強いブレーキが車内の人間のバランスを崩した。誰もがブレーキ音が響きはしなかったかとひやりとしたが、幸いに、外ではタイヤが砂利をはむ音だけしか立たなかった。

「―――ボス」

寺岡は、部下の緊張した声をうけて前方に目をやった。ヘッドライトを消し、満月の光だけを頼りに走ってきた、この午前2時を回ろうかという時間。ここに至っては生い茂る森の木々に月の光すら奪われて、眼前はほぼ闇である。

「どうした」

闇に溶け込む黒いセダンの、そのフロントガラスを隔てた先を、部下は見ていた。夜目がきくために運転手にした男の目が捉えたものは。

「女、です。二人」

彼らが進む道は、まもなくT字路にさしかかる。道なりにまっすぐ進めば湖があり、左に曲がるとペンションが立ち並ぶペンション村に入る。木々に遮られてはいたが、ペンション村の方向から確かに誰かが歩いてきていた。背格好から、おそらく女と見えた。

「見られるとまずい」

静かにエンジンを切り、そのまま待機するように命じた。真後ろの車にも、同じように指示をする。こんな林道に大型のセダンが2台。道に停まっていてすら不自然に感じられるかもしれないが、バックするわけにもいかない。
気付かずにいてくれればいいが、と心に念じて息をひそめる。

T字路の交差点に二人の姿が現れた。交差点の角地に置いてある自販機に向かって歩いていくので、徐々に寺岡にも姿が見えてくる。二人はお互いに話し合っていて、どうやら車には気付れずに済みそうだった。

「―――ボス、あれは」

運転手の男が声を上げ、身を乗り出した。

「クマのぬいぐるみ」

男の目に、携帯電話からぶらさがるクマが映っていた。

「似てるよね、あたしたちの携帯」

ようやく暗さに目が慣れ、そして自販機の煌々とした灯りが自分達を照らすに従い、二人は携帯電話を並べてみた。

「クマの大きさは負けたかな」

幸の携帯電話には、青いクマがついている。いつかの童話展で買った物で、5cmほどしか無い。だが佳枝のクマは、ちょっとしたぬいぐるみの大きさはある。よくこんなものを、と思わないでもないが、幸のクラスメイトにもかなり大仰なストラップを付けている子は多い。

「羽根も同じくらいだよね」
「そうだね」
「…遠藤さんのも、ホンモノ?」
「どうかな。少し白いし」

幸の携帯に付いている羽根のストラップは、以前、正樹からもらったものだ。目の前で拡げられた羽根をもらったのだから、本物ということになる。金色ではないから、クラスメイトには「ハトか何かじゃない?」とも言われた事があるが、まさか本当のことを言えるはずもなく、誤魔化しながら笑って済ませた。
羽根は丸く小さく、持ち歩くと無くしてしまいそうだったので、アクセサリー店に行ってストラップの形状にしてもらったのだった。お守りにはならないけど、と言いつつも、どこか気遣わしげな顔をしていた正樹の様子が気になっていて、以来持ち歩いている。

「あたしのは、絶対ホンモノ」

佳枝は自信たっぷりに―――少しだけ優越感ものぞかせながら―――笑ってみせた。その自信が、幸にはどうにもひっかかって仕方ない。

「長岡君が剣士様から直接もらったとか?」

違う、違うと言いながら、佳枝はちらりと周囲を見回した。といっても、こんな夜中に人の気配のあるはずもなく。目の端に黒い車が映ったが、路上駐車の車だろうと気にも留めなかった。

「遠藤さん、口、硬そうだよね!」

いきなり声を低めて、幸ににじりよる。

「ぜーっったい、ヒミツなんだけどさ!」

ご丁寧に、指を1本口に当てて、若干芝居がかりながら。でも、佳枝はどことなく嬉しそうでもある。

「実は、すばる君って、剣士様なんだよ!」

瞬間、幸の足が止まった。目を見開いて、悪戯っぽく笑う佳枝を、ただ、ぽかんと見つめる。

「―――え?」
「だ・か・ら!すばる君が、翼の剣士様なんだってば!」

何度繰り返されても、幸にはいっこうに理解できなかった。何故なら、金色の翼を持つ剣士様の正体は―――。

「そんな…」

ことはありえない、と言いかけた口がふと閉ざされた。
自販機は、もう目前である。やや広い林道とのT字になっている角地、低いモーター音が響き人工的な光がまぶしい自販機をずっと見ていると、闇に慣れた目がくらむ。自販機以外の全てが闇に閉ざされた視界で、何かが動いた気がしたのだ。

「どうしたの?」

急に足を止めた幸の顔を、佳枝が不安そうにのぞきこむ。衝撃の告白で動きが止まった、というふうには見えなかったのだ。

「遠藤さん?」

何かを探すようにして、もはや自分を見ていない幸に、もう一度佳枝は声をかけようとして。

―――はっと、息を呑んだ、刹那。喉の奥で、悲鳴は掻き消えた。

肌がピリピリと痛む感覚を、正樹は最初、蒼胡に投げつけられたフライパンで火傷したと知覚した。が、徐々に、そんなわけはないと、そして、痛みが増してきて、ようやく薄く目を見開く。

「―――あるじ!」

耳元で轟音のような声が響いて、正樹は文字通り飛び上がった。

「な、な」

一瞬痛んだ耳を押さえ半身だけ起き上がり、薄闇に浮かび上がったのは巨大な金色の獅子―――ましろ。そして、その脇でふわりと浮いたアイボリーのワンピース。

「起きて、急いで!!」

切迫した表情が、ましろの燐光に映し出された。一体なにが起こったのか、全く理解できないままの正樹の布団を、ましろの前脚が強引に撥ね退ける。そして今度は、隣に眠るすばるの布団をも、同じように足元まで跳ね上げた。

「ど、ど、ど」

言葉にならない正樹の胸元に、どういうワザでか、着替えが入ったバッグが投げつけられた。ましろはご丁寧にも、ハンガーにかけてあったすばるの着替えをくわえこんで、すばるの顔に落とす。小銭でも入っていたのだろうか、顔面で軽い金属音がした。

「一体どうしたの」
「どうしたも、こうしたも!あなた、ちゃんと魔法はかけたんじゃなかったの!」
「え?」
「佳枝ちゃんと、遠藤さん!さらわれちゃったのよ!」

一瞬後、正樹は跳ね起きて、すばるのベッドの脇に立った。

「起きて、すばる君!」

言い終わらないうちに、掌から放たれた白光がすばるの全身を包む。苦しげに呻いていたすばるは、びくりと体を震わせると、唐突に半身を起こした。

「なんの騒ぎや!」

叫んで、視界の明るさに目をこする。

「…あ?ん?五十嵐、か?おま、何で顔、変わってんねん」

何かのショックで魔法が解けたのだろう。が、今はそんなことにはかまっていられない。それをまだ理解していないすばるは、不思議そうに、両手で頭や胸をさする。

「なんや、全然気持ち悪ないし」
「そんなのは、あと、あと!大変なんだ、遠藤さんと中村さんがさらわれた!」

なんやて、と、すばるが呆然と呟いた。


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