![]() 逆説的 オーディオ論 2003.10.20創設 |
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まえ書き |
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| このページは、文字通り逆説的なオーディオ論を展開するコーナーです。オーディオ哲学・フィロソフィーのページがあり、ノンジャンルで「オヤジの一言」や「ピット・イン」を設けたのに、またしても一つ増やしたのは、これまでと逆な面から「ものごとの本質」に迫ってみたかったからです。 一見、他のページの主張と矛盾する屁理屈のようですが、私の本音が何処にあるかは、フィロソフィーほか全体を読めばお解り頂けると思いますので、誤解を恐れず書き進むことにします。例によって更新は不定期です。もちろん、異論、反論は大歓迎。 |
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| (2003.10.20 記入) オーディオとは何か? このホームページを覗いている人は殆どが「オーディオマニア」ではあるまいか。そこで、このページでは冒頭からオーディオそのものについて書くことにする。 「オーディオとは科学技術の枠を超えた一種のアートである。オーディオマニアは、オーディオ機器を操って音楽を再生する芸術家である」こんな定義づけはどうであろうか。 オーディオマニアは孤高の存在である 音楽ファンの中には、「ラジカセで十分」という人もいるが、こういう人は、音質の違いを聞き分けられない不幸な人たちである。これに対して、オーディオマニアは耳の良いエリートである。 こんな事を言うと、音楽ファンから「オーディオマニアは音楽より音を楽しんでいるだけだ」などと軽蔑されることがあるが、この批判は不当なものである。それどころか、オーディオマニアは高価な機器を次々購入して経済を活性化させており社会的な貢献度が高い。プアーな装置を何時までも後生大事に使っている人こそ批判されるべきである。 オーディオは、「音楽を楽しむ最高の手段」である。高いチケットを買って堅苦しい雰囲気のコンサートに足を運ばなくても一流音楽家の演奏を居ながらにして楽しむことができる。こんな素晴らしい趣味は他にない。音楽を楽しむために苦労を重ねてオーディオ機器を開発する人がいたからこそ音楽が普及発展したのである。音楽を聴くための装置に拘り抜く人、それがオーディオマニアである。その姿は、他のあらゆる趣味、道楽と隔絶した孤高の存在である。 |
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| (2003.10.21 記入) 名器は個性的な音がする |
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| オーディオメーカーは、各社とも異口同音に、「この製品は生演奏を聴くような音がする」と宣伝するが、聴いてみると、どれも違う音に聞こえる。これは、同じ音にしてしまうと目立たなくなり、自社の製品が売れなくなるからではないのか。所詮、現在の技術で生そっくりの音など出せる訳がないし、そのつもりもないと思う。 オーディオ機器の試聴記を読むと、同じ機器を同条件で聴いているのにテスターによって全く正反対の評価をしていることが多い。これは、単に評論家の好みの違いが現れただけだ。他人の耳はあてにならないので製品を選ぶには自分で聴いてみるしかない。生音のイメージは一人ひとり異なるのだから再生機器は個性的である方がよい。自分の好みにあった音を出せれば十分だ。「名器」は全て特徴のある音がする。 |
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| (2003.10.23 記入) 原音再生は儚い夢 |
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| 「どんな音にしたいのか?」こう訊かれたオーディオマニアは、大抵「生そっくりの音」と答えるが、所詮無理な話である。パッケージメディアは演奏の記録、若しくは、縦横に加工された缶詰であり、それ以上のものでなく生演奏とは全く別のものなのだ。 その証拠に「原音再生」は未だに誰も達成していない。マイクがどれほど優秀でも楽器や人の体と同じように振動するはずがないし、再生機器全体の不十分さはそれ以上であり、原音再生など始めから絶望的なのだ。それなのに、「原音再生の夢」をマニアが追い求めるのは馬鹿げている。「原音」は生演奏の場に存在するだけで瞬時に消え去っているはずだ。オーディオマニアの夢は儚い幻想に過ぎず、どんなに金をつぎ込んで頑張ってもその努力は徒労に終わる。生の音を聴きたければコンサートに足を運ぶしかない。このことに気づいていないのがオーディオマニアの愚かさなのだ。 |
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| (2003.10.27 記入) ハイエンド機器は高価でよい? |
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| 海外製のハイエンドオーディオ機器は高価なものが多いが、これらの製品は一般の家電品と違って生活必需品と言うわけではなく、どうせ庶民は買えないのだから幾ら高くても構わない。お金持ちが沢山買い物をしてくれれば消費が拡大され、少しは景気が良くなるかも知れない。金無しの一般人を相手にしていたのでは、安物しか売れず商社の経営が成り立たない。メーカーはお金儲けが目的なのだから、安くて良い物など作るわけが無い。ショップの店頭では、同じ性能ならデザインを良くして高い値を付けた方がよく売れる。オーディオの分野といえども、化粧品と同じように「ユーザーは裸の王様」、これがこの世界の現実だ。 |
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| (2003.10.31記入) 自作はつまらぬ趣味? 我々自作派のオーディオフリークは、完成品が買えず、メーカーに較べて遙に高額な価格でパーツを購入しているが、経済的な余裕があれば、そんなことをしなくても済む。測定器を買う金を惜しんで自作すると、物理的なデータが手に入らないので自己満足にしかならない。聴感に頼ると試行錯誤を繰り返すばかりで、結局、無駄に金を使うことになる。良い物を手に入れたければ、懸命に働いて資金を作ることだ。そうすれば、出来損ないの装置で我慢しなくても世界の一流製品が買える。 アマチュアの自作品はどんなに音が良くても(本人の思いこみが多い?)評価されず、オーディオ市場では既製品の方が上に見られている。悔しいことにメーカー製なら草臥れ(くたびれ)果てた古物まで珍重されている始末だ。これは、所謂(いわゆる)ビンテージ製品が「骨董品」としての価値を持っているからだ。東京テレビの人気番組「なんでも鑑定団」を視て解るように、古くなるほど価値が上がる有名ブランドの人気製品を買い、汚さず傷を付けず大切に使用、保管するのが利口な人間のすることだ。 |
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| (2003.11.14 記入) 「評論」ないしは「評論家」の存在意義 |
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| オーディオ界だけでなく、評論や評論家の役割はとても重要である。私は、「評論家」の皆さんを尊敬しているし、その意見を尊重している。何故なら、この人達の多くが、アマチュアと違って経験に裏付けられた豊かな知識を持っているからである。世の中でいう「オーディオ評論家」は、音楽畑、録音、PA、電気技術系など、音響に関わる専門家が多い。中にはアマチュア出身と思われる御仁もいるようであるが、何れにせよオーディオ好きが高じてこの道に入った人ばかりと考えられる。 評論家と呼ばれる方の中には、職業がハッキリせず、評論で得た報酬を生活の糧にしていると思われる「ヒョーロン屋」的な存在が指摘されているが、評論はメーカーの宣伝・セールストークと異なり、自由かつ公平な評価が行われれば、十分、存在意義がある。私たちアマチュアは、専門家の解析なしに新製品が持つ技術的な優位性を知ることができない。今日、情報は経済的価値のあるモノとして認知されており、ユーザーに貴重な新情報をいち早く提供してくれる評論家諸氏に、オーディオ情報誌の購読料を通じて適当な対価を払うのは当然である。 |
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| (2003.11.21 記入) 拘りこそ進歩のみなもと |
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| オーディオは音に拘るマニアックな趣味である。拘り無くしてオーディオの面白さは味わえないと言っても良いくらいだ。物事の全てにおいて、今日までに至る進歩は拘りを持つ少数の人によって実現したものであり、通り一遍の関心で済ましてしまうなら何も起こらなかっただろう。ケーブルによる音の変化も、始めは誰も認めず半信半疑で受けとめられていたが、今では誰もが当然のこととして受けとめている。「塵も積もれば山となる」の譬えはオーディオにも当てはまり、ひとつ一つの小さな積み重ねが良い音を引き出す鍵である。 500円で買ったネクタイを10年締めて節約しながら、一方で良い音のために10万円のカートリッジを買う。この心意気、情熱はマニアでなければ理解しえないもので、オーディオの楽しみは余人の理解を超えたところにあるのだ。どんなに拘ろうと誰にも迷惑を掛けていないのだから良いではないか。アンバランスと批判する人には言わせておけばよい。 |
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| (2003.11.29 記入) デザインは二の次 |
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| オーディオ機器にとってデザインは第一義的な要素ではない。メーカー製品は外見だけ立派でも音質と中身はそれ程でない物が多い。スピーカーの中を覗いてみると、アマチュアが手を出さないようなプアーなパーツで構成されているので大抵ガッカリさせられる。この傾向は低価格製品ほど顕著で、商品の持つ宿命とも言える。メーカー製品は、商品としての見映えを良くするためにデザイン面や外装に可成りのコストをつぎ込んでいると見るべきだ。だから、ルックスに惚れて手を出すと余計な出費を招くうえに失望することになる。 オーディオ機器は置物ではなく音楽を聴くための道具だから、幾ら格好良くても良い音が出せなければ失格だ。だいいち、美的感覚は人によって異なるのだからデザインに拘るのは余り意味がない。良い音は形にも現れるもので、アマチュアが自作する場合でも、音質と機能を追求すれば自ずと美しいものが生まれる筈だ。元々オーディオはマイナーな趣味なのだから、多少風変わりで他人がどう評価しようと自分が満足できれば良いではないか。 |
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| (2004.3.6 記入) 小さいことは良いことだ |
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| オーディオ機器にとって、サイズは重要な要素である。オーディオ機器は、同じ性能、効果があるなら、少しでも小さい方がよい。 20年ほど前(もっと昔だったか?)は、「消費は美徳だ」などと言われ、オーディオもブームの一翼を担い、インフレ経済の下で物みな全て大型化する傾向が生まれた。 その後、政府と銀行がバブルを煽って景気が過熱、地価が急上昇し、都市部を中心に宅地が、どんどん狭小化した。土地が狭くなれば家が小さくなるのは当然で、オーディオマニアの占有スペースも小型化、フロア型スピーカーを始め大鑑巨砲的なオーディオシステムは、世の奥様方から目の敵にされる事になった。 かくてスピーカーは小型化の一途を辿り、バブル崩壊の今日でも、この現象は改まらないでいる。小型スピーカーで低音を出すのは容易でないが、苦労するのはメーカーなので一向構うことはない。オーディオマニアと雖も(いえども)家庭平和を維持するために、スペースファクタの良い小型スピーカーを使うべきだ。 |
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| (2004.3.21 記入) オーディオ誌の役割 |
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| 以前、オーディオ評論家の存在意義について書いたが、この人たちが活躍するオーディオ情報誌について、別の角度から書くことにしよう。 私は、「道楽ブランド」のストーンテクノを立ち上げるまで、我が国で発行される殆どのオーディオ雑誌を買い熱心に読んでいた。しかし今は、広告掲載スポンサーへの配布が行われる(取り次ぎ会社が送ってくれる)ので止めている。雑誌の購読料は、発行月になると結構な金額になり大変だったが、お陰で出費が減って助かっている。もっとも、このサービスは、モノクロ半載で10万円、1頁なら20万円程度の掲載料を考えれば当然かも知れない。 ストーンテクノの広告は最小スペースのモノクロで大して目立たないが、大きな企業はカラー刷りで良い場所を占めている。雑誌によっては、分厚い雑誌の大部分が広告・宣伝のページで記事よりもスペースが多いくらいだ。オーディオ誌に広告を掲載するスポンサーがなかったら、出版社は経営が悪化して発行できなくなるだろう。 オーディオ誌は、新製品の紹介(概ね褒めている)に大きなスペースを割いているが、これを善意に解釈すれば、新しい情報を欲しがるユーザーのためと言える。だから、私たち読者はこの種の記事を「買い物案内」と割り切って読めば良いのだ。 |
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| (2004.4.4 記入) オーディオは騒音の一種 |
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| オーディオは騒音の一種である。人の感性や好みは様々なので、全ての人が音楽好きとは限らない。それどころか、音楽が好きでコンサートに通う人でもオーディオに無関心な人は多い。大がかりな再生機器を揃えて日常的に音楽を聞くリスナーも、全てのジャンルを好んでいるわけではなく、ディスクに手を伸ばすレパートリーは限られている。ある人にとって好ましい音楽が別の人に嫌われることは良くあることで、これは仕方ないことと言える。 私の場合、音楽に理解があるわけではなく楽器も弾けないので、無節操この上なく何でも聞いてしまうが中には嫌いなものもある。他のページにも書いたが、私は可成りの音痴なので、かつては音楽好きでなかった。取り分けクラシックは退屈な存在にすぎなかった。そんな自分をクラシックファンにしたのは一枚のレコードだが、音楽との幸せな出会いを持つ人はともかく、不幸にも音楽の楽しみを知らずに過ごしている人は多い。こんな人たちにとって、隣室から聞こえる再生機器の音は騒音に過ぎず、夜な夜なドカスカやられたのでは堪らないだろう。訳の解らない音楽を強制的に聴かされて睡眠を妨げられれば、文句のひとつも言いたくなろうというものだ。 |
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| (2004.4.11 記入) シンプル・イズ・ベストに反するマルチマイク録音 |
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| オーディオ機器は単純なほど優れている。シンプル・イズ・ベストという言葉に代表されるとおり、物事は単純明快なほど解りやすく、複雑なものは全て難解である。この事の正しさは俳句と小説を較べてみれば解る。五・七・五の十七文字で全てを言い尽くす俳句の世界は、恐ろしいほど凝縮されているので一文字も無駄が無い。これに対して長大な小説は、冗長な部分や少々の遊びがあっても問題にならない。同じ小説でも短編と長編、大河小説は大きな違いがあり、書き手にとって短編の方が難しいはずだ。 今日、半ば常識になっているマルチマイク方式による録音は、人間の体と耳を何倍にも増やしたようなもので、極めて不自然である。人の体は一つで耳が二つしかないのに、なぜ多数のマイクで収録するのか?孫悟空ではあるまいに「分身の術」を使っているつもりなのか。「マルチトラックで録音しても後で混ぜれば同じ」と言うが、リスナーの殆どは、製作者が時間や距離の違いを、どの様に合わせているか知らないで聴いているのだ。 |
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| (2004.4.17 記入) シンプル・イズ・ベスト マルチスピーカーの疑問 |
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| オーディオで疑問に思うのは、録音方式だけでなくマルチスピーカーによる再生である。低域から高域まで、帯域ごとに違うスピーカーユニットやエンクロージャーを用意して、楽音を再現しようとしているが、楽器が出しているのは特定周波数の音だけでなく幅広い楽音で、これを分解して再合成を図ろうとするから無理があるのだ。 スピーカーは、低域用や中域用、中高域用、高域用など様々だが、マイクは全てフルレンジであり振動板は1枚しかない。人の耳が一枚の鼓膜で全ての音を聞き分けているのだから、マイクがフルレンジであるのは当然である。これを考えると、継ぎ接ぎだらけのマルチスピーカー再生はどう考えても不自然である。 出来損ないのマルチスピーカーが、人の声や小編成による音楽の再生でフルレンジ一本に負けるのは、宿命的な弱点の故と知るべきだ。古くから言われているとおり、オーディオもまた「シンプル・イズ・ベスト」で、上手く行きさえすればフルレンジ一発のシステムこそ最高の再生装置と言える。 |
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| (2004.4.25 記入) アナログ方式の優位性 |
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| 録音から再生に至るまでデジタル方式が主流のオーディオ界だが、便利で手軽なデジタル方式は、究極を目指した場合、いまだアナログ方式に敵わないのではないか。 デジタル方式では全てを1と0で表すそうだが、世の中はそれほど単純ではなく、1と0の間も有ると思う。時間は瞬間を全て合わせたものかも知れないが、何処まで分解しても分解しきれないはずだ。コンパクトディスクのフォーマットの限界が問題になり、高規格のSACDやDVDが登場したが、これは、デジタル方式が及ばないアナログ方式への憧れから生まれたものであり、ハイサンプリングやハイビット化は際限なく続くだろう。 デジタル方式の進歩は、オーディオに限らず全てを単純明快に解りやすくしたかも知れないが、余り単純化すると物事の本質を伝えられなくなるのではないか? アナログ方式はデジタル方式に較べると遥かにファジーで好い加減かも知れないが、その曖昧さ故に自然で、人の感性に寄り添うものと言えるだろう。 |
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| (2004.5.3 記入) 特性より音が大切 |
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| オーディオ機器にとって最も大切なことは、良い音がすることであり、たとえ物理特性が優秀でも、自分の目指す音で再生できなければ意味がない。人が心地よく感じる音と物理特性の相関は、この分野の研究が進んだ今日でも未だ十分解明されて居らず、測定で全てを捉えているとは言えない。研究者の努力で音を数値として表す技術は可成り進んでいるが、電気信号を扱うアンプなど増幅系はともかく、スピーカーのような変換器は相手が空気なので数値化が難しい。 音を測定で捉えたものとして最もポピュラーなのは周波数特性だが、同じ様な特性のスピーカーが全く別の音に聞こえることは良くあることである。F特性は色々な情報を内包しているはずだが、これを安易に見ただけでは音を捉えることができない。だから、周波数特性を変化させる要因を別の方法によって解明する必要があると思う。 スピーカーの開発に関しては様々な測定方法が研究されており、メーカーはそれぞれ独自の方法を採り入れているようだ。今日、市場に送り出される製品の中には、物理特性、音質ともに優れた物があり、着々と成果が上がっているが、なお十分とは言えない。結局、オーディオ機器の最終的な音決めは聴感に頼らざるを得ず、この事がオーディオフリークをして「物理特性より音が大切」と言わせる原因ではないか。 |
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| (2004.5.9 記入) 他人の音は真似できない |
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| オーディオ機器は使い手によって表情を変えるので、同じシステムを備えても全部違う音で聞こえる。ショップの試聴室で聴いて気に入り、購入後、自宅に持ち込んで聴いてみたら余りにも違う音でガッカリした人は多いはずだ。それだけでなく、他人の装置を聴いて惚れ込み、「自分も」と、そっくり真似をしてみても同じ音は出ないものだ。 この原因は装置のせいでなく、聞き手の技量や使用環境に依るところが多い。オーディオは、一言で言うと「部屋の空気を震わせて楽しむ遊び」なので、部屋の影響を大きく受ける。この事を知らずに幾ら大金をつぎ込んでも良い音にならず、進歩しない。15p移動しただけで音が変わるスピーカーなのに、何処で聴いてもカタログデータと同じ音がすると思い込んでいるうちは良い音で鳴らせない。音を変える要素は部屋だけではなく他にも沢山あるが、先ず、スピーカーの置き方を工夫して欲しい。 メーカーやオーディオショップは、殆どの場合、セッティングまで面倒見てくれないので、調整を含めた使いこなしこそユーザーの腕の見せ所(聴かせどころ?)と言えよう。こんな事は面倒だからやりたくないと言う人は専門家に依頼するしかないが、これには多少の出費を伴うのは致し方ないことである。何れにしても「他人の音は真似できな」いと知るべきで、「自分の音は自分で作る」べきである。 |
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| (2004.5.16 記入) 音は再生で化ける |
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| 「自分の音は自分で作る」と書いたが、音は瞬時に消えてしまうので再現が難しい。音を記録するには録音するしかないが、どんなに上手く録っても再生で化ける。録音と再生を較べると変形が著しいのは再生側である。高性能なヘッドフォンで聴いてみて欲しい。大抵の場合、スピーカーで再生する場合と比較にならないほど良い音がする。スピーカで良い音を出そうと散々試みたあげく、首尾良く行かず諦めてヘッドフォン・オンリーで聞くことにしたリスナーもいる。 確かにヘッドフォンは良い音だ。スピーカーで決して聞くことの出来ない細かい音まで聴かせてくれる。出来損ないのスピーカーが聞かせる鈍重な響きもない。耳を刺すような金切り声も上げない。耳に音楽信号を直接送り込むのだから、何より部屋の影響を受けずに済むのもありがたい。しかし、何か変だ。どんなに頑張っても体を揺すられるような低音感がない。そのうえスピーカーで聞くときに得られる自然な音場感が不足する。だから、ステレオ再生はスピーカーに敵わないようだ。 最近は、ヘッドフォン特有の欠陥を克服するための研究が進んで、音像が後頭部に定位する現象が起きない物も登場している。スピーカークラフトに取り組むマニアもヘッドフォンに負けないシステムを作りたいものだ。 |
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| (2004.8.23 記入) 凄い音より自然な音 |
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| オーディオマニアが音に拘り抜いて組み上げた装置は、意外にも一般の人に評価されないことがある。システムのスタイルではない、音質のことだ。音楽ファンは、「再生音の生々しさ」より音楽そのものに関心を払っている。多くのリスナーは、マニアが見ると「こんな物で」と思うような装置を使っているが、これでも音楽は十分楽しめるのだ。ゼネラルオーディオ製品で満足しているリスナーは、オーディオに関する拘りがないので、マニアよりも「音楽を聴いている」と言える。この点でオーディオマニアは落第だ。「オーディオ機器は音楽を楽しむためにある」のだから、音質への極度の拘りは鑑賞の邪魔になる。 一般に普及しているオーディオ機器は「そこそこの音」しか出さないが、バランス良くまとめられており決して嫌な音を出さない。だから、このような「引き算型」の装置にも存在意義があると言える。一方、マニアのシステムは、しばしば刺激的な音を出すことがある。「凄い音」を出して他人を驚かすのは簡単だが、「自然な音」を出すのは容易ではない。 |
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| (2004.9.5 記入) 信じる者は救われる? |
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| オーディオマニアの中には、新興宗教の信徒よろしく特定の誰かに心酔し、その手法を一心に真似る人がいる。先人の研究に学ぶことは大切なことであるが、オーディオと雖も、神ならぬ人の行いであるから、先輩諸兄や「先生」にも誤りはあろう。盲信は成果と共に誤りも受け継ぐことになるので危険である。だから、我々は全てを批判的に受け止めることが重要である。 他のページでも述べたが、「良い音」の概念は人によって異なり、アプローチの方法も様々である。山登りにも、尾根を辿る、沢を遡上する、一気に岸壁を登攀するなどの方法があるが、どれも目指すのは頂上である。それぞれのルートには夫々の楽しさがあり、いずれを選択するかは各人の問題である。これしかないと信じるのは自由であるが、自分の考えを他人に押し付けるのは止めた方が良い。 我々は、自分の信じる方法を用いて目標に近づこうとするが、この過程でミスを犯すことがある。しかし、失敗を恐れて行わなければ何事も成就しない。仮説をたてたら確かめてみれば良いのだ。そうすれば成功も失敗も自らの糧となり、信じて行うものは救われることになるのだ。 |
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| (2004.9.12 記入) オーディオ機器の役割 |
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| オーディオ機器の役割とは何か?この問いに関する答えは一つではない。オーディオ機器は音楽を聴く道具であるから、何よりプログラムソースを正確に再生することが重要だが、それだけでは十分といえない。 録音再生機器としての性能を求めるなら、電気信号を用いて開発し、ひたすら物理特性を追求すれば良いし、音楽を聴きたければ、機械を使わずコンサート会場やライブハウスに足を運べば良い。生の演奏とメディアによる再生を異質のものとして捉える人にとって、オーディオ機器は不要な存在である。オーディオを愛する人は、音楽を聴くだけでなく機械に触れることにも喜びを見出しているのだ。 オーディオ装置は、一般家庭の居間にあって暮らしに溶け込み、生活を楽しむ道具の一つとして機能しなければ意味が無い。そのうえ、オーディオ機器は、それ自体を扱う楽しさを味合わせてくれるものでなければならない。このように考えると、オーディオ機器に求められるものは多く、作る側は容易でない。 部屋の中で不当なスペースを占めない大きさ、美しいデザインは、世のご夫人がたの望むところであり、これと逆のマニアックな装置は大抵の場合、顰蹙(ひんしゅく)をかう。 |
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| (2004.9.26 記入) オーディオ機器の魅力 |
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| オーディオ機器は、音が良いだけでなく、これを身近に置き、手で触れる人に極上の楽しみを与えるものでなければならない。ただ四角い無機的なだけの箱では趣味の対象として愛されない。このことは、一世を風靡したプリアンプ、マランツ7やマッキントッシュ、マーク・レビンソンなどの製品が証明している。マランツの「端正な佇まい」、マッキントッシュの「ゴージャス」、レビンソンの「精緻」は音を出さなくとも持つ人を満足させてくれる。オーディオ機器は耳だけでなく目や触覚を楽しませるものでもあるのだ。 プリアンプだけでなく、レコードプレーヤー、パワーアンプやスピーカーにもマニアの心を魅了する製品はあり、オートグラフやパラゴン、ハーツフィールドなどの民生用スピーカーは、部屋に置いただけで存在感十分である。一方、アルティックやEMTに代表される業務用機器には、機能に徹した機械が持つ凄みが感じられる。価値を認めないものには、一見、鉄屑に見えるウエスタン製品にいたっては、まるで後光が射しているかのようだ。 世の中に登場した数多あるオーディオ機器のうち、真の名器と呼ばれる製品にはマニアの心を捉えて離さない「何か」が有るのだ。これを無視してオーディオの魅力を語る無かれ。 |
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| (2004.10.3 記入) どんな音を出したいのか−当面の目標 |
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| 「原音再生を目標にしている」というマニアはいるが、現在のところオーディオ機器をもって原音を再生することは容易でなく、誰も達成していない。よく出来た装置を聴いた人が「演奏会場で生の音を聴いているようだ」と評することがあるが、冷静に聴いてみると、たいていの場合、生音とは大きな隔たりがあるものだ。 私も、かつて、演奏会の後、自宅でディスクを再生してコンサート会場の音と比較してきたが、音場が違う上に、パッケージメディアを用いて機械が出すエネルギーとオーケストラが発揮する、それとの差を思い知らされている。 我々オーディオフリークは、コンサートで得た音楽の感動を自宅で再現しようと試みているが、現在のところ、オーディオ装置で生と同じ原音を出せるわけが無いのだから、装置の限界を見極め「どんな音を出したいのか」当面の目標を定めて改善、追及すべきだ。 |
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| (2004.10.10 記入) 当面の目標は実現可能なものに |
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| オーディオ装置で生と同じ原音を出せるわけが無いのだから、究極を原音再生に置くとしても、当面の目標は現実的かつ実現可能なものにしたい。そうでないと、何時も不満を抱え悩み苦しんで音楽を楽しめなくなってしまう。 偉そうなことを言っているが、自分にも音楽ならぬ「音我苦」時代があり、散々悩んできた一人だ。その原因は、目標が高すぎて現実との距離が余りにも大きかったからだ。アマチュアにとってオーディオは趣味なのだから、当面の目標を近くに置いて、階段のように一歩一歩昇るのが良い。これなら、努力の成果を確かめられ、楽しみながら取り組めるので挫折することも無い。 タンノイ・オートグラフやマッキントッシュの275を愛用したことで知られる作家、五味康祐氏も永いオーディオ遍歴の末に、スピーカーやアンプの交換に汲々とするより、自分が今持っている装置で音楽を楽しむことの大切さを説いているではないか。 |
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| (2004.11.14 記入) 満足すると進歩が止まる |
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| オーディオに限らず、現状に満足すると進歩が止まり向上しなくなる。私のオーディオ道楽は40数年続いてきたが、変遷が著しく何時もどこかを改造しているので、長く落ち着くことがない。だから仲間に「音が出ていない期間のほうが長いのでは」と酷評される。8月以来、中低域をホーン型に変更するべく始めたシステム改造だが、4ヶ月目に入って未だに完成していない。この期間、自宅の装置で音楽を聴いていないが、気になるディスクは買い求めてきたので、開封していないものが数十枚もラックに眠っている。 最近は年のせいか、かつてのように遮二無二ことを進める意欲がなくなり、すっかりスローペースになってしまった。それでも、計画と資材だけは沢山あるので夢は限りない。借り集めたり買い込んだユニットがゴロゴロしていて整理しなければ音楽を聴く環境が整わない。この先の時間と体力を考えると全てを実行することは困難かもしれない。計画が挫折すると幻のままになるが、再生音を、より生に近づけるための努力は続けたいものだ。 |
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| (2004.11.28 記入) スイッチ・オフ |
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| 11月半ばを過ぎて、ようやくスピーカーシステムの改造が済み音が出るようになった。これまでは、ただ鳴っているだけであったが、21日には測定と調整が行われ、まともな音で音楽を聴けるようになった。何よりこれを喜びとしよう。この期間、火を入れなかったアンプ類も少しずつ復調し、一週間ばかりの間に心なしか力強さが増したように聴こえる。毎日音を出していると日常のそれが当たり前になり、何かと不満が出るものだが、音を出さずにいて暫く振りに聴いてみると新鮮な響きに聴こえることがある。これは、多分に心理的なものと言えそうだが、音の出ないオーディオも偶には良いかもしれない。 オーディオ機器は毎日同じように動かすのが良いと言われている。そのせいか海外製品の中には電源スイッチのないものさえあるのだ。マニアに未だファンの多い長岡氏は、コントロールアンプの電源を、購入してから他の機種に交換するまで切らなかったそうだが、私も原則としてスイッチを切らないでいる。ただし、AB級動作をするパワーアンプのブレーカーが働いたことがあり、発熱の多いパワーアンプは電源を落としている。このほか、夏の暑い日、外出中に雷が発生してデジタル機器が一時不調になったことがあるので、これに懲りて雷雨の時期はコントロールアンプ系もスイッチ・オフにしている。 |
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| (2004.12.5 記入) 生演奏やオーディオも文化の一つ |
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| 生演奏で聴かれる音とオーディオ機器で再生する音の間には大きな隔たりがある。オーディオマニアは、この両者の間を埋めようとして様々な努力しているが儚いことである。しかし、このはかない行為の中に楽しみを見出している人たちが存在することは意味がある。およそ文化というものは人々の遊び、楽しみと結びついたものであり、難しい理屈とは無縁なはずだ。オーディオ機器は音楽を楽しむ道具であるから、自分が好むプログラムが気持ちよく聴ければそれでよいのではないか。 音楽自体、教養、藝術として教えられる前に楽しくなければ意味が無い。それなのに義務教育の過程で音楽(クラシック)を嫌いにされた子供たちは多く、この人たちは大人になってコンサートに足を運ぼうとしなくなる。クラシックだけが音楽ではなく、ポピュラーやジャズ、ロックをはじめ、全ての音楽は人の暮らしに結びついて役立っているのだ。バロック音楽は、かつて王侯貴族の楽しみのために演奏されたものだし、モーツァルトやシュトラウスも始めは時代の流行り物ではなかったのか。 クラシックだけが高級で他の音楽が世俗的だなどと考えるのはおかしい。だから、オーディオマニアに演歌しか聴かない人がいても一向に構わないではないか。 |
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| (2004.12.19 記入) オーディオ機器は人を映す |
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| オーディオ機器は人を映す鏡である。スピーカーは勿論、アンプ類の音質評価でも人によって意見が異なる。スピーカーシステムは変換機であり、完成度が低いこともあって個性的な音になりやすいが、電気信号だけを扱い物理特性にほとんど差がないアンプは個性が少ないと言える。それなのに、複数のテスターによって試聴されたリポートを読むと、必ずと言ってよいほど評価が異なる。同じプリアンプを聴きながら、或る人は「透明で癖が無い」といい、他の人は「艶のある美音」と表現する。こんな例は良くあることだ。 試聴はほとんどの場合、不公平が発生しないよう条件を揃えて行われている。テスト機に繋がれる周辺機器は勿論、同時、同空間で共通のソフトを聴いているにも関わらず、テスターの評価が分かれるのは何故か。テスターを取り巻く環境が同じなのに異なった評価になるのは、人の感性や音楽体験が異なるからではないか。試聴テストはオーディオ機器の評価をしているつもりで、いつの間にか人のテストになっているといえよう。 |
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| (2004.12.22 記入) 他人の匂いは良くわかる |
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| オーディオ機器を設計、製作した人は大抵の場合、「無色透明で色付けが無いものができた」と言う。しかし、他の人が聴くと必ずしもそうではなく、何らかのカラリゼーションを感じるものだ。嘗て良く使われた「ワイヤ・ウィズ・ゲイン」という言葉があったが、これは、アンプ類の理想を言い表したものといえよう。直訳すると、「利得を持った電線」という意味になるが、最近ではコード/ケーブルによる音質の変化が喧伝され、「電線音頭」は今だ健在だから、この例えは通用しないかもしれない。しかし、アンプの理想がワイヤ・ウィズ・ゲインであることに変わりはあるまい。 入力された電気信号を忠実に増幅し、スピーカーを駆動するために必要な電力を供給するのはハイフィディリティーアンプの基本的な役割のはずだ。にもかかわらず様々な音がするアンプが作られるのは、最後に音決めをするのが人間だからではないか。人の感性は多様で夫々異なるのだから、自分にとって無色透明でも周りの人が同じように受け止めるとは限らない。これは、好みの問題ではなく感じ方の違いが現れたものだから、幾ら議論しても意見が一致しないような気がする。人間は他人の匂いはわかっても自分の体臭には気づかないものだ。 |
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| (2004.12.24 記入) 生より鮮明なオーディオ-1 |
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| 民生用のオーディオ機器は、生演奏を家庭で再現するために使われるわけだが、時にコンサートよりも生々しい音を聴かせることがある。そのわけは、コンサートの仕組みと録音の方法に起因するといえそうだ。 クラシックの演奏会を別にすると殆どの会場でPA装置が用いられており、ここで聴衆は生音である楽器の演奏やボーカリストの肉声を聞くことができない。聞こえてくるのは、大音量で会場に響き渡るスピーカーの音である。ポピュラー系音楽のライブ・コンサートで、ベースやピアノは勿論、音量の大きい金管楽器やドラムにまでマイクが立てられることは珍しくない。最近はホールをはじめとする演奏会場が大型化し、楽器の生音だけで聴衆、観客に十分なサービスを出来なくなったせいか、やたらに大きな音で聴かせられて閉口した人は多いと思う。だから、私たちがライブで聴くことができるのは既に拡声装置で作られた音なのだ。残念ながらPA用スピーカーの音たるや強靭で透りは良いものの如何にも大雑把である。 ディスクを始めとするパッケージメディア再生の場合はどうだろうか。私の感じるところ音質に関しては、マニアのオーディオ装置の方が良いのではないか。 |
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| (2004.12.27 記入) 生より鮮明なオーディオ-2 |
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| パッケージメディア作成のための現場は、ライブの会場と大いに異なる。まず、大抵の場合「いれもの」が小さい。ホールを使ったとしても聴衆がいない。一つ一つの音源に対して用意されるマイクの数が多いうえに近接して配置されている。そのうえディスクとして完成してから、リスナーに聴かれるときの空間のボリュームは極めて小さい。これだけ考えても条件が違いすぎる。コンサートとディスクを同じ土俵で論じることは無理だし、あまり意味のあることではない。やはり、ライブを聴きにいくこととパッケージメディアを楽しむ行為は別のものである。 ディスクを再生しながら何時も感じるのは、生演奏で容易に得ることが出来ない近接感と繊細感だ。生々しくリアルな録音を評して「眼前の演奏を聴くようだ」などというが、我々聴衆は、コンサートでマイクの位置ほど演奏者の近くに行けるわけではない。ましてやPA装置の音が介在していれば違う音に聞こえて当然だ。愛聴盤で聴きなれた音楽家の演奏が、期待通りに聞けず失望したマニアは少なくない。今や、ライブより音の良いオーディオは、コンサートに通うファンとは別の聴衆を育てていると言える。 |
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| (2004.12.31 記入) 機械に拘るより音楽を |
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| オーディオ機器を試聴するつもりでディスクを聴いているうちに何時しか音楽に聞きほれ、快く楽しんでしまうことは良くあることだ。こんな時は、、装置のコンディションが良いだけでなく、オーディオ機器としての役割が十分果たされているのだから、そのまま寛いで聞き続けるのが良い。もともと、比較試聴などというものはプロたるテスターの仕事であり、アマチュアリスナーは下手に手を出さないほうが良い。 音楽を楽しむための機械を使って音に拘り、大金を投じてあれこれ悩むのは馬鹿げた行為であり、どう考えても褒められた事ではない。ほめられなくとも良いから貶されたくないと思ったら、冷静に自分を見つめることだ。オーディオ機器は所詮音を出す機械であり音楽を再生する道具の一つに過ぎないのだから、これに拘ってマニアックになりすぎるのは不健康なことである。 音楽家はコンサートで聴衆を惹きつけるだけでなく、パッケージメディアでもファンを酔わせるだけの能力を持っている。これは素晴らしいことであり、驚嘆に値する。我々は装置を弄り回すより素直に演奏を聴いて音楽の楽しさを享受すべきではないか。 |
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| (2005.1.10 記入) 諦めることも必要? |
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| オーディオマニアは、自分の装置の音を良くするためなら、あらゆる試みと努力を惜しまぬ人種である。六畳間にシアター用の大型スピーカーを持ち込み、間近に聞くホーンスピーカーのきつい音にめげず何とか手なずけようと悪戦苦闘する姿は健気でさえある。かく言う自分も大同小異で、二十四畳程度の空間に馬鹿でかいホーンを持ち込み、「中低域までホーン型にすると・・・・」などと悦に入っているのだから他人のことは言えない。しかし、考えてみると我々の「ウサギ小屋」で映画館やホール用のスピーカーを鳴らすのは無理な話で、むしろ無謀な試みといえる。元々この種のスピーカーは大きな空間でサービスするために用意されたもので、家庭用ではない。それにもかかわらず大型スピーカーを持ち込むのは、生演奏の会場に響く雄大な音に憧れるからだ。 我々は、部屋の大きさで制限される響き以上のものを聞き取ることは出来ない。特に低域は部屋のサイズで決まる波長以下の音を上手く再生できない筈だ。このことを知りつつも何とかしようとするが容易でない。こと低域の再生に関しては、どこかで諦めることが必要なのではないか。そうでないと何時までも悩むことになる。 |
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| (2005.1.16 記入) 生より鮮明なオーディオ-3 |
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| ライブより鮮明なオーディオは確かにある。買い込んだまま聴かずにいた「スーパー・ベース」というディスクを回して改めてこのことを実感した。 このディスクは、オーディオ誌への露出が著しい「寺島靖国」氏が推薦する一枚である。同氏は、このディスクのタスキでレイ・ブラウンのベースプレイを指して、「このCDにはこれまでの彼のどの作品にも聞かれない絶世のベースの美音がふんだんに封入されている」と書いている。このディスクはGMLお得意のXRCD2シリーズの一枚で、ジャズとオーディオが好きなリスナー向けの作品である。わたしは、これを行きつけのショップ「カマニ」で買ったわけだが、寺島氏の推薦文だけで求めたわけではなく、オーディオマニアとしての好奇心から手を出したのである。 結果は、冒頭に書いたとおりで、ライブで聴くより鮮明にして生々しい近接感のあるベース音が聴ける。ブリブリした擦過音がスピーカーから飛び出し聞き手に迫る様は、ジャズスポットで聴くベースの音ではない。こんな音は楽器に肉薄しなければ聴けないはずだ。しかも、このディスクのラスト・テイクでは、多重録音でベーシストが2名でありながら10名であるかのようなサウンドまで作っている。 かつて埼玉藝術劇場で聴いたゲリー・カーのコントラバスも、こんな音ではなかった。最前列で聞いた名手の演奏は、拙宅で聴くオーディオ装置の音に近似して円やかだった。しかし、このディスクを聞く人は生より鮮明なオーディオの快感を味わえる。 |
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| (2005.1.22 記入 3.3加筆) クレイジーオーディオ |
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| 人はオーディオにのめり込むと、ライブやコンサートの雰囲気再現よりも別の面白さ、「オーディオ的快感」や「機械フェチ」とでも言うべき悦びを求めるのではないか。自分自身が「そうなっている」ような気がする。私の目の前に或るラックは石材を刳り貫いて作ってあるので全部で100数十キロあり、CDプレーヤにまで石のジャケットを着せてある。単に音楽を楽しむだけなら、一人では自由にならないほど大きいスピーカーシステムやアンプはいらない。最近、高だか12センチのディスクを回すのに、セパレート、しかも電源部まで分けてL,R別にするなど凝りに凝ったプレーヤーまで出現しているが、究極を目指すとこうなるのか。 先日、必要があって長い間、物置に鎮座していたスピーカー・エンクロージャーを移動したが、大変な騒ぎだった。このシステムはタンノイの二階建てとも言うべき大型かつ超重量級で、板厚が90ミリもある堅木で組まれ、大理石と太い鉄の全ネジを用いて補強してある。これはエンクロージャーだけで軽く100Kgを超えると思われるので、当然のことながら一人ではびくともせず、三人がかりの作業となり、最後はフォークリフトを使って移動する羽目になった。 暫く振りに内部を覗くと、恐ろしいほどの補強が施されており、このエンクロージャーを作った本人ながら良くもここまでと呆れてしまった。これでは解体も自由になるまい。オーディオに凝って夢中になると何処かクレイジーになるようだ。このエンクロージャーはベテランに引き取って頂きました。有難うございました。 |
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| (2005.1.23 記入) オーディオ的快感 |
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| 前項で書いた「オーディオ的快感」は生の演奏から得る楽しさとは別のものではないか。今日ではハイパワーアンプと大入力スピーカーの登場で、ピアノトリオのように編成が小さなものならライブより大きな音が出せる。スピーカーを小出力アンプで駆動する拙宅のシステムでも、ドラムの強打はともかくミュージシャンが、「こんな大きな音は出していない」と顔を顰めるようなサウンドを放出することができる。生演奏を聞くより大きな音で聞く意味があるか果たして疑問であるが、とにかく大音量による再生が可能になったことは事実だ。 フュージョンなど、音楽によっては全身に浴びるような音圧で聴くと誠に快く、お腹まで満ち足りたような気になる。クラシック音楽でも、管弦楽を聴いて体だけでなく建物全体を揺すられるような超低域まで再生してみると、半分恐ろしい気分になるが何やら気分が良く痛快である。これをオーディオ的快感と言うべきなのだろうか。 |
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| (2005.1.30 記入) マニアは装置に支配される? |
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| オーディオマニアは、自分の理想とする音で聴くために装置の改善に努力するが、何時の間にかシステムに支配されてしまうことがある。 過渡特性に拘り、立ち上がり重視のシステムを築いたマニアのソフトは、花火や大砲発射の爆発音、物が衝突するときの衝撃音、打楽器演奏、そのほかパルス性の音が出やすい楽器の演奏音などを収録したものが多い。これに対してメロディーラインの美しさを求めるリスナーの装置で鳴らされるのは、弦楽器のソロや合奏を録音したソフトのようだ。もちろん、こんな乱暴な分け方でオーディオマニアの全てを分類するのは失礼な話で、鍵盤楽器の代表、ピアノ演奏の楽しみ方でも色々あるから一概に言えないが、マニアが使用しているシステムと、日ごろ愛聴するソフトの間には深いつながりがあり、装置を見るとオーナーがどのような音楽を好むか或る程度わかるところが面白い。自分の好む音楽を上手く再生しようと務めるうちに、次第にそのシステムが再生を得意にするソフトが増えてしまう。これは目的と手段の間で主客転倒現象が起きて装置に支配されてしまうのか。 |
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| (2005.2.6 記入) 人の耳の不思議 |
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| 人の聴覚は不思議なものだ。一般家電製品のテレビやラジカセで聴いても人の声を識別できる。これらの機器が正確な波形を再現しているとは思えないが、お金をかけたマニアのオーディオ装置に遥かに及ばないにしても、歌い手が他の歌手に変わって聞こえることはない。私たちはプアな装置の音からも大切な情報だけは取り出しているのかもしれない。音質に特別のこだわりを持たない一般のリスナーが、ゼネラルオーディオと呼ばれる家電品の装置で満足できるのは、このためだろう。 研究者のデータのうち再生装置の波形を見ると、アンプなどの電気増幅系はともかく変換機であるスピーカーのそれは酷いもので、これで何故おなじように聞こえるのかと驚くほどだが、不思議なことに実際に耳にしてみるとそれらしく聞こえる。耳から入った信号は脳の中で整理され、記憶にある原音と比較され識別されるのかもしれない。こう考えると、僅かな違いに拘ってあれこれ悩む我々オーディオマニアは、電気のことだけでなく聴覚の仕組みを勉強したほうが良いのか。 |
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| (2005.3.13 記入) 主観の重要性 |
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| アマチュアが行うオーディオ機器の評価は時に主観的でも良い。アマチュアは、プロのテスターのように客観的な評価を心がけ、多くのユーザーに受け入れられる製品作りのために働いているわけではない。なぜなら、我々アマチュアリスナーは自分の楽しみのためにオーディオ機器を選んでいるからだ。たとえ高名な評論家が天まで持ち上げて高く評価しようと、他のリスナーがどれほど惚れ込もうと、自分で気に入らなければ意味がない。 生音や生演奏のイメージは人によって異なり、同じオーディオ機器を聴いてもテスターの評価が一定するとは限らない。オーディオ誌の試聴記を読むと実に様々なことが書かれている。テスターによって似たような感想を述べている場合はともかく、正反対のことが書かれている場合は、客観的であるべき試聴、評価が好みの比較になっていると見るべきだ。結局、オーディオ機器の最終的な評価、好感度テストは自宅に持ち込んで行うしかなく、この際は大いに主観的であってよいと思う。 |
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| (2005.3.20 記入) 活字の力 |
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| 本を読むことが好きな人は活字に弱いのではないかと思うことがある。前にも何処かで喋ったり書いたかもしれないが、文字になった情報は言葉よりインパクトが強く信頼できるような気がしてしまう。自分もこの例に漏れず、記録として残る上に何度も読み返すことができる文章に弱い。これまで読み漁ったオーディオ関係の単行本や情報誌は数知れないが、嘗ては「先生方」の熱意のこもった文章に大いに影響を受けたものだ。 私だけでなく中年以上の多くのマニアは、若者のころ収入が少なかったから、アルティック、JBL、タンノイなど高価な海外製品は空の星のごとく遠い存在であった。今でこそ買えるマッキントッシュ製品に至っては、その昔「アンプのロールスロイス」と呼ばれたものだ。評論家の皆さんは、これらマニア垂涎の的の機器を美文を用いて紹介し、読む人の夢をはちきれんばかりに膨らませてくれた。かくしてオーディオ界でもブランドイメージが確立し、今でも「高級機」に対する信仰は厚くファンが多い。メーカーやインポーター各社にとって、オーディオ雑誌で健筆を振るってくれたライターは有り難い存在だろう。 私の場合、かつて一生懸命読んだ紹介記事だったが、最近は、冷静かつ客観的に読むようになり、時には懐疑的に眺めることさえある。これを進歩というべきか醒めたというべきか、いずれにしても周りの影響を受け難くなったことは事実だ。もし、歳のせいでこうなったのなら、ただの頑固オヤジに変貌したわけだから喜んでいられないのだが。 |
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| (2005.4.24 記入) カリスマ崇拝現象 |
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| オーディオの世界にも名人、達人がいて、私たちは、自分ではとても出来ないと思うようなことをやってのけられると感心してしまう。オーディオ界でも評論家の大部分は「先生」と呼ばれているようだ。そればかりか一部のセンセイは「教祖様」に祀り上げられているようだし、これが嵩じると「神様」まで出現するかもしれない。 「カリスマ」という言葉がメディアに氾濫し、オーディオ界にもカリスマ的な存在が言われているが、これは何かと話題を作って騒ぎ立てることが好きなジャーナリズムが作り出した現象ではないか。 「カリスマ」の意味は、もともと、「超自然的・超人間的・非日常的な資質・能力、預言者・英雄などにみられる資質をもつ指導者に対し人々が人格的に帰依する関係」をさしたものである。 凶悪な犯罪を繰り返して世界的に悪名を馳せた「オウム真理教」の教祖を「グル」と呼び崇拝し、今もその呪縛が解けず狂信している者がいるが悲惨なことである。 こんな具合であるから、「カリスマ」の行動が科学的に解明されない段階では、何か怪しいが良くわからないことが多い。「遠く離れた位置にあるものが見える」、「容器に入れた品物が外から判る」、「犯罪者の逃亡先が判る」などと喧伝される超能力者が紹介されているが、「何故か」という問いに対しては、判で押したように「超能力者だから」という答えしか返ってこない。これはいかにも奇怪であり回答にならない。このような現象が広がることは好ましくないと思うが如何なものか。 「カリスマ」の本来の意味は前に述べたとおりであるが、これが転じて、一般大衆を魅了するような資質・技能をもった人気者を俗にいう場合がある。メディアが持て囃しているカリスマの類は大部分がこれに属すると思われるので意味合いが異なる。 |
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| (2005.5.15 記入) 低音再生の課題は小型化にある |
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| 昔から、「オーディオの歴史は低音再生の歴史である」と言われているが、先輩諸兄の苦労にもかかわらず、今もって本物らしい低音を出すのは容易でない。市場に出回っている小型スピーカの殆どは低域の再生が苦手である。このことは、スーパーウーファーと呼ばれる低域補強システムがたくさん登場していることで証明されている。 オーソドックスな方法で低い音を再生するには大きな振動板を持つスピーカーが必要で、大型ユニットの性能を十分発揮させるには、それに相応しいエンクロージャーと空間が求められる。しかし、我が国のような土地、住宅事情では、私たち庶民の収入で大きな部屋を備えた建物を作るのは簡単でない。このことが低域の再生を困難にしている要因である。 現在商品化されているスーパーウーファーやサブウーファーの大部分は、驚くほど小型に纏められているが、これらは大口径ユニットを使わず共鳴を利用して低音を再生するタイプである。このためか特定の帯域で癖のある音を聴かせるものが多いようだ。 これらの中には少数とはいえ優れた製品があり、オーソドックスなシステムに迫る性能を発揮してくれる。しかし、口径30pに満たないユニットを用いて50Hz以下の帯域を再生するのは難しく、超低域用スピーカーの小型化は依然としてオーディオ界の課題といえる。 |
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| (2005.5.22 記入) 鉄の塊りのようなユニット |
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| 音楽のベースとなる低域の再生、なかでも超低域の十分な再生は容易でないが、高域の再生は比較的容易である。ダイナミック型で高域を上手く再生するには、強力な磁気回路と(花びらのように)軽量な振動板を持つユニットを備えればよい。この種のスピーカーユニットは物量を投じる必要があるのでコストが掛かるが、低域用のように大きくないので設置に広い空間を要求しない。 我が国には、質量が何10kgもある超弩級の磁気回路を備えたホーン型ツィータを作る工房がある。諸外国のメーカーが決して手を出さない「鉄床(鍛造や板金で、加工しようと思う金属をのせる鋳鉄製または鋳鋼製の作業台。金敷。アンビル)」のようなユニットの存在は、日本独特のオーディオ文化である。 鉄床のようなツィータが何故登場したのか?この理由については、1秒間に10,000〜20,000回も揺れる振動板をコントロールするには強力な電磁制動が必要で、必然的な結果として磁気回路が大型化するからだと言われている。 ホーン型ツィータのダイアフラム質量は超軽量のミリグラム級であるが、ウーファーは38pクラスで振動系の質量が100数十グラムもあるのに大した磁気回路を持っていない。私が現在使用しているアルティック416−8Bの全重量は7.9sで、強力といわれる515−Cが13s程度、超重量クラスのオーディオノートのユニット(物置にストックしている)が30sである。もし、ツィータと同じ重量比率の磁気回路にしたらどうなるか?こんなユニットを作ったら人の力では自由になるまい。 かつて三菱が発表した160pウーファーは大型クレーンで吊られていた。いささかクレイジーといえるが一度聴いてみたいものだ。 |
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| (2005.6.2 記入) A級アンプの効用は発熱にある? |
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| A級アンプや管球式の大出力アンプは、発熱量が大きいので部屋の空気を温めるうえで大いに役に立つ。私は嘗てAクラス動作のステレオアンプを8台も使っていたことがあるので、このことを良く知っている。BTL接続にした4ウェイマルチアンプシステムでは、狭い部屋の床一面にパワーアンプが並び、消費電力の大部分が熱になるのでオイルヒーターに匹敵する暖房効果がある。 我が国の家庭用コンセントは1箇所当たり1.5kWの電力しか供給できない決まりなので、あちこちから給電していたが、ある日、突然停電状態になり部屋が真っ暗闇になった。当然、家族が騒ぎ出したので懐中電灯(いまや死語か?)を頼りに受電部を見に行くと、ブレーカーが落ちていた。どうやら、階下で電子レンジのスイッチを入れたらしい。停電の本質的原因がオーディオ機器の電力消費にあるので、同居人(かみさん他多数)の非難、攻撃をかわすべく、この日は敢え無く音楽鑑賞を中止し読書に切り替えた。といっても真面目に勉強をするわけではなく、本棚の時代小説を持ち出しただけだが。 日本経済が停滞し不況の真っ只中にあるというのに、未だに消費電力の大きいA級アンプが幅を利かせているが、このような現象はオーディオ界だけではないか。この点で管球式は可愛いところがあり、小出力のパワーアンプは余り電力を消費しないので許せる。大型のA級アンプは、いっそのこと「湯沸し」として活用するため水冷式にしたほうが良いのではないか。 |
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| (2005.6.5 記入) 海外生産への依存はオーディオ界のためになるか |
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| 我が国には、たくさんのオーディオメーカーがあるが、このうち幾つの会社が国内生産をしているだろうか。全てを国内で賄っているのは何社もあるまい。 衣料製品をはじめ生活雑貨などの軽工業製品に始まった海外生産依存は、韓国、台湾、中国などに広がり、今や光学器械やコンピューター、私の本業である石碑、墓所関連のパーツまで中国で作られているのだから、オーディオ機器も例外ではなく、価格の安いものは概ね北東アジア製とみて良いのではないか。 中国製品が低価格である要因は、経済先進国に比べて驚くほど安い人件費にあることは誰も認めるところだろう。仕事の関係で中国を訪問する機会がある私だが、通訳をしてくれたガイドの話によると、公務員をしている夫君と同じ1ヶ月1万5千円の給料だそうだ。二人合わせて3万円の月収だが、子供一人を養い1ヶ月1万5千円で生活費が間に合うので、一人分の収入は貯蓄にまわせると言う。物価が安ければ暮らすのが楽なので日本から見た低賃金でも問題ないということか。 海外製品の氾濫で我が国の製造業は軒並み不況に陥り、空洞化は著しく進行している。このままでは、我が国の得意技であった物づくりは益々衰退し、後継者が絶えて誰も物が作れなくなってしまうのではないか。 このような経済状況で利益を得るのは輸入商社だろうが、皆がその職に付くわけには行かず、製造業だけでなく全ての分野で失業者が増えてしまう。経営者が働く人たちに過酷な労働を要求するだけでなく、政府が抜本的な対策を立てなければユーザーはオーディオ製品を購入する力を失ってしまう。 |
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| (2005.6.12 記入) 会場ノイズの効用 |
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| 音楽を聴くうえで邪魔になるノイズだが、プログラムソースに含まれる会場の騒音は時に雰囲気を伝える役割を果たしている。ライブ録音は客席の音がたっぷり入っているし、スタジオ以外の教会などを使用して収録されたディスクにも環境音が入っている。弦楽合奏やバロック音楽を聴いていると、会場の外でさえずる小鳥の声や車の走行音が聞こえることがある。これらのノイズは鑑賞を妨げるほどのレベルではないので注意深く聞かないと判らないが、オーディオマニアの装置は微小な音にも反応するので聞こえてしまうのだ。 演奏会を録音したライブ録音は、聴衆がいない状態で収録されたソースよりも生演奏に近い臨場感を伝えてくれる。小鳥の声や会場の外から聞こえるノイズも、会場を取り巻く「場」の環境を現わすもので音楽と共に楽しんだほうが良い。私は、学校の講堂でウインナワルツを聴いたことがあるが、夏のことだったので突然の夕立があり演奏音より雷鳴のほうが凄く、さながら「雷鳴と稲妻」を聞くようだった。これも自然の贈り物か。 |
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| (2005.6.24 記入) 小さいことは良いことだ−2 |
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| オーディオ機器に限らず小さいことは良いことだ。国土の狭い日本では大きなスペースを要する大型車両は向いていない。米国のように国土が広い国では道路も広く造られているが、我が国は、島国であるうえに車の歴史が浅いので細い道が多い。新しい開発地区は幅員の広い道路が設けられているので問題少ないが、旧市街地で生活の足に使うなら小型車か軽自動車が便利だ。 オーディオ機器も車と同様で、狭い敷地に建てられた「ウサギ小屋(誰が言ったか嫌な言い方だ)」にはスペースファクターの良いシステムが向いている。このためか一昔前のようなシステムコンポが影を潜めて、最近はミニコンポが流行っているが当然の結果かもしれない。 オーディオ機器で最もスペースを取るのはスピーカーだが、操作部分のあるアンプやプレーヤーは身近に置く必要があるので大きすぎるのは困る。リモコンが普及して離れて操作できるようになったとはいえ、プレーヤーはディスクを出し入れするので遠くに置くと不便であり、オーディオは趣味なので手を触れて操る楽しみを軽視してはならないと思う。ピュアオーディオ用の機器といえども性能が同じ(これが重要)なら小さいほうが良い。 |
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| (2005.6.27 記入) 思い出は美化される |
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| 人の思い出は美化されるものだ。「人間稼業」を永くやっていると、楽しいことばかりでなく、嫌なことや苦しいこと、悲しいことも度々経験することになるが、これらは時間が経過して記憶が薄れるためか、或いは自然に癒されるせいか懐かしい思い出に変わるようだ。 オーディオも永く続けていると時たまハッとするような音に出会うことがある。こんなときは「この音を忘れまい」とばかり、しっかり憶えようとする。しかし、音というものは瞬時に消えてしまうので脳裏に刻むことが難しい。良い音との出会いは、まさに一期一会なのかもしれない。 オーディオマニアは、あれこれ装置を弄り回すことが好きなので、たとえ良い音で再生できるようになっても一所に留まることができない。そこで、またしても新たな「改善」に手をつけることになるが、この結果、上手くいかないこともある。こんなときに思い出すのは過去に聴いた美音である。それは、初めて耳にしたオートグラフの音、ハーツフィールドやバイタヴォックスの響きであったりする。しかし、今再びこれらの名器を聴いてみると昔ほどの感激が得られない。やはり過去は美化されるのか。これは、若い頃あこがれた女性に時を経て再会し幻滅するのと同じではなかろうか。 |
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| (2005.6.30 記入) 「名器」は数少ない |
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| 巷で「名器」といわれるオーディオ機器は多いようだが、真の名器は少ないものだ。取り分けオークションで出品者が「名器」を標榜する機器の殆どは只の古物であり、尤もらしい説明は売らんかなのセールストークである。本人が真実、希少性の或る名器と思うなら売りに出すはずがないし、愛着のある物を僅かな金に換えるはずもない。故に誇大な文章に釣られて高額で入札するのは馬鹿馬鹿しい事である。 メーカーが製品をディスコン(生産中止)にするには訳があり、多くの場合これまでより優れた新製品を開発し、これを売りたいからではないか。日進月歩の技術の世界にあって、旧製品が新製品に勝る性能を持つことは稀で、ほとんどの場合開発時期の新しい物のほうが優れている。 しかし、唯一、利益優先の経営姿勢から製造販売を止めた製品の中には良品があり、後年、名器の評価を得ることになる。これらの製品は、開発に係る経費が多く売れないために市場から消えたものが多い。技術者の開発意図がユーザーに正しく理解されなかったり、時代を先取りしすぎると商売として成り立たずに生産が中止されるのは資本主義の宿命である。D社やH社のスピーカー部門には優れた製品が多く作り続けてほしかったが、今や全面撤退し中古品しか手に入らない。誠に残念なことである。 |
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| (2005.7.4 記入) 好きこそ物の続くなれ? |
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| オーディオは趣味、というより道楽の一つだから楽しくなければ意味が無い。マニアなら三度の飯よりオーディオが好きという人が多いのではないか。私は食いしん坊なので空腹のまま没頭することは少ないが、時たま夢中になり食事の合図を鬱陶しく感じることがある。こんな時は大抵新しく手に入れた機器(新製品や新品とは限らない)をテストしている場合だ。やっとこさ買いこんで、期待を膨らませながらパッケージを開くときの楽しさは、金持ちにはわかるまい。ましてや、繋いだばかりの機器が狙い通りの音で鳴ってくれたときの嬉しさといったら、正にオーディオ道楽の極みだ。 しかし、何時もこんな具合に上手くいくとは限らない。オーディオ機器は大抵の場合、繋いだだけでは能力を発揮せず期待を裏切ることが多いので、しばしば失望させられる。この場合は相当落胆し好い加減に止めておこうかと考えるくらいだが、思い通りに鳴ってくれたときの嬉しさが忘れられず続けているのだ。「好きこそ物の上手なれ」という諺があるが、「好きこそ物の続くなれ」ともいえるか。 オーディオマニアの中には、接着剤や塗料からでるガスが原因で病気になった人までいるが、自作マニアは素人ゆえの無防備がもとで失敗することが多い。揮発性の溶剤や鉛など身体に有害な物質を扱うときは注意が肝要である。趣味は何より安全で楽しくなければ意味が無い。 |
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| (2005.7.19 記入) 手続きを楽しむ |
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| 世の中にはセレモニーが多いがオーディオにも儀式めいたものがある。その最たるものはアナログレコードの再生である。レコードとカートリッジのコンディションは温度や湿度の影響を受けるので、まず環境を整える必要がある。私の場合、乾燥の激しい冬は静電気の発生が酷いので加湿器のお世話にならなければとても聴けない。この季節はトーンアームの指掛けに手を触れただけで火花が飛ぶ。ディスクのクリーニングも大切だが、中袋から取り出したりクリーナーを当てただけでバリバリするので嫌になる。静電気アレルギーの私は湿式のクリーナーを常用していたが、専用液が高いのでアルコールと水を混ぜて自作、速やかに乾燥するようアルコールの比率を上げて失敗、レコードを痛めてしまった。結局、貧乏なリスナーは愛聴盤のノイズ発生に悩んだすえ素人の浅知恵を反省させられた。 アナログレコードの再生にまつわる失敗は他にも沢山あるが、先輩諸兄が縷々書かれているので改めて述べるまでもあるまい。パッケージメディアがデジタル化して、横着者のオーディオフリーク(自分のことである)はソフトの扱いで悩むことはなくなったが、アナログレコードのファンは今も面倒な手続きを楽しんでいるようだ。 ホームページを覗くとレコード再生に関する記述が多く、アナログオーディオの魅力に嵌った人が多いのに驚かされる。オーディオマニアは儀式が好きなのか。 |
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| (2005.7.27 記入) 聴いてよければ全て良し |
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| オーディオは耳で楽しむものであるから聴いて良ければ全てよしといえる。物理特性がどんなに優れていても楽しめる音でなければ詰まらない。技術者の中には特性に拘る余り音を聴かずに結論を出す方があるようで、このような人が作ったオーディオ機器は、つまらない音がするといわれている。いっぽう、生演奏を殆ど聴かずディスクだけで音決めをしたマニアの装置も不自然なことが多い。 我々オーディオフリークの目的は良い音で音楽を聴くことにある。一見不十分に見える物理特性のアンプやスピーカーが多くのマニアの支持を得ることは多く、現在の測定項目そのものが不十分であることを窺わせている。私も嘗て「こんな特性なのか」と驚くようなデータのアンプが他の製品より力強い音を聴かるので驚いたことがある。スピーカーにいたってはもっと極端で「周波数特性フラット」が全てではないと思う。一定の入力にどう反応するかは重要だが、無響室での測定は一つの客観条件における結果を得るだけで、様々な反射や響きの或る部屋でスピーカーがどのような振る舞いをするかは良く解かっていないようだ。マニアの多くは周波数特性フラットなスピーカーを良しとするようだが、ことはそれほど単純ではなく特性を鵜呑みにするのは危険である。ラッパはやはり自分の部屋で聴いてみるまでは判らない。 |
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| (2005.7.30 記入) 装置の肥大化 |
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| マルチアンプに拘ってオーディオ機器の構成が複雑になると、スイッチが増えるのでON/OFFだけでも面倒である。マイシステムの場合、プログラムソース部分のPCMチューナー、CDプレーヤー、DVDプレーヤーがあり、これにコントロール系としてプリアンプ、イコライザ゛ー、2台のディバィダー、が繋がっている。さらにパワーアンプが4台、プリメインアンプが7台動いているから全ての機器を動作させるためには17機種のスイッチを入れなければならない。これらを一つずつON/OFFするのは実に面倒であるから幾つかまとめて操作できるようにしているが、これとても順序がある。スピーカーの前にコンデンサーを介在さないマルチアンプシステムでは、電源投入時のショックからユニットを守るために細心の注意が必要になるからだ。何故これほど複雑にしなければならないのか?と時々疑問を抱くこともあるが、これ以上シンプルにしようにも他に方法が見つからないのだから仕方がない。 |
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| (2005.8.8 記入) 授業料を払う |
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| 全く不愉快なことだが世の中すべてカネしだいのようである。金を払わずに欲しいものを手に入れることはできない。オーディオも例外ではなく、良い音を手に入れるにはカネをかけなければダメだ。安物のオーディオ機器を何度買い換えても高級機のような美音は出せない。何故なら、低額機器と高額機器のグレードは開発段階で決められているからだ。車を例にすると解かり易いが、オーディオに限らずあらゆるメーカーは販売価格に応じた製品をラインナップしている。 資本主義経済において価格に応じた商品の提供は、ユーザーに対するメーカーの義務でもある。10万円の製品と20万円の製品が同じ性能であったら消費者は納得しない。ましてや数倍から10倍も価格差がある製品を比べて差が少なかったら、とても許してくれないだろう。真っ当なメーカーは、この事をよく承知しており、商品の価格対性能をシビアにランク付けしている。 しかし、マニアックなオーディオの世界では、生活必需品の世界で一般化している法則が通用せず、極めてコストバリューの低い商品が横行している。この種の製品は価格が高い故に展示品を借りて試すことが難しいから、無理をして買わなければ自分の耳で確かめることができない。結局、高い授業料を払わなければ本当のことは判らないのだ。 |
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| (2005.8.18 記入) 非音楽的オーディオ |
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| 極論の謗りを受けるのを承知で言う。オーディオマニアは「音楽」を聴いていないのではないか。 あちこち弄り回し装置のことばかり考えているマニアは、特定のプログラムしか聴かない。それも数少ないディスクを用いて同じところばかり演奏しているのだから音楽を楽しんでいるとは言えない。この人たちにとってプログラムソースは装置を構築するための道具に過ぎず、音楽は二の次三の次なのだ。本人がそのことに気づいていれば幾らかは救いがあるが、多くの場合その自覚もない。だからオーディオマニアと呼ばれるのかもしれない。 音楽はイントロからエンディングまで全部聴かなければ解からないと思う。少なくとも音楽家はそう考えて作曲し或いは演奏しているはずだ。それなのに不遜にも一部分だけを取り上げて云々するのは如何なものか。「木を見て森を見ず」というが、物事すべて全体を見ることが大切だ。一つ一つの「個」が寄り集まって全体を構成しているのだから、個の重要性は否定しないが、特定の部分に拘りすぎると全貌が見えなくなる。 生の演奏会では許されないチョイ聴きや繰り返し演奏はオーディオならではのことだが、この便利さがリスナーの間に本気で音楽に集中しない悪習を生んだとも言える。アナログディスクの時代は面倒だったリピート再生がリモコンのプログラムで簡単にできるようになったが、音楽を楽しむだけならこのような機能はいらない。 |
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| (2005.12.9 記入) プロ用アンプの実力 |
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| オーディオ機器の中で音質に最も影響を与えるのがスピーカーであることは論を待たない。しかし、アンプによる音の違いも無視できないと思う。オーディオマニアの大部分は民生用のパワーアンプを用いているようだが、この選択は正しいだろうか。 コンシューマー用のアンプは美しいスタイルが要求されるせいか外装にコストを掛けており、概して高価である。オーディオ機器は趣味性が強いものゆえ高価格でも売れてはいる。しかし、いわゆる「ハイエンド機器」のプライスタグは高すぎるのではないか。 一方、プロ機、取り分けPA用のアンプは無骨で機能第一の製品が多いようだ。それらは頑丈な躯体を持ち過負荷に強くガッシリした音楽表現が得意である。これらの多くは民生機よりロープライスで手に入れることができる。 私は、これまで他のマニアと同じように民生用のアンプを使用してきたが、最近、幾つかのプロ機(PA用)を試して、これまでの考え方を変える必要を感じている。「アマチュア用は繊細、優美」、「プロ機はタフなだけで荒削り」という先入観は捨てたほうが良いと思う。 |
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| (2006.1.16 記入) 「名器」は今でも良い音を聴かせるか?−1 |
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| ほかのジャンルのことは知らないがオーディオの世界には「名器」と呼ばれる製品が多く、これらの製品に拘りを持つ信奉者が存在するようだ。 スピーカーを例に挙げると、オートグラフ、パラゴン、ハーツフィールド、バイタヴォックス191、ローサーやグッドマンのフルレンジユニット、エレクトロボイスのパトリシアンシリーズ、ジェンセンの同軸モデルなど民生用。ウエスタン、シーメンス、アルティックなど超ど級のプロ機が登場する。 アンプの場合、マランツ7、マッキントッシュC22などのプリアンプ、パワーアンプなら、マランツ8B,9、マッキントッシュ275、マークレビンソンの初期モデルが頭に浮かび、クゥォードの管球アンプも挙げなければならない。 アナログプレーヤーなら、EMTのプロモデルやトーレンスのリファレンス,プレステージ、エクスクルーシブP−3、テクニクスのターンテーブルSP−10シリーズなどであろうか。 いっぽうデジタル機器は歴史が浅いためか「名器」の名を冠される製品が登場していない。 「名器」と呼ばれる機器は何れも海外製品が多いが、国内メーカーの製品が少ないのはオーディオの先進国が欧米であることに由来すると思う。しかし、国産品に名器が無いわけではなく、嘗てのYLやゴトウユニット、エール、TAD、パイオニア、テクニクス、ヤマハ、オンキョーのスピーカーの中に十分その名に値するものがあるし、ラックスやアキュフェーズ、ウエスギ、パイオニア、ヤマハ、日立などのアンプに優れた製品が存在する。 我が国の場合、採算重視の経営姿勢が原因で完成度が高まる前に製造中止になったモデルか多いが、海外のメーカーはマイナーチェンジを繰り返しながら息の長い物づくりをしているので、長期的な信頼を得て「名器」の評価を受けることになったのではないか。 これらの古の名器を実際に聴いてみると、長い時間を経てなお高い評価を受けるに相応しい音の良さを経験することがあるが、日進月歩のオーディオ界にあっていわゆる「名器」に最新の機器を超える性能があるのだろうか。 続く |
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| (2006.1.18 記入) 「名器」は今でも良い音を聴かせるか?−2 |
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| 古の名器は開発当時のノウハウと物量を惜しみなく投じた機器が多く、中には国の威信、技術力の全てを掛けたかと思われるような製品まである。これらの機器は、十分時間を費やして研究を繰り返した後に発表されるので、最近のモデルのように簡単に陳腐化せず長い間の評価に耐え得る高度な性能を持っている。 「名器」と呼ばれる製品(特にスピーカーの場合)は個性的な美音を奏でることが多く、これに惚れ込むと麻薬を服用したように虜になってしまうようだ。しかし、私が考えるにオーディオ機器は科学技術の産物・工業製品であり、楽器のように「響き」を自ら作り出す必要は無いと思う。 ただし、民生用のオーディオ機器の場合は単なる工業製品と異なり、藝術表現・音楽を楽しむために必要な「趣味の対象物」であることを忘れてはならない。このことに留意しないと測定に表れた数値だけを追いかけることになり、「物理特性は優れているが詰まらない音がする」と酷評されることになる。最近の測定技術はかなりの到達を示しているが、音質を評価するうえで万全とはいえず依然として不十分である。 これが「名器は耳で作るものであり、測定器だけでは決して作り出せない」といわれる所以であろう。 |
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| (2006.1.20 記入) 「名器」は今でも良い音を聴かせるか?−3 |
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| 過去の製品で「名器」と呼ばれる製品を聴いてみると、アンプはともかくスピーカーの場合、最近の製品に比べて周波数レンジの狭さを感じる。特に気がつくのは高域の伸び伸びとした表現が苦手なことである。この理由は、当時のプログラムソースや録音方法に不十分さがあり、再生側の高域のレンジを余計に拡げなくとも良いと判断されたためであろう。 しかし、逆に低域の豊な表現を求めると一概に現代製品が勝っているとは言いがたい。我が国の場合、最近のスピーカーは小型化が進行しており、「サイズが小さくても低音が豊かなこと」がセールスポイントになのか、軽々とした低域の再現に不満がある場合が多い。或る程度の量は出るが「ドカスカ」鳴るだけで「ふっくらした」表現にならないのだ。 古の名器は大型・重量級である場合が多く、容積500g、質量100s超クラスは珍しくない。これで低域の表現が小型製品に劣れば誰も評価しないと思うが、悠揚迫らざる低音が再生されるのだから脱帽せざるを得ない。 私は此れまで、「名器」と呼ばれる多くのスピーカーを聴いてきたが、中には経年変化で基本性能が衰えたのか感心できない固体もあった。作られてから数十年も経過したオーディオ機器は、適切な管理と十分なメンテナンス無しでは良い音を聞かせてくれない。やはり、名器の音を楽しむには、それに相応しい環境・部屋を備え、十分な努力と愛情を注がなければならないのだろう。こう考えると、お金持ち以外は名器の所有を望まないほうが良いのではないか。 続く |
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| (2006.1.23 記入) 「名器」は今でも良い音を聴かせるか?−4 |
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| 過去の製品で名器の誉れ高い機器も、デジタル化されたソースを入力して聴くと不満が出ることがある。これは、前述した周波数レンジの狭さだけでなく、プログラムソースのダイナミックレンジ拡大も関わっている筈だ。開発時期の古い民生機は大きさの割りに許容入力が小さくハイパワー再生に向いていない。このタイプのスピーカー(特にフルレンジのシングルコーンシステム)は連続して大きな信号を入れると良い音で鳴らないばかりか壊れてしまうことさえある。 いっぽう最近のスピーカーは数100Wもの入力にも関わらず、へこたれずに鳴ってしまうものがある。もっとも、この種のスピーカーは、再生帯域は広いものの変換効率が低く十分な音量で鳴らすには大出力アンプが必要なだけ、ともいえるのだが。 古の名器のうち家庭用のシステムは、当時流行った音楽、とりわけアコースティック楽器の演奏を楽しむために作られたものであり、今風のLOCKミュージックやシンセサイザーを多用したポップス、フュージョンなどを聴くために作られたものではない。過去の製品は、それに相応しい使い方があり、それでこそ真価を発揮すると言えるだろう。 続く |
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| (2006.1.27 記入) 「名器」は今でも良い音を聴かせるか?−5 |
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| 名器の誉れ高いスピーカーのうちプロユースの製品はPA用としての目的がハッキリしており、家庭で音楽を楽しむための道具ではない。シーメンスのシアター用やアルティックのホーンスピーカーは変換効率が高く遠達性(音の通り)は高いが、至近距離で用いると「強靭な音」を聴かせる。この種のスピーカーは、たいそう歯切れが良いものの中高域に癖があるように聴こえるのだ。逆に繊細な表現が得意なことで知られるクォードのコンデンサー型などは幾らパワーを入れても大きな音で鳴ってくれない。グッド・リプロダクション型の代表選手と言うべきタンノイのオートグラフはモノラルで使用するなら過不足が無いが、ステレオシステムにすると表現が過多になり、何を聴いてもオートグラフの世界になってしまう。このような音が好きだと言われれば何もいえなくなるが、ハイフィデリティー(高忠実度)を追求するなら他に別の方法があるはずだ。 オーディオ機器はプログラムソースの音楽を楽しむための道具であるが、時を写す鏡でもあり時代とともに進歩して然るべきだと思う。 |
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| (2005.5.31 記入) 業務用と民生用の違い |
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| オーディオ機器の場合、業務用と民生用のコンポーネントには大きな違いがあり、その一つはプライスタグである。私は最近、実験室で使うスピーカーを探すうちに驚くほど低価格なユニットを見つけた。このスピーカーは「衝撃特価」が売りで民生用のユニットの1/10程度の価格で販売されている。生産は恐らく人件費の安い発展途上国だろう。 業務用機器は民生機と違って純粋な商売道具であるから、何より経費を減らすためローコストであることが要求される。趣味のために使われる民生機はコストを度外視した過剰品質の製品が多いが、プロ機は、いわば消耗品なので機能優先であり併せてタフネスが求められる。頑丈で少々手荒に扱っても壊れず安定した性能を発揮してくれなければ仕事に差し支えるからだ。現場では必要にして十分であることが優先され、デザインは二の次である。 これに対してコンシューマーユースの製品は身近に置いて楽しむために美しいデザインが求められる。音が良くとも無骨なスタイルをしたユニットはユーザーの目を楽しませてくれないからだ。アナログ全盛時代に多くのファンを獲得したSMEのトーンアームやマランツのアンプは今も人気があるが、手元において愛するに相応しい容姿を備えていると思う。 「1,000円で売れない化粧品を5,000円に値上げして再発売したら売れるようになった」というエピソードがあるが、高価な商品はユーザーに心理的な満足感を与えるようで、コンシューマーユースの製品は概して高価である。 |
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| (2006.7.28 記入) 同じものは二つと無い |
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| この世の中に同じものは二つと無い。私も「○○と○○は同じ」と言ってしまうことがあるが、厳密に言うと「良く似ている」だけで実は「別のもの」なのだ。 たびたびスピーカーを引き合いに出すが、スピーカーユニットは1本ごとに特性が異なり、その個体差は無視できないレベルである。信奉者の多い有名海外製品は周波数特性を実測すると3dbものレベル差を示すことがある。これでは正確なステレオイメージの再現は望めないはずだが、ブランド信仰から抜け出せない多くのユーザーは、このことを知らずに有り難がっている。 放送局やレコーディングスタジオで音質監視用として働く「モニタースピーカー」は、要求が厳しく一定偏差の中に特性を揃えた製品が使われている。これとても古くなると経年変化で差が出ることがある。 民生用スピーカーに「モニター」の名を冠した製品は多いが、ほとんどの場合、実測データが添付されておらず個体偏差に関する信頼性は低い。このことは測定してみれば直ちに解かる。 コンシューマーユースの「モニター○○」は格好よいニックネームに過ぎず、プロフェッショナルユースのそれとは意味合いが異なるのだ。 |
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