講演要旨


『日本科学史学会第56回年会要旨集』p.12

日本科学史学会第56回年会(九州大学、2009年5月23日)

記憶が歴史になるとき

―日本におけるダーウィン記念行事とE.S. モースをめぐる歴史認識の形成―

大阪市立大学大学院経済学研究科  瀬戸口 明久
When Memory becomes History
Darwin Commemoration and Historical Discourses on E. S. Morse
Osaka City University Akihisa SETOGUCHI

 本報告は、日本における過去のダーウィン記念行事について検討し、進化論受容をめぐる「歴史認識」の形成において「記念行事」が果たした役割について考察する。これまで日本の進化論受容をめぐっては、次のような歴史像が繰り返し語られてきた。日本に進化論を紹介したのは、明治初年に東京大学動物学教授として来日したE.S. モースである。モースの進化論についての講義は、日本では宗教的な抵抗がなかったため、速やかに受け入れられた。その後の日本では、進化論は社会進化論として流行し、生物学としての進化研究はほとんどおこなわれなかった。本報告はこのような歴史認識が、じつは記念行事と深いかかわりがあることを明らかにする。
 ここで分析の枠組みとして「集合的記憶(collective memory)」の概念を援用したい。わたしたちは誰もが、過去の出来事について何らかの「記憶」を持っている。だが、同じ過去に関するものでも、個人が持つ「記憶」は一人一人違ったものになる。それぞれの立場や経験によって、特定の出来事だけを選び出して「記憶」し、そのほかの出来事を重要でないものとして「忘却」するからである。このように本来一人一人違ったものであるはずの「記憶」が、教育や博物館展示、テレビの特別番組など、さまざまなメディアを通じて集団全体に共有されるとき、人々のあいだで「集合的記憶」がつくりあげられる。記念行事(commemoration)とは、そのような「集合的記憶」がつくられる場所の一つにほかならない。「集合的記憶」の研究は、歴史認識をめぐる政治的な対立が先鋭化した1990年代から盛んになり、科学史でも1999年のOsiris誌で特集「科学における記念行事:集合的記憶のポリティックスをめぐる歴史的展望」が組まれた。
 それでは「日本における進化論受容」をめぐる「集合的記憶」はどのように形成されたのだろうか。1909年に開かれたダーウィン記念行事においては、多くの参加者がモースの思い出を語っている。だがそれらの語りはいずれも個人的な「記憶」であって「歴史認識」として共有されていたわけではなかった。その後、モースは、開国50周年記念事業や没後の追悼行事を通じて、「日本における進化論受容」の出発点に位置づけられていく。そこでモースは日本に精力的に進化論を紹介した人物として高く評価された。だが1958年におこなわれた記念行事では、それまでの歴史認識とは対立する歴史言説が登場する。そこでは日本の生物学の「後進性」が問題とされ、モースはそのような「失敗の歴史」の出発点に位置づけられたのである。これらの「歴史認識」は、最初に登場した時点では、特定の語り手の立場から見た「記憶」にすぎなかった。だが「記念行事」をきっかけとして人々のあいだに共有され、最初に語られた文脈も忘れ去られることによって「集合的記憶」として確立していったのである。

『動物観研究会公開ゼミナール2007発表要旨集』pp.5-6.

動物観研究会公開ゼミナール2007 / ヒトと動物の関係学会第57回月例会(東京農工大学、2007年12月2日)

狩猟と皇族――雑誌『猟友』に見る動物をめぐる政治・科学・ジェンダー

瀬戸口 明久(大阪市立大学経済学部)
 現在の狩猟には、何かしらやぼったいイメージがある。率直にいって多くの人々にとって狩猟とは、地方の中年以上の男性の楽しみというイメージだろう。あるいはマタギのような民俗的な動物とのつき合いを思い起こす人もいるかもしれない。
 だが本報告では、明治・大正期の狩猟は、現在とはまったく違った文化であったことを明らかにする。当時の人々にとって狩猟とは西洋化の象徴であり、女性も参加することができるスポーツにほかならなかった。それだけでなく、狩猟は天皇制とも深い関係を持っていた。以下では、明治・大正期に天皇・皇族がおこなった狩猟に注目し、それが当時の政治や科学、さらにはジェンダーにとってどのような意味を持っていたのか検討したい。おもに使用する史料は、日本狩猟協会が発行した雑誌『猟友』(1900〜1923?年)である。
 本研究の学問的な位置づけについても簡単に言及しておこう。古代における天皇と狩猟の関連については、歴史学において多くの研究がおこなわれてきた(原田信男『歴史のなかの米と肉』など)。一方、近代の天皇の巡幸や肖像画などが、国民国家形成や国民のジェンダー意識におよぼした影響については、歴史学や社会学で膨大な研究の蓄積がある(タカシ・フジタニ『天皇のページェント』など)。それにもかかわらず、近代の天皇と狩猟の関連については、言及すらされないことが多い。近代の天皇・皇族がおこなった狩猟は、新しい国民の動物観にどのような影響をおよぼしたのだろうか。それが本報告の課題である。

1.狩猟と政治:「御猟場」と「遊猟文化」の成立
 1881(明治14)年2月6日、明治天皇は武蔵国荏原郡を訪れ、村人による兎狩りを観覧した。これは日本の天皇が数百年ぶりに狩猟に参加し、動物を殺す行事をおこなった歴史的な転換点である。古代においては、狩猟は天皇がおこなう重要な行事の一つであった。しかし中世以降、狩猟は武家の営みとなり、天皇がたずさわる行事は農業関係の祭祀に限られるようになる。それに対して近代の天皇は、突然、狩猟を好むようになった。1884(明治17)年には宮内省御猟場掛が設置され、天皇が狩猟をおこなう「御猟場」が各地に設置される。同時にそのほかの皇族たちも、積極的に狩猟に参加するようになる。こうした天皇・皇族の狩猟には、以下の2つの意味があったと考えられる。
 第一に、狩猟をする力強い天皇の姿を国民に見せることによって、支配の正当性を印象づける意味合いがあった。しばしば指摘されるように、江戸時代の天皇は200年以上にわたって京都御所を出ることが一度もなかった「見えない天皇」だったのに対し、近代の天皇は全国を巡幸し、国民の前に積極的に姿をあらわす「見せる天皇」である。明治初年の人々は天皇についてのイメージをほとんど持っていなかったため、彼らに強力で華やかな天皇の姿を見せ、その支配を正当化する必要があったのである。さらに天皇の狩猟には、西洋化した天皇の姿を諸外国に見せつけるという意味もあった。1882(明治15)年に浜離宮鴨場が設置されると、諸外国の賓客や外交官が次々と宮中の狩猟行事に接待されるようになる。
 以上のような政治的な儀礼としての目的のほかに、天皇・皇族の狩猟にはもう一つの意味合いがあった。それは皇族の娯楽としての狩猟である。明治初年、皇族や政府首脳の間で、猟銃をもちいた狩猟がブームとなる。さらに明治天皇による狩猟儀礼がなくなった明治半ば以降には、全国の御猟場は皇族・華族の狩猟の場所として利用されるようになった。こうした皇族を中心に流行した娯楽としての狩猟を本報告では「遊猟文化」と呼び、それが科学とジェンダーにおよぼした影響について考察したい。

2.狩猟と科学:鳥類学の誕生
 日本の鳥類学が「皇族・華族の学問」として生まれたことは、これまでも知られてきた(科学朝日編『殿様生物学の系譜』など)。日本鳥学会の設立時(1912年)の中心的なメンバーだった松平頼孝、黒田長禮、鷹司信輔らはいずれも華族である。1932(昭和7)年に山階鳥類研究所を設立した山階芳麿も、皇族から臣籍降下した侯爵だった。これまで皇族・華族の鳥類学は、江戸時代から博物学を愛好してきた支配階級の文化に由来するものと理解されてきた。しかし実際には、以下の2つの理由から、鳥類学は「遊猟文化」の産物と考えた方がよい。
 第一に、上記の皇族・華族はいずれも狩猟を趣味とするか、もしくは職業としていた。山階芳麿は、幼少の頃からしばしば兄の武彦王や皇族たちとともに狩猟に出かけている。鷹司信輔は大日本猟友会の初代会長を務めた(1930年)。また、松平頼孝や黒田長禮は、宮内省主猟官として御猟場を管理する役職に就いている。
 第二に、日本鳥学会の設立の中心となった東京大学動物学教室教授の飯島魁は皇族でも華族でもない。むしろ飯島は、「遊猟文化」の重要な担い手の一人だった。『猟友』の前身誌の『猟の友』は、飯島らが1883(明治26)1891年に発刊した雑誌である。さらに晩年には、東京猟友会副会長も務めた。飯島が松平、黒田、鷹司らの東大での指導教員だったことからも、鳥類学が「華族文化」ではなく「遊猟文化」を母体として誕生したことが明らかであろう。

3.狩猟とジェンダー:女性のスポーツと健康美の誕生
 大正期に入ると、『猟友』の誌面にしばしば女性があらわれるようになる。1913(大正2)年には女性で遊猟鑑札を受けたものは全国に4人しかいなかったというから、女性狩猟家が珍しかったことは間違いない。とはいえ『猟友』誌は、彼女たちを好意的に紹介し、女性狩猟家の出現を歓迎している。そこで表象されているのは、狩猟を通して健康美を獲得している女性たちの姿である。大正期は、女性のあいだにスポーツが浸透すると同時に、身体美の基準も健康・衛生のような医学的な基準ではかられるようになった時期にあたる。女性の狩猟は、そのような新しい身体文化の一つとして、少しずつ浸透しはじめていたのである。

結論
 以上のように皇族を中心に成立した「遊猟文化」は、新しいフィールド科学や女性のスポーツのような豊かな文化を形成していった。だが、それが力強い天皇の姿を見せつける「御猟場」という政治的な制度と深く結びついていたことを忘れるべきではない。大正末期以降、御猟場が次々と廃止されていくと、「遊猟文化」も衰退していく。とはいえ天皇・皇族と動物の関係が、完全に途絶えたわけではなかった。現在でも、多くの皇族が自然保護や動物愛護関係の団体の名誉職に就いている。天皇・皇族の動物へのまなざしは、現代社会においても人々の動物観に影響を与え続けているのである。


ISHPSSB 2007 Meeting, University of Exeter, July 26, 2007

War and Biology: The Transformation of Entomological Research in Japan, 1918-1945

Akihisa Setoguchi (Osaka City University)

It is a well-known fact that the wars in the twentieth century changed the relationship between science and governments. World War I was the war of the chemists, and World War II had a great impact on physicists. On the other hand, biology, which made few contributions to the development of weapons, seems to have been impacted to a lesser degree by the wars. Moreover, Japanese science before World War II has attracted little attention because it is believed that Japan's failure to mobilize its scientists led to its loss in the war. In this presentation, however, I will reveal that World Wars I and II radically transformed entomological research in Japan. In Japan, both entomology and biological research began in the 1870s with governmental support for agricultural experimental stations. Initially, most of the entomological research was confined within the framework of natural history. However, after World War I, the Japanese government began to reorganize agricultural research in order to increase crop yields. In 1921, chlorpicrin, the first domestic synthesized insecticide in Japan, was put on sale as a crop fumigant. Since chlorpicrin had been used as chemical weapon during World War I, the Japanese Army helped to manufacture the insecticide. The army also began producing hydrogen cyanide insecticide in the 1930s; this insecticide was diverted to be used as a chemical weapon in the early 1940s. During World War II, there was an outbreak of malaria-which is transmitted by mosquito vectors-in the Japanese Army. It is commonly known that while the U.S. Army used DDT to exterminate mosquitoes, the Japanese Army failed to manufacture this insecticide. However, I will show that after the 1940s, entomologists in Japan had shifted their attention to medical research due to the mobilization for malaria research. In summary, due to World Wars I and II, Japanese entomology shifted from natural history to becoming a mission-oriented discipline involving chemistry, biology, and medicine.


「科学史学校」第19期(国立科学博物館、2006年9月23日)

〈害虫〉と近代日本

 近代西洋科学の導入は、私たちの自然とのつき合い方をどのように変えたのだろうか。本講演では、近代日本における〈害虫〉をめぐる科学――応用昆虫学を題材に考えてみたい。帝国日本による農学研究体制の整備は、日本人の害虫との関係を大きく変容させた。また講演の後半では、植民地台湾の統治を通じて、病気をもたらす〈害虫〉をあつかう学問が誕生したことに触れる。


『生物学史研究』78:75-77.

生物学史分科会夏の学校(コミュニティ嵯峨野・京都市、2006年8月19日)

実験動物産業の成立 ―ジャクソン研究所と米国のガン研究―

瀬戸口明久
Karen A. Rader, "The Multiple Meanings of Laboratory Animals: Standardizing Mice for American Cancer Research," M.J. Henninger-Voss eds., Animals in Human Histories: The Mirror of Nature and Culture, (University of Rochester Press, 2002), 389-438.

 実験動物は多元的な意味を持つ生物である。医学実験においては、実験動物はヒトの身代わりとして利用される。新薬や新しい食品添加物は、安全性を確認するため、人間の口に入る前に必ず実験動物に与えられる。その一方でショウジョウバエや線虫のように、動物一般のモデルとして利用される実験動物もいる。さらには、実験動物にはモノとしての側面もある。とりわけ供給体制が整備された実験動物の場合には、私たちは実験器具を買うようにカタログを見て注文し、到着した商品を消費していく。
 このような多元的な意味については、これまでの動物実験をめぐる倫理的な論争においては、ほとんど気づかれてこなかった。だが実はそれらの倫理的な議論も、実験動物の多元性に暗黙のうちに縛られている。動物実験の批判者たちは、動物の感じる痛みは人間と同じだと言う一方で、人間と動物は完全に同一ではないから動物実験には医学的な意味がないと主張している。それに対する動物実験の支持者も、動物をヒトの代替物とみなしながら、あたかもモノのように大量に消費してきた。このような一見すると矛盾した構造は、「ヒトの代わりでありながらモノ」という実験動物の持つ多元的な意味に由来するのである。
 ここで紹介するカレン・レーダーの研究は、多元的な意味を持つ実験動物の成立過程を検討した論文である。レーダーによれば、実験動物とは医学の進展によって自然に生じてきたものではない。特定の歴史的文脈――20世紀前半のアメリカにおけるガン研究――を通じて初めて成立したものだという。レーダーが注目するのは、現在でも実験動物の大半を占めるマウス(Mus musculus)の大量供給を実現したアメリカのジャクソン研究所である(1)
 ジャクソン研究所は、1929年に遺伝学者のC.C. リトル(1888-1971)が中心となって設立した世界最大の実験用マウス供給機関である。リトルがマウスと出会ったのは、1910年代初頭のハーバード大学ベッシー研究所の遺伝学者W.E. キャッスルの研究室だった。マウスは同時代に使われはじめたショウジョウバエと比べると決して飼育しやすくはなかったが、ネコやイヌと比べると簡便で、しかも18世紀以来ペットとして多様な系統が確立されていた。1908年、育種家のA. ラスロップらによって、特定の系統のマウスがガンにかかりやすいことが発見される。同じ頃、ハーバード大学医学部のE.E. タイザーもガンと遺伝の関係の研究に着手していた。リトルはタイザーの研究室に移り、そこでマウスのガン研究に従事する。しかし彼らの研究は、臨床でガン研究をおこなう病理学者たちからは評判が悪かった。彼らは、遺伝学的なコントロール下にあるマウスのガンは、ヒトのガンとは別物であると批判した。つまり、1920年代までの臨床医学においては、マウスはヒトの代替物としては認められていなかったことになる。そのためリトルにとって、医学部は居心地のいい場所ではなかった。リトルはコールドスプリングハーバーの実験進化研究所に移り、優生学的見地からガンの遺伝学研究をすすめる。その後はメーン大学に移り、全米最年少の学長として大学行政にたずさわった。
転機は1926年に訪れた。1920年代末にはガンはアメリカ人の死因の2位にまで上昇していた。そこでリトルの研究を支援したのが、デトロイトの自動車販売会社の社長ロスコー・ジャクソンである。かくして1929年11月、メーン州バー・ハーバーにジャクソン研究所が設立される。だが研究所は設立された時点から苦難に見舞われた。開所の2週間前、ニューヨーク株式市場が大暴落し、アメリカ経済は大恐慌期に入ったのである。経営の危機におちいった研究所は、本来の設立目的であったガン研究から、マウスの商品化と大量供給へと重点を移していく。
 こうしてはじまったマウスの商品化を決定づけたのは、1930年代後半以降のアメリカにおけるガン研究の重点化である。1937年、連邦議会は国立癌研究所法を制定する。そこでリトルは、ガン研究におけるマウスの重要性を訴えるようになる。リトルの戦略は、二つの方向に向けられていた。まず医学者に向けては、近交系マウスは「実験室の棚に並ぶ化学物質」と同じように不可欠なものだと訴えた。同時に一般向けには、マウスは「ガンとの戦争」においてヒトの身代わりとして死んでいく戦士のイメージで語られた。ここで初めて実験用マウスに多元的な意味が付与されたことになる。この戦略は成功し、ジャクソン研究所は国立癌研究所へのマウスの供給を全面的に請け負うことになった。こうしてマウスは医学研究において、商品化された実験動物としての地位を確固たるものにしたのである。
 以上のようなレーダーの議論は、人と動物のあいだを考える上で、示唆に富む研究である。私たちは、人と動物の関係が文化によって異なることを知っている。人類学者や歴史家たちは、動物利用や動物観のあり方が、文化や時代によって大きく違っていることを明らかにしてきた。それに対して自然科学における人と動物との関係は、どの場所でも、どの時代でも変わらない普遍的なものであると私たちは考えてきた。しかしレーダーは、実験動物という一見普遍的に思える存在でさえ、20世紀アメリカのガン研究という文脈に依存していることを明らかにした。
 また、この研究は、実験動物の標準化と流通に注目した近年の科学史研究の動向を踏まえた仕事でもある。最近、多くの生物学史家がショウジョウバエや線虫などの実験動物の歴史に関心を持つようになった(2)。なぜなら実験動物は、「実験」という科学者の日々の営みに光をあて、実験室における知的生産のプロセスを浮かび上がらせるからである。レーダーの研究も、ガン研究の実験室にマウスが定着する過程を通して、アメリカにおける医学研究をめぐる社会的状況の変容を描いている。
 とはいえ、この論文に全く不満を感じないというわけではない。というのも、マウスが医学研究で利用されてきた場所はガン研究だけではない。毒性試験や薬理試験、感染実験、さらに1980年代以降は、遺伝子組み換え技術をもちいたモデル生物として使用されている。レーダーの研究は、ガン研究においてマウスが浸透していった過程は明らかにしているが、医学全体における実験動物の位置づけについては十分に記述されていない。また、実験動物の商品化と、現代の遺伝子・細胞の特許化や商品化との関係も、この論文ではほとんど論じられていない。つまり実験動物産業の歴史研究には、まだ多くの問題が積み残されている。マウスの歴史は語りはじめられたばかりなのである。


(1)邦語で読める実験用マウスの歴史としては、J. Gaudillier(廣野喜幸訳)「マウス」橋本毅彦ほか監訳『科学大博物館』(朝倉書店、2005年)、728-731頁;森脇和郎「実験用マウスの起源と発展」『自然』第36巻第3号(1981年)、58-68頁;勝木元也編『マウス』(共立出版、1997年)など。日本の動物実験産業の成立については、野村達次・飯沼和正『六匹のマウスから』(講談社、1991年)。なお、レーダーのより詳細な研究は以下を参照。K.A. Rader, Making Mice: Standardizing Animals for American Biomedical Research, 1900-1955, (Princeton: Princeton University Press, 2004).
(2)R.E. Kohler, Loads of the Fly: Drosophila Genetics and the Experimental Life, (Chicago: The University of Chicago Press, 1994) など。


『日本科学史学会第53回年会研究発表講演要旨集』(2006):19
日本科学史学会第53回年会シンポジウム「西洋近代科学諸概念・説の受容に際しての日本人の対応・理解度をめぐって」(東洋大学、2006年5月27日)

日本における進化論受容をめぐる歴史叙述の展開

大阪市立大学経済学部 瀬戸口 明久
Historiography of "Reception" of Darwinism in Japan
Osaka City University SETOGUCHI Akihisa

 本報告の目的は、日本において進化論の受容がどのように論じられてきたのか検討し、西洋科学の「受容」をめぐる歴史叙述のあり方について考察することである。したがって本報告では進化論の受容過程そのものをあつかうのではなく、受容史の語られ方というメタ的な分析をおこなう。これまで多くの論者が、日本の進化論は特殊な展開を遂げたと主張してきた。それらの議論では、次の二人の生物学者のどちらかがキーパーソンとして必ず言及されている。一人は日本に初めて本格的な進化論を紹介したとされるE.S. モース。そしてもう一人が日本独自の進化論を提唱されたとされる今西錦司である。本報告では、これら二人の評価をめぐる論争を紹介した上で、それらの科学史的言説を戦後日本における進化生物学の展開と関連づけて論じる。

1.草創期の進化論受容史:1940年代
 日本における進化論受容が歴史的な考察の対象となったのは、1940年前後のことである。上野(1939)、小泉(1943)など、この時期の進化論受容史は、モースを進化論の導入者と位置づけ、その「功績」を顕彰する歴史観のもとに記述されている。

2.進化論百周年と「歪曲」史観:1960年代
 ダーウィンとウォレスの進化論が発表されて百周年にあたる1958年には日本でも大規模な記念行事が開催され、進化論の導入をめぐる議論も活発化した。そのうち公式の記念論集では、再びモースの「功績」が高く評価されている(上野、1960)。しかしその一方で、日本における進化論は特殊な道筋をたどったとする主張も登場した(佐藤、1958;筑波、1959)。彼らはモースの粗雑な紹介によって、日本の進化論は「歪曲」されてしまったと論じている。こうした「歪曲」史観は、村上(1965)、渡辺(1976)らの科学史研究によって広く知られるようになった。

3.ネオ・ダーウィニズムの導入と「抵抗」史観:1980年代
 1990年前後には、戦後日本の生態学におけるネオ・ダーウィニズムの受容史が生物学者のあいだで大きな議論となった。1990年の国際生態学会で伊藤嘉昭は、日本の生物学への今西錦司の「寄与」を一定の留保をつけつつ評価する講演をおこなった。この講演に対して当時の若手生態学者らは激しく反発し、日本では今西錦司とルイセンコ学説という「抵抗」によってネオ・ダーウィニズムの受容が著しく遅れたとみなす歴史観を提示した。このような「抵抗」史観は、もともとは1980年代半ばにネオ・ダーウィニズム受容の当事者である生態学者らによって提唱されたものである(岸、1986)。

 以上のような検討をもとに、従来の進化論受容をめぐる科学史的言説の多くが「創始者神話(founder myth)」(Abir-Am, 1985)を構築する役割を果たしてきたことを指摘したい。


Symposium on Historical and Sociological Studies of Science and Technology Concerning Taihoku Imperial University (National Taiwan University, April 29, 2006)

Controlling Transmitters of Diseases

Transformation of the Metropolitan/Colonial Environment, 1920-1945
SETOGUCHI Akihisa
Graduate School of Economics, Osaka City University

The History of medicine reveals that controlling the transmitters of diseases often accompanies radical social transformation. For example, the establishment of a quarantine system to control the movement of humans was related to immigrant policies in the late nineteenth century. The rise of the modern metropolis enabled the control of waters as transmitters by establishing water supply networks. This paper deals with "insect pests" (衞生害蟲) as transmitters of diseases and argues how the social context of medicine enabled the control of insects possible in Japan.

In the late nineteenth century, insects became known as transmitters of tropical diseases such as filariasis and malaria. In addition, after the early twentieth century, flies became recognized as transmitters of intestinal diseases. However, even after these medical discoveries, the control of insects remained elusive for several decades in Japan. It was only after the early 1920s that insect pests were introduced on the political agenda.

In the early 1920s, Tokyo, Osaka and several other cities began projects to exterminate flies in order to prevent cholera. This project was part of metropolitan public health (都市衞生) program, which had been included in the social agenda in those days. Metropolitan governments mobilized citizens to collect and exterminate flies. On the other hand, the Government General of Formosa also attempted to control the mosquito vectors of malaria in the early 1920s. This project included monitoring the numbers of mosquitoes and destroying their habitat. The colonial government was attempting to transform the environments.

As a result, field medicine developed extensively in colonial Taiwan. In contrast to the metropolitan public health program, which centered on bacteriology, medical zoology (醫動物學) emphasized the natural history of disease. In the late 1930s, medical zoology was introduced in Taihoku Imperial University as a part of tropical medicine. When the Pacific War began in the 1940s, Taiwanese medical zoology helped in organizing research teams on harmful insects, which became the base of the Society of Medical Entomology (衞生昆蟲學會) in Japan.


身体医文化論研究会(感染と空間の詩学) / 慶應義塾大学 / 2005年12月21日

病気をもたらす虫

「伝播空間の制御」の誕生
瀬戸口明久(大阪市立大学経済学部)

 19世紀末から20世紀初頭にかけて、パトリック・マンソンによるフィラリアの媒介機構の解明(1879年)をはじめとして、さまざまな熱帯病が昆虫によって伝播されることが明らかにされた。しかしこれらの医学的知見が直ちに「伝播空間の制御」に結びついたわけではない。そこには伝播者をめぐって、科学・社会・文化が絡み合う複雑な物語が存在するのである。本報告では、おもに戦前期日本を対象にして、病気をもたらす虫をめぐる「伝播空間の制御」の成立過程を紹介したい。
 そもそも昆虫による病気の伝播には、生物的伝播と機械的伝播の二種類が存在することが知られている。生物学的伝播では伝播者(ベクター)のなかで病原体が増殖・繁殖などの生物的なプロセスを経るのに対して、機械的伝播の場合は病原体は伝播者(キャリアー)の体表に偶然付着して次の宿主に移動する。
 生物的伝播の研究は、19世紀末英国における熱帯医学の誕生によって開始された。その創始者の一人であるマンソンは、熱帯病は動物によって媒介される特殊なカテゴリーに属する病気であると定義づけている。一方、機械的な伝播者であるハエは、1910年代のアメリカにおける都市衛生の文脈で問題とされるようになる。
 日本においては1910年代以降、熱帯病研究が植民地台湾で本格化し、大都市における蠅取りキャンペーンも定着していった。それにもかかわらず日本では、英国や米国のように衛生昆虫学(medical entomology)が独立した分野として成立することはなかった。植民地統治下の台湾では、蚊の駆除のための大規模な動員に住民が反発し、早い時期にキニーネによる治療に重点が移行した。また内地においても、閉鎖的な医学者集団に昆虫学者が参入することは困難だったのである。
 こうした状況を大きく変えたのが、太平洋戦争の開戦によって登場した戦地マラリアの問題である。米国の場合は、昆虫学者を動員して有効性を発見した殺虫剤DDTを散布したことによって、太平洋戦線で勝利することができた。それに対して日本軍の方は、マラリア媒介蚊を制御できなかったことが敗因の一つになったとされる。しかし戦時動員は、日本における衛生昆虫学の研究体制の整備をもたらした。戦後、GHQが衛生政策を進める際には、これらの衛生昆虫学者たちが利用されていくことになる。このように現在の日本社会における「伝播空間の制御」は、都市衛生、植民地統治、戦時動員、占領政策といった複雑な歴史的な展開の産物といえるのである。


International Workshop on Globalization, Environmental Changes and Epidemic Diseases in Modern Asian History (Osaka International House, December 10, 2005)

From Medical Zoology to Sanitary Entomology

Colonial Medicine and Military Mobilization in the Japanese Empire

Akihisa Setoguchi (Osaka City University)

This paper discusses the emergence of disciplines around tropical diseases in Japan. In the Mansonian framework of tropical medicine, three specialties are involved in tropical diseases: medicine, parasitology and entomology. Although a German doctor (Eewin Baeltz) started parasitological research in Japan, it was a zoologist (Isao Iijima) who made a research school of parasitology. Makoto Koizumi, one of Iijima’s disciples, went to Colonial Taiwan and established the Laboratory of Medical Zoology in the Institute of the Government-General of Formosa. Although there was an entomologist in the Laboratory of Medical Zoology, he was never allowed to operate an independent laboratory, since the anti-parasite method was more important than controlling mosquitoes in Taiwan. The Pacific War brought the institutionalization of ‘Tropical Medicine’ as an integrated discipline in Taiwan. Furthermore, many entomologists were mobilized to study tropical diseases on the Japanese mainland, giving rise to the Society of Sanitary Entomology. After the Pacific War, although tropical medicine disappeared in Japan, parasitology and sanitary entomology were utilized to deal with domestic diseases.



『生物学史研究』76(2006):76-79.
生物学史分科会夏の学校(東京大学三崎臨海実験所、2005年9月10日)

ヒトゲノム計画の起源

米国の科学技術政策と国家安全保障

瀬戸口 明久(大阪市立大学経済学部)

J. Beatty, "Origins of the U.S. Human Genome Project: Changing Relationships Between Genetics and National Security," P. Sloan eds. Controlling Our Destinies: The Human Genome Project from Historical, Philosophical, Social and Ethical Perspectives (University of Notre Dame Press, 2000), 131-153.

 近年、生命科学と産業との関係は大きく変わりつつある。2002年7月、日本政府は生命科学研究の充実と産業化を目指す「バイオテクノロジー戦略大綱」を発表した。そこでは生命科学への重点的な予算配分、バイオ産業を育成するための知的財産制度の整備、産学連携の推進などが目標としてあげられている。もっともこれらの戦略は、米国ではすでに1980年代から実現しているものがほとんどである。
 このような動きに対し、医療への恩恵や経済の活性化が期待される一方で、問題点を指摘する声も少なくない。たとえば米国の科学論研究者シェルドン・クリムスキーは、生命科学と産業との結びつきが、科学研究のあり方をよからぬ方向へと向かわせているという。かつて社会学者ロバート・マートンが指摘したように、科学者集団では次のような理念が一般的だった。科学は普遍的な知識であり、公開され、共有されるべきである。また科学の確実性は、健全な懐疑性を持ち、利害を超越した科学者たちが探求することによって保証されている。しかしクリムスキーによれば、1980年代以降の生命科学の急速な産業化は、科学者のエトスを破壊してしまいつつある。こんにちの生命科学は一部の企業にとっては利潤をもたらすかもしれないが、かつてのように社会全体に貢献することが難しくなってしまったという(1)
 確かにクリムスキーの批判は傾聴に値する。しかしここでは、歴史的な背景が十分に論じられていないように思われる。つまり産業化が生命科学にもたらす弊害は詳細に論じられているが、そもそもなぜ生命科学の産業化がもたらされたのかという歴史的な経緯は、ほとんど分析されていないと言ってよい。なぜ米国は1980年代以降、生命科学の産業化を強力に推進する政策をすすめたのだろうか。
 この時期の米国の生命科学政策を象徴するのが、1987年に開始されたヒトゲノム計画である。そこで本稿では、ヒトゲノム計画の起源をあつかった論考を紹介することにしたい。このテーマについては、R. クックディーガンの詳細な先行研究『ジーン・ウォーズ』(化学同人、1996年)がよく知られている。だがここで紹介するのは、カナダの生物学史・生物学の哲学者ジョン・ビーティによる新しい視点にもとづく研究である。ビーティは戦後すぐに開始された人類遺伝学のプロジェクトABCCの比較を通して、ヒトゲノム計画を米国の安全保障政策のなかに位置づけようとする。
 ABCC(原爆被害調査委員会)とは、広島・長崎の被爆者の遺伝的な変異を調査するため、原子力委員会(AEC)の後援で設置された日米共同プロジェクトである(2)。ビーティによると、ABCCの意義を十分に理解するためには、その外交上の役割を考慮に入れなければならない。しばしば指摘されるように米国の占領政策は、冷戦の勃発によって非軍事化・民主化路線から、日本を西側諸国の一員とする反共・経済復興路線へと転換した。じつはABCCも、後者の路線の一つとして位置づけることができる。この時期の米国の対外的な科学技術政策に大きな影響を与えたバークナー報告(1950年)は、国際的な科学研究プロジェクトは共産主義の封じ込めにとって極めて有効な手段であると述べている。というのも科学者たちは普遍的な知識をあつかい、国際主義を基本的な理念としている。そのためたとえ国籍が違っても容易にうち解け、親密に交流することが可能である。さらに科学が発達して経済的な復興がもたらされれば、社会秩序の安定にもつながるだろう。したがって西側よりの社会をつくるためには、まずは科学者間の交流を活発にすることからはじめるべきである。
 このような目論見のもと、1950年代の米国は積極的に国際的な科学研究プロジェクトを立ち上げた。ABCCも含めて、日本に向けられた外交戦略も少なくない。たとえば1951年には著名な遺伝学者H.J. マラーが来日している。これは当時日本で席巻していたルイセンコ主義をしずめ、メンデル遺伝学を支援することが目的であったという。幸いなことに、ルイセンコ派の牙城だった京都大学でおこなわれたマラーの講演は大成功をおさめた。また1961年からはじまった日米科学技術協力も、安保騒動に恐れをなした米国が、左傾化した科学者たちを西側よりに引き寄せるために立案されたプロジェクトだった。つまりABCCや日米科学技術協力は、極東地域における安定という広い意味での国家安全保障のためのプロジェクトだったのである。ビーティはこのような外交戦略としての遺伝学プロジェクトを「遺伝外交」(genetic diplomacy)と呼んでいる(3)
 一方ヒトゲノム計画は、1980年代半ばにエネルギー省(DOE)が提唱して開始されたプロジェクトである。ここで注目すべきはヒトゲノム計画がABCCの直接の後継として立案された事業であったことだ。DOEはAECが廃止されたあと、原子力関係の事業を引き継いだ官庁である。また立案当初のゲノム計画の目的は、被爆者の遺伝的な変異をDNAレベルで分析することであった。この目標は、ヒトゲノム計画の主導権が保健省(NIH)に移り、1990年代に国際的な塩基配列解読プロジェクトへと発展する過程で忘れ去られていく。したがって、原子力との関係という点においては、ABCCとヒトゲノム計画との連続性は途切れてしまったと言ってよいだろう。
 しかし、科学研究プロジェクトと国家安全保障との関係という点に注目すれば、ABCCとヒトゲノム計画のあいだには明確な類似性が存在するとビーティはいう。ただし抑えておかなければならないのは、80年代の国家安全保障の意味合いが、ABCCの時代のそれとは大きく変容しているということである。80年代後半の冷戦の終結によって、ソ連の脅威は米国にとってそれほど差し迫ったものではなくなった。代わって問題となったのが、当時急成長を遂げていた日本の経済力である。1988年に改訂された日米科学技術協力協定は、この時期の日米関係の変容を端的に示している。この協定では、知的所有権の保護という条件付きの交流が求められ、かつてのような自由な科学者の交流は抑制されたのである。
 この頃、生命科学研究における日本の脅威が、ヒトゲノム計画への資金提供を審議する連邦議会において頻繁に語られている。ハイテク産業と同様にバイオ産業においても、日本が米国の基礎研究にただ乗りし、産業的な応用研究を発展させることが恐れられたのである。この風潮を象徴する事件が、NIHのゲノム計画を率いるJ. ワトソンが1989年に日本側に送った手紙である。この手紙でワトソンは、日本が米国などのゲノム計画にただ乗りして応用研究をすすめるつもりならば、プロジェクトからの研究成果を渡すことはできないと脅し、日本政府にゲノム計画への資金提供を迫ったのである(4)
 さて、ここで冒頭にあげた問いに戻ろう。なぜ米国は1980年代に生命科学を強力に推進したのだろうか。ビーティによれば、冷戦の終結による新しい国家安全保障上の問題の登場が、ヒトゲノム計画を後押しする役割を果たした。すなわち日米経済摩擦である。ヒトゲノム計画とは、少なくとも部分的には、米国内のバイオ産業の競争力強化のためのプロジェクトであった。このような産業界を守るための政策もまた、広い意味での国家安全保障とみなすことができる。
 もっとも、冷戦の終結がヒトゲノム計画にとって重要であるとする指摘そのものは、決して目新しいものではない(5)。むしろビーティの議論が有益なのは、広い意味での安全保障という視点を導入することによって、冷戦期の生命科学をめぐる新しい歴史像が見えてくる点にある。この時期の科学技術政策を理解するためには、軍産学複合体という狭い意味での国家安全保障の枠組みだけでは不十分である。国際的な科学協力を通じて米国との親和性を高めるという、科学プロジェクトの文化外交としての側面にも注目しなければならない(6)
 となると、クリムスキーの批判も一歩進めて考察することが必要になってくるのではないか。クリムスキーは、普遍性、共有性、国際主義といった1970年代以前の科学者のエトスを賞賛していた。しかし、そのような科学のあり方が維持され続けたのは、それが冷戦下の国家安全保障にとって有用だったからである。冷戦の終焉によって、従来型の科学者のエトスは国家安全保障にとっては意味を持たなくなった。そのため、ワトソンの手紙に典型的に見られるように、ポスト冷戦下の生命科学においては、科学の公開性と国際主義の精神はしばしば容易に踏みにじられてしまうことになる。
 クリムスキーが言うように、現在すすみつつある生命科学の産業化は大きな問題をはらんでいる。だが冷戦期の科学者のあり方を無条件に理想化してしまうと、「非政治的な科学」の政治的な意味合いを見失ってしまう可能性があるのではないだろうか。


(1)S. Krimsky, Science in the private interest : has the lure of profits corrupted biomedical research? (Rowman & Littlefield Publishers, 2004). 科学に限らず大学の産業化一般を問題にしたものとしては、デレック・ボック(宮田由起夫訳)『商業化する大学』(玉川大学出版部、2004年)を参照。こうした科学者の産業界への取り込みのほかに、生命特許などを通じた人体資源の私有化という論点も問題になっている。粥川準二氏の論考(本号掲載)などを参照。
(2)ビーティは次の論文でより詳細にABCCについて論じている。J. Beatty, "Scientific Collaboration, Internationalism, and Diplomacy: The Case of the Atomic Bomb Causalty Commission," Journal of the History of Biology, 26 (1993): 205-231. ABCCについては、M.S. Lindee, Suffering Made Real, (The University of Chicago Press, 1994); 笹本征男『米軍占領下の原爆調査』(新幹社、1995年)などを参照。
(3)米国側の遺伝学者は京大でのマラーの講演を成功としているが、管見では、この講演がルイセンコ派に大きな影響を与えた形跡を見いだすことはできなかった。日米科学技術協力については、中村禎里『危機に立つ科学者』(河出書房新社、1976年)、37-46頁;中山茂「日米科学技術協力」後藤邦夫・吉岡斉編『通史日本の科学技術 第3巻』(学陽書房、1995年)所収が有用。米国の軍産学複合体に巻き込まれるとする当時の日本の左翼勢力の批判は、科学協力の文化外交としての側面を見落としていたため全く無力であった。
(4)ワトソンの手紙については、岸宣仁『ゲノム敗北』(ダイヤモンド社、2004年)第3章に詳しい。
(5)たとえばD.J. ケヴルスは、冷戦の終結によるビッグ・プロジェクトの変容について論じている。D.J. Kevles, "Big Science and big politics in the United States: Reflections on the death of the SSC and the life of the Human Genome Project," Historical Studies in the Physical and Biological Sciences, 27 (1997): 269-297.
(6)こうした側面については、これまであまり注目されてこなかった。戦前期日本において科学を文化外交の道具として利用した事例としては上海自然科学研究所がある。加藤茂生「上海自然科学研究所の設立構想─大正期における科学と対外文化政策の一側面─」『年報 科学・技術・社会』第6号 (1997年)、1-34頁。


『動物観研究会公開ゼミナール2004』pp.15-16.
動物観研究会第7回公開ゼミナール(東京農工大学,2004年12月12日)

害虫・益虫をめぐる動物観

瀬戸口 明久(日本学術振興会特別研究員)

 江戸時代までの日本には「害虫」という言葉がなかった。もちろん当時の日本に害虫がいなかったわけではない。ウンカのような農業に被害を与える昆虫は、おそらく稲作がはじまった当初から存在していただろう。また農民たちも、これらの昆虫を十分に認識していた。だが彼らは、これらの虫を「害虫」ではなく、「稲につく虫」という意味の「蝗(いなむし)」や、単に「虫」と呼んでいた。つまり近世までの日本には、人間にとって有害な昆虫を総称する「害虫」というカテゴリーは存在しなかったのである。そればかりか当時の農村では、害虫が発生しても何ら対処しようとしない者が少なくなかった。害虫を人間の手で排除すべきものとみなす動物観は、日本では近代に入ってから定着した新しい価値観なのである。
 もっとも、害虫を駆除する技術そのものは、江戸時代以前から存在している。たとえば水田に油を撒いて害虫を窒息死させる注油駆除法は、17世紀末に発見され、19世紀初頭までに全国に普及していった。その一方で、害虫は人間の手で制御することはできないと考える人々も、決して少なくはなかった。これらの人々は、虫送りのような神頼み的な行事だけをおこない、人為的な駆除をやろうとはしなかった。というのも彼らは、害虫が発生する原因はたたりや神罰であると考えていた。たとえば西日本の多くの地方には、害虫は源平合戦で戦死した斎藤実盛のたたりとする伝承がある。また、気候や風向きによって虫が沸いてくると考える自然発生説も、広く信じられていた。害虫の原因がたたりや自然発生ということになると、天災と同じく、人間は害虫を制御できないということになる。そのため多くの人々が、神頼み的な手段に頼りきっていたのである。
 以下では、近代日本において、「害虫・益虫」は人為的に制御されるべきとみなす動物観が定着していった過程を明らかにする。

1.「害虫」をめぐる動物観
 明治政府が害虫防除に本格的に取り組み始めたのは、ようやく明治中期になってからのことである。田圃虫害予防規則(1885年)や害虫駆除予防法(1896年)が制定されたことによって、害虫駆除をおこなわない者は逮捕され、拘留・罰金によって処罰されることになった。それにもかかわらず、相変わらず害虫の原因はたたりや気候であると信じ、虫送りや駆虫札に頼る農民は少なくなかった。彼らは、人間の力で害虫を減らすことができるという発想自体を持っていなかったのである。そのため、害虫は人為的に排除されるべきとする動物観を、教育・啓蒙によって広めていく必要があった。
 そこで重要な役割を果たしたのが、岐阜の民間昆虫学者名和靖(1857-1926)である。名和は岐阜県農学校を卒業した後、1896年に私費で名和昆虫研究所を設立している(現存)。また、名和は月刊誌『昆虫世界』(1897-1946)を発行し、帝国大学や農商務省の昆虫学者たちと密接な交流を持っていた。その一方で名和は、農村を巡回して虫送りなどの神頼み的な方法を批判し、科学的な知識にもとづいて害虫防除をおこなうべきとする「昆虫思想」を説いていった。1899年以降は、「全国害虫駆除講習会」を毎年開催し、全国から集まった農村の指導者たちに「昆虫思想」を教育している。それぞれの農村に帰った指導者たちは、たたりのような古臭い害虫観を否定し、「昆虫思想」という新しい価値観を広めていくことになる。
 もっとも名和は、従来の害虫観を完全に否定したわけではなかった。江戸時代の日本では、虫送りや害虫駆除をおこなった際、虫塚と呼ばれる一種の供養塔を建てる習慣があった。名和は各地に残る虫塚の保存を呼びかけ、自らも仏教界の協力を得て「駆虫之碑」を建立している。このように名和は、害虫防除にとって有用な風習は積極的に評価しつつ、人為的に排除すべき対象としての「害虫」という新しい動物観の普及をすすめていったのである。(本節について詳しくは、拙稿「害虫観の近代」上田哲行編『トンボと自然観』(京都大学学術出版会、2004年)を参照。)

2.「益虫」をめぐる動物観
 「害虫」という言葉が存在しなかった江戸時代には、当然「益虫」という用語も使われていない。一部の地域では虫を捕食するトンボやツバメを保護していたが、有益な昆虫を一括して保護しようとする試みは、近世までの日本には見られなかった。だが明治時代に入ると、益鳥の保護が呼びかけられたり(農商務省訓令、1891年)、益虫保護器が開発されたりするようになる。また、前節で見たような害虫を排除すべきとする動物観の普及にともなって、害虫を補食する益虫を保護すべきとみなす価値観も広まっていった。
 さらに明治末期になると、外から人為的に益虫を持ち込む生物的防除(天敵移入)という新しい害虫防除技術が導入された。生物的防除は、1889年にカリフォルニア州で劇的な成功を収めたことによって各国に広まり、日本でも1909年に台湾に、その2年後には静岡県にベダリアテントウが移入されている。しかしこれ以降、日本における生物的防除は下火になっていった。農林省が天敵研究を専門とする昆虫学者を採用したのは、ようやく1927年になってからのことである。
 このような状況の中、益虫の有用性を人々に印象づけたのは、天敵探索のため来日した外国の昆虫学者であった。彼らは自国に天敵を移入するため、日本の農民たちを雇って益虫を収集させている。また彼らの活動は、一般のメディアにもしばしば登場した。たとえば1909年に日本から寄生蜂が導入された米国農務省のマイマイガ防除事業は、「日本昆虫軍の米国遠征」と大きく報道されている(『讀賣新聞』1909年5月11日)。このような虫と虫との戦いは、じつは日本では、室町時代から異類合戦物と呼ばれる物語群でたびたび描かれてきたテーマである。つまり、「害虫」と戦う「益虫」を人為的に保護すべきとみなす近代的な価値観は、日本の伝統的な動物観と重なり合うようにして浸透していったと言えるだろう。


『生物学史研究』74(2005):97-100.
生物学史分科会夏の学校(おくたま路、2004年8月24日)

生物学を統合する

瀬戸口 明久

V.B. Smocovitis, Unifying Biology: The Evolutionary Synthesis and Evolutionary Biology, (Princeton: Princeton University Press, 1996).

 進化の総合説とは何だったのだろうか。これまでの歴史研究では、総合説とは遺伝学者とナチュラリストの相互作用によって形成されたとされてきた。まず1920年代後半、ロシアのチェトヴェリコフやイギリスのフォードらによって、野外集団遺伝学的な研究が発達した。続いて1930年代から50年代にかけて、遺伝学者のドブジャンスキー、古生物学者のG.G. シンプソン、分類学者のマイヤーなどによって、こんにちネオ・ダーウィニズムと呼ばれる進化理解の枠組みが提示されることになる。さらに、J. ハックスレーの『進化:現代の総合説』において、進化の「総合」という用語が初めて使われた(1)
 このように総合説は多様な分野に出自を持つ多数のアクターによって構築されたため、その形成史をたどるのは容易ではない。そればかりか、統一的で体系だった「理論」や「学説」と見なすことができるかどうかさえ疑わしい。となると、学説や思想の影響関係を丹念にたどる従来の理論史や思想史の枠組みだけでは、総合説を十分に理解することはできないのではないだろうか。ここで紹介するのは、米国の科学史家V.B. スモコヴィティスによる新しい視点にもとづく総合説の歴史研究である。スモコヴィティスは近年の科学論の展開を踏まえ、新しいヒストリオグラフィーのもとに総合説を記述しようとしている。著者によれば、総合説とは「生物学を統合する」(Unifying Biology)ことを目指す一連の運動として理解されるべきであるという。
 本書は、これまでの総合説をめぐるヒストリオグラフィーを丹念に検討した第一部と、実際に総合説の成立過程を分析した第二部、著者自身のヒストリオグラフィーについて再考した第三部から構成される。ここでは、著者の視点が存分に発揮されている第二部を中心に紹介することにしたい。スモコヴィティスの論点を評者なりにまとめれば、以下の3つをあげることができるだろう。
 まず第一に著者は、総合説を生物学を統合しようとする一連の物語り(narrative)のなかに位置づけようとする。19世紀末までに、生物諸科学は基礎研究だけでなく、医学や農学など広範囲の分野で制度化していった。それにもかかわらず、統一的な「生物学」と呼べるものは、知識体系としても学会組織としても存在しなかったという。そこで1920年代から50年代にかけて、「生物学を統合」し、物理学や化学のような統一的な学問に作りかえようとする動きが出てくる。その出発点として著者があげるのが、J.H. ウッジャーの『生物学の原理』(1929年)である。ウィーン学団の統一科学運動に影響を受けたウッジャーは、生物学は形而上学的段階から脱し、公理主義にもとづく統一的な科学となるべきだと考えていた。このような思想を持っていたのはウッジャーだけではない。J.S. ホールデン、J.C. スマッツ、J. ハックスレーやW.M. ホイーラーなど、生物学思想に関心を持つ英米圏の生物学者に広く共有されていた考えだった。
 1937年のドブジャンスキー『遺伝学と種の起源』にはじまる「コロンビア生物学シリーズ」の出版は、進化研究を軸とした生物学の「統合」への機運を高める役割を果たした。マイヤー(1942年)、シンプソン(1944年)、ステビンズ(1950年)らによって執筆されたこのシリーズが、いわゆる総合説を作り上げることになる。これらの著者たちは、ドブジャンスキーの議論を積極的に援用し、異なる分野をつらぬく共通の枠組みを作り上げていった。さらに、J. ハックスレーの『進化:現代の総合説』は、総合説を中心とする「生物学の統合」を広範囲の読者に印象づけることになる。
 ここで重要なのは、総合説の建設者たちがウッジャーらの影響を直接に受けたわけではないということである。スモコヴィティスは、生物学者たちの思想の影響関係をたどる従来のヒストリオグラフィーを採用していない。総合説の成立において、「生物学を統合」しようとする語りが重要な役割を果たしており、そういった言説はウッジャーらの議論の延長線上に位置づけられる、というのが著者の主張である。こうした歴史の書き方については異論もあるだろう。実際、従来の理論史の立場にたつ歴史家からは、スモコヴィティスへの批判も出ている(2)
 さて、本書の二つめの論点は、総合説を中心に「生物学の統合」を目指す運動の制度的な基盤を明らかにしていることである。1940年には種分化学会が設立され、43年には国家研究評議会(NRC)のもとに遺伝学・古生物学・分類学委員会が設置される。さらに、これらの団体が母体となって、1946年にはマイヤーを会長とする進化学会(SSE)が設立された。翌年には学会誌Evolutionも発刊され、進化研究にたずさわる多様な分野の研究者たちが集う場所ができあがった。また、「進化生物学」という分野が登場したのも、この時期のことである。ここでもJ. ハックスレーが重要な役割を果たしている。それまで「進化研究(evolutionary studies)」と呼ばれていたものの代わりに、「進化生物学(evolutionary biology)」という新しい分野の成立を宣言したのである。1958年にはE.O. ウィルソンによって、初めて「進化生物学」のコースがハーバード大学に導入されるにいたった。
 本書の第三の論点は、総合説の成立後の歴史的な回顧や科学史的な研究もまた、「生物学を統合する」という一連の物語りの一部であるという主張である。1959年の『種の起源』100周年の前後には、ネオ・ダーウィニズムの枠組みからダーウィンを再評価する言説が数多く登場する。そこではダーウィンを、進化生物学の「創始者」、「生物学のニュートン」として位置づけていた。また、1980年代に断続平衡説や中立説によって総合説の枠組みにほころびが生じると、コロンビア生物学シリーズの復刊や、マイヤー自身による歴史書など、総合説を再評価する著作が次々と発表されるようになる(3)。さらに著者は、1960年代以降の生物学史や生物学の哲学の確立もまた、「生物学の統合」にとって重要な役割を果たしたと考えている。
 最後に、以上のような総合説の新しい歴史理解が、日本における総合説の受容に何を示唆するか簡単に述べておこう。これまで日本におけるネオ・ダーウィニズム受容については、岸由二氏の「鎖国」「黒船」モデルが広く受け入れられてきた。このモデルによれば、総合説の進化理解は日本でも直ちに遺伝学者らによって受容され、ネオ・ダーウィニズムの枠組みにもとづく集団遺伝学的な研究が開花した。その一方で、生態学者たちは1980年代の社会生物学という「黒船」が来航するまで、英米圏の進化生物学の展開から「鎖国」状態にあったという(4)
 スモコヴィティスの歴史叙述を踏まえて考えると、「鎖国」「黒船」モデルの問題点として、次の二つをあげることができる。第一に、従来の歴史叙述では理論の受容のみに注目しており、総合説を中心に「生物学を統合」しようとする動きや、進化生物学の制度的な側面にはあまり注意を払っていない。第二に、なぜ受容が遅れたかという「鎖国」状態の内実については詳しく分析されているが、なぜ80年代に入って急速に受容が進んだのかという問題については、十分に説得的な議論がされていない(5)
 実際に80年代における日本の進化生物学の状況を振り返ると、たんに「黒船」による「開国」という生態学界内部の変化だけでは説明できないほど、急速な展開を見せている。1985年には若手生態学者たちによって進化生物学の雑誌が発刊され(Networks in Evolutionary Biology)、フツイマの教科書『進化生物学』も翻訳された(1990年)。さらに89年には分子進化の研究者を中心に「進化学研究会」が結成され、日本進化学会の設立(1999年)への機運を高めた。このように日本では1980年代末以降、進化研究を中心とした「生物学の統合」が進展しつつあるといえるだろう。


(1) ボウラー『進化思想の歴史 下』(朝日新聞社、1987年)、505-511頁;太田邦昌「集団遺伝学の成立」中村禎里編『20世紀自然科学史7』(三省堂、1983年)。総合説をめぐる先行研究については、三中信宏「The Evolutionary Synthesisを再考するための文献リスト」(http://cse.niaes.affrc.go.jp/minaka/files/EvoSyn.html、2001年)が参考になる。
(2) J. Cain, "Woodger, Positivim, and the Evolutionary Synthesis," Biology and Philosophy, 15 (2000): 535-551.
(3) E. Mayr and W. Provine eds., The Evolutinary Synthesis: Perspectives on the Unification of Biology, (Harvard University Press, 1980).
(4) 岸由二「現代日本の生態学における進化理解の転換史」柴谷篤弘・長野敬・養老孟司編『進化思想と社会』(東京大学出版会、1991年)、153-198頁。日本の古生物学や分類学がネオ・ダーウィニズムとどのように対峙したかについては、これまで歴史的な検討がなされていない。なお、「鎖国」「黒船」モデルへの予備的な検討については、次の拙稿を参照。「日本における進化論の導入」『生物科学』第56巻第1号(2004年)、23-30頁。
(5) 従来の英語圏の総合説史研究でも、「なぜ総合が遅れたのか」という問いばかりが繰り返されてきたという。Smocovitis, Unifying Biology, pp.59-60.


『動物観研究会公開ゼミナール2003』pp.13-14.
動物観研究会第6回公開ゼミナール(東京農工大学,2003年11月30日)

サルをめぐる動物観と生物多様性保全 

―和歌山県におけるタイワンザル問題をめぐって―

瀬戸口 明久(京都大学大学院文学研究科)

 1990年代末以降、生物多様性保全を目的とする移入種排除事業が各地ではじまりつつある。そこで哺乳類が駆除の対象となっている場合、排除を支持する自然保護派と、それにともなう安楽死に反対する動物愛護派とが鋭く対立することがある。このような対立は、環境倫理学の文脈では全体論的環境倫理学と動物解放論の論争の一つと見なされ、それぞれの価値観の正当性について詳細な検討がおこなわれている。
 しかしながら現実の移入種問題を理解するためには、これら二つの価値観のみを検討しても十分とは言えない。なぜなら人々が移入種に対して持つ価値観は、決してこの二つだけに限られないからだ。現在、移入種問題のほとんどは、「保護」と「愛護」の二者間の対立ととらえられているが、実際には多様な価値観の複雑なせめぎあいであることが多い。したがって、移入種に対する複雑で多様な価値観(=動物観)の一つ一つをより詳細に検討することが必要となる。
 本報告では、近年の移入種問題のなかでもとりわけ激しい論争となった和歌山県におけるタイワンザル根絶事業を取り上げる。ここでも注目が集まったのは、安楽死をめぐる「保護」と「愛護」の対立であった。しかし実際のサルをめぐる動物観の構造は単純な二項対立というよりも、むしろ多元的な対立であったことを以下では明らかにする。
生物多様性保全の動物観:ゲノム時代の動物観 まず、タイワンザルの駆除を支持した生物学者たちの動物観について検討してみたい。彼らはタイワンザルが排除されなければならない理由として、ニホンザルとの雑種化が問題であると主張している。このような移入種と在来種との交雑は「遺伝的汚染」と呼ばれ、生物多様性を破壊する最も重大な移入種問題の一つとされている。
 動物の雑種化を問題視する価値観の歴史は意外と古い。たとえば日本では、昭和初期に移入されたコウライキジや、1970年代にニッポンバラタナゴと交雑していることが判明したタイリクバラタナゴなどが問題になったことがある。しかし「遺伝的汚染」は、これら従来の雑種化問題とは二つの点で大きく異なっている。第一に「遺伝的汚染」では、これまでまったく問題にされなかった同種内の雑種化も、異種間交雑と同様に避けるべき事態であると考えられている。生物多様性には種内の遺伝的多様性も含まれるため、たとえ同種であっても地理的な変異を保存しなければならない。第二に、たとえ雑種化によって目に見える形態的な変化が起こらなかったとしても、遺伝的には十分に「汚染」されたと見なされる。現在、駆除がすすめられている和歌山県の群れのなかにも、ニホンザルとまったく見分けがつかない交雑個体が含まれるため、血液検査をおこなって排除すべき個体を選別している。
 このように生物集団の遺伝子レベルの違いに価値を置く動物観を、ここでは「ゲノム時代の動物観」と名づけよう。
一般市民の動物観:擬人化の動物観 次に一般市民の動物観について検討する。まず、タイワンザル根絶事業に対して最も強硬に反対した動物愛護団体の多くは、じつは雑種化が生物多様性に悪影響をおよぼすことには同意している。つまり彼らは排除派の人々と「ゲノム時代の動物観」を共有しているのである。それに対して、「ゲノム時代の動物観」を積極的に拒否する市民も存在した。雑種化は何ら問題ではないと考えた人々である。彼らはタイワンザルとの雑種化が形態的な変化をほとんどもたらさないにもかかわらず「汚染」と呼ばれるのを疑問視している。また彼らの多くは、「ゲノム時代の動物観」を人間社会にあてはめると偏狭なナショナリズムに結びつくとして警戒した。
 これらの人々の主張は、これまでの日本における移入種論争ではほとんど無視されてきた。だが英語圏においては、移入種の排除が持つナショナリスティックな含意を指摘する論者は決して少なくない。そのうち最も有用と思われるのが、社会学者のG.A. ファインらの議論である(Fine & Christoforides, 1991)。彼らは1870年代の米国におけるイングリッシュ・スパローの問題を検討し、当時の生物学者が移民問題を頻繁に引用することによって、移入種問題への社会の注目を喚起することに成功していることを明らかにした。本来、動物に対する価値観と人間に対する価値観はまったく別物である。それにもかかわらず、メタファーとしてお互いに引用しあうことにより、両者が密接な結びつきを持ってしまうことがある。つまり、「ゲノム時代の動物観」の持つナショナリスティックな含意に警戒した人々は、タイワンザルの排除が人間社会のあり方をめぐる議論においてメタファーとして利用されることに危機感を抱いたのである。
 もっとも、メタファーが社会的な効力を持つためには、ある程度の条件が必要である。タイワンザル問題の場合、動物観と人間観とが結びつきやすい条件がそろっていたと考えられる。まず、「純血」を守るために「混血」を排除するという表現や、生物名にたまたま国名が含まれていたことが、人間社会との連想を容易にしただろう。だが何よりも、サルのなかにヒトを読み込み擬人化する動物観がわれわれの文化のなかに根強く存在することが、両者の結びつきを強めた最も大きな要因である。このような「擬人化の動物観」は、動物愛護団体も含めて一般市民の多くに共有されている。
結び こうした「擬人化の動物観」は、生物学者の多くからは感情的な反応として批判された。しかし、このような動物観は、部分的には生物学者自身によって強化されたものでもあるのだ。草創期の日本の霊長類学は「擬人化」を特徴とする研究手法を開発し、一般向けの啓蒙書を多数出版することによってサルに対する「擬人化の動物観」を日本社会に定着させた。だが1980年代以降、霊長類学者の多くは「擬人化の動物観」を捨て、「ゲノム時代の動物観」へと移行していく。その結果、サルに対する一般市民と専門家の動物観のあいだには大きなズレが生じてしまったのである。タイワンザル問題をめぐる対立は、そのようなズレの一つであったと言えよう。
 以上のように移入種をめぐる動物観の対立は、決して「自然保護」vs.「動物愛護」という単純な構造ではない。さまざまな移入種問題における表面的な論争の深層にひそむ多様な動物観の複雑な関係を検討することが、今後の動物観研究の課題であろう。


『科学技術社会論学会第2回年次研究大会予稿集』(2003):87-88.
科学技術社会論学会第2回年次大会一般講演(神戸大学、2003年11月16日)

〈 害虫 〉の誕生

―近代日本における昆虫をめぐる民衆知と科学知―

瀬戸口 明久(京都大学大学院文学研究科)

はじめに
 「害虫」は、いつ、どのようにして誕生したのだろうか。この問いに対するもっとも一般的な答えは、有史以前に人類が農業という営みをはじめたときに「害虫」も生まれた、というものである。たしかに農作物に害を与える昆虫そのものは、農業が成立した時点から存在していただろう。だが、今日われわれが用いる「害虫」という言葉には、たんに「害を与える昆虫」という以上の意味が込められてはいないだろうか。つまり、さまざまな種類の有害昆虫を「害虫」と名づけてひとくくりにし、それらの虫を人為的に排除することが含意されているのである。本報告では、このような害虫観は日本では近代に入ってから成立したことを示したい。
 そもそも「害虫」という言葉自体が、明治中期になってから定着した用語である。江戸時代、今日の害虫にあたる虫類は、たんに「虫」、あるいは「蝗」と呼ばれていた。後者は「いなむし」と読み、おもにウンカ類を指している。つまり近世までは、排除されるべき虫を総称する「害虫」というカテゴリーは存在しなかったと言えよう。以下では近代日本において「害虫」が誕生した過程を分析し、そこで近代科学が果たした役割を明らかにする。

近世の害虫観
 近世の人為的な害虫防除法としては、17世紀末に発見され、19世紀に普及した注油駆除法が有名である。だがその一方で、虫送りや虫除け札に頼る呪術的防除も広範囲でおこなわれていた。これらの神頼み的な方法を支えたのは、害虫の発生要因は神罰やたたりであるとする害虫観だった。たとえば西日本で広く普及していた伝承として、害虫の発生は稲株に蹴つまずいて討ち取られた斎藤実盛のたたりとするものがある。さらに、近世まで広く信じられていた虫の自然発生説も、人為的防除の普及を妨げていた。江戸時代の本草書のほとんどが、多くの虫が湿気から生じると論じている。また、気候の変化によって虫が沸くとする記述も少なくない。害虫が湿気や気候によって発生するならば、虫害は気象現象と同じようなものとなり、人為的な操作の対象外になる。そのため近世までの農民の多くは、神頼み的な害虫防除に頼っていたのである。

名和靖と「昆虫思想」
 明治政府は維新直後からいくつかの害虫防除事業をおこなっているが、本格的に害虫対策に取り組むようになったのは明治中期になってからのことである。1885年、政府は各府県に「田圃虫害予防規則」の制定を義務づけ、規則の違反者は拘留・罰金によって処罰することを定めた。さらに1896年には「害虫駆除予防法」も制定され、農家に害虫防除を強制的に実行させる体制が強化された。このような強権的な防除政策にもかかわらず、気候によって虫が沸くと信じて害虫防除に熱心でない農民が少なからず存在した。そのため彼らが自主的に害虫防除をおこなうように、昆虫に関する科学的知識を教育する必要があったのである。
 そこで重要な役割を果たしたのが、岐阜の民間昆虫学者、名和靖(1857-1926)である。名和は岐阜県農学校を卒業後、帝国大学で半年間動物学を学んだほかには専門教育を受けていない在野の研究者である。1896年、名和は岐阜県尋常師範学校を退職して名和昆虫研究所を設立した。政府はこの研究所を官立農事試験場と並ぶ重要な研究機関とみなし、運営を補助するための資金を提供している。また、研究所は当時唯一の昆虫学専門雑誌『昆虫世界』を発刊し、アカデミズムの昆虫学者とも密接な関係を持っていた。
 名和は虫送りや虫除け札のような神頼み的防除を激しく非難し、すべての農民は科学的知識にもとづく自主的な害虫防除をおこなわなければならないと主張した。このような考え方を名和は「昆虫思想」と呼び、その普及につとめている。たとえば1919年には、研究所が所蔵する膨大な昆虫標本の一部を展示して名和昆虫博物館(現存)を設立した。また、名和は全国各地を巡回して害虫駆除講習会を開催している。とりわけ1899年から研究所内で開催した「全国害虫駆除講習会」は、1944年まで毎年続けられ、のべ2300人の生徒が受講した。全国から集まった受講者のなかには農業関係者だけでなく、小学校教師などの教育関係者も多く見られる。名和は初等教育が「昆虫思想」の普及に重要な役割を果たすと考えていた。そのため、戦前期までの小学生は昆虫学知識を日常的に学び、実際に害虫駆除に動員されることも多かったのである。このようにして排除されるべき虫としての「害虫」という概念が普及していった。

「衛生害虫」の誕生
 現在、「害虫」というカテゴリーには、前節で見たような農業害虫だけでなく、人体に害をもたらす昆虫も含まれている。蚊やハエ、ノミやシラミなど、病気を媒介するこれらの昆虫は、「衛生害虫」と呼ばれている。
 昆虫が病気を媒介することが知られるようになったのは、そう古いことではない。最初に発見された昆虫媒介性疾病は、1879年に蚊が媒介することが明らかになったフィラリアである。その後、テキサス熱(ダニが媒介、1889年に発見)、マラリア(蚊、1898年)、黄熱病(ネッタイシマカ、1902年)、ペスト(ノミ、1908年)、発疹チフス(シラミ、1909年)などを虫が媒介することが明らかになった。さらに1910年代には、ハエがチフスや赤痢、コレラなどを媒介することが知られるようになり、社会問題となっていく。
 日本においてハエによる病気の媒介が問題になったのは、大正期に入ってからのことである。1916年、収束しつつあったコレラが久しぶりに大流行し、警視庁はハエの駆除を求める告諭を発表した。また、翌年には内務省が各府県にハエの駆除を奨励する通牒を送付している。さらに1922年には伝染病予防法が改正され、ハエや蚊、ノミやシラミなどの昆虫類の駆除が義務づけられるようになった。
 だが、明治時代までの日本ではハエはしばしば俳句の題材にされるほど身近な昆虫で、「害虫」のカテゴリーに含まれるような虫ではなかった。「害虫」としてのハエのイメージを広めたのは、戦前期に盛んにおこなわれた「衛生展覧会」である。たとえば1914年に横浜市で開催された衛生展覧会では、チフス菌のコーナーにハエの実物標本が置かれ、ハエと伝染病との因果関係を印象づけている。さらに1920年以降になると、「蠅の展覧会」が独立して開かれるようになった。また、関東大震災後にはじめられたハエ取り行事も重要である。東京市では1925年から毎年7月に「蠅取りデー」が盛大におこなわれ、1億匹以上のハエが集められている。さらに戦後になるとハエ取り行事は、厚生省が主導した「蚊やハエのいない生活」実践運動(1955-58年)によって全国に拡大された。このような衛生啓蒙と害虫防除への動員を通じて、排除すべき汚らしい虫としての「衛生害虫」という概念が定着したのである。

結論
 これまで見てきたように、人為的に排除されるべき虫としての「害虫」という概念は、明治30年代から第二次大戦後にかけて誕生したものである。まず、明治30年代以降、「害虫」は科学的方法によって徹底的に排除されなければならないという考え方が、農村を中心に定着していく。さらに大正期に入ると、「衛生害虫」という概念が日本全国に普及していった。その結果、神頼み的防除はほぼ完全に消滅し、すべての農家が人為的防除をおこなうようになったのである。このような「害虫」の誕生において、アカデミズムの昆虫学者はあまり大きな役割を果たしていない。むしろ重要だったのは国家と教育という2つのファクターである。まず国家は、害虫駆除予防法や伝染病予防法などの法律を通じて害虫防除を強制的に実行させた。また、名和靖の害虫駆除講習会や農作業への子供の動員、衛生展覧会やハエ取り行事などの啓蒙活動は、「害虫」概念の内面化をもたらしたのである。

※本報告のより詳細な内容については、拙稿「害虫観の近代」上田哲行編『虫たちをめぐる自然観(仮題)』(京都大学学術出版会、近刊)を参照。

『生物学史研究』72(2003): 138-141.
生物学史分科会夏の学校(おくたま路、2003年8月28日)

移入種問題とナショナリズム

瀬戸口 明久

 近年、ますます深刻になりつつある移入種問題をめぐる議論のなかで、「日本の生態系を外国の侵略者から守れ」というナショナリスティックな発言が見られることがある。一方、各地で進みつつある移入種の排除に対して、「ウルトラ保守主義」「エコロジーという名のファシズム」という激しい批判も一部の研究者からあがっている(1)。これらの批判が当たっているかどうかは別として、移入種問題がしばしばナショナリスティックな含意を持つことは間違いない。しかし、いまのところ日本では、この問題について十分な議論がなされていないようである。そこでこの小文では英語圏での議論を簡単に紹介し、移入種問題とナショナリズムの関係が生物学史研究に対して持つ意味について考察したい。
 移入種問題は古くて新しい問題である。外来の生物が雑草や害虫となりやすいことが知られるようになったのは、19世紀末のことだった。まずヨーロッパで確立された植物検疫法は、米国を経て1910年代には日本でも整備された。だが、移入種が在来の生態系におよぼす悪影響自体が社会問題となったのは、ようやく1970年代に入ってからのことである。さらに1990年代に入ると生物多様性条約が締結され、移入種の存在が国際的な問題として注目を集めるようになった。そして現在、日本国内でも包括的な移入種対策が整備されつつある。2002年8月には環境省が『移入種への対応方針について』を発表し、日本生態学会も「外来種管理法」の制定を目指して活発に活動している。このような流れを受け、今日の生態学では、あらゆる移入種を徹底的に排除し、「本来の生物相」を取り戻すべきであるとする主張が有力になってきている。だがこのような主張に対し、偏狭な外国嫌い(Xenophobia)と何ら違わないナショナリスティックな言辞にほかならないのではないか、という批判が現れた。
 まず最初に注目を集めたのが、園芸家のマイケル・ポランが1994年にニューヨークタイムズに掲載した記事「ネイテイヴィズムに抗して」である(M. Pollan, "Against Nativism," The New York Times Magazine, May 15, 1994, pp.52-55)。ポランはこのエッセイで、そのころ米国で流行していたナチュラル・ガーデニング運動を批判している。この運動は、(1)人工物をデザインのなかに組み込まない、(2)在来植物のみから構成され、移入種はすべて排除される、(3)ヨーロッパ人が入植する前の景観に可能な限り近づける、(4)自然にまかせ、剪定などは一切おこなわない、という4つの特徴を持っている。つまりナチュラル・ガーデニング運動とは、人為的なものを徹底的に排除することによって「自然な状態」に近づけ、「本来の生物相」に似せた景観を作り上げることを目指す造園運動なのである。
 この運動に対し、ポランは2つの疑問を呈した。まず一つは、ナチュラル・ガーデニング運動の主導者たちが言う「自然な状態」は、社会的に作り上げられた想像の産物にすぎないのではないかというものである。ヨーロッパ人が入植する前にも、アメリカ大陸の生物相は原住民によって相当の変化をこうむってきた。となると、1492年のアメリカの景観を「自然な状態」と見なすことには、あまり意味がないということになる。さらにポランは、米国で生まれたと考えられていたナチュラル・ガーデニング運動が、実際にはナチス政権下での造園運動と酷似しているという問題点を指摘した。この時期のドイツでは政府の支援のもと、在来種の保存と外来種との「戦い」が精力的に進められていたのである。つまりここでポランは、移入種を徹底的に排除することがナショナリズムと密接な結びつきを持ってしまう可能性があることを批判しているのである。
 この2つ目の指摘は、園芸史家のグレーニングらが1992年に発表した研究をもとにしている(2)。だがポランのエッセイはニューヨークタイムズという一般メディアに掲載されたこともあり、大きな反響を呼ぶことになった。このあと移入種問題を批判する環境倫理学の論文のなかで、ポランの議論はしばしば援用されることになる(3)
 そのような議論に反論したのが、移入種の徹底的な排除を支持する環境倫理学者のネット・ヘッティンガーである(N. Hettinger, "Exotic Species, Naturalization, and Biological Nativism," Environmental Values, 10 (2001): 193-224)。ヘッティンガーは、在来種の保護のための移入種の排除は、差別にもとづく外国人排斥とは違って十分に支持するに足る根拠が二つあると言う。第一に、移入種の排除はローカルな自然を均質化から守るための対策である。移入種の排除は、それぞれの地域の生物相を守る目的で進められるのであって、ナショナルな自然を守るためのものではないし、ましてや排外主義でもない。第二に、在来種の保護は人種的ネイティヴィズムではなく、むしろ文化的ネイティヴィズムとのアナロジーでとらえるべきである。ローカルな文化をグローバル化から守るのと同じように、在来種を守るために移入種を排除することも正当化されるだろう。
 たしかにヘッティンガーが言うように、在来種の保全には十分な根拠があるように思われる。また、移入種の排除と人間社会における排外主義とが必然的に結びつくわけでもないだろう。それではなぜ、移入種問題はしばしばナショナルな言説と結びついてしまうのだろうか。ここで重要と思われるのが、社会問題の構築におけるメタファーの役割である(G. A. Fine and L. Christoforides, "Dirty Birds, Filthy Immigrants, and the English Sparrow War," Symbolic Interaction, 14 (1991): 375-393)。社会学者のG.A. ファインらによると、1870年代の米国で移入種のイングリッシュ・スパローが社会問題になったとき、当時問題になっていたヨーロッパからの新移民の流入と同様のイメージでスズメの問題が語られることがよくあった。また逆に人間に対する優生学的言説のなかでもイングリッシュ・スパローの問題が頻繁に引用され、「外国の生物は有害」というイメージを撒き散らしていた。ファインらの議論のポイントは、全然別の社会問題であっても、お互いにメタファーとして引用しあうことによって、より大きな問題として社会の注目を集めることができるということである(4)。このようにして、動物に対する価値観と人間に対する価値観という、本来ならば全く別個のものが密接な結びつきを持つことになる。
 今日の日本社会においては、移入種問題が愛国心に訴えかける形で語られることはあっても、外国人排斥のような偏狭なナショナリズムと直接に結びつく可能性は少ないだろう。だが歴史を顧みれば、ナチス政権下での在来種保護運動や米国におけるイングリッシュ・スパローの事例のように、外来の動物に対するイメージが人間社会のあり方をめぐる議論に大きな影響を与えることがある。それならば、どのような条件で両者は結びつくのだろうか。また、そこで科学的言説はどのような役割を果たすのだろうか。このような問題意識から、「動物観とナショナリズム」という新しい歴史研究の領域が開けてくるだろう(5)


(1) 池田清彦「生物相の進化から見た外来種問題」『FRONT』2003年5月号、26-27頁;西川長夫「国民と非国民のあいだ、あるいは『民族浄化』について」『思想』第927号(2001年)、1-3頁。
(2) G. Groening and J. Wolschke-Bulmahn, "Some Notes on the Mania for Native Plants in Germany," Landscape Journal, 11 (1992): 116-26. 同じ著者による研究として、J. Wolschke-Bulmahn eds., Nature and Ideology, (Dumbarton Oaks Research Library and Collection, 1997) http://www.doaks.org/WONA.html.
(3) J. H. Peretti, "Nativism and Nature: Rethinking Biological Invasion," Environmental Values, 7 (1998): 183-192 (http://www.ben-network.org.uk/pdf/Vol4_4.pdf); M. Sagoff, "What’s Wrong with Exotic Species?" Report from the Institute for Philosophy and Public Policy, 19 (1999): 16-23. (http://www.puaf.umd.edu/IPPP/fall1999/exotic_species.htm).
(4) ファインらの論文が社会問題の構築という理論的視点にもとづくのに対し、科学史的視点から分析したものとしてP. J. ポーリーのものがある(拙稿『生物学史研究』第69号(2002年)、41-51頁)。
(5) 海外ではすでにB. サックス『ナチスと動物』(青土社、2002年)のような先行研究があるが、近代日本を対象とした研究はほとんどない。


『科学技術社会論学会第1回年次研究大会予稿集』(2002): 139-140

科学技術社会論学会第1回年次大会一般講演(東京大学駒場Iキャンパス、2002年11月17日)

「純粋種」を守る

―タイワンザル/移入種の排除をめぐる合意形成について―

瀬戸口明久(京都大学大学院文学研究科)

 2000年8月、和歌山県は県内に生息するタイワンザルおよびニホンザルとタイワンザルの交雑個体すべてを捕獲して排除する「和歌山県サル保護管理計画」を発足させた。この計画は大きく報道され、その是非をめぐって激しい議論がまきおこった。動物愛護団体や一般の市民が、安楽死という処分方法に反対したためである。同様の問題は北海道のアライグマ駆除事業や沖縄本島でのマングース・ノネコ駆除事業でも生じている。このような生物多様性保全と動物愛護運動との衝突は、移入種を排除するうえで、しばしば問題となってきた。
 けれども本報告は、「自然保護vs.動物愛護」という対立より広い枠組みで移入種問題をとらえ直そうとするものである。これまで移入種問題における対立は、排除された動物の処遇をめぐる問題であって、排除そのものについては合意形成が完了していると見なされてきた。だが果たしてそうだろうか。特定の移入種を排除すべきか否か、また排除する場合には根絶するのか制御するのかという問題は、いかにして決定されるのだろうか。また、そのような意志決定において価値観の衝突が起こった場合、どのようにして合意形成がはかられるのだろうか。以下ではタイワンザル問題を事例として、「移入種の排除」をめぐる合意形成における専門家と市民の位置づけについて考察する。
 なお、以下ではタイワンザルおよびニホンザルの交雑個体を「外来ザル」、「和歌山県サル保護管理計画」を「外来ザル排除事業」と呼ぶことにする。

外来ザル排除事業の意志決定過程 外来ザル排除事業における意志決定過程 外来ザル排除事業の意志決定には、事業を策定・実行する和歌山県を中心として、地元住民・専門家・一般市民の3者がかかわった。外来ザルによる農業被害を受けている地元住民らは、鳥獣保護法によって定められた公聴会において外来ザル排除事業を承認した。また日本哺乳類学会・日本生態学会・日本霊長類学会などの専門家集団は、県に対して早急な駆除を要請すると同時に、市民に向けて外来ザルの問題点について積極的に発言している。それに対して市民からは安楽死案に反対する意見が多く寄せられたため、和歌山県は県民1000人を対象に安楽死か飼育か選択させるアンケートをおこなった。回答者の63.9%が安楽死案を支持したため事業は実行に移され、現在も進行中である。

生物多様性保全における排除の根拠:「遺伝的汚染」を防ぐ 外来ザルを排除しなければならない根拠とは何だろうか。まずは専門家の主張から検討してみよう。生物多様性保全においては、移入種は徹底的に排除することが望ましいとされている。なぜなら移入種は在来の生態系を攪乱し、地域に固有の生物種を絶滅させてしまうことがあるからである。だがタイワンザルの場合、移入によってもたらされる混乱は必ずしも明確ではない。交雑によってニホンザル集団が消滅するわけではなく、むしろ本州に生息するサル集団の多様性が高まるとも考えられる。しかし生物多様性保全は、たんに多様性が高い状態を目指しているわけではない。そこで目標とされているのは、遺伝的多様性・種の多様性・生態系の多様性という3つのレベルにおいて、「進化の結果もたらされた多様性」を保存し、進化の過程を人為的に妨げないことである。したがって外来ザルの問題点は、数十万年の独自の進化によって形成されたニホンザル集団の遺伝子プールに、人為的に変化をもたらしていることにある。このような移入種による在来種の遺伝的構成の変化は「遺伝的汚染」と呼ばれる。

市民にとっての排除の根拠:「純粋種」を守る 前節で述べたような生物多様性保全の思想は、一般の市民にはどのように受けとめられたのだろうか。外来ザル問題をあつかった新聞記事のほとんどは、「純粋種」であるニホンザルの「純血」が危機にあると報じた。だがこのような「純粋種を守る」という論理からは、生物多様性保全の2つの重要な要素が抜け落ちている。1つは進化の結果としての多様性を保存するという、生物多様性の持つ歴史的な価値が見えてこないという問題がある。もう1つは、「純粋種を守る」という論理からは、同じ種内でも遠隔地からの移入個体との交雑が問題になることが導かれないという問題である。つまり「純粋種を守る」という根拠は、「遺伝的汚染」の概念を十分に伝えていないのである。
 さらに「純粋種を守る」という論拠が市民の意外な反応を引き起こしていることにも注目する必要がある。それは、人間社会では何ら問題とされない混血が、なぜサルならば生態系にとって危機とされるのか、むしろニホンザルという「純粋種」を守るために外来ザルを排除する方が危険な発想なのではないか、という反応である。ここでは「純粋種」の「純血」を守るために「混血」を排除するという用語が、人間社会との連想を導いてしまっている(1)。また、サルの中にヒトを読み込み擬人化する文化に根付いた動物観も、このような連想を容易にしたであろう。
 以上のように外来ザル排除事業の合意形成においては、「排除の根拠」が専門家・行政と市民のあいだで十分に共有されておらず、「純粋種を守る」という論拠が好ましくない社会的効果をもたらしているという問題がある。

移入種の排除をめぐる合意形成について 最近、日本では移入種問題に対処するための包括的な枠組みが形成されつつある(2)。2001年に新たに策定された「生物多様性国家戦略」では、生物多様性の3つの危機の1つとして移入種の存在をあげている。また、2002年8月には環境省が設置した移入種検討会が『移入種(外来種)への対応方針について』を発表した。そこでは、どの移入種をどの程度排除すべきかという問題は、基本的に専門家が生物多様性の価値にもとづいて決定することになっている。そしてもし価値観の衝突がある場合には、排除の対象となる移入種から利益を受けている人々と「合意形成を図る必要がある」と述べられている。
 だが、ここでは生物多様性の価値が優先することが前提となっていて、「合意形成」が実質的に「合意取り付け」になってはいないだろうか。そして移入種の排除が受容されない場合には、受容されるまで行政・専門家による説得が続くという図式が予想される。実際に外来ザル排除事業では、一般の市民のみならず公聴会や県自然環境保全審議会でも安楽死案への反対が強く、離島に放逐するなどの代替案の検討が求められた。だがそれらの代替案は、移入種問題の根本的解決にならないとする生物多様性保全の観点から行政の内部で却下されてしまった。その結果、最終的に残った安楽死案と飼育案の二者択一のアンケートでもって市民との「合意形成」に成功したとされたのである。つまり外来ザル排除事業の意志決定においては、生物多様性という一元的な価値が優先され、市民が外来ザルに対して持つ多様な価値観は、その手続きからあらかじめ排除されていたといえる。
 社会的に合理的な意志決定をおこなうためには、このような一元的な価値観を前提とした枠組みではなく、多元的な価値観のあいだをどのように調整するかという枠組みで移入種問題をとらえるべきである。


(1)移入種と特定の人間集団との連想は、歴史的には珍しいものではない。G. Groening and J. Wolschke-Bulmahn, "Some Notes on the Mania for Native Plants in Germany," Landscape Journal, 11 (1992): 116-126; P.J. Pauly, "The Beauty and Menace of the Japanese Cherry Trees," Isis, 87 (1996): 51-73. 後者については拙稿『生物学史研究』第69号(2002年)、41-51頁で紹介した。
(2)日本生態学会編『外来種ハンドブック』(地人書館、2002年)


『生物学史研究』70 (2002): 140-141
日本科学史学会生物学史分科会月例会(東京大学、2002年10月5日)

「自然の支配」と応用昆虫学

─戦前期アメリカにおける害虫防除技術の展開─

瀬戸口明久(京都大学大学院文学研究科)

 R. カーソン(1907-1964)は『沈黙の春』(1962)の末尾で、化学殺虫剤によって「自然を支配」しようとする応用昆虫学のあり方を批判している。本報告では、戦前期米国における害虫防除技術の展開を、研究体制や自然観の変容に注目しつつ検討し、1920年代に応用昆虫学が「自然を支配」する社会的体制が成立したことを示した。
 米国における応用昆虫学研究は、C.V. ライリー(1843-1895)率いる農務省昆虫学部門(後の昆虫局)を中心として確立した。19世紀末の侵入害虫の増加は応用昆虫学研究を促進し、化学殺虫剤・生物的防除・耕種的防除という害虫防除技術の基本的な諸要素が確立された。しかし20世紀初頭までの昆虫局の予算はほとんど変化がなく、害虫防除事業も小規模なものであった。
 ライリーの後を受けて昆虫局長に就任したL.O. ハワード(1857-1950)の在任中、昆虫局は急成長することになる。ハワードは1921年から1930年代半ばまで、害虫防除を「昆虫との戦争」に喩えることによって、応用昆虫学の重要性を訴えかける一般向けの発言をくり返しおこなっている。その結果、昆虫は人類の「敵」であり、化学殺虫剤などの「武器」でもって支配すべき対象であるとする自然観が浸透していった。
 1920年代の米国で甚大な被害をもたらした害虫として、ワタミゾウムシとアワノメイガがあげられる。まず、綿作害虫ワタミゾウムシに対しては、1918年に砒酸石灰が有効であることが発見された。軍の協力を得て1921年に開始された殺虫剤の空中散布によって、砒酸石灰は急速に普及していった。また、トウモロコシ害虫アワノメイガに対しては、1927年にすべての農家に耕種的防除を義務づける大規模防除事業がおこなわれた。この事業では、1926年に放送が開始された農務省のラジオ番組を通して、害虫防除技術が広範囲に伝えられた。このような大規模一斉防除の確立によって、応用昆虫学が「自然を支配」する体制が成立したといえよう。
 なお報告では、日本における昆虫観の変遷についても言及した。近世までの日本では虫は自然発生するという観念が強く、虫送りのような呪術的方法が主流であった。したがって明治政府は、害虫は科学的知識によって「支配可能」であるとする観念を定着させる必要があった。その際、駆除作業への子供の動員や唱歌、啓蒙映画などが重要な役割を果たした。


『化学史研究』 Vol.29 No.2 (2002): 142
2002年度化学史研究発表会一般講演(福岡女学院大学)

殺虫剤と化学兵器─日本の場合、1918-1945


瀬戸口明久(京都大学大学院文学研究科)

はじめに
 殺虫剤と化学兵器とが、歴史的にお互いに影響を与えつつ発展してきたことはよく知られている。とりわけ有名なのは、ナチスドイツにおけるG. シュレーダーの有機燐系殺虫剤の開発である。最近、技術史家E. ラッセルは、ドイツだけでなく第一次大戦中の米国でも、殺虫剤研究と化学兵器研究のつながりが存在していたことを明らかにした(1)
発表者が日本の応用昆虫学の展開について検討したところ、日本でも殺虫剤−化学兵器リンクが存在していたことが明らかになった。本発表ではその内容を報告する。
1.日本の化学兵器・害虫防除技術研究体制
 日本の化学兵器研究は主として陸軍でおこなわれた。第一次大戦中に陸軍軍医学校の小泉親彦を中心として設置された臨時毒瓦斯調査委員会から出発した。陸軍の化学兵器研究は、1919年以降は新設された陸軍科学研究所ですすめられている。一方、戦前期の害虫防除技術研究は官立・公立の農事試験場でおこなわれている。ここでは官立農事試験場昆虫部の昆虫学者の研究に注目したい。
2.クロルピクリン:軍から民間へ
 クロルピクリンは第一次大戦中もっともよく使用された毒ガスである。戦時中、米国農務省昆虫局の昆虫学者たちが化学戦部局の要請を受けておこなった研究によって、クロルピクリンが有効な殺虫剤であることが明らかになった。
 日本へのクロルピクリンの導入には、理化学研究所の農芸化学者山本亮の果たした役割が大きい。クロルピクリンの有効性を知った山本は、農事試験場昆虫部の木下周太とともに殺虫試験をおこなっている。次に大規模な殺虫試験をおこなうことに不安を感じた山本は、小泉親彦を訪問してガスマスクを貸与してもらった。さらにクロルピクリンの製法は軍の機密であったため、陸軍の化学兵器研究者朽木綱貞に製造技術を援助してもらっている(2)
 以上のように軍からの技術的な援助を受けて、クロルピクリンは1921年に日本初の合成殺虫剤として三共製薬から販売された。
3.青酸:軍による殺虫剤生産
 クロルピクリンとは逆に、殺虫剤から化学兵器に転用された物質が青酸である。陸軍が青酸殺虫剤を「サイローム」の商品名で販売したことはよく知られている。だがその開発に昆虫学者が協力したことはあまり知られていない。
 農事試験場昆虫部長木下周太は、1927年5月に陸軍科学研究所の嘱託を兼任し、「化学兵器の理学的研究」に従事した。また陸軍科学研究所技師の青山虎彦は、農事試験場昆虫部と数回共同実験をおこなっている。また青山は、単独でも有機砒素化合物の殺虫力を調査する研究をおこなった。有機砒素化合物や青酸は、1930年代に陸軍の兵器として採用されており、これらの殺虫剤研究が化学兵器研究の一環であったことは間違いない。
 しかし、陸軍科学研究所の殺虫剤研究は、1935年を境に見られなくなる。以後、研究の重点は青酸殺虫剤の合成から、実戦における青酸兵器の使用へと移っていった。木下も1937年までは陸軍科学研究所の嘱託の地位にあったことが確認できるが、1945年までには化学兵器研究から離れたようである(3)
結び
 日本における殺虫剤−化学兵器リンクは次のような意義を持っていたと考えられる。
 まず軍にとって殺虫剤生産は、平時に殺虫剤産業を確立させておくことによって戦時の化学兵器供給の基盤とするという意図があった。一方、昆虫学者にとって1920年代は化学者との関係が深まり、殺虫剤研究の比重が高まった時期にあたる。化学兵器研究者との交流は、そのような昆虫学の転換の一部だったのである。


(1)E. Russell, War and Nature: Fighting Humans and Insects with Chemicals from World War I to Silent Spring, (Cambridge: Cambridge University Press, 2001).
(2)山本亮「クロルピクリン」田杉平司他編『農薬ことはじめ』(日本特殊農薬製造株式会社、1966年)、48-50頁。
(3)「陸軍科学研究所職員表」『自昭和八年度至昭和十二年度陸軍科学研究所歴史巻之三』; 「研究嘱託名簿」(昭和二十年一月一日調、第六陸軍技術研究所)。


『日本科学史学会第49回年会研究発表講演要旨集』(2002): 58

日本科学史学会第49回年会(金沢大学、2002年5月)

戦前期アメリカにおける応用昆虫学の展開

―L.O. ハワードと農務省昆虫局を中心に―

京都大学大学院文学研究科 瀬戸口明久
Development of Economic Entomology in the United States before World War II
Kyoto University SETOGUCHI Akihisa


はじめに
 通常、害虫防除技術が化学化されたのは、DDTなどの有機合成殺虫剤が登場した第二次世界大戦以降のことであるとされている。しかし戦前期の米国においては、すでに砒酸鉛・砒酸石灰などの無機系殺虫剤が普及していた。本発表では、この時期の米国における応用昆虫学の展開について検討し、害虫防除技術は1920年代に、@化学的防除の強化、A防除事業の大規模化という二点で変貌したことを明らかにする。
第一次世界大戦前までの害虫防除技術
 応用昆虫学は米国で確立した分野である。その中心となったのが1878年に設置された農務省昆虫局だった。19世紀末までに化学的防除(殺虫剤)・生物的防除(天敵利用)・耕種的防除(栽培方法の工夫)という害虫防除技術の基本的な要素はほぼ確立した。しかし20世紀初頭までの昆虫局の害虫防除事業は、いずれも小規模なものであった。
L.O. ハワードの「昆虫との戦争」運動
 昆虫局が急成長したのは、米国を代表する応用昆虫学者L.O. ハワードの昆虫局長在任中(1894-1927)のことである。ハワードは一般向けの発言が多く、アメリカ人の昆虫観に大きな影響を与えた人物であると考えられる。1921年から1930年代前半にかけて、ハワードは新聞や一般雑誌上で、害虫防除を戦争に喩えることによって、その重要性を訴える主張を繰り返し発表している。本発表ではハワードの昆虫観を紹介し、1920年代の害虫防除において果たした役割について考察する。
1920年代の害虫防除技術
 1920年代の米国では、二種類の侵入害虫が猛威をふるった。まず、南部の綿作地帯に大被害をもたらしていたワタミゾウムシ(cotton boll weevil)に対しては、1918年に砒酸石灰が有効であることが確認された。砒酸石灰を急速に普及させたのが、散布機械としての飛行機の登場である。空軍と農務省は共同で殺虫剤散布実験をおこない、飛行機の有効性を確認した。その後数年間で、砒酸石灰の生産高は約10倍に増加している。
 また、トウモロコシ害虫アワノメイガ(European corn borer)に対しては、農民すべてに耕種的防除を義務づける大規模防除事業がおこなわれた。この事業では、防除法を農民に教育することが重要だった。そのような目的にもっとも貢献したのが、農務省が1926年に開始したラジオ放送である。科学的知識を一斉に伝達し、大規模な害虫防除を組織的におこなう体制が確立したと言えるだろう。

瀬戸口明久