―――携帯、鳴らないなぁ。

ぱちん、とフリップが閉じた。渇いた音は周囲のにぎやかな声が消してしまって、幸の耳には届かない。
ソファ席が人気のコーヒーチェーン店が春日大和市に出来たのはほんの一週間前のこと。まだ物珍しさがあるのだろう、店内は賑わっていて持ち帰りをするしかなさそうだった。
待ち客は多く、まだ自分の番はきそうにない。駅前でスタンドから抜いてきたバイト誌をバッグから取り出してめくってみるが、冬休み中のバイトは腰を落ち着かせて捜した方がよさそうな程、数が多かった。諦めて、丸めたそれをバッグに押し込めた。

ちらりと隣を見ると、大学生くらいだろうか、栗色の髪の女の子が無精髭の男性と携帯のゲームで遊んでヒマをつぶしている。ちょっぴり化粧は濃いけれど小綺麗にしている彼女と脇の男性は、どう見ても不釣り合いだった。でも楽しそうにしているからいいのかなぁ、と思っていると。

「―――…ラテのお客様ー」

赤いランプの下で、店員が声をかけていた。頼んでいたものがようやく来たことを思い出して、幸が一歩踏み出した。その時。

隣の彼女よりもよほど柔らかい髪が鼻先を掠めた。背は幸より頭一つ分高い。白いコートから伸びた手には、幾つもの銀色のリング。白い紙コップを掴んだ指は、鮮やかな赤に彩られて目を惹いた。

外人さんだ、と思ったときにはもうヒールを鳴らして店外へ出ようとしている。幸は手元のレシートを見た。順番からしても、間違いなくあのコーヒーは自分のものだった。

「…あの!」

慌てて白いコートの後ろ姿を追いかけたが、順番待ちで混雑するレジ前を抜けるのは、前をいく外人ほど上手ではなかった。半分開け放し状態の自動ドアをようやく超えて見回すと、左手の雑踏の中に白いコートを見つけた。流行り色だから誰でも着ている色だったが、すれ違う人々がびっくりしたように見送っていたから、すぐに判った。

「どうしよう」

少しだけ迷った。このまま追いかけたとして、どうやって間違いを伝えればいいのか。引き返して、店員にもう1つ作ってもらったほうがいいのか―――レシートは手元にあるのだし―――。2、3歩歩いた足が止まった。後ろから歩いてきた買い物客が、焦れたように脇を通りすがる。白いコートはどんどんと遠くなっていく。
どうしよう、ともう一度口の中で呟いた。

「―――どうしたの?」

後ろからかけられた声に、反射的に振り返った。びっくりして肩が上がってしまったのが不自然に見えなかったかと心配したが、相手がそんな細かいことを気にするタイプでもない事に気づいて、胸をなで下ろす。

「五十嵐君」

後ろに立っていたのは、ダッフルコートを着た正樹だった。

「人、捜していたの?」
「あ…うん。あたし頼んだコーヒー、あの…白いコートの外人さんが、間違って持って行っちゃって」

驚いた表情をうつしたのは一瞬のこと。ちょっと待っていて、という言葉も言い終わらないうちに、雑踏を分け入っていく。50mも歩かずに、声をかけられたのだろう、白いコートの持ち主は振り返った。さっきの幸と同じように驚いた顔をして、しかし、一言二言交わされた会話の後、幸を見つけた小さな顔が笑う。幸からは瞳の色までは見えなかったが、寒さに紅のさした白皙の頬で、色素が薄そうだと感じた。

手を上げて、外人は先へと歩いていく。逆に、正樹は手に白いカップを持って引き返してきた。そのまま、人の流れの邪魔にならないように小さな交差点の影に避けた。

「間違えちゃったの、ごめんねって。間違えたの取りにいくのも、恥ずかしいからもういいってさ」
「ありがとう」

カップを受け取って、幸は笑った。

「すごいね。英語、話せるんだ」
「ううん。一応、英語で話しかけたんだけど。すごく綺麗な日本語で返してきたよ」

なぁんだ、と、脱力した顔が面白かったのだろう。正樹も笑う。

「あ。笑ったな」
「ごめん、つい。―――ね、遠藤さん。それ、どこかで飲む?家に持って帰る?」

ふるふると頭を振ると、正樹は少し考え込むように空を仰いだ。

「ちょっと、時間あるかな」
「―――え、あ、あるけど?」

幸は、心臓がどきんと跳ねるのを感じた。顔色が変わらないようにと、つとめて平静を装おったが、やっぱりそんな事には気が回らないタイプらしい。正樹はそう、と一言言うと頷いた。

「折角だったら景色のいい所で飲もう」

ぽかんと見返すと、人なつこい顔が悪戯っぽく笑った。

「す・ご―――い!!」

秋口にはまだ霞んでいた山の稜線や平野の拡がり、そして視界の半ばを輝かせている海が、鮮やかに眼前に拡がっていた。

「11月の半ばくらいは、紅葉が綺麗だったよ」
「えー!見たかったなぁ!うわぁ、でも、もう街がクリスマス一色なんだ!」
「うん、12月に入ったらイルミネーションが点いたじゃない?夜景が綺麗になったよ」
「うらやましー!」

足場などあって無いような鉄塔の最上部に、幸は危なげなく立っていた。それが出来るのは、勿論、傍らの正樹のおかげだ。こんな高い所ならもっと寒くてもいいはずだったが、ほとんど寒さも風も感じないのも、やはり正樹が何かしてくれているのだろう。

「なんかね!」

普通じゃとても行けない場所に立っているという、高揚感もあるからだろうか。幸の声がややうわずった。

「天使に、天国への階段の途中まで連れてきてもらったみたい」

鉄骨に背中を預けている正樹の、その背には白い翼がある。切っ先は足下に届くほど長く、光を反射して時折金色に光る。これで、着ている物がダッフルコートでもジーンズでもなかったら、幻想的な姿なのだろう。

「雲の切れ間から光が漏れてくるのは、天使の梯子って言うんだって」

正樹は、今は雲一つ無く晴れ渡っている空を見上げて背伸びをした。

「ここみたいに、ちょっと高い所からあれを見ると、そのまま天国に昇っていけるみたい」
「うん、なんか分かる気がするな。あーあ、いいなぁ。こんな風景、何時も見てるんだねー」
「特権みたいなものだから」

笑った顔は、どこにでもいる普通の高校生のものなのだけれど。全然普通じゃないことを普通の顔をしてやってのけてくれるものだから、幸にはとても自然で当然のこととして受け止められた。否、もしかしたら人によっては慌てたり卒倒したりするかもしれない、逆にこんなにするりと受け入れられるのは、幸だけかもしれなかったが。

「ホント、フツーなんだよねー」

肩をすくめると、バッグの中から大事に仕舞っておいたコーヒーを取り出した。密閉保温容器に入れてあり、少し時間が経っていてもまだ暖かい。

「あ。でも、あたしだけ飲んじゃっていいのかな」
「どうぞどうぞ」
「ねぇ、こーいうのって、魔法でコピーとか出来ないの?」
「そりゃ、出来るけど。口に入れる物って、あまりしたくないっていうか」

なるほどね、と、幸はコーヒーを一口含んだ。当然ながら何時も飲むカフェラテの味だ。魔法で作ったコピーのカフェラテは、甘くなったり苦くなったりするのだろうか。気になったが、複雑な答えが返ってきそうだったので、やめておいた。

「そういえば、あたし入院してる時ね」

何気なく話題を変えたつもりだったが、正樹の顔がいきなり強ばった。思わず言葉を切ってしまうと、強ばった顔が慌てたように緩んだ。

「ごめん。あの。僕、全然お見舞い行かなくて」
「―――ああ。なんだ、そんなこと。別にいいよ、五十嵐君だって忙しいんだし。治るの結構早かったしね。もう、あまり攣らなくなったよ。じゃなくて。入院してる時、あの黒い魔物の男の人、来たよ」

正樹の顔が明らかにほっとしたように見えて、幸は一瞬訝しげに思ったが、とりあえずは理由を聞くのを止めてみた。まだ幸が傷付いた事を自分のせいと思ってひきずっているのなら力いっぱい否定したかったが、きっと幸自身がそう願ったところで、正樹が頷くようには思えなかった。

「なんて?」
「うん、『ごめんな』って。…一応、あの人、敵なんでしょ?なんかおかしくない?」
「らしいんだけど。僕もよくわかんない。直接は戦わなくてもいいって自分で言ってたし。誰か、かばってるようにも見えたんだけど…聞いても答えてくれそうにないから」
「だよね」

幸はうんうんと頷いた。

「だからね、あたしにごめんななんて言うんだったら、そもそも魔物なんて出さないでほしいんだけどってね、言ったのね」
「…言ったの?」

正樹が目を瞠って聞き返した。当然の反応だろう。魔物を操ってしまう存在に、お説教する女の子はそうはいない。

「言ったの。したら…出来る限りの事はしてるんだけど、追いつかないから。ごめんって」
「出来る限り…」

おかしいよね、と、幸はもう一度繰り返した。聞いていた正樹も何事かを考えている。それではまるで、彼が魔物を遣って人間を襲うわけではなく、魔物が人間界に現れるのを自分自身も防いでいるような答え方だととれはしないだろうか。

「それ以上は答えてくれなかったの。あ、でもね、最後に名前教えてくれたよ」

あの時、なぜだか頬を紅潮させて、すごく嫌そうに、だったけれど。

「もし誰かが確認しにきたら、王良はちゃんと謝ったって伝えてくれって」

言い終わらないうちに、正樹が吹き出した。

「それ、僕が言ったセリフだ」
「そうなの?」

正樹はまだ喉の奥で笑いながら頷いた。

「まぁ、色々とね。やっぱり根から悪いヤツじゃーないみたいだよ」
「うん。全然怖くなかったもん。意外にいいヒトなのかも」
「…そこまでかどうか、分からないけどね…」

白い羽根が微かに揺れた。何か言いたげな動きにも見えたが、それよりも、その白い羽根の一枚一枚が薄く透け、とても柔らかそうに揺れる様の方に気が向く。

「それ、自前?」

問うと、片翼だけを拡げてみせてくれた。

「自前…になるのかな。飛ぶ時には、風を掴むのに使うよ」
「ふーん」

コーヒーを飲み干して、空になったコップをバッグに仕舞った手が、思わず、その翼に伸びた。が、触れるか触れないかの間に翼が背後に引っ込んだ。

「―――ちょっと待った。今、抜こうかなーなんて思ってなかった?」

固い声と、ずりずりと後ずさっていく足。幸は手を止めて、警戒心丸出しの正樹ににこりと微笑んだ。

「わかった?」

無邪気な答えを聞いた正樹は、天を仰いでため息をついた。

「なんでみんな抜こうとするかなぁ…」
「だって。ほら、開運とかいうじゃない?」
「そんなのあるわけないじゃんか。開運グッズのバイヤーが勝手に言ってるだけだよ。やだなぁ。遠藤さんまで信じてたんだ」
「ガッコの友達で買った子もいるよ」
「ほんと!?」
「恋愛のお守りだって」

えげつないなぁ、と正樹が呟いた。

「僕が聞いたのは商売繁盛だった」
「他にも友達と仲直りとか、交通安全とか」
「それってどーいう基準なのかなぁ…」

普通神社で売ってるようなお守りには、それに即した神様の像が入っていたり絵で描かれていたりするものなのだが、幸が見せてもらったそれは、小袋に入った金色の羽根一枚だった。確かに、よく考えればバイヤーが買う人間の年齢に合わせて恋愛成就だの商売繁盛だのと言ってるだけなのだろう。希少価値に釣られて買ってしまう心理も働くのだろうが。

「でもね、女の子ってね、お守りとか好きなんだよ」
「それは知ってるけど」
「あたしもケータイに幾つか―――」

幸はバッグの中の携帯電話を探った。が、小さな青いクマのストラップが何かにひっかかって取れない。力まかせに出そうとした、その時。

「―――あ!」

バッグの中から円弧を描いて飛んでいった白い軌跡は、コーヒーが入っていたカップ。風に煽られるようにその後をはためいていったのは、雑誌だった。
反射的に、幸の腕がそれを追った。
空中へと。

「遠藤さん!」

魔法で安定させていた磁場を離れた幸の身体は、地上へ向かって落下していく。瞬きすら忘れた幸の目が、正樹の足が鉄骨を蹴り、急速に近づいてきた両手が己に伸ばされたのを捉えた。
逆巻く風の音の中に空を切る羽音が聞こえ。

急に、落下していく感覚が失せた。視界一杯になった正樹の身体が、自分の身体を抱き留めた事を幸は知覚した。

「…びっくりした」

ほっとした声が耳元で響く。ようやく焦点が合った目の前に、純白の壁が―――否、翼が拡がっていた。うまく動かない身体を逸らせてなんとか正樹の顔を見ると、優しいはずのその瞳が、まだ緊張を孕んで厳しい。

「ごめん…」

何よりもその瞳の色に突かれて声を落とすと、背に回された腕に力がこもった。

「あんな高い所に誘ったのは僕なんだから、ちゃんとしてあげなきゃ駄目だったんだ。僕が悪い」
「違うよ。びっくりさせて、ごめんね」

翼が力強く羽ばたいた。風を捉えたのだろう、大きく拡げられた翼の切っ先を少し上にそらせて、上空へとあがっていく。すぐに鉄塔の骨組の上へと二人の両脚がついた。小さくお礼を言って身体を離したが、まだ正樹は心配そうだ。
幸は高所恐怖症ではないしジェットコースターは大好きな部類だったので、足が震えたりはしなかった。けれども、立てなくなるほど震えた方が女の子っぽいのかな、という考えが脳裏をかすめて、平然としている自分が少しだけイヤになった。

「落ちた雑誌とゴミ…どうしよう」

わいた考えを振り払うように下を見下ろすと、目の前に落ちたはずのそれが差し出された。どういう方法でか、正樹がちゃんと取り戻してくれたのだろう。その上に、白い柔らかそうな羽根が風に舞い落ちて、重なった。

「ありがとう」

幸は羽根をくるりと廻してみせた。光にかざすと金色に光る丸い羽根だった。もらっとくね、と笑ってバッグの中に仕舞う。

「だから何のお守りにもならないんだって。…さっきの、求人誌?」

問われて雑誌を取り出すと、表面には大きく「冬休み短期アルバイト特集」と書かれている。学校が冬休みになるのはあと二週間ほど先のことだが、いいアルバイトはもう決めておかないと他の人にもっていかれてしまう。

「バイトしようかと思って。五十嵐君の高校は、バイトは禁止?」
「禁止だけど、守ってるヤツなんかあんまりいないよ。僕はしたことないけど。休みって遊ばないともったいないような気がしてさ。あ、そういえば湊太が…確か24日だったか25日だったか、試合に出るって言ってたから、それは見に行くつもりなんだ。遠藤さんも行く?」

幸はふるふると頭を振った。サッカーは、実はよく判らないし、そもそも湊太から聞いていなかったからだ。

「そっか。じゃ、クリスマスは空いているんだ」

どきん、と心臓が鳴った。気取られなかったかと心配するほど。変わらずに笑う正樹の顔を見て、ちょっとだけ安心した時。

「それじゃバイトで結構稼げるよね。頑張って」

向けられた笑顔に、一瞬だけ、固まってしまった。当然のように正樹はそれに気付かない。にこにこと笑いながら、ケーキ売っていたら買いに行くよ、などと言っている。

「うん…ありがと」

それが、幸の精一杯だった。

地上へと降ろしてもらって別れ、バス停でバスを待っているときに唐突に気づいた。

「また忘れた…」

正樹が携帯電話を買ったかどうか、聞こうと思っていたのに。もし買っていたとしても、ずっと前に渡した携帯番号の紙を無くしてしまっていたら、向こうから連絡は来ないだろう。
かといって、それを聞くためだけに校門で待っているのも、辛すぎる。

「気づいてくれたっていいのに」

思わず口をついて出てしまった言葉を慌てて飲み込んだが、一緒にバスを待っていたおじさんが訝しげに振り向いてしまい、幸は曖昧に笑ってごまかした。おじさんの顔が前を向いた所で吐息をついて、考え込む。

母親と湊太が連れ立って見舞いに来た日、母親が笑いながら話した、正樹との会話。驚いて湊太を見ると、酷くバツが悪そうな顔をしている。ごめん、と唇が動いた。でも、それは元々は自分が言い出したことで。
幸はかぶりを振った。自業自得の結果ではあるけど、でも、ちょっとだけ鈍すぎの正樹のせいにもしたくなる。

―――天使のくせに、恋愛オンチなんだから。

今度は心の中で、気づいてくれたっていいのに、と、悪態をつく。まさか、自分から「あの時お母さんが言ったのは間違いなの」なんて言えない。もしそんなこと言ったら、と思うと、体温がいきなり5度位上がったように感じた。

―――でも、天使って人の恋愛を成就させるんだったっけ。

少なくとも、あのボンヤリ天使にはそんな高等なことは出来そうもない。

―――今度バイヤーさんに会ったら、恋愛成就だけは違いますよって言おう。

幸は、バッグの中で光る丸い羽根を見やって力強く頷いた。