見上げた空には灰色の雲が低くたちこめていた。
白い息を残して首をすくめると、目の前を、同じように白い息を吐きながら足早に通り過ぎる学生の姿があった。手には参考書が拡げられていて、彼はほとんど前を見ずに本ばかりを見ている。
あれじゃそのうち何かにぶつかるだろうな、と思っているうちに、学生は公園の街灯に激突した。しりもちをついた姿に軽く吹き出す。学生は笑い声には気付かず、大事そうに本を抱えて立ち上がると、また歩き出した。

改めて周囲を見回すと、同じような格好をした学生が多く公園を抜けていく。
公園の先には大学がある。彼らはひきよせられるように―――まるでレミングのように、門の中に消えていく。定められた道を歩いていく象徴のように思えて、彼は闇色のコートの群から視線をはずした。

―――昨日とは大違いだ。

町中を歩いていると、街頭のテレビがずいぶんとにぎやかに見えた。暖かくなる頃にはロイヤルウェディングとやらがあるらしい。よくよく考えれば人ごとであるはずなのに、この国の人々はまるで自分のことのように嬉しがり、祝いの言葉をメディアに向かって紡ぎ続ける。
そうかと思えば、今日のように、自分のことすらどこかにうち捨てて周囲に紛れ、漠然とした将来へ歩いていくものたちもいる。

―――おかしなところだ。

彼がこの都市に来たのはほんの6年前で、以来、養父母の元でとりあえずは何不自由なく暮らしている。勉強は嫌いではないし、学校も楽しい。子供に恵まれなかった養父母達はやさしく接し、彼に何かと気遣いをみせてくれる。来たばかりにはあまり人間味のなかった子供で、養父母の母などはしゃがれた声で「今時の子供だねぇ」と苦笑していたものだが、環境は6年の間に彼をずいぶんと変えていた。
以前の彼だったら、人のことにはほとんど興味を持たなかったのだが。

―――なんだ?

ベンチから腰をうかしかけて。不意に、鮮烈な色が目に飛び込んだ。
立ち上がってよく見れば、それはコートの色だと判る。秋に葉の落ちた、焦げ茶の幹の色だけが全ての公園の中で、そのコートの色だけが浮かび上がっていた。
コートの持ち主は彼の方へと駈けてきた。息をきらせて、何かから逃げるかのように。木々の間から見えた顔は、彼とそう年の変わらない少女のものだった。

「助けてッ!」

少女は彼に気付いてまっすぐに向かってくる。―――ふと、彼は違和感を感じたが、少女の必死の形相にすぐに意識をそちらへと向ける。走ってきた彼女の後ろからは、枯れ葉を散らす小さな足音。

「どうしたんだ」

少女は彼の後ろへと回って、その背に隠れる。すっかり上がった息と、微かに震える手の感覚が伝わってきて、彼は少しだけ戸惑った。

「…あれ…」

指がさした先で見たものは、距離を置いてこちらをじっと見ている二つの目。遊歩道の上で、それもまた息があがったように、小さく浅い呼吸をしていた。

「犬?」

首輪が無いから、おそらくは野良犬だろう。だが、成犬というには少し小さい。見れば、うなり声をあげているわけでも、牙をむいているわけでもない。

「…走ってきたんだ?」

背で、小さく頷く気配があった。

「遊んでほしかったんだよ」

苦笑しながら後ろを振り向くと、少女の髪がふわりと眼前を舞った。首を振ったのだ、と思う前に、シャンプーの匂いだろうか―――甘い匂いがただよってきて、思わず息が止まった。
肩の向こうにのぞく顔は、寒さからだろうか、ずっと走ってきたからだろうか、抜けるような白い肌に頬が紅をさしたようにあかく染まっている。かすかにうるんだ真っ黒な瞳が、彼の視線に気付いた。

「犬、怖いの」

震える手が、彼のコートを掴んだ。

「わかった」

彼は犬を見た。犬はしばし首をかしげていたが、急に興味を失ったように、駆け足でその場を去っていく。その様子をみて少女がすごい、と歓声をあげた。

「ありがとう」

ようやく、少女は彼の前に姿を現した。肩口で切りそろえられた髪が、頬よりも赤いコートの上で跳ねて舞う。黒い大きな瞳、化粧をしていなくともみずみずしい唇。可愛い、というよりも愛嬌のある顔がほころんだ。

「嬉しい。駅前から、ずっと追いかけられていたから」
「駅前から?」

驚いて声をあげた。駅からこの公園までは、2kmはあるだろうか。追いかけていた犬の方も、よっぽど彼女が気に入ったのだろう。それとも、犬を怖がって逃げる人のほとんどがそうであるように、後ろを向きながら逃げていたがために、犬が遊んでくれると勘違いしてずっと追いかけっこをしていたのかもしれなかった。

「家はこのへんなの?送ろうか?」

ううん、と彼女は首を振った。

「塾から帰る途中で男の子と会っていたなんて知ったら、パパが怖いから」
「…そっか。犬はもういないから大丈夫だよ。気を付けて」

彼女はもう一度、ありがとう、というと、お別れの挨拶だろうか、手を振った。彼も笑いながら手を振り返す。―――と、彼女が、小さく声をあげた。

「―――校章」

藍色のコートからのぞく学生服のカフスボタンに気付いたのだろう、彼女の目が驚きに見開かれる。

「うちの高校と一緒」

今度は彼が驚く番だった。

「高校生!?」

中学生だろう、と、見ていたのだ。なにより、高校生になっても、まだ犬に追いかけられるというのが信じがたかった。それが彼女に伝わったのだろう―――ぷう、と紅い頬がふくらんだ。

「よく間違われるの。この前は小学生に間違われた」

思わず、吹き出した。それが気に障ったように、彼女はひどい、と詰め寄る。

「これでも15歳なんだから。もうすぐ16歳になるんだから」

へぇ、と、彼は笑った。

「俺と一緒だ」
「ホント!?わたしより、年上に見えるよ。…ってことは…あれ?どのクラス?」
「B組」
「わたし、D組。そっか、階が違うから見たことないのかな」
「集会とかでは、気が付かないうちに会ってるかも」

彼女も、そうかも、と微笑んだ。

「―――じゃ、また、学校でね」

今度こそ、手を振って、走り出した―――瞬間。彼女は足下の枯れ葉に滑って、顔面から地面へとダイビングした。

「えっと…だ、だ、大丈夫!?」

彼女は頭からかぶった枯れ葉を払いのけながら、ゆっくりと立ち上がって振り返った。せっかく止まった涙が、また、彼女の大きな瞳をぬらしている。それに加えて、頬と同じように鼻の頭も紅くなっていて、彼はこらえきれずに吹き出した。

「ひどい!!」

本気で怒り出した彼女の顔がまた面白くて、彼は身体をくの字に曲げて更に笑い続ける。そのうちに、彼女もつられて笑い出した。その明るい笑い声が、自分の中に新たに暖かいものを作り出していくことを、彼は心の片隅で感じていた。

視界に拡がっていく闇に、彼は吐息を付いた。まだ目覚めるべき時間ではないことに気付いて眉を顰める。身体を起こさずに目を転じると、カーテンの隙間からは闇夜を煌々と照らす月の光が差し込んでいるのが見えた。
部屋を包む冷気は、秋よりも冬のそれに近い。冷えた肩を暖めるように布団を押し上げて、もう一度吐息をつく。

「―――…ありす」

あの暖かい笑顔が消えないうちに、と、彼は目を閉じた。まぶたの裏に拡がる光景は、夢よりもずっと鮮やかで温もりのある現実だ。夢は必ずありすの笑顔で終わるけれども、あの後、彼女は友達に呼ばれて去っていった。その現実は―――ずっと前に、失われてしまったけれども。

朝になって目覚めれば、本当の現実が戻ってくる。
あの笑顔も、優しさも、決して戻ってはこない現実が。

―――大好きよ、北斗。

かたくなに現実を拒否するかのように―――脳裏に蘇るやわらかい声が消えないようにと、彼は枕に強く顔をおしつけた。


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