『生物学史研究』69 (2002) :41-51(研究ノート)
なぜ移入種は排除されなければならないのか?
─紹介:ポーリー「アメリカの生態学的独立をめぐる対立」―

Why should introduced species be eliminated?

瀬戸口明久
SETOGUCHI Akihisa
 
1.はじめに

 2000年8月、和歌山県は、県内に生息するタイワンザル、およびニホンザルとタイワンザルの混血個体すべてを捕獲して排除する計画を発足させた。この事業は大きく報道され、その是非をめぐって激しい議論がまきおこった。動物の権利を擁護する動物愛護団体などが、県の提示した安楽死という処分方法に反対したためである。この問題の発端は、1955年ごろに私立動物園で飼育されていたタイワンザル数個体が逃げ出し、そのまま放置されたことにある。1999年の調査で混血ザルが約200個体にまで増加していることが確認され、捕獲・安楽死事業が発足した。安楽死計画への激しい反対を受けた県は、県民1千人を対象に、捕獲して「動物園で一代限り飼育管理する」案と「安楽死させる」案を選択させるアンケートをおこなった(1)。ここでは混血ザルの排除は、自然保護事業の当然の目標として暗黙の前提になっている。
 しかし、「移入種の排除」はそれほど当然のことなのだろうか。たしかに近年、移入種がさまざまな問題を引き起こしていることが知られるようになった。たとえば1910年にハブ駆除のために渡瀬庄三郎によって沖縄島に移入され、のちに奄美大島にも移入されたマングースは、実際にはハブをほとんど捕食せず、ヤンバルクイナやアマミノクロウサギを減少させている。また1970年代以来、釣り愛好家によって全国の湖沼に放流されたブラックバス類が、在来の小型魚種を激減させている。これらの問題は明らかに移入種が生態系を攪乱している事例である(2)。しかし混血ザルの場合、移入種がもたらす混乱ははっきりとしていない。
 「移入種の排除」の原則は、最近の自然保護論のなかで重視されるようになった、生物多様性保全の議論にもとづいている。1992年の地球サミットで採択された生物多様性条約では、「生態系、生息地もしくは種を脅かす外来種の導入を防止し、またはそのような外来種を制御しもしくは撲滅すること」という条項が入れられた(3)。また生物多様性保全の大きな特徴の一つに、種の多様性だけでなく種内の遺伝的な多様性も保全の対象とするということがある。したがって異種間の遺伝子の交雑は、「遺伝的汚染」と呼ばれて問題となる。異種間だけでなく同種内でも、遠隔地にホタルやメダカを放飼・放流するのは問題があるとされている(4)。このような生物多様性の保全と、それにもとづく移入種の排除は、ほとんどすべての生態学者に支持されていると言ってよい。日本生態学会と日本霊長類学会はそれぞれ和歌山県に対し、混血ザルを早急に捕獲し安楽死させるよう要望書を提出している(5)
 ではなぜ生態系の攪乱をもたらすわけでもない異種間の交雑が、「遺伝的汚染」とまで呼ばれて問題視されるのだろうか。生物多様性論者が現在のところ提示しているもっとも説得的な根拠は、「歴史的価値をになった地域固有性」を守るという論理である(6)。その地域の遺伝的多様性は、その集団の進化的な過程を反映していて、その地域の環境に適応したものである。つまり「遺伝的汚染」は、長い歴史をかけて形成されてきた集団の「遺伝的固有性」を破壊してしまうのである。また一般的に外来種が排除される根拠も、生態系を攪乱するだけでなく、移入先では歴史的価値を持たないからであるとされる。
 しかし、何をもって「歴史的価値」と見なすのであろうか。朝鮮半島から移入されて400年になるカササギは現在では天然記念物とされている。では移入されて50年になる混血ザルは数十万年の歴史を持つニホンザルに比べれば抹殺すべき存在なのだろうか。「歴史的価値」にはどうしても主観が入り込んでくる。この問題に移入種排除論者のほとんどは気づいていない。彼らは、何をもって「歴史的価値をになった地域固有性」とするかまったく検討することなく、「移入種は排除」の原則をアプリオリに持ち出してきて議論を開始しているのである。
 なぜ移入種は排除されなければならないのだろうか。そもそも移入種を排除するという原則はいつ・どのようにして成立したのだろうか。最近、生物学史家フィリップ・ポーリーがこの問題に関して「アメリカの生態学的独立をめぐる対立」と題する、きわめて興味深い論考を発表した(以下「アメリカの生態学的独立」と省略)。この論考であつかわれているのは、20世紀初頭のアメリカ合衆国(以下アメリカ)における生物移入を推進しようとする植物学者たちと、それを阻止しようとする昆虫学者たちの対立である。以下ではポーリーの議論を紹介し、最近の移入種問題に何を示唆するのか考えてみたい。
 
2.「アメリカの生態学的独立」

 「アメリカの生態学的独立」は、ポーリーの近著Biologists and the Promise of American Lifeのなかの一章である(7)。本書の全体を通じてのテーマは、生物学者がアメリカの人間と生物相を望ましい方向へ「改良」しようとした過程である。アカデミックな生物学の展開だけでなく、農務省や漁業局などの政府系機関が果たした役割や高校生物教育の展開、1950年代までの優生学や性科学の位置づけといった多様な問題があつかわれている。各章はそれぞれある程度独立しているので、ここではアメリカにおける植物検疫制度の確立をあつかった章のみを紹介することにする。
 ポーリーはこの章を、1910年1月に東京市がワシントンにサクラの木を贈った有名なエピソードからはじめている。2000本のサクラが到着した数日後、農務省昆虫局(Bureau of Entomology)副局長C.L. マーラット(Charles .L. Marlatt)は、サクラの木にカイガラムシ・心食虫などの「危険な昆虫」が付着しており、「すべての船荷をできるだけ早急に焼却しなければならない」と主張した。大統領ウィリアム・ハワード・タフトはこの要求を受け入れ、サクラはすべて焼却されてしまった。従来この事件は、外交の場に昆虫学者が介入したささいな出来事としてとらえられてきた。しかしポーリーはこの事件を、「温帯北米大陸の人々と、世界のほかの場所から来た種や品種(人種も含む)との関係の方向転換」点として位置づけようとする。
 ポーリーの議論の枠組みは、歴史家アルフレッド・クロスビーの著作『生態学的帝国主義』にもとづいている(8)。クロスビーは現在ヨーロッパ人が多く見られるヨーロッパ以外の地域――アメリカ大陸やオーストラリア、ニュージーランド──を「ネオ・ヨーロッパ」と名付ける。そして15世紀末以来のヨーロッパ人のネオ・ヨーロッパへの拡大が、ヨーロッパ由来の雑草、家畜や病原菌の拡大をともなっていることを指摘した。つまりネオ・ヨーロッパは、生態学的な侵略にもさらされていたわけだ。そこでポーリーは、生態学的帝国主義に抗して外部の生物種の侵入をコントロールしようとする運動を「生態学的独立」と呼ぶ。
 アメリカにおける「生態学的独立」運動の場となったのが、アメリカの中心的な農学研究機関である農務省だった。以下では農務省の研究者たちが生物移入についてどのような態度をとったのか見ていこう。
 
2−1.農務省における生物移入・排除をめぐる対立

 アメリカでは19世紀の末まで「生態学的独立」運動はまったく見られなかった。「順化協会(acclimatization societies)」という鳥類愛好家の諸団体は、ユーラシア大陸から鳥類を次々に移入した。ほかにも園芸家や旅行家が自由に種子や球根を輸入したため、多くの害虫や病菌が侵入した。これらの移入に対して連邦政府は何の措置もとらず、むしろニジマスやコイの移入につとめていたほどだった。科学者もまた国家に取り締まりを求めることはなかった。1894年、コーネル大学の園芸学者L.H. ベイリー(Liberty Hyde Bailey)は、有害生物は「必然的な副産物」であって、政府の唯一の役割は教育的なものにとどまると述べている。
 このような「生物的レッセ・フェール」が見直されるようになったのが19世紀末のことである。1897年、昆虫局長L.O. ハワード(Leland O. Howard)はメキシコと日本の昆虫が大量にアメリカに侵入していることを警告し、「害虫と植物病害を法律で抑制する全米会議」を開催した。その翌年、アメリカはフィリピン・グアム・プエルトリコ・ハワイを獲得し、領土拡張を開始した。農務省生物調査部門(Division of Biological Survey)のセオドア・パルマー(Theodore Palmer)は、アメリカの帝国主義的拡大にともなう侵入種への懸念を表明している。パルマーはブタ・ヤギ・ネズミなどのヨーロッパ由来の生物がアメリカやオーストラリアの生物相をどれほど荒廃させたかを示し、アメリカ本土への「有害となりうる」生物種の移入には「何らかの制限」が加えられなければならないと訴えたのである。1901年、パルマーの主張にもとづいて、農務省に生物移入を規制する権限を与えるレーシー法(Lacey Act)が成立した。
 しかし農務長官ジェームス・ウィルソン(James Wilson)の在任中(1897-1914)、農務省は逆に生物移入を促進する政策へと向かっていく。ウィルソンは合衆国内で栽培される作物と品種を増やすことによって、農業不況を回避することができると考えていた。ウィルソンの考えは、マッキンリー・ローズヴェルト政権下における対外進出政策によって現実的なものとなった。ウィルソンの事業を実行したのは、農務省の植物病理学者ベヴァレー・ギャロウェイ(Beverly Galloway)である。1897年、ギャロウェイは植物移入のために「外国種子・植物移入部局(Section of Foreign Seed and Plant Introduction, 以下SPI)」を設置し、局長にデビッド・フェアチャイルド(David Fairchild)を任命した。
 フェアチャイルドはカンザス州立農業大学の学長の息子で、いったんは農務省に就職したがヨーロッパで菌類学を学ぶために退職している。その後、富豪バーバー・レースロップ(Barbour Lathrop)の資金援助を受け、未知の果実を求めてジャワや極東を旅行した。帰国してすぐに就任したSPIでは、部下の「農業探索官」たちを日本や熱帯からロシア、ヨーロッパにまでおよぶ世界中に派遣して植物の探索にあたらせた。彼らが移入した植物でもっともよく知られているのは、パスタの原料となるデューラムコムギである。またフェアチャイルドは人々にアーティチョークやアボガド、マンゴーなど熱帯の農産物を食するように勧めた。
 ポーリーは、フェアチャイルドら世界の植物を移入しようとした人々を「コスモポリタン」と呼んでいる。1900年代は彼らの全盛期であった。ギャロウェイは1900年に農務省の植物学関連の部門を植物産業局(Bureau of Plant Industry)として統合し、自らその局長に就任した。その結果、1905年にはギャロウェイの植物産業局は、ハワードの昆虫局の10倍もの予算を獲得するようになっていた。その10年前にはほとんど同額であったのと対照的である。
 コスモポリタンによる生物移入は、その方法において、それまでの植物移入とはまったく別物であった。SPIは移入した膨大な品種のなかから有望なものだけを選別しようとしたのである。移入された植物は『植物移入雑誌(Plant Immigrant Bulletin)』で大々的に宣伝され、アメリカ中の協力者に分配されて評価を受けた。SPIは「国際的な植物交換ネットワーク」の中心地となったのである。さらに移入された品種で一見価値がないようなものでも、メンデリズムを支持する農務省の育種学者たちの研究材料として使用された。
 一方、昆虫局の昆虫学者たちは、侵入害虫の問題を「昆虫の脅威」と呼んでますます重視するようになっていた。メキシコから侵入したワタミゾウムシは南部綿作地帯に大きな被害をもたらていた。侵入害虫からアメリカを守ることにもっとも熱心だったのがマーラットである。マーラットは害虫の主要な侵入経路である植物移入を批判し、フェアチャイルドらと対立することになる。
 これはきわめて個人的な対立でもあった。マーラットはフェアチャイルドの結婚式で付添人をつとめたほどの旧友だった。また二人とも東洋を旅行した経験を持つ。だが、フェアチャイルドがレースロップとともにリッチな旅行を楽しんだのに対し、マーラットの方は私費での新婚旅行を兼ねたカイガラムシ研究旅行であった。さらにマーラットは中国では義和団事件に遭遇し、帰国後には新妻F.B. マーラット(Florence Brown Marlatt)を旅先で感染した病で亡くしてしまう。かくしてマーラットは、外国の生物の危険性を強く意識するようになったのである。
 マーラットは1909年から植物検疫法の制定を推進する運動の中心的人物となった。一般社会と政府の有力者たちに害虫問題への意識を高めてもらうこと、これがマーラットのとった戦略である。このような戦略にとって日本のサクラは渡りに舟だった。サクラ移入事業のそもそもの発案者はジャポニズムの愛好者でもあったフェアチャイルドで、移入の実務者として中心的な役割を担っていた。それゆえサクラの焼却を求めるマーラットの要請は、フェアチャイルドの計画をぶち壊しにしてしまったのである。この措置に対して日本側は、専門の昆虫学者の監督のもと殺虫剤・殺菌剤の噴霧を受けたサクラの木を再び寄贈することで対処した。このときは農務省も受け入れ、1912年にポトマック川沿いとホワイトハウスに「日本とアメリカの人々の生きたシンボル」として植栽されたのである。
 この年、マーラットは植物検疫法の成立に成功をおさめた。そして植物移入を規制する機関、連邦園芸委員会(Federal Horticultural Board)が設置され、マーラットが委員長に就任した。かくして植物収集とコスモポリタニズムの時代は、北米大陸の生物の「自立と孤立」という理念へと取って代わられたのである。このような外来の生物をすべて排除しようとする態度をポーリーは「ネイティヴィズム(土着主義・固有主義)」と呼ぶ。
 マーラットの影響力は、植物産業局長ギャロウェイが農務省を去った1914年以降、さらに強大になった。1917年、マーラットはほとんどすべての民間人による植物と球根の輸入を禁止する規則、検疫法#37(Quarantine #37)を提出したのである。植物移入の最大の擁護者であるフェアチャイルドは、この規則に強く反対した。しかし1918年11月、農務長官は検疫法#37を公表し、実質的に民間人による植物移入は不可能になった。
 この規則は民間人を対象とするものだったが、農務省内の植物移入事業も影響を受けざるをえなかった。『植物移入雑誌』は廃刊となり、フェアチャイルドが築き上げた植物交換ネットワークは崩壊した。フェアチャイルドはSPIの没落の要因はマーラットの運動のせいであると非難した。1924年、フェアチャイルドは農務省に見切りをつけてフロリダに移り、富豪アリソン・アーマー(Allison Armour)とともに探険航海に出発した。それに対してマーラットは科学官僚として完全な勝利を手に入れた。ハワードの後任として昆虫局長に就任し、1928年には新設の植物検疫規制局(Plant Quarantine and Control Administration)の長官も兼任した。翌年フロリダに侵入したチチュウカイミバエに対しては、すべての農産物の州間輸送を禁止し、600万ドルもの予算を費やす大規模殺虫剤散布事業を実行して根絶に成功した。かくしてネイティヴィストは、コスモポリタンに対して完全な勝利をおさめたのである。
 
2−2.生態学的独立をめぐる対立とアメリカの移民政策

 さて、ここでポーリーは議論の対象を動植物から人間にまで拡大する。「外来の生物と自国の生物に対する態度」が「『外来』『自国』の人間へ対する見方と結びついていたのは明白」と言うのである。たとえばアメリカ人はイエスズメ(English sparrow)は鳥のロンドンっ子で、行儀のよろしいアメリカ固有の鳥類を追いやっていると考えていた。また森林害虫マイマイガ(gypsy moth)がもたらした大被害は、南東ヨーロッパ人への偏見を強めたのである(9)
 そこでポーリーは生態学的独立をめぐる対立を、人の移入をめぐる議論、すなわち移民の問題とを対比させようとする。アメリカは建国以来、一世紀にわたって生物と同じく人間に対してもレッセ・フェール政策をとってきた。しかし19世紀末になると対立する二つのアプローチがあらわれる。一つは、外国人のもたらす悪影響を懸念し、あらゆる移民を排除しようとするネイティヴィストである。その典型が、1892年にカリフォルニアの「ネイティブ」の労働者の要求によって成立した中国人排除法である。もう一つのアプローチは、よりコスモポリタンな態度である。彼らはギャロウェイやフェアチャイルドの植物移入と同じく、個体選択をして有益な移民は受け入れ、欠点があるものは治療し、粗悪なものは母国に送り返すという方法をとった。
 そのような移民選択政策がはじまったのは、セオドア・ローズヴェルトが大統領に就任した1901年以降のことである。ナチュラリストでありながらナショナリストでもあったローズヴェルトは、アメリカ人の生殖能力と移民の質に対して強い懸念を抱いていた。ローズヴェルトがエリス島の責任者として任命したウィリアム・ウィリアムズ(William Williams)は、エリス島に到着する移民の少なくとも25%は「アメリカにとっては何の利益もない」人々であると考えていた。彼らを見分けるため、医療スタッフは2倍に増やされ、詳細に形式化された診療方法が導入された。フェアチャイルドが会長をしていたアメリカ遺伝学会は、これらの方法を熱烈に支持していたのである。
 このような移民選別は第一次世界大戦の勃発によって転換点を迎えることになる。終戦後、中断されていたヨーロッパからの移民が再開されると、戦時中の「100%アメリカニズム」の風潮の流れで、かつて中国人にとられたような徹底的な移民排除策が要求されるようになったのである。その結果、ヨーロッパからの移民すべてに上限を設ける移民法が1924年に成立した。これまでの生物学史では、このシステムの人種差別的な側面が注目されてきた(10)。けれども最近のアメリカ史研究が明らかにしているように、むしろ移民全体の制限の方がより根本的な変化なのである。1913年には120万人近くいた移民は、20年後には2万3000人にまで減少している(11)。かくしてアメリカは歴史上初めて、ほとんど「ネイティブ」のみから構成される国家となった。つまりここでもコスモポリタンが敗北し、ネイティヴィストが勝利したのだ。アメリカの「生態学的独立」にかかわった農務省の科学者たちは、この移民政策の転換に枠組みを与え、さらに現実化へのはずみをつけたのである。彼らはアメリカの生命(動植物と人間の両方)の構成を決定する役割を果たしたというのが、ポーリーの結論である。
 
3.生物移入・排除の歴史は現代の移入種問題に何を語るか

 ポーリーの議論の論点は二つにまとめられる。第一に、20世紀初頭のアメリカにおいては、植物移入を推進する植物学者(コスモポリタン)と、移入にともなう病害虫の侵入を阻止しようとする昆虫学者(ネイティヴィスト)との対立が存在した。そしてサクラ焼却事件は、前者から後者への主導権の移動の転換点であった。この論文の面白さは、農務省内の官僚的な部局間競争と、自然のあり方をめぐる考え方の違い、さらにマーラットとフェアチャイルドの個人的な感情のずれなどが絡み合って、アメリカの生物移入・排除政策が形づくられていったことを示した点にあるだろう。近年、環境にかかわる科学の歴史的検討がすすみつつあるが、農学史研究は決して多くはない。この論考は20世紀初頭の農務省の農学研究の流れを踏まえつつ議論しており、そういった意味でも重要な仕事と言えるだろう。
 第二の主張は、連邦政府の移入種対策が、移民政策の概念的基盤となったというものである。たしかに20世紀初頭の移入種対策と移民政策の方向性はほぼ一致している。19世紀末にそれまでのレッセ・フェール政策が見直され、移入者排除論が登場する。1900年代に入るとコスモポリタンが勃興して個体選択による移入が促進される。だが1910年代以降は再びネイティヴィズムが優勢となり、それ以降は移入者は基本的に排除されるようになった。
 もっともこの論文では、移入種対策と移民政策とのあいだに因果関係があることを裏付けるはっきりとした資料は示されていない。また移入問題に詳しい生態学者ダニエル・シンバーロフが指摘しているように、ポーリーはマイマイガなどの動植物のイメージが外国人のイメージと共鳴していたという主張を支持する資料も提示していない(12)。したがって歴史学的な実証性を重んじるならば、これらの主張は問題含みである。けれども筆者は、ポーリーの議論は現代の移入種問題に対して、いくつかの重要な視点を提供していると考えている。
 第一に、「移入種は排除」の原則は、必ずしも絶対的なものではなく、歴史的文脈に左右されるものであることに気づかされる。この原則は歴史的に見れば、アメリカにおいては1910年代以降に定着したものである。それ以前にも移入種がさまざまな問題をもたらすことは知られていた。だがフェアチャイルドら移入擁護派は、侵入種がもたらす害悪よりも利益の方がずっと大きいと考えていたのである。
 となると、過去の生物移入も歴史的文脈のなかで再評価されなければならないのではないだろうか。たとえばこれまで渡瀬庄三郎による沖縄島へのマングースの移入は、動物学者の軽率な行動として理解されてきた。たしかに現代から見ると、マングースの食性をほとんど調査することもなく移入したのは軽率であると言わざるをえない。しかし渡瀬と同時代から見れば、有用な動植物を積極的に移入するのは、動物学者にとってごく普通の行動だったのではないだろうか。
 ただし、だからといって筆者は生物移入を積極的に認めよと言うのではない。むしろ筆者は、生物移入・排除の背景にある歴史的・政治的文脈にも注目すべきだと主張したいのだ。ポーリーは移入擁護派を「コスモポリタン」と呼んでいるが、彼らの活動がアメリカの帝国主義的拡大によって容易になったことは間違いない。また渡邊洋之が指摘しているように、渡瀬庄三郎の生物移入も「帝国主義と生物学の提携」による「自然の征服」という、より大きな目的の一部であった(13)。生物の移入・排除は、その生物学的結果だけでなく、その政治的な役割もあわせて評価される必要があるだろう。
 第二に、生物の移入をめぐる議論が、人間社会のあり方をめぐる議論に影響を与える可能性があることに気づかされる。フェアチャイルドらコスモポリタンの移入論は「個体選別」という優生学的な移民政策と、またネイティヴィストの排除論は移民制限というナショナリスティックな政策と共鳴するものであった。それならば、今日の生物多様性保全にもとづく移入種排除論がナショナリスティックな言説と結びつく可能性がないとは言えないのではないだろうか(14)。とりわけ霊長類のようなヒトと近縁の動物の場合、そのような連想は容易に起こりうる。
 ポーリーの指摘を待つまでもなく、インターネット上では、混血ザル根絶事業がナショナリズムやわれわれの人種観に影響をおよぼす可能性に気づいた発言が多く見られる。たとえばドイツ在住の翻訳家美濃口坦は霊長類学会の要望書について、もしドイツだったら「物議をかもす」と言い、次のように指摘する。「この要望書で『ニホンザル』を『ドイツ民族』に、『タイワンザル』を『ユダヤ人』に置き換えたら『我が闘争』の一節に似て来ないことはない。ヨーロッパで読めばこの連想は避けられない」(15)。また日本思想史研究者の中村生雄は、混血ザル問題に対する市民の反応として、次のようなものが一般に見られることを指摘している。すなわち、混血ザルの排除は「ナチスのホロコーストや旧ユーゴでの『民族浄化』さながら」であり、「人間にあてはめたなら到底許されるはずのないことが、サルを相手にした場合はどうして科学的な正当性をもつのだろうか」という素朴な反応である(16)
 このように混血ザル根絶事業が社会にもたらす影響は、決して好ましいとは言えないものである。すなわち偏狭なナショナリズムを連想させ、さらには動物愛護論者が主張してきたように、何の罪もない動物を殺戮することによってわれわれの動物観や生命観に混乱をもたらす可能性が多分にある。移入種排除論者は、サルと人間を同一視するのはあまりに感情的で科学的でないと反論するかも知れない。だが「移入種は排除」の原則をアプリオリに持ち出す自然保護論もまた、感情的なものでしかないのである。
 もう一度考え直してみよう。なぜ移入種は排除されなければならないのだろうか。生態系に何らかのリスクをもたらすからである。それならば、そのリスクがどういうものなのか、具体的に明らかにするところから議論をはじめるべきなのではないか。しかしながら混血ザル排除事業においては、いずれの論者も「移入種は排除」というアプリオリな保護論を展開するか、リスクに言及したとしても、「何が起こるかわからない」というきわめて抽象的な危険性しか提示していない。「何が起こるかわからない」という論理は、これから起こりうる外来種の移入をくい止める際には有効な論理だろう。しかし、すでに移入してしまっている種を排除する論理として、はたして十分だろうか。
 また、「遺伝的汚染」問題のように、保護する対象が「歴史的価値」を持つと考えられる場合には、何をもって歴史的価値と見なすのか、何のために生物多様性を守るのか十分に議論することが必要である。専門家のあいだでさえ、なぜ生物多様性を守るのか、完全に一致した見解があるわけではない。ましてや一般の市民は、なぜ混血ザルが排除されなければならないのか理解できない。専門家はこのような疑問に対し、排除の根拠を納得できるように提示しなければならないのである。そして自然保護の方針は、専門家と市民との対話を通じて決定されていくべきであろう(17)
 さらに、移入種の排除がもたらす社会的影響にも配慮するべきである。混血ザルの排除が社会にもたらす混乱は、混血ザルが生態系にもたらしている「遺伝的汚染」と比べて、決して無視しうるものではない。また本稿で述べてきたように、生物多様性論者の議論が合理的で、市民の反応が感情的であるとは必ずしも言えないだろう。ともあれ移入種問題を考える場合には、「在来種は保護」「移入種は排除」の原則論から出発するのではなく、生態的リスクと社会にもたらす影響の両方を評価することからはじめるべきなのである(18)
 

謝辞

本稿の発表にあたってお世話になった本誌編集係の皆様に感謝します。

 

(1)2001年11月、和歌山県はアンケートの結果を受けて、安楽死の原則で事業を再開させた。以上の経緯は以下の『朝日新聞』による(明記してあるもの以外は大阪版・朝刊)。2000年8月24日付; 同8月25日付; 同10月23日付夕刊; 同11月22日付夕刊; 同12月4日付夕刊; 2001年3月30日付; 同5月14日付東京版; 同11月10日付。

(2)最近の問題をまとめたものとして、川道美枝子・岩槻邦男・堂本暁子編『移入・外来・侵入種――生物多様性を脅かすもの』(築地書館、2001年); C. ブライト(環境文化創造研究所訳)『生態系を破壊する小さなインベーダー』(家の光協会、1999年)がある。本稿は有害性が明らかな移入種を排除することに疑問を投げかけようとするものではない。本稿で問題にしたいのは、有害性が不明確であるにもかかわらず排除されてしまう移入種の問題である。

(3)第8条(h)項。訳文は「生物多様性関連の法律・条約」(http://www.biodic.go.jp/biolaw/law_f.html)を一部改変。

(4)川道他、前掲書、34-35頁。遺伝子組み換え作物と野生種との交雑も「遺伝的汚染」(genetic pollution)と呼ばれるが、まったく別の概念である。

   ただし、移入種の排除と遺伝的多様性の保全の二つが、生物多様性保全の中心であるというわけではない。生物多様性は通常、遺伝的多様性にあわせて種の多様性・生態系の多様性の3点(あるいは景観の多様性をあわせた4点)で定義される。生物多様性保全の歴史的展開については、拙稿「保全生物学の成立」『生物学史研究』第64号(1999年)、13-23頁; 「生態系生態学から保全生物学へ」『生物学史研究』第65号(2000年)、1-13頁を参照。

(5)「和歌山県のタイワンザルへの対策に関する要望書」『日本生態学会誌』第51巻(2001年)、157頁; 日本霊長類学会「タイワンザル交雑群除去要望書」『霊長類研究』第17巻(2001年)、186-187頁。霊長類学会の要望書の所在については、日本霊長類学会事務局に教えていただいた。この場を借りて感謝します。

(6)平川浩文・樋口広芳「生物多様性の保全をどう理解するか」『科学』第67巻(1997年)、725-731頁。ただし平川らの見解は、すべての生物多様性論者に共有されているわけではない。松田裕之『環境生態学序説』(共立出版、2000年)、第8章「なぜ生物多様性を守るのか」も参照した。遺伝的汚染によって食性や繁殖行動などが大きく変化し、生態系に混乱をもたらす場合もありうるが、混血ザルの場合、現在のところ大きな表現型の変化は報告されていない。もっとも顕著な変化は尾の長さにとどまる。

(7)P.J. Pauly, Biologists and the Promise of American Life: From Meriwether Lewis to Alfred Kinsey, (Princeton: Princeton University Press, 2000). ここであつかうのは第3章"Conflicting Visions of American Ecological Independence"。この章のもとになっている論文は、P.J. Pauly, "The Beauty and Menace of the Japanese Cherry Trees: Conflicting Visions of American Ecological Independence," Isis, 87 (1996):51-73.

(8)A. クロスビー(佐々木昭夫訳)『ヨーロッパ帝国主義の謎』(岩波書店、1998年)。原題は『生態学的帝国主義(Ecological Imperialism)』である。

(9)19世紀末から20世紀初頭にかけての南・東ヨーロッパからの移民は、「新移民」と呼ばれて差別を受けた。おそらくポーリーは、東ヨーロッパにジプシーが多く住んでいることから、マイマイガと南東ヨーロッパ系移民とが結びつけられたと主張したいのであろう。しかし後述するように、この主張には資料的な根拠が示されていない。

(10)たとえば、S.J. グールド(鈴木善次・森脇靖子訳)『人間の測りまちがい』(河出書房新社、1989年)。

(11)この時期のアメリカの移民観については、次の文献が有用である。中野耕太郎「『人種』としての新移民―アメリカの南・東欧系移民:1894-1924―」『二十世紀研究』第2号(2001年)、69-90頁。ただし中野によれば、ローズヴェルトの人種観と遺伝観は、当時の優生学主流のそれと完全に一致するわけではない。

(12)Letters to the Editor, Isis, 87 (1996): 676-678. さらにシンバーロフは実際にはネイティヴィストは勝利しておらず、すべての生物の移入が禁止されたのはカーター政権下で出されたExecutive Order 11987(1977年)を待たねばならなかったことを指摘している。それに対しポーリーは、重要なのは手続き論ではなく原則論であり、原則としての「移入種を排除」が確立したのは1910年代であると答えている。ほかにもポーリーの議論では、昆虫学者の生物移入事業(天敵移入)がまったく取り上げられていないなどの問題点がある。ポーリーは「生態学的独立」の研究は継続中であると言っているので、今後の展開に期待しよう。

(13)渡邊洋之「渡瀬庄三郎の自然観―生物の移入と天然記念物の制定・指定をめぐって」『科学史研究』第39巻(2000年)、1-10頁。生物移入と帝国主義との関係については、ルシール・ブロックウェイの先駆的な研究がある。L.H. Brockway, Science and Colonial Expansion: The Role of the British Royal Botanic Gardens, (New York: Academic Press, 1979)、抄訳:小出五郎訳『グリーンウェポン』(社会思想社、1983年)。

(14)自然保護論とナショナリズムとの結びつきは決してめずらしくない。テッサ・モーリス−鈴木は、1980年代末のオーストラリアとアメリカにおける自然保護論と移民制限論との結びつきを論じている。彼女が取り上げた自然保護論者は、移民が天然資源の枯渇や未開地の荒廃をもたらすと論じている。テッサ・モーリス−鈴木(藤井隆至訳)「エコ・ナショナリズムの逆説」『世界』1992年6月号、46-57頁。

(15)美濃口坦「ブランカちゃんと『我が闘争』」(http://www.asahi.com/column/aic/Tue/d_tan/20010718.html、2001年7月18日)。

(16)中村生雄「和歌山混血ザルと『移入種』問題」(http://bun110.let.osaka-u.ac.jp/member/nakamura/konketuzaru.htm、2001年6月20日)。このエッセイには生物多様性や種概念について多少の誤解が含まれているが、問題提起自体は重要である。

(17)和歌山県のアンケートは安楽死と飼育の二者択一なので、排除に反対する意見が反映されない。一方、いくつかの専門家団体は公開シンポジウムを開催し、移入種問題の啓蒙につとめている。アンケートについては『朝日新聞』大阪版2001年4月21日付朝刊、シンポジウムについては同6月19日付朝刊を参照。

(18)北海道の礼文島に生息するカラフトアツモリソウは移入種か自生種か判別できないため、排除するか保護するか決定できずにいる。「移入種は排除」「在来種は保護」をアプリオリな原則とするから、このような問題が発生するのである。リスクが存在するかどうかを保護事業の論拠にすれば、結論はそれほど対極的なものにはならないはずである(米山正寛「礼文島のカラフトアツモリソウ」『サイアス』2000年11月号、6-8頁)。