痩身の男―――アシダと名乗った―――は、正樹に向かって「これがなきゃ楽なんだがな、でもこれがないと俺も仕事ないしな」とカラカラと笑って話しかけ、皿にスープを盛っていった。
どうやら、完全オートメーションの厨房というものも、あるらしい。

「ずいぶん色々見ているようだけど、面白い?」

ふと横を見ると、傍にはいつの間にか黒髪の美女が立っていた。長い髪を後ろで結わえて、アップにしている。正樹と同じ白い制服を着ているのだが、豊満な胸でボタンがはちきれそうである。
思わずそのゴージャスな部分に目を奪われて、慌てて目を戻すと、美女は妖艶な笑みを浮かべて正樹の頬に手を添えてきた。

「坊や、いくつ?」

せり出した胸の突起が自分の身体に当たりそうになって、正樹は一歩後ろに退いた。だが、美女はぐい、と身体を寄せてくる。

―――どうしよう。

こういうシチュエーションは全く慣れていない正樹にとって、グラビアから抜け出してきたような大人の女性をどう扱っていいものやら、皆目検討がつかない。
それを悟ってか、彼女は口の端に浮かべた笑いを深くした。

「耳まで真っ赤になっちゃって、かわいい」
「―――おう、キリ、そのへんでやめとけや」

助けの声は頭の上からふってきた。後ろを振り向くと、おおきな袋を肩にかついだトルテがいた。

「お前、ついこの間も訓練生を誘惑してたじゃねぇか。目玉くらうの、お前じゃなくて相手だろうが」
「あら、あの子は向こうから言い寄ってきたのよ。それにアタシはちゃーんと誤解だって言ったんですからね」
「どうでもいいが、お前の受け持ちエリア、止まってるぞ」

あら、とキリは振り返り、ついで正樹の方に向き直って、またね坊や、と笑って持ち場に戻っていった。香水はつけていないが、もし彼女からなにか分泌されているのなら、それはフェロモンというやつだろうか、と正樹は頭を抱えて大きく息をつく。

「ま、なにごとも慣れだな、慣れ」

無責任とも逆に悟りともとれる、ついでに励ましともとれないこともない言葉を残して、トルテも持ち場に戻っていった。
よく見ると、他のコックは今の騒ぎなど全く眼中にない―――そもそも騒ぎなどでなく、日常茶飯事の出来事であるかの―――ようで、黙々と手を動かしている。

―――大丈夫かなぁ、僕…

すべてがそう上手くいくとは思えなかったが、乗り越えていくには少々高い壁が多いような気がしてきた正樹だった。


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