書評


『科学史研究』46 (2007):122-125.

渡邊洋之『捕鯨問題の歴史社会学―近現代日本におけるクジラと人間―』東信堂、2006年9月1日、ISBN4-88713-700-1、定価2800円+税

 国際捕鯨委員会(IWC)で可決された捕鯨モラトリアムが1987年に実行に移されて以来、わずかな調査捕鯨と原住民生存捕鯨を除いて、大型の鯨類は捕獲できない状態が続いている。こうした状況に対して日本をはじめとする捕鯨推進国は、商業捕鯨の再開を強く求めてきた。その根拠の一つに、捕鯨は日本の伝統的な文化であり、資源が回復している種について捕獲を制限するのは文化破壊にほかならないという主張がある。このような「捕鯨文化論」は、日本においては広く知られていると言っていいだろう。本書は、環境史・歴史社会学の立場から捕鯨史をとらえ直し、「捕鯨文化論」を批判しようとする試みである。
 本書の内容を紹介する前に、著者が批判する「捕鯨文化論」が捕鯨史をどのように理解しているのか簡単におさえておこう。日本においては古代から捕鯨がおこなわれてきたが、17世紀に鯨を網で捕獲して銛でしとめる「網取り式捕鯨」がはじまったことによって、捕鯨を生業とする社会集団が生まれた。この時期、「鯨組」と呼ばれる集団が完成し、捕獲から解体処理までを組織的におこなう体制が確立したのである。しかし幕末になると、資源の枯渇によって鯨組は衰退してしまう。日本の捕鯨が再び活気を取り戻したのは、1890年代に「ノルウェー式捕鯨」が導入されてからのことである。さらに1930年代に入ると「母船式捕鯨」がはじまり、日本の捕鯨業は南氷洋を漁場とする大規模な産業に発展していった。つまり日本における捕鯨は、近代に入ってから大きく変わってきたと言ってよい。
 しかしながら「捕鯨文化論」の論者たちは、そのような変化は表面的なもので、近代捕鯨にも江戸時代以来の文化的な特徴が数多く残っていると主張している。たとえば捕鯨活動の組織構成、分業形態、解体処理技術などは、「鯨組」の時代からほとんど変わっていないという。ここで解体処理技術が変わっていないのは、日本においては鯨肉食の文化が一貫して存在しており、クジラの部位に応じたきめの細かい処理が必要なためとされる。こうした「捕鯨文化論」は、1980年代末にミルトン・フリーマンや高橋順一といった文化人類学者によって提唱され、日本における捕鯨問題をめぐる議論に大きな影響を与えてきた。本書は実証的な歴史研究をもとに、こうした見方に修正をせまるものである。本書は5つの章と序章、終章から構成され、それぞれ個別の切り口から近現代の日本捕鯨史をとらえ直している。以下では各章の視点と内容について一つ一つ紹介していこう。
 まず第1章「近代日本捕鯨業における技術導入と労働者」では、捕鯨技術の担い手である労働者に注目して、「ノルウェー式捕鯨」と「母船式捕鯨」がどのようにして日本に導入されたか検討している。この章は本誌第205号に掲載された論文をもとにしたものである。ここで明らかにされるのは、近代捕鯨の担い手は、それまでの「鯨組」とは大きく異なるものであったということである。そもそも「ノルウェー式捕鯨」の導入期には、もっとも重要な労働を担う砲手はノルウェー人に限られていた。この点は先行研究でも指摘されていることだが、徐々に日本人砲手に置き換えられ、「鯨組」の構成は保持されたといわれてきた。それに対して著者は捕鯨労働者の構成を分析し、その多くが朝鮮人労働者であって網取り式捕鯨の後継者でないことを明らかにする。さらに1930年代に入って母船式捕鯨がはじまると再びノルウェー人砲手が採用されはじめ、鯨油生産を主目的とする産業化された捕鯨へと移行していった。このように近代捕鯨を担った労働者を見ると、捕鯨を日本の「伝統文化」と見なすことは困難であると著者は指摘する。
 第2章「経験の交錯としての暴動」では、漁民の側が近代捕鯨をどのように受けとめたか検討している。分析の対象となるのは、1911年に青森県鮫村で起こった東洋捕鯨鮫事業場焼き討ち事件である。この事件は、東洋捕鯨が設置した解体処理場に対して地元漁民から激しい反対運動が起こり、ついには暴動にまで発展したという事例である。著者はこの事件の公判記録から、暴動の参加者の構成と彼らの主張を掘り起こしている。そこから明らかにされるのは、漁民たちがクジラを神と見なしていたこと、そしてクジラの解体によって生じる血と油が海を汚染し、イワシ漁に打撃を与えると認識していたということである。さらに著者は、暴動の参加者全員が明治天皇の死去によって大赦を受けたという事実に注目する。事件の被告たちは、捕鯨を認めることと、「国民」になることの両方を同時に受け入れざるを得なかったのである。このように捕鯨に強く反発したにもかかわらず、それを「文化」としておしつけられた人々が存在したという指摘は重要である。
 第3章「クジラ類の天然記念物指定をめぐって」では、国家の側のクジラへのまなざしが取り上げられる。ここでは1930年に天然記念物に指定された瀬戸内海のスナメリと、1942年に朝鮮総督府の天然記念物に指定されたコククジラの指定過程が検討される。ここで注目されるのは、コククジラの減少が早い段階から知られていたにもかかわらず、天然記念物指定が1940年代まで遅れてしまったという事実である。その結果、コククジラは現在でも絶滅危惧動物に指定されるほど減少してしまったのである。著者はコククジラの天然記念物指定が遅れたのは、それが捕鯨産業の対象であり、しかも植民地の資源だったことによると指摘している。つまりここには、支配者側の拡張主義的なまなざしが、植民地の生物を「資源」として利用し尽くしたという構図があるのである。こうした事例から著者は、野生生物を「資源」として市場経済に組み込むことは、自然保護とは相容れないものであると批判している。
 第4章「近代日本における鯨肉食の普及過程」で検討されるのは、消費者と捕鯨の関係である。「捕鯨文化論」においては、しばしば鯨肉食が日本の伝統的な食文化とされてきた。それに対して、鯨肉食が全国に普及して日常食となったのは戦後のことであるという批判も、これまで少なからず存在した。それにもかかわらず鯨肉食の普及過程を実証的に明らかにする歴史研究は、これまでほとんどなかったと言ってよい。そこで著者は、史料やアンケート調査から鯨肉食の実態を明らかにしていく。著者によれば、江戸時代からクジラを食べていたのは九州北部や関西など一部の地域にとどまり、広く鯨肉食が普及したのは「ノルウェー式捕鯨」の導入以降のことである。とりわけ第一次・第二次世界大戦期における食糧不足や軍用缶詰の開発は、鯨肉食の普及を後押しした。さらに1941年にとられたアンケートを分析すると、鯨肉の利用形態は地域によって多様で、日常的に食する地域は限られていたことが明らかになる。つまり日本において鯨肉食が普及したのは産業化された捕鯨が導入されてからのことであり、さらに日常食として利用されるようになったのは戦後のことなのである。
 第5章「『乱獲の論理』を探る」では、捕鯨産業の側のクジラをめぐる言説が分析される。著者はまず江戸時代の捕鯨にかかわった豊秋亭里遊の言説を取り上げ、そこに「クジラを殺す」ことに対する後ろめたい意識を見出している。近代に入ってノルウェー式捕鯨が導入されると、クジラの減少を問題視する議論が登場しはじめるが、捕鯨関係者は一様にクジラは「永久無尽」であり捕鯨を制限する必要はないと主張していた。さらに戦後になると、クジラの減少という問題自体が語られなくなってしまう。著者は、このように捕鯨を正当化する言説(語らないことも含む)からは、「クジラを殺す」ことに対する複雑な感情が抜け落ちてしまっていると指摘する。
 終章「捕鯨問題における『文化』表象の政治性について」では、「捕鯨文化論」を主張する文化人類学者たちの議論の枠組みが批判される。彼らの議論では、単一の「捕鯨文化」というものが前提とされており、産業化された捕鯨によって人とクジラの「複数のかかわり」が打ち消されてきた歴史が見落とされている。こうした分析を踏まえて著者は、クジラと人の「複数のかかわり」を維持しつつ(ここには小型沿岸捕鯨も含まれる)、資源を管理することよりも野生生物を守ることを念頭に置いて捕鯨問題をとらえ直すことを提案している。
 ここまで見てきたように、本書は近現代日本における労働者・漁民・国家・消費者・産業界といった多様なアクターと捕鯨とのかかわりを明らかにした労作である。著者の視点は基本的には歴史社会学の立場にたつものだが、取り上げられる内容は科学技術史とも大いに関係がある。そこで以下では、捕鯨問題・科学技術史・環境史という3つの観点から本書の意義について考察したい。
 まず捕鯨問題にとって本書は、極めて大きなインパクトを持つ研究である。これだけ実証的な歴史研究を前にして、もはや素朴な「捕鯨文化論」を主張することはできなくなった。とはいえ本書に難点がないわけではない。それは「小型沿岸捕鯨」の歴史的な位置づけが明確に述べられていないことである。小型沿岸捕鯨とは、網走・宮城県鮎川・千葉県和田・和歌山県太地でおこなわれてきた主に小型鯨類を対象とする沿岸捕鯨のことをいう。そもそもフリーマンらの文化人類学的研究は、これらの小型沿岸捕鯨を対象とするものであった。彼らは、小型沿岸捕鯨は産業化した捕鯨とは異なる営みであると論じ、商業捕鯨とも原住民生存捕鯨とも違う第三のカテゴリーとして保護に値すると主張したのである。それにもかかわらず本書では小型沿岸捕鯨の展開についてはほとんど触れられていない。たとえば第1章の労働者の構成分析も、大資本による大規模な捕鯨を対象としていることに注意する必要がある。つまり本書には、小型沿岸捕鯨を対象とした文化人類学者の研究に対して、産業化された大規模捕鯨の歴史研究で答えるという議論のねじれがあるように思われる。
 もちろん著者は、小型沿岸捕鯨を「日本文化」と表象することによって大規模な捕鯨までもを正当化しようとする論理を批判しようとしているのだろう。しかし私の見るところでは、文化人類学者の捕鯨史の見方は必ずしも一様ではない。本書が批判する高橋順一のように極めて楽観的に「捕鯨文化」の存在を前提とする論者もいれば、「日本文化」のようなナショナルな表象で捕鯨を描くことに慎重な論者もいる。だとすれば、文化人類学的な言説がIWCなどの政治的な交渉の現場で実際にどのように利用されたのか、具体的に分析することが必要なのではないだろうか。さらに、商業捕鯨とは異なるカテゴリーとされた小型沿岸捕鯨が、実際のところ産業化された捕鯨とどのような関係にあったのかという点も検討する必要がある。著者も指摘しているように、網走と鮎川では近代に入ってから捕鯨業が開始された。したがって小型沿岸捕鯨が日本古来の「伝統文化」ではないことは間違いない。もしかすると「小型沿岸捕鯨」というカテゴリー自体が、歴史的に見ると大規模捕鯨と分けられない、政治的につくられたものなのかもしれない。こうした論点について考えるためにも、小型沿岸捕鯨の位置づけをはっきりさせる歴史記述が必要である。
 次に科学技術史にとっての本書の意義を述べよう。本書では産業化された捕鯨にとって朝鮮近海が重要な漁場であり、捕鯨産業が近代日本の拡張主義と不可分に成立したことが指摘されている。科学技術史においては、これまで多くの論者によって、近代日本の産業技術の一部が植民地に由来することが指摘されてきた。本書はそれらの研究に「捕鯨産業」というもう一つの事例をつけ加えたことになる。とはいえ本書では、朝鮮半島における事業所の設置や捕鯨船の操業形態のような、捕鯨産業の実際の展開について十分に明らかにされているとは言えない。また朝鮮半島の人々のクジラとのかかわりについても、捕鯨労働者として雇用されたこと(第1章)を除いて検討されていない。これらの点は今後の歴史研究の課題であろう。
 またこの点と関連して著者は、産業化された捕鯨は植民地を対象としていたがゆえに収奪的であり、クジラを「資源」と見なして利用し尽くしてしまったことを批判している(第3章)。しかし評者は、植民地を対象としていたからといって、あるいはクジラを「資源」と見なしていたからといって、一概に収奪的であったとは言えないのではないかと思う。確かに朝鮮半島近海のコククジラの事例に関する限りでは収奪的だったかもしれない。しかし、たとえば英領インドの森林保護の事例などに見られるように、むしろ植民地における資源管理のなかに近代的な自然保護の起原がある場合も少なくないのである。また、19世紀にはじまった海洋生物の保護が、そもそも資源保全のために発展してきたことも考慮に入れなければならない。もちろん植民地下のインドにおける森林管理は破壊的であったとする反論もあるし、たとえ自然保護に貢献したとしても植民地支配が正当化されるわけではない。私が言いたいのは、自然の収奪/管理/保護が植民地統治のなかでどのような役割を果たしていたのか、個別に明らかにする必要があるということだ。こうした作業は、人と自然の「複数のかかわり」を掘り起こすという著者の姿勢とも矛盾しないはずである。
 最後に環境史にとっての本書の位置づけについて述べる。これまでの環境史は、邦語で読めるものに限っていえば、文明史的な枠組みで語る研究が多かったように思う。そこでは近代文明がいかに環境を破壊してきたか、そして西洋近代科学がいかに自然を収奪してきたかが語られてきた。典型的なものとしてはキリスト教文明の自然観が環境破壊をもたらしたと指摘したリン・ホワイトのテーゼを思い起こせばよい。そのうらがえしが、西洋とは異なる「日本人の自然観」を探ろうとする試みである。このような文明史的な物語――ビッグ・ピクチャーが無意味であるとは必ずしも言えない。しかしそのような歴史像が、「日本人は古来自然と調和していた」というような、一種のナショナリズムに回収される危険性には注意しておく必要があるだろう。そして何よりもこうしたビッグ・ピクチャーは、多様な人々と自然との「複数のかかわり」を見えなくしてしまう。実際のところ、近年の環境史研究においては、文明史的な物語よりも個別の時代と地域における人間と環境の関係を丹念に描くことが求められるようになってきている。とはいえ、そのような環境史を実証的に描くのは至難の業である。支配者側の言説は残るが、無名の人々の自然とのかかわりは記録されないからである。したがって本書が漁民や鯨肉の消費者のように、文字史料をほとんど残さない人々の「クジラとのかかわり」を明らかにした意義は大きい。今後の環境史研究の一つのモデルとなり得るものである。
 以上のように本書は捕鯨問題だけでなく、科学技術史・環境史にとっても重要な意味を持つ研究である。けれども本書の語り口は、捕鯨問題の解決の糸口を手っ取り早く知りたい読者にとっては少し取っつきにくいかもしれない。というのも本書では、捕鯨問題の基本的な前提についてはごく簡単にしか解説していない一方で、研究の方法や議論の枠組みについては冗長と思えるほどに説明を加えているからだ。しかし私はこの冗長さこそが本書の魅力だと言いたい。環境史は新しい領域である。だからヒストリオグラフィーの枠組みを明確にしておいた方がよい。そして本書は「歴史を語ること」自体を問いなおそうという研究である。だからこそ「歴史を語ること」の意味について、冗長と思えるほどに言葉を尽くす必要があるのである。
(瀬戸口明久)


『化学史研究』34 (2007):51-53.

P.J. ボウラー『環境科学の歴史I, II』小川眞里子・森脇靖子・財部香枝・繻エ康子訳,朝倉書店,2002年,各\4800+税, ISBN4254105754, 4254105762

 優れた通史は2つの条件を満たしていなければならない.一つは網羅的であること.そしてもう一つは,歴史の全体像を見渡すことができる明確なテーゼがあることである.本書はこれまで進化論などを題材に優れた通史をいくつも発表してきたP.J. ボウラーによる環境科学の通史である.原著は1992年にFontana History of Scienceシリーズの一冊として出版された.
 まずはっきりさせておかなければならないのは,本書で取り上げているのが,いわゆる「環境問題」をあつかう科学の歴史ではないということである.本書では,産業公害も化学物質の規制も酸性雨も取り上げられていない.おそらく『化学史研究』の読者が,本書を環境問題の科学史として読むと失望してしまうだろう.本書は「環境に関係する諸科学の歴史」(ii頁)であり,著者が研究してきた進化論,地球科学を中心とする科学史である.400頁以上にもわたる大部の著作だが,その内容を駆け足で見てみよう.章立ては以下の通りである.
 1.認識の問題
 2.古代と中世の世界
 3.ルネサンスと革命
 4.地球の理論
 5.自然と啓蒙時代
 6.英雄時代
 7.哲学的博物学者たち
 8.進化の時代
 9.地球科学
 10.ダーウィニズムの勝利
 11.生態学と環境主義
 まず第1章では,著者が言うところの「環境科学」の定義と,科学をどのように見るべきかという,科学哲学とヒストリオグラフィーの問題が議論される.続く第2章,第3章であつかわれるのは,アリストテレスからルネサンス期に到るまでの博物学の歴史である.第3章以降は,生物学と地質学との展開がほぼ1章おきに述べられている.第4章,第6章,第9章があつかうのは地質学の歴史である.地球の科学が登場し,19世紀の地質学の英雄時代を経て,気象学やプレートニクス理論が生まれる過程が記述されている.第5章,第7章,第8章,第10章では,18世紀のリンネらによる博物学の成立から,19世紀に進化論が登場し,20世紀後半に進化の総合説や社会生物学が生まれるまでをあつかっている.
 本書の大きな特色になっているのが,第11章であつかわれている生態学の歴史だろう.生態学は1970年代以降の環境問題の勃興によって注目されるようになったが,その歴史をコンパクトに紹介したものはこれまで日本語文献ではほとんどなかった.そのうちの一つ,ドナルド・オースターの『ネイチャーズ・エコノミー』(原著1977年)と比べると,本書は生態学の理論的な展開をきちんとおさえて記述している.オースターの生態学史はこの分野でパイオニア的な役割を果たしたが,過去の生態学を恣意的に解釈しているとする批判も多い.それに対して本書では生態学の理論的な展開を踏まえた上で,政府による農業研究や環境主義のような社会的な側面についても注意を払っている.おそらく日本語で読める生態学史としては最良の概説であろう.
 以上のように本書はきわめて広範囲の「環境の諸科学」をあつかった歴史書であるが,通史と読むと不満が残るものである.
 まず第一に,冒頭でも触れたように,このような「環境に関係する諸科学の歴史」を『環境科学の歴史』というタイトルのもとに出版してしまってよいのだろうかという疑問を誰もが持つだろう.著者は博物学者の「単なる事実収集」から「生物学者や地質学者の厳密な態度」に取って代わったとき,「初めて『環境の〈科学〉』と名付けるにふさわしい何かが誕生した」(4頁)と言っている.だが著者が「環境の〈科学〉」の境界をどのような基準で引いているのか,評者には理解することができなかった.なぜ植物地理学や大陸移動説が「環境の〈科学〉」で,都市の環境をあつかう衛生工学がそれに含まれないのだろうか.またプレートテクトニクスの成立にはかなりの紙幅をとっている一方で,気象学については数ページしか触れず,しかも地球温暖化については全くといっていいほど言及がないのはどういうことなのだろうか.
 こうした問題が生じてしまう要因は,おそらく著者の採用するヒストリオグラフィーにある.著者は本書の冒頭で,科学史とは「科学者が観察を説明しようとするとき,その方法に影響を与える文化的・専門的要因を理解するために,科学をその社会的コンテクストの中に置こうとする1つの学問分野」(i頁,強調は評者)と定義づけている.この定義こそが,じつは「環境科学」の成立過程と齟齬をきたすものなのだ.著者は環境科学とはまず「理論」であると見ている.そのため本書では,ダーウィン進化論や地球科学,生態学のように,分野によって切り取られた章構成になっている.しかし現代の環境科学は,現象を説明する学問ではない.環境科学とは問題を解決しようとする実践的な科学であるはずだ.それはしばしば分野を超えた学際性を持つ.したがって環境科学の歴史を書くためには,理論ではなく科学の実践,つまり環境科学が対処しようとしたテーマごとに叙述するべきではないだろうか.
 第二に,本書には明確なテーゼがない.本書の最後で述べられている結論は,「科学理論〈すべて〉においてその根底にある価値の存在を認めなければならない」(401頁)ということである.あらゆる科学はさまざまな価値観と不可分に結びついている.したがって時代によって,環境の諸科学は環境保護主義と結びつくこともあれば,開発主義と結びつくこともあるという.これは決して目新しい主張ではない.科学研究が社会的文脈に応じてさまざまな価値観や世界観を内包していることは,近年の科学史・科学論では当然の前提と言ってもよいだろう.ここには,かつてボウラーが『ダーウィン革命の神話』などで見せた,膨大な二次文献をもとにして明らかにした意外で新しいテーゼはない.
 とはいえ本書が通史として価値がないというわけではない.冒頭で述べた通史の2つの条件のうち,本書では「網羅性」が満たされている.評者が詳しい生態学の歴史に限って言えば,本書が出版された1990年代前半までの重要な研究は網羅的に紹介されていて,しかもその要約は正確である.「環境科学」の歴史書として読むと不満も残るが,博物学や進化論の歴史書として読むと,科学研究体制や帝国主義のような社会的文脈にも十分に注意を払っていてバランスの取れた記述になっている.したがって本書は,進化論や地球科学,生態学など,個別の分野ごとの歴史研究の動向を知りたい場合に,事典あるいは文献案内として参照すると有用な文献となるだろう.
(瀬戸口明久)


『化学史研究』33(2006):33-34.

藤原辰史『ナチス・ドイツの有機農業』(柏書房、2005年)

 ナチス・ドイツがエコロジー国家だったことはよく知られている。その先駆的とさえ言われる自然保護政策や動物愛護法は、人間の生命を軽々と奪ったホロコーストや精神病者の安楽死といちじるしい対照を見せている。これまでの歴史研究は、一見すると対立するこれらの政策が実は同一の思想にもとづく表裏一体の政策であることを明らかにしてきた。本書はナチスドイツと有機農業の関係という、極めて重要であるにもかかわらず従来あまり注目されてこなかったテーマをあつかった重厚な歴史研究である。おもな分析の対象は、1920年代に人智学者ルドルフ・シュタイナーがはじめた有機農業バイオ・ダイナミック農法(BD農法)である。ただしナチスがBD農法を積極的に支持したわけではない。BD農法をオカルト的と考えたナチスは、1941年6月に主要メンバーを逮捕し、活動を禁止している。それにもかかわらず、ナチスの農業政策とBD農法のあいだには確かに通じるところがあった。著者は次の3つの時期に分けてナチスとBD農法の関係について検討している。(1)BD農法が誕生し、ナチスが台頭しつつあった1924〜33年。(2)BD農法とナチスが密接な関係を持った1934〜41年。(3)BD農法が禁止されてから第三帝国が崩壊するまでの1941〜45年。以下ではその内容を簡単に紹介しよう。
 まず第一部(1924〜33年)では、ルドルフ・シュタイナーのBD農法の内容、同時代のイギリス領インドの有機農業家アルバート・ハワードの農法、そしてナチスの農民観、農業観、自然観が検討される。日本では教育家として知られているシュタイナーだが、有機農法や医療にも影響を与えている。彼が晩年の1924年に提唱した農法がBD農法である。BD農法は科学界から批判を浴びつつも支持を集め、1933年には「BD農法全国同盟」が発足するにいたった。シュタイナーが提唱したBD農法では、化学肥料や農業機械の利用が批判され、農場の「物質循環」が重視されている。これは一見すると、同時代のインドでハワードが提唱した「インドール方式」という有機農法と類似しているが、その背景にある思想は大きく異なっていると著者はいう。ハワードの農法は植民地の農業を効率的にすすめていくための、いわば合理的な農業だったのに対し、シュタイナーの農法は自然と人間との関係を問い直そうとする神秘的なものだった。ハワードがダーウィンのミミズの研究に影響を受けていたのに対し、シュタイナーは科学的方法を批判し、土と触れあう伝統的な手作業を重視したのである。
 続く第二部(1934〜41年)はBD農法とナチスが密接な関係を持ちはじめる時期をあつかう。ここで重要な役割を果たしたのが、1933年に食料・農業大臣に就任したリヒャルト・ヴァルター・ダレーである。ダレーは「生命法則」という用語を頻繁に用いて、自然の法則にしたがった農業政策をおしすすめた。一方、「BD農法全国連盟」の方も、その神秘的な性格を弱めることによってナチズムとの親和性をはかり、政権幹部と接触を深めていった。ここで注意しておかなければならないのは、ダレーの「生命法則」にもとづく農法とBD農法とは多くの共通点を持ちながら、それぞれが別個のものとして展開していったという点である。ダレーが公にBD農法を支持するようになったのは、ようやく1940年6月になってからのことである。しかしそのわずか1年後、BD農法は禁止され、ダレーも失脚する。
 それにもかかわらず、BD農法が禁止された後も有機農法の実践は生き残る。第三部(1941〜45年)では、東部の占領地と強制収容所における有機農法をあつかっている。ここで取り上げられるベルリン大学教授のコンラート・マイヤーは、ユクスキュルの「環境世界」という概念に影響を受けたという。さらに最終章では、同時代のロシアや満州の農業思想と、北海道における有畜農業が検討される。
 以上のように本書は、有機農業をめぐる政治家、農業家、科学者の多様な言説をかなり網羅的に検討した労作である。しかし科学史的な関心から本書を読むと多少不満に感じるかもしれない。というのも本書では、ナチス政権下の有機農業の農学史における位置づけが十分に述べられていない。たとえばダレーの「生命法則」という概念が極めて重要なキーワードとしてたびたび登場するが、その科学的な中身についてはほとんど議論されていない。ダレーは化学肥料を嫌い、土壌を「健康」に保つことを求めたという(第7章)。では、「健康」とそうでない状態を区別する基準は何だったのだろうか。優生政策における人類遺伝学のような役割を、ナチス政権下の土壌学も担ったのだろうか。評者が読んだ限りでは、この問いへのはっきりした答えは本書では述べられていないように思う。
 植民地科学史に関心を持つ読者は、有機農業と植民地との意外な関係に興味を引かれるだろう。ハワードの英領インドにおける有機農法は、宗主国の支配力を維持しつつ、従来の環境破壊型のプランテーション農業から脱却をはかるものだった(第2章)。またナチスドイツにおいては、本国で禁止された有機農法が東方占領地域で実践される。これはナチスがいう「生命法則」にしたがって植民地の景観をつくり直すことにほかならなかった(第12章)。さらに本書では詳しくは述べられてないが、同時代の日本においても北海道の「有畜農業」が満州で実践されている(第14章)。これまでの研究では、戦前期日本における植民地農学についてはほとんど明らかにされていない。満州の農学者たちが有機農業をどのようにとらえていたのか、そして彼らは植民地の環境をどのように変えようとしたのか、検討されるべき課題である。
 近年日本では、伝統的な自然とのつき合い方が再評価されるようになりつつある。かつては反体制運動だったエコロジーや有機農業は、里地里山保全や環境保全型農業という名のもと政府によって推奨されるようになった。もちろん現在の環境保全型農業とナチス政権下のBD農法とは置かれた文脈がまったく違っているので、安易に比較することは禁物である。しかし、エコロジーが政治に組み込まれるとはどういうことか、そしてそこで科学者はどのような役割を果たすのか、という重要な問題を考えるために本書の事例は有用であろう。ナチスがエコロジー国家だったからといって、すべてのエコロジーを警戒する必要はない。必要なのはエコロジー言説の背後にある政治を見抜く目なのである。
(瀬戸口明久)

『科学史研究』45(2006):75-76.

飯島渉『マラリアと帝国 植民地医学と東アジアの広域秩序』東京大学出版会、2005年6月27日、ISBN4-13-026210-6、定価6800円+税

 医学全体から見れば、熱帯医学は周縁に位置する分野である。そのためこれまでの医学史では、細菌学や生理学に比べると、あまり注目されることはなかったように思う。だが近年、植民地統治において熱帯医学が果たす役割が、重要な研究課題として取り上げられるようになってきた。たとえば英領インドのマラリア対策や、アフリカの寄生虫症については、少なからぬ研究の蓄積がある。その一方で、東アジアにおける植民地医学の歴史研究は決して多くはない。本書は、おそらく日本で初めての本格的な熱帯医学の歴史研究である。取り上げられるのは、代表的な熱帯病の一つ、マラリアである。
 現代の日本に生きる私たちは、マラリアとはどこか遠い国々で罹る熱帯の病だと思い込んでいる。だがかつてマラリアは、私たちにとって身近な病の一つだった。比較的致死率が低い三日熱マラリアは、戦後しばらくまで本土でも珍しい病気ではなかった。日本が侵略した台湾や中国大陸では、重篤な症状を引き起こす熱帯熱マラリアが重大な問題となった。マラリアは近代日本が向き合った代表的な病気といえるのである。本書は、日本の帝国主義的な拡大にともなうマラリア研究の展開を分析する。構成は以下の通りである。

序論 マラリアは語る
T 植民地医学・帝国医療とマラリア
第一章 日本の台湾統治とマラリア
第二章 二〇世紀前半、八重山のマラリア対策
U 植民地医学・帝国医療の構造
第三章 近代日本の衛生学と植民地医学・帝国医療
第四章 戦争と植民地医学
V 第二次大戦後、東アジアのマラリア
第五章 米軍統治下、八重山のマラリア対策
第六章 中国のマラリア対策
第七章 戦後日本のマラリア研究
結論 東アジアにおける植民地医学・帝国医療

 まず第T部では近代日本が熱帯マラリアと初めて遭遇した台湾と八重山が取り上げられる。20世紀初頭の植民地台湾で、ある程度の成功を収めたマラリア対策は、1920年代には八重山にも適用されるようになる。続いて第II部では、近代日本の植民地医学の研究体制と日中戦争以降のマラリア研究の拡大が検討される。ここでは植民地に設立された医学校と、伝染病研究所や東京帝大との関係が詳細に検討される。第III部で分析されるのは、戦後の東アジア全域におけるマラリア対策である。八重山では米軍が、中国では共産党政府がマラリア対策を進めるが、その基盤には戦前期の日本統治下で形成された熱帯医学の人脈が存在した。
 さて、本書の科学史・医学史にとっての意義を評者なりに整理すれば、次の二点が重要であると考えられる。
 第一に本書は、植民地医学の制度的な基盤を徹底的に明らかにしている(主に第三章)。その結果浮かび上がってきたのは、宗主国の研究機関と植民地との間に形成された人的なネットワークである。近年の植民地科学史研究においては、科学知識が本国から植民地へと一方向に流れるとみなす、いわゆる拡散モデルは批判されつつある。植民地医学とは、単に植民地統治に利用された宗主国側の医学知識ではない。むしろ植民地統治のなかから生じてきた新しい医学知識である。このような問題意識は本書でも共有されている。日本の熱帯医学は、台湾におけるマラリア対策にはじまった。それを担ったのは、北里柴三郎の伝染病研究所の人脈である。台湾で蓄積された知見は、伝染病研究所や慶應義塾大学を通じて、朝鮮や満州の植民地医学校にも広がっていくことになる。さらに1920年代から日中戦争期に入ると、東京帝大伝染病研究所の研究者たちが大陸で活躍することになる。このような帝国日本が構築した東アジアの医学研究体制については、これまでほとんど明らかにされてこなかった。植民地医学者ひとりひとりの履歴と研究内容を詳細に明らかにした功績は大きい。
 第二に本書は、戦前・戦後の熱帯医学に連続性が存在することに注目している(主に第七章)。戦前・戦後の日本の科学技術体制の連続性は、科学技術史においては繰り返し言及されてきた論点である。それにもかかわらず医学史においては、植民地との関係を踏まえた上で連続性の問題と向き合った研究は、これまでほとんどなかったのではないだろうか。著者も指摘しているように、従来の研究は、医学者たちの戦争協力を批判的に議論するものが多かった。もちろん、731部隊の免責が戦後の医学界に残した影響のように、軍陣医学と戦後医学の人脈上の連続性についてはたびたび指摘されてきた。しかし著者がいう「連続性」は、もっと大きな枠組みでの連続性である。すなわち、東アジアの「広域秩序」は帝国日本によって形成され、敗戦後も人脈や学知を通じて維持されたとする視点である。戦前に日本の植民地医学を担った人々は、戦後、日本国内の風土病対策だけでなく、中国政府のマラリア対策にも貢献した。さらに1960年代後半以降は、アジア・アフリカ諸国における国際協力の一環として日本の熱帯医学者たちが活躍することになる。戦後東アジアの熱帯医学は、戦前と直接につながっているのである。
 もっとも連続性があるからといって、戦後の熱帯医学のなかに植民地主義を読み取るべきではないだろう。むしろ重要なのは、どのような政治的な文脈の下で熱帯医学の知が必要とされたのかという問題である。たとえば1950年代の中国政府のマラリア対策は、蚊の駆除のような大衆動員を通じて衛生ナショナリズムを浸透させることを目的としていた(第六章)。衛生政策を通じた国民統合がすすめられたのである。また、1960年代の日本では日米医学協力計画の一部にフィラリアと住血吸虫症が取り上げられ、熱帯医学への関心が高まっていく。その背景には、合同医学プロジェクトを通じてベトナム戦争への批判を緩和しようとするアメリカの思惑があったという(326頁)。このように帝国日本が作り上げた熱帯医学は、政治的な体制が激変した後でも、社会秩序を維持するために利用され続けている。本書の副題にある「植民地医学と東アジアの広域秩序」とはこのような意味なのである。
 最後に今後の研究課題として、本書で十分に論じきれていない点を二点ほどあげておこう。まず本書では、日本の熱帯医学の制度史については余すところなく論じられているが、思想史についてはあまり議論されていない。フランソワ・ドラポルトが『黄熱の歴史』で論じているように、熱帯医学はそれまでの細菌学説とは大きく異なる認識の枠組みを持つことが知られている。19世紀末以降明らかになったのは、熱帯病の多くが地域特有の媒介生物を必要とするという事実だった。そのため熱帯病は、接触感染するコレラやインフルエンザのようなグローバルな疾病とは、全く異なる種類の感染症と考えられていた。だからこそ、熱帯医学は細菌学と同一化することなく、独立したディシプリンと研究機関を必要としたのである。このような認識論的な枠組みを、日本の医学者たちはどのように理解していたのだろうか。あるいはマラリアをもたらす熱帯の「環境」をどのように考えていたのか。さらには熱帯の「人々」をめぐる理解は、どのようなものだったのだろうか。
 もう一つ気になるのは、本書で登場する左翼医学者たちの思想である。たとえば上海自然科学研究所でマラリアや肺吸虫を研究した小宮義孝は、マルクス主義にもとづく社会医学の推進者で、プロレタリア運動の闘士といってもよい存在だった。台湾総督府で医動物学の研究をおこなった小泉丹も、唯物論研究会の幹事を務めていた。彼らはいかにして植民地統治にからめとられていったのだろうか。あるいは、科学と国家、科学と植民地統治の関係について、彼らはどのように考えていたのだろうか。彼らが科学と社会のあり方について真剣に考えていたことは間違いない。というのも彼らの多くは科学史にも関心を持っていた。日本の科学史の源流の一部は植民地にあるのかもしれない。これは私たち科学史家にとって重要な論点である。
 本書では極めて詳細に事実が記述されているため、熱帯医学に関心がない読者にとっては、読みすすめるのは容易ではないかもしれない。だが東アジアの医学史や植民地医学に関心を持つ者にとって、本書は必ず参照しなければならない文献になるだろう。
(瀬戸口明久)

『科学史研究』44(2005):163-164.

吉見義明『毒ガス戦と日本軍』岩波書店,2004年7月28日,372頁,ISBN4-00-024128-1 ,定価2940円

 日本は,第二次大戦期に毒ガスを継続的に使用した唯一の国である.よく知られているようにナチスドイツはサリン・タブンを開発し,イタリアはエチオピア戦争で毒ガスを使用している.けれども長期にわたって毒ガス戦をおこなったのは日本だけで,東南アジア・太平洋戦線では英米軍に対し小規模に,また中国戦線では大規模かつ継続的に毒ガスを使用している.この事実は,後述するように戦後免責され隠蔽されたため,1980年代までその実態はほとんど明らかにされてこなかった.そのつけが最近になってまわってきている.2002年以降,各地の工事現場で日本軍が遺棄した毒ガス弾が発見され,茨城県神栖町では多数の住民に健康被害がもたらされていることが明らかになった.同様の被害は中国では頻繁に生じており,日本政府は化学兵器禁止条約に基づいて廃棄処理をすすめている.
 これらの問題にともなって,日本軍の毒ガス開発・使用の実態を明らかにすることは,今日的な課題となりつつある.そのため毒ガスをめぐる歴史研究は活発化しており,多くの論文や研究書が出版されている.そのなかで本書の特色をあげるならば,詳細な註で典拠を明らかにし,今後の研究の指針となっていることだろう.著者は国内だけでなく,米国立公文書館をはじめとして各地に残る資料を利用している.とりわけ日本の毒ガス使用への米国政府の対応(第9章)などは,これらの資料なしには明らかにすることはできなかっただろう.また,第一次大戦期から敗戦までの毒ガス戦の包括的な通史になっている点も,本書の特色である.第一次大戦期の毒ガス開発に始まって,霧社事件での最初の実戦使用から日中戦争期の本格使用に至るまでが克明に分析されている.さらに英米軍に対するの使用(第7章)や,米国の毒ガス戦作戦(第9章),敗戦後の処理(第10章)などについても詳細にあつかわれている.20年にわたる著者の毒ガス戦研究が,本書のような読みやすい形でまとめられたことを喜びたい.
 さて,本書は10章から構成される通史で,しかも多くの新しい事実が含まれている.そのためすべての議論を紹介することはできないが,以下では評者なりに重要と思われる論点をいくつかあげてみたい.
 まず本書は日本軍の毒ガス戦を,当時の国際関係や軍縮交渉の流れにのなかに位置づけて記述している.第一次大戦以降,日本は基本的に毒ガス戦禁止の立場で軍縮交渉をすすめていた.1925年のジュネーブ議定書では毒ガス使用禁止を支持したし,1932年以降のジュネーブ一般軍縮会議でも催涙ガスの使用禁止を呼びかけている(ただし米国の動向に対応したため,ジュネーブ議定書には批准していない).また満州事変時には,国際連盟での日本の立場を有利に保つため,毒ガス使用を自重するべきという判断を下している.それにも関わらず日中戦争が始まると,当初から積極的に毒ガス攻撃が開始された.その理由として本書は,来るべきソ連との現代戦を想定した実戦訓練を積む必要があったことをあげている.初期には催涙ガスに限られていた毒ガス攻撃も,戦局の硬直化とともに,嘔吐性ガスや糜爛性ガスの全面使用へとつながっていく.その一方で日本は,東南アジア・太平洋戦線ではごくわずかしか毒ガスを使用していない.とりわけ米軍に対しては,いくつかの例外を除いて,原則的に毒ガス攻撃はおこなわれなかった.その理由は,軍事力で勝っている米英からの報復攻撃を恐れたためである.実際ローズベルト大統領は,1942年と43年に,中国に対する日本の毒ガス攻撃を強く避難する声明を発表している.そのため米国からの毒ガス攻撃を懸念した大本営は,1944年に毒ガス戦を可能な限り抑制する命令を出している.
 科学史・技術史の観点から重要なのは,化学兵器の生産をあつかった第6章「毒ガスの生産」である.ここで著者は日本の毒ガス生産高の推移を詳細に調査し,それが国際情勢を反映したものだったことを明らかにしている.日本軍の毒ガスは主に陸海軍工廠で製造されたが,ホスゲンなどの一部は民間工場でも生産された.さらに原材料の生産は,広範囲の化学関連企業に支えられていた.また,陸軍の化学兵器研究者が化学企業の役員になることもあったという.したがって毒ガス戦が日本の化学工業に与えた影響は,極めて大きいものであったと言えるだろう.その全容は十分に明らかにされているとは言い難いが,本章はその一端を垣間見せてくれる.また,本書ではあまりあつかわれていないが,毒ガス開発への科学者の動員も重要な課題である.例えば本書では,1940年に日本学術振興会が東京でおこなった毒ガス攻撃を想定した実験が言及されている(255頁).科学者の戦時動員に関する先行研究は決して少なくはないが,毒ガス研究への動員が当時の科学研究に与えた影響については,十分に解明されたとは言えない状況にある.今後の科学史家の貢献が期待される領域であろう.
 第10章「敗戦・免責・遺棄・投棄」は,敗戦後,日本の化学兵器犯罪が免責されるに至るまでの経緯をあつかっている.日本の毒ガス攻撃は,極東軍事裁判で訴追されるはずだった.それにもかかわらず,米国陸軍省,とくに化学戦統括部隊が圧力をかけたため,日本の毒ガス戦は不問にされることになったのである.彼らは,日本軍の毒ガス戦を訴追することによって化学兵器使用の違法性が明確になることを恐れたた.つまり戦後の米ソ関係における米国の軍事的な優位性を確保するため,日本軍の毒ガス攻撃の訴追は棄却されてしまったのである.戦後,日本軍が保有していた毒ガスは,その多くが極秘のうちに投棄された.それが今日になって,中国や日本各地で大きな被害をもたらしているのである.
 ところで,同様に免責された日本の戦争犯罪として,731部隊による人体実験と生物兵器開発がある.よく知られているように,人体実験の貴重なデータが軍事的に有用だったため,米国政府は731部隊の関係者たちを戦犯訴追の対象からはずしたのである.その結果,彼らの多くは敗戦後,医学界の重職に復帰することになった.そのため戦後日本の医師たちのほとんどは,戦時中の負の遺産と向き合うことがなく,人体実験や患者の権利に対する意識が低かったと言われている.それでは化学戦の免責は,日本の化学者やエンジニアたちにどのような痕跡を残したのだろうか.科学史的な検討が必要な問題と言えるだろう.
 毒ガスや生物兵器などの戦争犯罪にかかわる歴史研究をすすめるためには,資料に到達すること自体が容易ではない.そのため従来この分野では,毒ガス攻撃や人体実験など,新しい事実を発掘するタイプの研究が多かったように思う.だが,ある程度研究が蓄積された現在,日本の毒ガス研究を当時の科学技術体制のなかに位置づける作業が求められているのではないだろうか.日本軍の毒ガス戦を世界的な流れのなかに位置づけた本書は,その足がかりとなるだろう.
(瀬戸口明久)

『化学史研究』31(2004):54-55.

書評:ラピエール・モロ著(長谷泰訳)『ボーパール午前零時五分』(河出書房新社、2002年)

 本書は、1984年12月2日から3日にかけての深夜、インドのボパールで起こった史上最大の化学工場事故をめぐるルポルタージュである。この日の午前零時五分、アメリカに本社があるユニオン・カーバイド社の農薬工場から有毒性のガスが流出し、ボパールの市民を襲った。正確な死者数は現在でも不明だが、1万6000人から3万人の間と言われている。著者のドミニク・ラピエールはフランスのジャーナリストで、これまでインドに生活する人々に関する著作を出してきた。もう一人の著者ハビエル・モロはスペイン生まれのシナリオライターである。二人の共著という形をとることにより、ドキュメンタリー映画のような生き生きとした作品に仕上がっている。
 物語は二本立ての筋書きですすめられる。まず著者らは、ボパールに農薬工場が建設されてから事故が起こるまでの工場内部の動きを詳細に追っている。ユニオン・カーバイド社が新しい殺虫剤セヴィンを開発したのは1957年のことだった。12年後、殺虫剤の需要が高まりつつあったインド中央部の都市ボパールにセヴィン工場が建設される。セヴィンの原料となるイソシアン酸メチル(MIC)は、それ自体で高い急性毒性を持つだけでなく、シアン化水素酸などの毒ガスに容易に分解されることがわかっていた。そのためボパール工場ではいくつもの安全装置が設置され、米国人技師ウォーレン・ウーマーは従業員に危機管理を徹底させた。それでも一人が死亡する小規模事故が発生し、地元のジャーナリストや本社の内部調査によって安全性に問題があることが指摘されている。さらにウーマーが去り、インド人技師ジャガンナータン・ムクンドが後任につくと、工場の赤字を減らすため主要な安全装置の停止が命じられた。従業員も大幅に削減され、残った工員の士気も下がっていく。かくして運命の12月2日の夜を迎えるのである。
 カーバイド内部の動きと並行してすすめられるのが、工場近くの貧民地区オリヤー・バスティーに住む少女パドミニの成長物語である。パドミニ一家は地方の寒村からボパールに移住し、周囲の人々に助けられながら生活している。ここではたくましく生きていくパドミニと周囲の様々な人々─ヒンズー教徒や回教徒、詩人や占星術師など─が生き生きと描かれる。このあたりは現地を徹底的に取材するラピエールの真骨頂と言えよう。そして12月2日の夜、パドミニの結婚式が盛大に執り行われることになる。
 さて、これまでボパール事件については、事故直後から『技術と人間』誌が精力的に紹介してきたし、詳細なルポルタージュの邦訳書もいくつか出版されている。これらの報告の多くは、巨大事故が発生したプロセスを詳しく分析したものである。そこではインド人従業員のサボタージュを事故の原因とするカーバイド社の主張に対し、ヒューマン・エラーが起こった場合に被害を最小限に防ぐべき安全装置が全く機能していなかったことが指摘された。また、事故後も後遺症で苦しむ人々に対して、何ら補償が与えられていないことも問題とされた。このように80年代後半においては、ボパール事件の責任を追及する姿勢が強かったと言えるだろう。これらの問題は現在でも依然として重要な問題である。本書によれば、被害者の多くはいまだに補償を受けていない。そこで本書の売上げの一部は、ボパールの人々に還元されることになっている。
 このような従来からの論点に加えて、本書には新しい知見も盛り込まれている。工場が建設されて事故が起こるまでの経緯が、極めて詳細に調べられているのである。事故当夜の記述に入るのは下巻の途中からで、全体の約3分の2が事故が起こる前までの分析に割かれていることになる。そこではカーバイド社がボパールにセヴィン工場を建設するまでの経緯と、工場が赤字に転落して経費削減が必要になるまでが描かれている。工場が設置された1960年代には、インドでは大量の殺虫剤が必要とされていた。「緑の革命」によって導入された新品種が病害虫に脆弱だったためである。けれども80年代初頭にはセヴィンの売上げは急速に落ち込み、工場は生産を縮小せざるを得なくなる。セヴィンだけでは害虫を根絶することができず、より安価な殺虫剤が市場に現れたことが、売上げ不振の原因であるという。だが工場は、60年代の楽観的な消費予測に応じて大規模な施設として建設されていた。赤字に転じた工場には、このような大規模な設備を維持する経済力がなかった。その結果、極めてずさんな安全管理体制がもたらされたのである。このように本書は、ボパール事件の原因を、従来より深いところまで掘り起こした労作と言えるだろう。
 けれども歴史研究として読むと、多少の不満も残る。ドキュメンタリー・タッチで書かれているため、事故の問題点が明確に浮かび上がってこないのである。読みようによっては、安全装置停止を命じたムクンドや、事故の直接の原因となるミスを犯したインド人工場員こそが、事件の責任を取るべき人物のようにも受け取れる。だが本書の全体をよく読めば、カーバイド社が不必要に大規模な殺虫剤工場を建設したことが、もっとも重要な問題であることがわかるだろう。つまり、多国籍企業が発展途上国に先端技術を押し売りすること自体が問われているのだ。本書の末尾で、多国籍企業の社員がパドミニのところに遺伝子組換え種子を売り込みに来る場面は、著者らのスタンスを象徴している。彼らは、先進国の科学技術をそのままの形で発展途上国に移転することに疑問を感じているのである。だが、この視点に基づく十分な分析は本書の中ではおこなわれていない。技術移転論や科学技術史を踏まえた本格的な歴史研究が望まれる。
(瀬戸口明久)

瀬戸口明久