屈 辱 (前編)
Mr.X
「何すんのよお〜」
突然、乾いた平乎打ちの音が背後に響いた途端、女の甲高い叫び声が上がった。
物悲しく、薄暮が湊み始めたこの街にふらっと紛れ込んで来て、人恋しさに人ってみたスナックバーだった。人り易く、上品な店構えだが、客は、まだ誰もいなかった。色白な中年女のバーテンが愛想よく彼の注文に応じてから、ちょっと席を外したが、その留守中、若い二人が入ってきた。
慌ただしく後ろのボックスに座り込むと、何やら、ひそひそ、話をし始めたが、出来事はその直後のことである。
せいぜい五、六人程度のこのカウンターと、彼らがいるボックス併せて六つがあるだけの余り広くもない店だが、客は、先に来ていたこの老人と、彼らの.、人だけだった。
つい今し方、目の前にいたママさんは、まだ戻っていなかった。
振り返った瞬間、女は打たれた自分の頬を片手で押さえ、その男の顔を睨み付けている。
一瞬漂った沈黙は、女に憎悪をたぎらせ、反撃の期をうかがわせているのか、それとも、次第に怯えへと萎縮させているのか、老人は、斜め後ろのボックスに視線を送り、かたずつを呑んで見守った。
これは、とんでもないところに居合わせたものだと後悔し、この場から逃げ出したい気持ちに揺れ動いたが、呑み代、支払うバーテンが見当たらない。仕方なく、今、しばらく様子を見ることにした。
女は明らかに萎縮している。しかし、男はまだ飽き足らないのか、それとも、女の萎縮した姿が彼をサディステックに駆り立てたのか、追い討ちをかけるかのように声を絞り出した。
「このやろう!」
言うや否や、今度は、鋭く、女の肩を突いた。その途端、ひっくり返るように椅子から転げ落ちると、短いスカートの裾が翻り、白い素肌の太ももが開けっぴろに曝け出た。
開いた脚から、黒の下着が鮮烈なコントラストで彼の目を射貫いた。思わず、ぎょっとして生唾を呑んだ。
生まれてこの方、見たこともない女の光景だ。転げた姿は扇情的だが、老人の目には痛々しく映った。
まだ宵の口なので、この小さなスナックでも、がらんとしていた。女バーテンに急用でもできたのだろう。席を外したほんの一瞬の出来事である。
女は、思いも寄らぬ一撃で動転してしまったのか、呆然として、見えた侭の姿勢がまだ繕えないでいる。
男はその浅ましい姿に逆上したのか、席を立ち、更に足蹴でもするかのように近寄ってきた。
一部始終を見ていた老人がついに、堪り兼ね、
「なん、なんちゅうことするとです!ちょいと、ちょいと待ちんしゃい」
あたふた両手を振りながら、高い丸型のスツールから滑り降りて来た。
「何だ、何だよお、おめえは?」
いきなり、白髪のいがくりが、どんぐりまなこ剥いて立ちはだかった。
「おなご叩いて白慢にゃあならんぞね」
「おまえ、どこの者だ。横から口出しするんじゃねえ」
男は、やくざのような□の利き方で彼を睨み付けた。
「手出しもしとらんおなごを、足蹴にすることもなかでしょう。そうじゃろが。それが、よか男のすることですとね!」
老人の顔は青ざめ引き撃っている。
「何お〜このやろう」
言うや否や、男は老人の肩を突いた。途端、よろよろっと、後ろ向きによろめいていってカウンターの角にぶつかり、したたか背骨を打った。ぐらり、目眩を感じたが、
「あんた!今度はこの老いぼれですとね!」
助けた女の前で顎を突き出し虚勢を張った。転んでいた女はいつのまにか身繕いし、元のボックスの隅に身を寄せていた。表情は青白く、小さな肩が小刻みに震えている。
「やかましい!」
「こげんかこっ、暴力行為というもんじゃろうが1はってん、警察沙汰ですたい」
「可ィ〜?.」
警察という言葉がかえって男を刺激したのか、肩を怒らし詰め寄ってきた。
「やるっちゅなら、やっちみんさい!」
老人は顔を強ばらせ、わなわな唇を震わせながら更に虚勢を張った。これは、誰が見ても勝てそうでない。
「このやろう」
今度は、老人の胸倉を鷲掴みに捻り上げた。その威力は彼の誇りを奪おうとした。
「やめときんしゃい!」
のけぞりながら、こん身の力を込めてその腕を振り払った。が、その瞬間、パンチが飛んだ。あっさりその場に崩れ落ち、白目を剥いた。脳震盤こそ起こさなかったが、暫く立ち上がることができないでいる。
「やめてえ-」
女が悲鳴に近い声を出して、倒れた彼に擦り寄った。
「ねえ、大丈夫?」
「………」
パンチには大した威力はなく、格別の異状はなかったが、男への恐怖と、彼女に対する差恥が脳裏を充して返事もできない。
「私が悪かったかの。おじさんにまで迷惑かけちゃって。ごめんね」
そう言うと、素早く寝転がっていた彼の首の後ろに手を回し抱きかかえた。若い女に抱きかかえられたことなど、生まれてこの方一度だってない。
それに、おじさんと言われて妙な気がした。六十過ぎた白髪の白分をお爺さんでなく、おじさんと呼んでくれたのが、妙に照れくさかった。それより、凶暴な男から、覆い被さるようにして身を守っている彼女の態度にこれまで経験したことのない優しさを感じた。
「なんちゅうこともありませんけに。それより、あんたの方、どうもなかかねえ」
老人は、こうされているのが気恥ずかしくてならなかったから、自力で起き上がろうと気が焦り、もがいてみたりするのだが、しっかり抱え込まれた形で身動きできない。女が心配そうに、まじまじ彼の顔を覗き込んだので慌ててどんくり眼を閉じた。すると、柔らかな胸の感触と温もりが、灰かな香と共に伝わった。
そっと薄目を開けてみた。眉毛の濃い瞳が不安げに、まだ、上から見つめている。
その途端もう一度目を閉じた。だが、いつまでもそうはしていられない。
「ああ、もうよかばってん」
男の恐怖より彼女への差恥の方が先に立ち、やっと立ち上がろうとしたとき、
「余分なこととするんじゃねえ」
今度は女の肩を後ろへ引いた。
再び、女が両脚開いて後ろに転げると、再び、黒が彼の目に飛び込んだ。
「なんするぞ!」
はらわたでも搾り出すかのように絶叫した。心の底から怒りが込み上げたのだ。
最初から勝てる相手ではないことはわかっている。
だが、のこのこ逃げだす自分は許せない。何としてでももこの屈辱には耐えねばならぬ。
この男、余程気が短く手の早い奴らしいが、執念深いのか、それともサディストなのか、どう見ても正常とは思えない。だが、老人の心は一筋だった。
目を剥き、歯を食いしばって、ふらふらっと立ち上がった。再びパンチのくるのは必至だが、もう一度男の前に立ちはだかった。
「あんさん、もうちと冷静にならんかとね」
「なにおう?・……このやろう」
と、再び胸倉を掴みかけたとき
「お止めなさいよお!」
鋭く、違った感じの女の声が飛んできた。その一喝には心を揺さぶる讐きがあった。
「お止めなさいよ、お互い、いい年して」
先の女バーテンが戻ってきたのだが、この貫禄からすると、どうやらここの女将らしい。お互いという言葉からすると、彼女は、この状況を対等の渡り合いと判断したのだろうか。
「由さん、いっも誰彼なく手を出すんだから、あんたが悪いに決まっているよ。もしそうなら、お客さん、許してやってくださいな」
由という男への厳しい眼差しが急変して、老人の方に笑顔を作った。まさに地獄に仏である。女将がもう少し遅かったら、顎の骨でも外されるか、鼻柱の一つでもへし折られ兼ねなかった。
「こいつ他人のことに口出ししやがって」
捨て台詞を言うと、男は、ぷいと外へ出ていった。
小綺麗な中年女将には馬鹿にされずにすんだが、再度立ち上がって男と向かい合ったのは立派でも、景初から負け犬だったことは、ここに置き去りにされた若い娘がよく知っている。これは彼にとって、未だかって受けたことのない屈辱だった。
しかし、老人は複雑な気持ちだった。倒されて惨めに落ち込む一歩手前のところで、若い女からはおじさんと呼ばれるし、恐怖の限界で、女将から、あの暴力男と力で対等のように見られた。それだからかどうか分からないが、老人も、つい、軽い調子で身体に付いた挨をパッパと払い、襟元を直して、ちょっと首をしゃくり上げる仕種をした。
「美保ちゃんどうしたのよお」
女は美保と言う名らしい。白目の部分がきれいで、まだ、あどけないぐらい可愛らしい。彼の子供くらいの年格好だ。
「……お金のことなの」
聞き取れないくらい、小さな声で言った。
「またあ?……あんたも、よりにもよって変な奴、好きになっちゃたのね」
「でも、……根は良い人なのよ」
娘は項垂れたままぼつりと言った。
「あら!お客さんほっといてごめんなさい」
艶やかな笑顔を老人の方に振り向けて、
「水割り変えますね。前の分は私が捨ててしまうから」
呑みかかっていた先の分の代金は不要と言わんばかりだった。
「いいえね、この娘、可愛そうなんですよ。中三のとき、働き者の父親亡くしてね。田舎には病気がちな母親独り残して、こちらの電気の部品造る工場に勤めているんですよ。二十歳は過ぎたんですけどね、夜学の高校にでも行きたいらしいんだけど、母親への仕送りしなけれりゃならないし、夜のバイトは誘惑が多いから嫌だと言うし、困ったものですよ」
老人は、先程の動転がいつのまにか立ち消えてしまい、ほろりとなった。
「あの男、自動車の修理工場のメカで腕はいいらしいんだけど、金遣いが荒くてね、時々この娘に………」
「ママさん、止めて」
娘はそれ以上言われるのが心苦しいのか、頭を屈めるようにボックスの隅に身を縮めた。
「そげんとね……」
老人は感慨深げに、ぼっりといった。
女将は老人の人の良さそうな顔に、悲しげな表情を読み取ったが、更に言い続けた。
「いいじゃない、あんたが悪いわけでもなし」
「だって……」
「何もかも話したってどうってことないでしょう?.若しかしたら、女の私なんかより、このお客さんの方がよっぽど人生のこと深いんだよ」
娘は首を傾げ、テーブルに置いてあるナプキン一枚とって折り紙を始めた。
「ほなあ、くにはどこかいね」
老人は娘の仕種に心を奪われた。こんな年端も行かぬ小娘の、病んだ母親はどこでどうしているのだろうと思いやった。
「それが九州なんですよ」
「ええ?そりゃ、本当が?……ばってん、九州のどこですたい」
老人は九州と聞いて、急に精気を取り戻したかのように、どんぐり眼をしばたいた。
「福岡県ですよ」
「福岡とな?福岡のどこですたい」
しばたいていた眼が見開いた。
「美保ちゃん、なんとか言いなさいよ」
女将は、しょんぽり肩を落としている娘を促した。
「……秋月です」
こちらを向くでもなく、俯いたまま、蚊の泣くような、か細い声で言った。
「いや、いや、ま、なんちゅうことですたい」
老人の感嘆の声に溜め息が湊んでいた。
「秋月とね!わしは隣の大分じゃけん、それにしても、いやあ、こげんかこつあるのものじゃねえ」
今時、与那古鳥の人が知床に住んでいても不思議はないご時世だが、彼はこのことがひどく不思議な縁のように思えてならなかった。
ふと、若い頃、筑後に仕事で何度も脚を運んだことが思い出された。
阿蘇、九重の山々から有明海に注ぐ筑後川は[筑後次郎]と呼ばれる大河だ。その流域に穀倉地帯として知られている筑後平野が開けている。河口付近は、網の目のように走る水郷地帯に、詩情あふれる北原白秋のふるさと、柳川がある。柳川から北へおよそ三十キロ、清流に恵まれ、周囲を山々に囲まれた静かな城下町、そこが秋月だ。
この町には、京都を思わせるたたずまいがある。老人は、小年時代、大分の山間部から久留米に出てきて下宿し、久留米高校に在学していた。そのとき、郷土史の研究に度々出かけたこの秋月で、偶然のことから旧家の娘と知り合い恋をした。
もちろん、結ばれるはずのない淡いものだったが、ふと、その苦い思い出が脳裏を過ると、気のせいか、美保という娘にその面影を感じた。しかし、それはこのときの幻想で、美保でなくてもちょっと目許が似ている同じ年頃の娘なら、誰であろうと、そういう錯覚に捕われたに違いない。それほど、彼の今の心境は、まるで、ガラス細工のように脆く、危なげで心許なかった。
豊後竹田市の北、芹川に沿った長湯沿娘を皮切りに、別府、耶麻渓、小倉を経て本州に渡り、中国、四国、関西の各地の都市、山間部、海辺部を巡り巡って、この名古屋の街のビジネスホテルに辿り着いたのが十日程前のことだった。
あのとき以来、まるで濃霧の森の中に迷い込んだような、底知れない不安に怯えながら、果てしのない彼の旅が続いていた。
故郷を出る三カ月程前、妻の初回忌の法要を済ませてきた。法事には、大阪のD大助教授をやっている独り息子と嫁、それに二人の孫の他、親類縁者、総勢五十名ほど集まった。
料亭での斎事の席では、若くて助教授になった息子に尊敬の眼差しが注がれた。主役である老人の万は、二の次だった。老人は嬉しくもあったが、無視されたと言っていい自分は、やはり用済みな存在だと思った。村人は、入れ代わり息子の前へ出て来ては愛想を言いながら酌をした。だが、隣に座った嫁は、能面のように無表情で、何も言わなかったし、老人が、わざわざ料亭にまで出かけて行って、吟味し、心くばりした膳にもほとんど箸を着けなかった。
ただ自分の子供の世語しているだけで、接待者側の立場としての、客に酌をして廻るなどという気の効いたことは一切しなかった。老人独りで酌して廻った。
村人にはそれが当然であるかのように見えた。軽々しく追従笑いをしたり、むちゃくちゃ料理に千を着けたり、酌をして廻ることなどしない彼女が気高く感じられたのだ。
だから、老人が例え今、独りの佗び住まいであっても、有名大学の助教授夫妻がついているのだから、彼に、変事などあるはずもないと思っていた。
村人は、滅多にありつけないご馳走の、一つ、一つを、目を細めて口に述び、あごを突き山し酒を酌み交わした。あちこちに大声を山してはばか笑いをする者もいた、そして、時々、傍らに置いてある自分の引出物に気を配った。亡き妻への供養の語らいなど、期待していた老人の心の中など、誰一人として思い遣ることはなかった。
何もかも済ませ、家に帰って落ち着いたところで、息子は、この大分の家を処分して大阪へ出てきたらどうかと勧めた。近くに小さなマンションを買って住めば、何かのとき心強いだろうとも言った。是非、そうしろと強く勧めた。だか、同居しょうとは決して言わなかった。
「親父さん独り、ほっちょくわけにもいけんですき」
大学助教授の息子でも実家に戻ると九州介になる。
「おまえの気持ち、ようわかっちょる。じゃけん、ご先祖や母さんの墓守らんとな」
「時々来ればよかとですたい」
「・…:ばつてん」
老人に・この地を出られない特別の理由などなかったかが、簡単には踏み切れない、住み慣れた先祖代々のこの地への執着が息子への返事を曖昧にした。
「迷うことなどなか、そげなこたあ、どうにでも…」
息子がむきになって話を進展させようとしたとき、傍らで聞いていた嫁の、あの能面が、心なし歪んだかのように見えた。
暗黙の彼女の意志表示なのか、息子はその話を、いきなり、ぼっんと止めた。
嫁には、老人のいがくり頭と、顔に刻まれた深い破が気に入らなかった。彼の表情が変わる度、ミズのように動くその破がどうしても許せなかった。
その日の夜、突然、息子一家は、仕事が忙しいからと慌てるように帰る支度を始めた。帰るとき、上の孫が何を思ったか、
「おぢいちゃんの顔、破だらけで嫌」と、言った。嫁はもう一度確かめでもするかのように、ちらりと彼の顔を横目で見たまま、手を引っ張るように違れ出した。
まだ大学院生だった当時の息子が、いきなり我が家に連れてきた彼女に対し、死んだ妻は、驚きと、娘の冷たい感じの第一印象に、つい、よそよそしくなり息子の恋人としての優しい思いやりが出来なかった。それが今でも尾を引いている。
その頃の彼女にしてみれば、息子に乞われて、わざわざこの九州の片田舎まで出てきたのにという気持ちがあったに違いない。
都会育ちで、資産家の娘というブライドは、この泥くさい風土が鼻持ちならず、例え彼の両親といえども、言葉の詑りや仕種が許せなかったのだ。
その日の嫁の態度に、老人は漢然と屈辱を感じたが、彼女に、何か、勘に障ることでもあったのだろうかと色々思いを巡らし、心を痛めた。
時代は目まぐるしく移り変わる。いつまでも先祖の地に綿々どして朽ち果てるのも愚かなことだ。息子に言われなくても、いい加滅、踏ん切りを着けようと思っ.ていた。
法事が終わって四、五日後の深夜、突然、上腹部に強烈な痛みを感じたが、しばらくすると胸が悪くなり少しばかり吐血した。
ずっと以前から胃の不調を感じていたが、売薬で済ましていたのが悪かった。不安が募り、翌朝、総合病院へ出かけると、医師は、明日の朝、何も食べずに来なさいと済ました顔で言った。その当日、白墨を溶かしたようなジュースを呑んで調べた結果、怪しい陰が見つかった。医師は風が吹くような声で、精密検査が必要ですねと言った。
更にその翌日、今度は、苦しさの余り歯で食い千切らないよう、プラスチックの輪っぱを衡えさせられ、いきなり、その環の穴から黒いゴム管の先に付いたカメラを喉の奥に突っ込まれ、おえっ、おえっと言いながら胃袋の内側を覗き込まれた。上下に動いていたカメラが一点に留まると、医師は小さい声で、ああ!これだと感嘆の声を上げた。
医師は何枚彼の写真を撮り終わると、ゆっくりカメラの管を引き抜いた。看護婦は流れ出すよだれを拭き取りながら、さあ、これで終わりましたよ、と優しく言った。医師は、胃に潰瘍が出来ていますね、薬で直りますが、これは老人性胃炎にストレスが重なって起ったものです。くよくよすると、すぐ再発しますよ。
だから、のんびり暮らすことですね、と、気楽なことを言った。そして、取り付く暇もなく、ぷいと横を向いたまま、何処かへ行ってしまった。
白分の体内に、何の断わりもなく、まるで当然であるかのごとく、単なる生物を扱うように、平然とゴム管を突っ込まれたことが、なぜか、彼にとって屈辱だった。
診察を終えて廊下で待っていると、孫みたいな若い看護婦が笑顔で近寄ってきた。
「さあ、これを持って会計したしてから、薬局でお薬もらって下さいね。ちゃんと飲むんですよ。そして次回は、この予約票をよく見て、もし分からなかったら、誰かに読んでもらい、きちんと頭に入れてから来てくださいね。いいですね。じや、お大事に」
まるで幼児を諭すかのように、丁寧な言葉付きで指図すると、中に戻っていった。
老人は看護師の作り笑顔
優しい言い方に突然、む不安と戸惑いを感じて項垂れた。老人は特別ひねくれ者ではなかったが彼女の、この哀れみに、む再び屈辱を感じたのであった。
彼は、このとき初めて・年寄は屈辱の人生を送らねばピないものだを気がついた。そして、屈辱は病院に限らず、これからも生きていく限り、つづくだろうと思った。鏡に映った虚像の通り、世間が自分を見るのは仕方ないことだと思った。誰一人として、彼の心の中なぞ分かりっこない。
翌日、老人は・町の不動産屋へ出かけてみた。不動屋は、彼の所有している山林、.畑宅地など一切の物件をいつでも自分で引き取りますと強く勧めた。そして老人は息子に手紙を書いた。
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先日は・お母さんの初回忌に来てくれてありがとう。まさか、私より先に逝くとは思わなんだ母さんも、これで一年、あの世で気楽にしちよるたい。お前や孫達に会えてさぞ喜んでくれただろう。
身寄りはお前立ち家族だけとなつちもうたが、一年ぶりに元気な様子をみて安心した。 、
わしのことも何かと気い遣つてくれてありがたいと思っている。孫もおおきゅうなつて将来がたのしみです。嫁はんも子供のことで何かと気を遣うだろうが、気を遣いすぎるとストレスが溜まり、胃潰瘍になりますけに、あまり無理をらせんよう、お前も労ってやるがいい。
さて、私のことだが、年もとった。年を取れば誰でもあの世へ逝かねばならん。どこから旅立つかは人それぞれの巡り合わせと言うものだが、自分で選ぶことも出来るだろう。先祖代々子の地に住んでおったのだから、この地で旅立つのが一番と思えるが、此処も以前とは大分変わりました。
皆都会一出て行くようなった。ここでは食っていけんから無理もなかとですき。お前はああ言うてくれたが、わしは都会生活には馴染めません。お前の近くにマンション買おて孫達と遊ぶのもよかでしょう。夢に見たこともありました。
じゃけん、いつまでもちゅうわけにはいきません。
そうかと言って、わしもこの地に独り朽ち果てるのも気がすすまん。いろいろ考えてみたが、やつぱり、ここを売りはらおうと思う。どこに住み着くかはまだ決めてはおりません。暫くは気ままな旅に出て見たい。
いろんな所で、いろんな人にもおうてみたい。冥土へ行ったときの母さんの土産話しもいるですき。
先祖と母さんに対しては菩提寺に永代供養を願い出れば心も安まる。これ以上、もう後ろは向かんことにした。
それで、じゃ、先祖の土地、思ったより多額で買うらしい。わしはその半分で充分暮らせる。残りの半分はお前達家族のものじゃ。金になったら後日小切手で送ることにしょう。
それでは達者でな。心配することなか。
嫁さん、美しかばい。孫達可愛いかばい。
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老人は長い手紙を書き終わると、ほっと、一息ついて寝転がった。長い間の迷いが吹っ切れた思いだった。
そのまま大きく背伸びをすると眠くなった。台所の方で何か物が落ちる、かたっと、という音がしたが気にもしなかった。
暗いトンネルの中。まるで音速で走るかのようにものすごい速さで突っ走る。すると、突然、白い光の中に入る。太陽より眩いが、目を閉じる必要はない。何と明るいことか。目の前は果てしなく草花の野原が展開している。満ちあふれるばかりの幸福感だ。
遠くで子供が花摘みをしている。
どれぐらいまどろんだろう。夢を見ていた。何かで読んだ臨死体験のとき情景みたいだが、あれは意識を喪失したときの話だし、故人とも出会わなかった。
ふと、その浅い眠りから目が覚めると、法事が終わって息子達が帰るとき、孫の、「おじいちゃんの顔汚い」といった言葉が脳裏を過った。孫に悪い印象を与えたことが、なぜか、すまないように思えてならなかった。夢の中で花摘みしていた子供は孫だったのだろうか。
口が乾いていた。ふらふらっと立ち上がって台所へ行こうと、座敷から一段下がった板の間へ降りようとしたとき、上り櫃の所で足を踏み外し、仰向きにひっくり返えり、どたん.!と、床が響くほどの大きな音を出した。音の割には、さ程のこともなかったが、そのままぽかあ〜んと口を開け、後ろ手を着いて庭の方に目をやった。鶏が猫にでも追い立てられたのか、けたたましく鳴き声を立てて走っていった。
だが頭の中は空洞だった。その空白の脳裏に、突然、死の思考が滲み始めた。孤独の無気味と怖れだった。
その実体を知る由もない。客観的に、個体が塵芥になると言うだけでは釈然としない。脳生理学では、意識という精神の統括的機能を果たす脳組織そのものは、脳のどこを探しても見当たらないという。意識は単独の存在としてどこかにあるのか。死とは、肉体から意識を引き抜くことなのか。
それがどうであろうと、死の必然性は、人間の理性をはるか超えている。死と太陽は、じっと見詰めていられぬもなのだ。
明らかに、その死がそんなに遠い将来でないはずなのに、準備も覚悟もないのは、彼白身のだらしなさによるだろうが、それだけではない。死が間近と思いながら、死に対して何の用意もしていないのは、一方ではそんな切羽詰ったことだと、切実に感じられないからだ。死が遠いのか、近いのかそれがはっきりしないのだ。
医師も看護婦もあの老人は大体何年ぐらいで死ぬ、と分かるだろうが、彼白身、主観的に、死が近いうちだと感じられないのは、死というもの、つまり人間で
あることを止めるということが、今現に日々生きている彼にとって、その人間であることを、ある日突然止めてしまうということが、どうしても切実に考えられず、想像できないからだ。白分が突然なくなってしまう、誰だって、これを自分自身描くことが出来るだろ
か。だが、そいつは必ずやってくる。それがいつなのか。知りたい。いや、知りたくない。恐ろしくて知りたくない。
知ったところでどうなるものでもない。現にこの通り、息をしているではないか。だが、いつ止まる?そのジレンマに、激しく心が揺れ動く。
死のときを、切実に切迫感を持って感じ取ることが出来ず、誰一人として白分を理解してくれるものがいない孤独な状況に置かれた彼に、抑圧された願望の隠れ家としての旅を思いつかせたのだ。
ここから見渡せる、物干し竿も、走り回っている鶏も、柿木も庭の草花も、なぜか、変によそよそしく取り澄ませているように思えてならなかった。
ふと、妻の面影が障子をよぎる鳥陰のように、一瞬、彼の脳裏に去来する。
「待てど暮らせど来ぬ人を宵待ち草のやるせなさ」 死ぬ間際まで妻が口づさんでいた竹久夢二の[宵待ち草]の一節が鼓膜の奥に響いてきた。
独りきりの生活。愛するものは誰もいない。憎む相手もいない、同時に闘う相手もいない。あたかも極地に取り残された犬のような孤独を感じ、怯え、しかも怯えながら死を待たねばなちなかった。最早、ここに彼の人生はなかった。例え屈辱の旅路が予想されようと、今の彼にはそれより生きる術はなかった。
孤独の地獄から逃げ出すにはこれよりなかった。そうしなければ寂しさのあまり心理的に凍え死ぬ。
不動産屋が老人の家屋敷と田畑、山林などそっくり買い取ったという語は、村人とって驚天動地の出来事だった。彼の家が何百年と続いた家柄であったということもそうだが、老人と同じ境遇になった人々でも、彼の決断(実際には決断ではない)と同じように村を捨てるものは誰一人としてなかったからだ。夫に先立たれ、独り身で先祖の地を守り通している老婆だって何人かいる。
村人は、彼が、現代文明に毒され、【帰属意識の喪失】先祖代々の故郷まで捨てる個人思考に走った西洋かぶれと非難した。
それから一月もたった頃、老人は菩提寺の住職を訪れた。老いた住職は、一部始終、彼の話を聞いてはくれたが、黙ったまま、最後まで一言も言わなかった。
老師は、彼の現代的な感覚に嫌悪感を覚え、彼の人生観の変わり身に唖然としたのだ。昔から、生まれ必ず死ぬまで所属していた共同体を平然と離脱する彼の神経を許すことが出来なかった。老人にはそれが分かったから、帰り際、手を付き畳に頭をこすりつけて、挨拶したが、老師は、前を向いたまま、表情一つ崩さなかった。ただ、永代供養料の入った袋の裏側をちらっと見たときだけは、多少、和んだかに見えた。
老人は、なぜか、自分の生きていることが済まないように思えてならなかった。
老師は彼を理解してくれる唯一の人物と思っていたのだが、老師の無表情さは、老人を再び深い孤独感に陥れた。正直言って、老師が少しでも自分を理解してくれるものと期待して来たのは、誰かに向かって自分を表現したい、例えば日記を書いたり、絵を描いたりして自分を表現したいという本能のようなものだった。
つまり、他人に自分を理解してもらいたいのは、自分では、皆目、自分が分からないからだ。
親類縁者にも、世語になった人にも、一軒一軒一なにがしかのお礼袋を持って挨拶して回ったが、その姿に村人は軽蔑の眼差しを持つだけだった。きっと先祖の崇りがあるに違いないとひそひそ囁いた。
「あげんかこつ、よかろうかね。孫の一人に魅がせることも出来るたい。本人一人の間題じゃなかとばい。村のことたい」
村人にとっては、老人の後にやってくるよそ者のこも問題にしなけばならなかった。
その数日後、老人はこの村からぷいと姿を消した。
つづく
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