「市内駅北地区、今のところ異状なし」

定時報告に、本部が置かれている中央署のオペレーターが苦笑まじりに返答を寄越した。

『今、駅南F地区に、大型の魔物が現れたらしいという住民からの一報があったところですよ。確認が取れ次第、そちらにも回そうと思っていたところで。魔物遭遇運が強いというから動員いただいたのに、なんだか申し訳なかったですね』
「そーですかい…」

柿元は憮然としてトランシーバーを置いた。隣の坂本が喉の奥で笑ったのがなんとなく判ってしまい、更に口をへの字に曲げる。

「俺たちが気張って巡回しなくても、本来は対策班のやつらがやってくれるんだ。別に、今日だって、断ってもよかったろ?遭遇しなくてよかったじゃねぇか」

そうッスけどね、と、柿元は釈然としない思いを表情に出した。

「そろそろ魔物遭遇率トップとかいう、おかしな肩書きは返上したいんス」

ため息をついて、赤から青になった信号を確認してアクセルを踏み込んだ。その瞬間。
夕暮れに目が慣れない時刻、いきなり飛び出してきた銀色の影に驚いて、柿元の右足が反射的にブレーキを踏んだ。タイヤが悲鳴を上げ、後輪がスリップする感覚がパトカーの中の二人を襲った。だが、車が完全に静止した時、ヘッドライトが自転車にまたがったままの少年の姿を映し出していた。運転席の柿元は、大きく息を吐いてハンドルにもたれかかった。

「危ないなぁ!」

ほっとしながらも、相手の信号無視に腹を立て、パトカーから降りる。目前の少年は高校生のようにみえた。驚いてか、パトカーの前からまったく動こうとしない。柿元はつかつかと少年に歩み寄った。こんな時間にまだ家に帰っていないことと、飛び出してきた事へ説教を垂れようと口を開いた時。
少年の顔が、異常なまでに恐怖にひきつっている事に気づいた。衝突しかかって驚いたという以上の何かを感じ、柿元は眉根を寄せた。

「…どうした?」

少年は目を見開き、荒い息を吐きながら、無言で今来た方向を眺めやる。柿元もつられてその方向を見た。民家の向こうに黒い建物がある。下校時刻を過ぎて、ほとんど消灯されている学校だ。

「…学校が、どうしたんだ」

少年は―――司は、柿元に向き直ると、顔を歪めた。酷く、何かを悔やんでいるような表情で。

「まも、魔物がいて」
「魔物!?」

司は何度も激しく首を縦に振った。その様子をパトカーの中から見ていた坂本が、車を降りて司の正面に立ち、自転車のハンドルを握りしめたまま固まっている身体を支えた。

「学校に出たんだな?」
「臭い、ど、どろどろしたヤツと、なんか、でっかい足が廊下から、はえ、生えてきて。お、俺、あいつ、残してきちまった、どうしよう、もう、食べられて、食べられちまってるかも」

坂本の表情が厳しくなったのを、咎められたと感じたのだろうか。司はびくりと身体を震わせた。足までを細かく震わせて、今にも失禁しそうなほどである。

「だって怖かったんだよ、俺のせいじゃねぇよ、俺のせいじゃ」
「…ああ、お前さんのせいじゃあねぇよ。だから、いいか、ちゃんと答えてくれ。学校に魔物が出たんだな?で、そこには何人いるんだ?」

つばを一回だけ飲み込んで、司はもう一度校舎を振り返る。

「…正樹と…波方と…波方は先生なんだよ、職員室で、叫んでたけど、聞こえなくなって…多分、他は当直の先生がいるかもしれねーけど…わかんねぇよォ」
「わかった、生徒が一人、先生が一人で、合わせて2人だな。学校は―――大和高校だな?」
「ああ、あの、お巡りさん、頼むよ、あいつら助けてやってくれよ、俺はこえぇんだよ」
「そうだな、お前さんはもう帰れ、気を付けてな」

明らかにほっとしたように、司は何もいわずに自転車をこいで走り去っていってしまった。見送って、柿元はパトカーに駆け寄ってトランシーバーを手に取った。

「―――待て」

その手を、坂本が制した。驚いて、柿元は上司を見返す。

「どうしたんスか!?駅南地区に行ってるパトカーを、こちらにも寄越してもらわないと」
「…あちらは本当の情報かどうかわからん。こっちがアタリかもしれん。まぁ、両方アタリという可能性もあるが」

席に滑り込んで、シートベルトをかちりとはめ込んだ。訝しげにしながらも、柿元も、運転席に座ってシートベルトを装着した。狭い路地で、なんとか、パトカーを転回させる。対向してきた白いワゴン車が驚いて道を譲り、その鼻先をかすめるように、車を発進させた。

「もし大和高校がアタリだったら、凰藍かあの小僧っ子が来るかもしれねぇだろ。下手に対策班なんて呼ばねぇ方がいい」

どうせ何もできやしねぇんだし、と、坂本はうそぶいた。

「急げよ。まぁ、大和高校じゃ…あいつの方が案外早いかもしれんが」
「…は?」
「なんでもねぇ。さっさと運転しろ」

シートにふんぞり返って指図すると、坂本は民家の影に見え隠れする校舎を睨んだ。校舎に、夏服の少年の姿が重なって見えた。制服姿で警察署に忍び込むような剛胆な真似をしでかす一面、酷く危うい面と、そして凰藍の顔のまま市街地を歩いてしまう無頓着な面を持ち合わせた、どこか憎めない少年。

同じ学校で死人が出たら辛いだろうさ、と、腹の奥で呟いた。食い止められるものなら、なんとかしたい。坂本は徐々に近づく校舎をじっと見据えた。

砕け散ったガラスと共に、二つの影が校舎を飛び出して砂利の敷かれた地面に舞い降りた。地に、その足がつくかつかないかの僅かな間。先に飛びかかったのは正樹。肉眼ではっきりと見て取れるほどのスペルを空に素早く描きながら、そこに纏め上げられた力をぶつけようと構えた。

「あんたがやる気になってくれてんのは嬉しいけどさー」

テニスコートと校舎との狭い空間を嫌って空中に躍り出た男は、職員室の明かりをわずかに受け、にやりと笑った顔を正樹に見せた。

「俺、もう、用事終わったから帰りたいしー」

へらへらと笑う男に向かって、地上から凄まじい力が放たれた。まるで太陽が落ちてきたような光と空間すら歪ませるほどの力が空中を駈ける。
男は宙で身体をひねってそれを交わしたが、僅かに油断したのかもしれない。風に舞った髪が、一筋、音を立てて消え去った。

「―――力はさ、すごいんだよなぁ、あんた」

左手で、その髪を払って頭を軽く震わせる。

「ま、でもさ、大事なお友達も守ってやれないんじゃあ、バランス悪いってゆーか」

その言葉に、次の魔術を繰り出そうと構えていた正樹が反応して顔を上げた。その顔がおかしくてたまらないといったように、男は唇を開いた。

「ねぇ。なんで助けてあげなかったのさ。病院に運ばれたんだろ?あんたの友達。治してあげればよかったのに。怪我のせいで、なんかターイヘンな事になったって騒いでたよねぇ?」
「どうして―――そんな事知って―――」

まさか、と、正樹は脇の獣を見下ろした。

「お前、病院で…湊太から何か臭いがしたとか…魔法の気配がしたとか…」

あの時、正樹は湊太がチャールズの魔法の痕跡を拾っただけだと思った。だから、獣からはそれ以上の情報を聞き出してはいなかったし、獣も話はしなかった。無論、あの時、正樹が遮ったからである。
再び問われて獣はやや考えるように一拍間を置き、しかし、空中に静止する男から視線だけは外さずに低く唸る。

「…あの者から感じられる気配と同じだ」

瞬間、苛烈な瞳が男を射た。

「人を操って僕の友達を襲わせたのはお前なのか!」

幸の言葉を正樹は思い出す。自分の先輩はそんな悪いことをするような人には見えない、と。そして彼らも、自分たちがやったわけじゃない、操られていたんだとかたくなに主張しているのだ、と。

「どうして…そこまで…」

空の上で、その場にそぐわないほどの哄笑が響き渡った。

「操り人形が何を言うか」

一瞥して、男は右腕を拡げる。その先で、空間がぐにゃりと曲がり、風が唸りをあげて逆巻き、吸い込まれていく。

「道化はこいつとでも遊んでいなよ」

空間の歪みがフラッシュを瞬いたように光り、それと同時に今度は風が吹き出して木々を揺らした。巻きあがる砂塵に一瞬目を奪われ、正樹は腕で顔を覆い―――直後に感じた鋭い痛みに、思わず目を開けた。

月の無い夜、闇の帳が落ちて周囲はすっかり暗い。
わずかな光が照らし出したグラウンドの、その中央に、砂埃をあげながら巨大な影が降りていく。

男の姿は、もう、ない。
あるのは、6枚の薄い羽根を持った、見上げるほどに巨大な―――足の高さだけでも優に2階分ほどはある―――ひとつ目の羽蟻の姿だった。


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