「バレクの病状が、悪化したんだ」

事情を告げたのはタリスではなく、カイトだった。エアポートに到着し、貨物用ゲートに着いてからはせかされ、慌てて準備をしてテイクオフするまでの間、タリスは管制と交信し機体を動かすのに手一杯だったから、という事もあるが。
ようやく安定飛行に入り、カイトの言葉をタリスが引き継いだ。

「どうも風邪にしては酷いらしい。船には十分な医療施設がないからな、手近な『LAB』に搬送したいんだが…サイケル医師と看護士と、あとバレクを運ぶには『JENOVA』の輸送船がいいんだが、エンジントラブルの修理中でまだドッグ入りしているだろ。それで今回自分たちもこの『Duron』を使ったわけだが、複数人を運べる機体がこれしかない」

つまり、早いところ帰ってこいというわけだな、とイオンが頷いた。

「バレクは、そんなに悪いんですか」

正樹の問いかけに、タリスは短く、判らんと首を振った。
ここ10日ほどはずっと風邪でふせっていたはずだ。イオンの話だと、サイケルに風邪薬をもらって安静にしているということだったが。

「バレクのやつが風邪だっていいはるし、だるいだけだっていうから…ちゃんと診てもらってなかったんだよ。薬だけもらってさ。実際、もうかなり良くなっていたんだぜ。今日出てくる時も、割合にしっかりしていたし」
「そっか…」
「大丈夫かな、あいつ」

カイトとイオンは、うつむいて考え込んでしまった。正樹は、それ以上話しかけることが躊躇われたので、一人、宙を見上げた。

―――病気だけは、どうも治せないんだよね。

得意とするのは無機物に対して様々に働きかける魔法。逆に、草でも動物でも、生きている物を変化させるのは何かひっかかりを覚えて出来た試しが無い。ようやく自分自身に対して使う事が出来るほどだ。

病気と怪我がこれによく似ている。
怪我は、骨が折れたり皮膚が裂けたりするのを治すだけなら―――当然、それを自然に治す力を持っているのは人間の中の有機物ではあるが―――人体の他の部位に影響がないと思えるので躊躇いがない。

が、病気は、どこで何が起こっているのか、何が引き金になって起こっているのか、それを治して本当に他に影響が無いのか、全く未知数である。
風邪だと思って喉の炎症を止めたのに、実はウィルス性の風邪でした、という事では根本的に治っていないのに治ったように見えてしまう為、酷く危険だ。

結局、どんな病気も怪我もたちどころに治せる魔法などというのは、相当の指向性と魔法力と知識とが必要であることが判り、とりあえず後にしよう、とやめてしまってそのままであった。

沈黙がおりた機内に、ようやく温度が戻ってきたのは3時間後。
『Duron』は、『JENOVA』へと帰還した。

4人を待っていたかのように、タラップの下にいたのは、担架に乗せられたバレク、女性の看護士、サイケル、アナスタシア、ジェロス。
そして、10名ほどの整備士が完全に静止した『Duron』の燃料補給と機体整備に取りかかった。
20分ほどで調整が終わると聞かされ、4人は担架の傍へと歩み寄る。

担架の上のバレクは、彼らが想像していたよりもずっと顔色が悪かった。紙のように白い顔から吐き出される息は、荒く短い。

「部屋の中で吐いた、と本人から連絡があって…駆けつけたら、相当酷い様子だったからな…脱水症状を起こしている。急がせてすまん」

サイケルの言葉に、いえ、とタリスがかぶりを振った。

「こんなに酷かったなんて。…先生、こいつ、本当に風邪なんですか?」

カイトの疑問にサイケルは唸った。

「よくわからん。だるい、頭が痛い、というだけだろ。一応、検査もいろいろやってみたが、これという特別な値は出てないんだよ。それに気持ちが悪い、とか、熱が出る、っていうんで、ウィルスも疑ってみたんだが、それも出ないしな。ここ数日は、顔色も良くなっていたんだが…一体急にどうしたのか、わからんよ」
「やっぱり、ちゃんとした病院で診てもらうのが一番だよな。…おい、バレク、大丈夫か」

玉のような汗を浮かべたバレクの、その額をタオルで拭ってやりながら、イオンが話しかけた。が、その答えはない。
その代わりに、うめき声のような微かな声が、乾いた唇から漏れた。

「え?なんだ…?」

イオンは耳を唇に近づけてその声を聞いた。とぎれとぎれの、意味を為さない言葉かと最初は疑ったのだが―――

「…何が、来るって?」

眉を顰めて問い返したイオンの、その声にバレクが反応したとは思えなかった。が、バレクの息がいっそう荒くなり、掠れた声で、来る、と繰り返す。

「バレク、しっかりしろ」

脂汗の流れる頬を軽く数回、イオンの手が叩く。が、意識が戻る気配は無い。バレクは焦点の合わぬ瞳を彷徨わせて、担架の上で体を揺らし始めた。
慌てて、その場の全員で押さえようとする、が―――華奢なその体のどこにそんな力があるのだろう。意識がないはずなのに、誰も近寄らせまいとするかのように、滅法に腕を振り回す。

鎮静剤を、というアナスタシアの声に、弾かれたようにサイケルが床に置いていたケースのロックを外した。既に用意してあったのだろう、ケース内の注射器を手にとって立ち上がると、バレクの動きを見定めようと注意深くタイミングを計る。

だが、その動きは収まるどころか、更に激しくなっていき、『Duron』の整備士が振り向くほどのわめき声を迸らせ。
そして、誰も手を出す間もなく、担架の下に落ちた。

「バレク!!」

ほんの一瞬、動きが止まった。瞬間、正気に戻ったのかと全員がほっとしたのもつかの間。
バレクが手を伸ばした。その先にあるのは、サイケルの医療用具ケース。その中から、正確に、銀色に光る長細いハサミだけを手に取った。
その切っ先を、誰に向けるでもなく、自らの首に押し当てて、立ち上がる。

言葉を失って立ちすくむ人々の前で、ただ、焦点の合っていない目だけを異様にギラつかせながら、バレクは後ずさり始めた―――『Duron』の方へと。

「…く、来るんだ…あいつらが…僕には、わかる…」
「バレク!?」

ふらふらと、おぼつかない足取りで、しかし、掴んだ手の指が白くなるほど、ハサミを握りしめ。

「逃げ、逃げるんだ…殺されたから…殺しに来る…」

『Duron』のタラップに足をかけた。


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