屈 辱 (後編)
Mr.X
★ 前編を読まれなかった方のために ★
人恋しいの老人は、美保と言う娘が秋月にいたと聞いて一挙に心が動かされた。奈落の底に落ち込んだような孤独から開放された思いだった。しかも、美保の面影に、若い頃の淡い郷愁が揺れ動いたのだ。
「いや、こげんして見ると、あんた二十歳過ぎには見えんとばい」
美保は恥ずかしそうに項垂れたままでいる。
「それで母さん、国でどげんしとるとね」
ボックスの隅に小さくなっている彼女の前の席にきて座り込んだ。
「……独りです。近くに叔母夫婦がいますので、ときどき面倒見てもらっていますけに」
つい、ちらりと、九州弁がもれた。
「ほう、そりゃあよか」
美保の返事を聞いて彼の心も和んだのか、ほっとしたような沈黙が漂った。
「さっき、女将さん、あんた中三のとき父さん亡くしたちゅうとったがどげんしたとね」
「工事現場へ働きに行ってまして、事故に遭ったんです。転落即死でした」
今度はきちんと標準語で答えた。
「ああ、……」
よくありそうな話だが、老人は、悲劇というものは答赦なく訪れることをよく知っていたから、大きく頷いて得心した。
「夜学に行きたいちゅう話しだったが」
「………はい」
美保は更に肩をすぽめて答えた。
「ところで、さっきの男……」
老人は美保の方に顔を近づけ、声を細めていかけたが、途巾で口を噤んだ。先の怒りが蘇り、脳裏を満たすと同時に、娘の男への気持ちを配慮したのだった。
それをいち早く美保は察したのか、悲しそうに首を傾げ、頬が触れんばかりに彼の顔を覗き込んだ。
「ほんとにごめんなさい」
男への憎しみは、彼女の淋しそうだが、美しい顔で同情と心痛になった。
「……あんた、あの男と結婚ばするとね」
「……そげんこと」
「ばってん、決めちょっるっちゅうわけでもなかと?」
「もちろんですたい」
「そりゃ、本当が ? 」
どんぐり眼を見開いて、美保の目を覗き込むと、俯いたまま、こっくり頷いた。
老人はほっとして、優しい恨差しになった。
「何かほしかもんなかかね?」
「いえ、よかです、いりません」
つい、また九州弁がちょっぴり漏れて出た。
「遠慮はいらん、なんでも言うてみんしゃい」
「……よかです」
肩を振るようにしてから首を振った。その仕種が可憐でならなかった。何とかしてやりたかった。
「美保ちゃん、水割りのお替わりよ」
カウンターで女将が声を掛けた。美保はそれを取りに立ち上がろうとしたとき、
「ついでに、そこのブラインド閉じてしてちょうだい」
と、女将が言った。
ボックス越しの窓に掛けてあるブルー色のプラインドから通る人ががよく見えた。美保は、椅子とテーブルの狭い間を通るのが面倒なのか、ボックスの手前で立ち止まり、泳ぐような姿勢で紐に手を伸ばした。ほんの数センチ届かない。更に前につんのめるような姿勢になった。
片足が上がった。揺れ動きながら更に上がった。スカートの裾が迫り上がり、白い太腿の後ろの方が、ずっと奥まで露になった。素肌の脚は、まるでバレーの踊り子のように真っ直ぐ伸びて上がった。
老人は、再び見てしまった。今度は後ろのほうから見てしまった。その姿勢はずっと続いたのだが、彼には、わずかな時間のように思われた。
やっとブラインドを降ろして新しい水割りを持一てきたが、娘の仕種は素人じみてぎこなかった。
老人は今見た彼女の黒が脳裏から消え去らないまま、彼女の顔を見るのが気恥ずかしかった。今度は、老人の方が項垂れてしまった。
「はい、おじさん、どうぞ」
おじさんという言い方は好きでなかったが、どこかを櫟られる思いだった。出された水割りを遠慮気味に手にすると、一気に飲み干した。
「おじさん強いのね」
美保が感嘆の声を出した。
「…そげなこたあ、自慢にもならんがよ」
と、俯いたまま「お替わり」と言った。実際、彼は一升ぐらいの酒は平気だ一たが、再び持ってきた水割りを今度は一口飲んだ。
「いらんこと、言うようじゃけん。……」
言いかかって、もう一口飲んだ。
「……あの男、これ以上深入りしちゃいかんばい。あんた美しか。心も美しか。ばってん、いっまでも付きおうちょると、心まで汚れるですき」
老人はしんみり言った。
「ええ、分かつています。近い内、別かれるっもりです」
「ああ、そりゃあよか。そりゃあよか」
彼は安心したかのように、大きく息を吸うと、残りの水割りを一気に飲み干した。
丁度そのとき、二、三人連れの客が入ってきた。女将が潤んだ声で、いら一しゃいませ、と言一てから、
「美保ちやん、気にしなくていいのよと、気を利かしたが、老人は、
「ほな、帰るとするばい。秋月の母さん、独りば淋しかねえ」
独り言のように眩くと、腰を浮かし、後ろのポケットから分厚い札入れを取り出した。無造作に・中から一万円札の二、三十枚は入っていると思われる札束の殆とを、数えもしないで掴み取り、美保の目の前に差した。
「これ母さんにやっちょくれ。ほんの気持ちじゃけん」
「……あら ! 」
美保は目を丸くして、しばらく札束と、彼の顔を見比べた。
「はようしまっときんしゃい」
急き立てるように言って座を立った。そのまま出口に行って女将に会計するとき、美保の方に顎をしゃくり上げ、
「あん人の面倒ばみてやってくんしゃい」
小さな声で囁くように言うと、扉を押して出て行った。そのとき、
ボ一クスから立ち上がって来た美保と、女将り顔が一瞬合った。美保は、彼女に片目をつむってみせた。
「いらっしゃいませ」
美保は先に入ってきてカウンターの席に着いている客に、上品な挨拶をした。
「掛けてもいい?」
馴れ馴れしくもなく、遠慮気味でもなく親しみやすい言い方だった。声を掛けられたのは中年の口ひげはやしたサラリーマン風の男だった。
「どうぞどうぞ、いいとも」
男も彼女の態度につられ慇懃な態度をとって体を寄せた。
「美保ですよろしく」
そう言いながら高いスツールに丸いヒップを持ち上げるように腰掛けると、短いスカートの裾がずり上がり、象牙のような素肌の太ももが現れた。男は横目でそれを見下ろし、
「何か飲む?」
やけに優しく美保に頬を寄せてきた。入り口の扉が再び開いて新しい客が入って来たが、
美保は、わざと、振り向きもししなかった。
老人は滞在しているビジネスホテルに帰ると、その夜遅くなってから息子に手紙を書いた。
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あれからずっと旅を続け、もう半年になりました。
色々な風土に接してきたし、そこで暮らしている人たちの、様々な生き方も知ることができました。
逢う人はみな良い人ばかりです。秋月出身の健気で美しか娘にも逢いました。
まだまだこのに先、どんな人に逢うか分かりませんが、若しかしたら、わしが、恐れ戦き、脱帽し、平伏し、くさびを打ち込まれるような人に逢うかもしれん。
そのときは、わしはその人のそばに置いてもらいたいと願うでしょう。こげんしてみると、先祖に対しては申し訳ないちゅう気持ちと、子孫の故郷を奪い去ったと言う罪悪感に変わりはなく、ときどき悩むこともありますが、いまさら男らしゅうないと自分に言い聞かせます。村の人々はわしを非社会的人間と非難したでしょう。しかし、わし個人を全うするには、これより途はありませんでした。
わしは帰属意識を失ったのではなく、あえて孤独の途を選んだのです。わしの救いようのない孤独を癒す薬はどこにもないことを知った上でのことで。
帰るところがないちゅうことは、行くしかないちゅう生き方ですけに。
今、尾張名古屋に来ています。この大都会の街には電線ちゅうものが張り巡らされておらず、まこと美しか街です。本通を少し入ったビジネスホテルに宿を取っています。この一週間ほど、ここを中心に、静岡、浜松、岐阜などの各地を廻りました。
明日早朝ここを立ち、北へ向かうつもりです。美濃から飛騨、北陸方面ですが、どうなることじゃろね。俳人山頭火の気分ですばい。
別便で名物、名古屋コーチンの味嗜漬け送りました。
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老人は筆を置くと大きなあくびをした。途端、眠くなり、そのままデスクに顔を伏せた。すると、いつのまにか、美保がめそめそ泣いてる夢を見ていた。そして、この大都会も、物悲しく夜が更けていった。
今にも消されてしまいそうな、ほんの数軒の飲み屋か、かスナックの灯を残して、この街も、間も無く眠りに着こうとしている。
薄暗く、街灯に光った人造大理石のぺイブメントに、どこからとなく、コツコツと乾いた靴音が響いてくると、この店のクラシツク調の扉が押されて開いた。
「そろそろ看板ね。バイトの娘、帰えした?……ネオンのスイッチ、切って」
少女のように初々しい顔つきの美保が、女将に言いつけた。立て続けにさま、
「今日の売上げは ? 」
尋ねられた女将は、慌ててレジを開け、札を数え始めるとそれと前後して、前髪を垂らした若い男が裏口から入ってきた。
「支配人、朱美と理沙、それに麻美の売上げです」
そう言いながら、札束と伝票の入つた布袋三つを美保の前に差し出した。それを受け取って、
「何か変わったことあった ? 」
あどけないくらい可愛い顔だが、瞳は男の目を見据えている彼女は、自分のことを彼らに支配人と呼ばせていた。しかし、実際は、スナックバー四軒を持つオーナーだった。
「いいえ、別に、普段と……。それじやあ、これで、……車のキーここに」
「ちょ一と待ちなさいよ。あのときのボーナス上げるわよ」
美保はそう言って男を引き留めた。男は黙ったまま傍らのボツクスに腰を降ろした。
「はい、ちょっきり二十三万八千円」
女将は、ボーナスという言葉を耳にしながら、美保に報告し、伝票と札束を布袋に入れた。
「近いうち、歩合上げるから頑張ってよ」
美保は、女将の渡した袋を先の布袋と一緒に黒皮のショルダーバッグ放り込んだ。
女将は歩合が上がると聞くと、っい、気負いが出て、もう少し店内暗くしたほうがよいではないか、意見を言いかけたところで、
「ねえ何飲む ? 、あたしスコッチ。あんた達適当にやって」
美保に腰を折られた形の女将は、少し不満だったが、いそいそ、三つのグラスとボトルをボックスに持ってきた。美保は、腰を前にずらし、のけ反るような姿勢でスカートのポケットからせしめた札束を取り出し、
「さあ、五万円づつ」
数えながら渡すと、女将と若い男がぺこりと頭を下げた。二人とも、思ったより多いと思っている。
「あんたの眼力で、素早く私の事務所に連絡してきたけれど、あの爺さん、ただの金持ちと違うわよ」
「あら、どこがですう ? 」
女将は不審そうに小首を傾げた。それには答えず、
「あんたの即興、巧いわよ。出来てる」
今度は男を褒めた。男は照れ笑いしながら、
「N大芸術学部出身の姐さんのようなわけにはいきまませんよ」
謙遜の態度だが、ボーナスの額のこともあって、ついお世辞を吹いた。それにつられて、
「それにしても、九州の秋月どうして知ってたんですう。それに、ちらちら九州弁だって」
今度は、あのとき、老人との会語に耳を済ませていた女将が不審げに尋ねた。
「バカね、知るわけないでしょう。あのねえ、特徴のある日本の方言、大ざっぱに言って、東北、関西、九州弁でしょう。詑りのさわり、ちょっと知ってれば、そこの感じ出せるじゃない。秋月はね、九州へ行ったとき、地図見て記憶にあったからよ。ロマンチックな名前だから、あんただってすぐ覚えられるわよ。
でも、あいつ、まさか、そこにいたとは思いも寄らなかったわよ。どきっとしたね。突っ込まれたら、どうしょうかと思っちゃった」
平然と言いながら露わに脚を組み、煙草片手に慣れた手付きで目の前のダブルのスコッチ一気に飲み干した。顔姿とは似ても似つかない仕種であった。普段の彼女の外見から、このキャラクターは分からない。
「やつぱ、大学出は違うわ」
女将は、つくづく感心しながらお世辞を言った。
「きっと、また明日くると思うがね。来たらまた違絡しますけど、今度はどうします ? 」
女将は来ると確信して言った。
「来るわけないね」
「あら ? どうしてですう ? 」
不審げに聞き返した。
「理由はないけど、こないね」
美保の冷ややかな言い方だった。
「それにしても、あの爺、聞かせてくれたわよ。あんたと付き合っていると、心が汚れるってさあ」
男の方に目を移し返した。
「ぽくあ、使われているだけで付き合っちゃいませんがねえ、それでも汚れますか」
男は薄笑いを浮かべて皮肉を言った。
「それなら逆じゃない」
「そう言えば、ひひ爺って感じじゃなく、むしろ、好爺という感じだったわねえ。それに何となく寂しそうで、孤独と言うか」
女将が今更のように思い出した。
「……あいつ恰好つけやがって」
美保は忌ま忌ましげに顔を顰めた。
「この世に心の美しい奴なんているかよ。キリストや仏陀でもあるまいし。心を宿す肉体は美しく肌で包まれているけど、中身はやっぱ汚いんだよ。体内では物質を酸化させながら、絶えず炭酸ガス吐き出している。臓物なんか一杯詰まってるだろう。ぐねぐね、ねたくっている大腸の色、ピンクじゃないんだよ。青灰色だよ。おまけに中身はウンコだらけ。それと同じなんだよ。心だって。
うわべ、装っているだけなんだよ。それが白律的に働いてしまうのさ。恰好良く。分かるだろう ? 」
彼女の容貌の美しさと、言葉の中身が、言っていることを象徴している。
「分かりませんね」
男は、ぽかかんと口を開けたまま美保を見っめた。
「自分の身体を養うには汚い心が必要なんだよ。人間様の世界だって、サバンナの野生動物の生態と変わりゃあしない。お腹が空いたときも、男に抱かれたいときも、そんなとき、心はみすぼらしいんだよ。ママさんだってそうだろう ? ええ ? そうだろう ? 」
美保は女将の顔を見据え、念を押すように言った。接客のときの、あのしおらしい言い方と打って変わったこの言い草は、演劇やっていたせいだろうか。どっちの美保が本当の美保なのか分からなかった。
「飢えた男が、裸の女のお腹にへばり着いたときのざまあ、見てみなよ。惨めったらありゃしない。愛してるう,とか何とか、うわ言いやがって。つまり、心がつい自律的にお芝屠しちゃうのさ。笑っちゃうよ」
見据えられた女将も照れ笑いした。
「それに、心がいつも美しかったら、美しいもの見たって感動も何も起りゃしない。真赤なカーテン背景に、真紅のバラ描く画家いないだろう。音楽家だって同じだよ。憂欝なんだよ。心が。だから、美しい音、欲しいのさ。偉い作家の先生だってそうだよ。どいつもこいつも心の中がひもじいのさ」
女将は、内心、美保はひどい奴だと思った。仕留めた鴨なのだから、そこまでけなさなくてもいいのではないかと思った。美味しかったのだから、悪かったね、ご馳走さん、と言えばいいじゃないかと思った。よくもこれほど豹変できるものだと思った。
「まったく忌ま忌ましいったらありゃしない。心が汚れるだとお、ばかばかしい。分かってもないくせして」
飽き足らないか、また言った。
「でもさあ、由さんに突き倒されなさったとき、慌てて助けようとしましたよ。それに、正直者で、何となく孤独って感じでしたよ」
女将は美保の理屈っぽい言い方に多少反感を募らせると、老人にかたを持ちたくなった。
「あれはね、心理学的にいうと、コンフリツクトという一種のフラストレーションなんだよ。つまり、心の葛藤があって、いらいらするからああなるんだ。自分の心が醜くシワシワになるからだよ」
心が美しいから、ああしたんじやない。逆だね。分かだろう ? それに正直者と言うのはね心がいっもビビッてるんだよ。これも心理学的にいうと、批判的思考の広げられない臆病者のことだよ。 彼が孤独ってこと、直感的に分かったけど、概して、孤独な奴の生き方というのは、誰をも、何ものも愛することをしない、また愛されることを求めようとしないものなのよ。愛を心の深いところに沈殿させ、明瞭に意識しよとしない証拠だね。
あの爺、孤独を美化する年ではないけれど、本当に孤独で生きていこうと考えているなら、大間違いだね。彼が彼がここへ来たのも、人間は半分は社会的で、後の半分は孤立的な存在だからだちという証明だよ。人間の精神生活は独りで自足し満ち足りることなど出来るわけがない。
本当の孤独というものは、帰属すべき対象をどこにも見いだすことの出来ない状態で、幻覚剤でもやらない限り耐えられるものではない。だから、少しでも自分を紛らし、ごまかしていくしかないんだよ」
今度は、先ほどからみほの屁理屈を聞いていた男が改めてあの孤独な老人の風貌を思い出し、例えパンチに手心を加えたとしても、倒してしまったというやり方を後悔し、腕を膝頭に着いて項垂れた。
「由、お前、生半可な仏心出したら首だよ」
いち早く彼の心を読んだのか、美保は顔に似合わぬ厳しい気性の一面を見せた。
「いいえ、とんでもない」
由は慌てて打ち消したが、美保がときどきやつてのける、びっくりするような即興お色気芝居で、今日も巧い稼いたというのに、なぜ、あの老人を侮辱したがるのか分からなかった。
彼女の威力に二人とも圧倒された感じだつたが、女将は恐る恐るもう一度言い返した。
「でもね、お金出したのは美保ちやんに惚れたか、同情したか、どちらかでしょう ? 」
「違うね」
美しい能面のような表情の侭の冷たい言いい方だった。
「転んだりなんかしたのは、勿論、惚れさせるというモティベーションだけど、彼の目は応じなかったね。
本能の領域でさえ自縛した。男としては異常な行動様式だよ。どんなに年をとっていても決して失うことのない、男特有の感動の色を見せなかった。つまり、自分をごまかしたのさ。それに、同情はね、する方も、される方も、何かしら自分というもを表現せずにはいられない習性なのよ。金持っていれば、恵んでやろうと自己表現するのさ。素人が、芸術家ぶって文章やカンバスに自分という人間を表現したいのと同じなのよ。
つまり、嫌みなんだよ。虫が好かないんだよ。あの爺には可愛げがないんだよ。もうちいと、意地汚く、触らせろとか何とか言って来た方がまだ許せたのに」
美保は吐き捨てるように言った。
あの老人は、人恋しさに、ほんのちょっと立ち寄った後の、影にすら、屈辱を受けねばならなかった。女将も男も黙ってしまった。夜が更けた。
女将は、美保が自ら同情を餌にしておきながら、それはそっくり棚に上げ、さっきから屁理屈ばかりこねまわしている彼女にむかむかしていたが、こうしてみると、やっぱ、人間は悲しいことに、自分をごまかさずには生きていかれないものだとつくづく思った。
そうすると、女将は、あの老人も、美保と同じように、何となくインチキ臭く思えてくるのであった。
雰囲気が白けてしまった。
「……お色気の芝居、馬鹿みたい。私としたことが……ざまあないよ。まったく」
何を思ったのか、美保が独言のように眩いた。
「……帰ろか」
彼女の言葉に、二人とも声を揃えて、
「おやすみなさい」と、挨拶した。
店内の灯が、一斉に落とされた。店の前には、美保のフェアーレディーZが待っていた。
寝静まったこの街を、まるで、屈伏でもさせるかのように、VG3リッターのエンジンを吹かし上げると、タイヤの悲鳴が闇夜を引き裂いた。
完
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