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別に今回のゴムは何の気なしにしたものでした。わけあって上のゴム透明にしなきゃいけないと言われ、だったら派手に、あ!アメリカNBC放送のピーコックにしよう。そう思ってのゴムでした。 だのに、なんだっていうんだ。私の愛するNYにあんな事して!!ゆるさない、ゆるさない、そしてがんばれジョージ!がんばれアメリカ!「巨大なビルを壊せても、我々の自由の基礎を崩すことはできない」いいぞいいぞジョージ!!だからって第2のパールハーバーとか言わないで。
良心は正義の勝利において満足する。たか派のMKさんがいる限りだいじょうぶ。生ぬるい鷺沼あたりの反戦主婦、おだまりなさいな。黄色のリボンで応援する国民のように、NBCゴムで強いアメリカ応援しましょう、USA!USA!USA! |
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で、何で今回はこんな屈辱的透明ゴムを上につけてるかと言うと、両2番の歯が長年前歯の裏に隠れていてすれてなく鋭角なままなため、前歯とくっつかない。理科の授業で習ったでしょ、上流ほど石ころはとがってるって。それと同じ。すれてすれて丸くなる。口の中で瀬戸内寂聴的摩擦が日々行われているとの事。そのため2番の歯をけずりました。で、閉じるための連結ゴムは透明しかなかったのであります。 それにしても透明ゴムって怖いわよ。カレーでなくともすぐに染まってしまう。純情そうな女ほど気が強いように、透明ゴムって思い通りにいてくれない。酒井美紀かお前は。 ところで連結ゴムで閉じるこの動きは、ここ最近の3D的動きと違い、矯正した当時のような痛さ。痛いってかむずがゆい。矯正中の痛みにもいろいろあるのね、しんみりと秋の扇。
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おまけ ◇◆稚内旅物語り◆◇ 9/13/〜9/14 |
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二百十日の前後ろと昔の人は言いましたが、台風は来るはテロはあるはで波瀾の9月、遅めの夏休みを取り、行ってきちゃったよ最北の町稚内。自分をどこまでもインへ追い込みたかったのよね。うらぶれてみたかったのよね。でも結構おもしろい町稚内の旅物語り。 廃線探索でここらへんまで来た事はあっても電車で走破した事なかったってのも理由のひとつ。だのでスーパー宗谷に乗り列車5時間の旅を満喫。そうさ、途中あの塩狩峠も通る、信夫さん列車止めてください。 山の中走ってたかと思うと突然海が見えたり、最高の宗谷本線はついに北端の駅稚内へ到着。三重旅の尾鷲のように、なぜだかビジネスマンがやたらと多い駅。きゃっきゃ喜んで最北端の線路看板を撮影しに線路へおりる。井の頭線でやったら死ぬ行為も線路がないから平気よね〜そして駅前にさっそく歯医者発見!アイ歯科。アイ先生御連絡ください、稚内での矯正率教えて。で、驚いたこの車。誰もが警察車両だと思うでしょ?違うのこれは稚内の運送会社。三軒茶屋あたりでやったら即パクられるわよ。
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で、何しよう?稚内で。特に目的もなくやってきた稚内。決してグルメではない私。やる事も思いつかず困っているとちょうどバスツアーがあるよと教えてくれるホテルの人。むむぅ、きっと何かある!そう思い集合場所に行くと、さっそく悪そうなバスガイドさんが待ってるし。つまんなそうに仕事をする姿を見つつ、稚内ツアーがはじまりました。 ツア−参加総数約10名。うち年金生活者9割強。たのちぃ。いや稚内、かなりの歴史を感じました。だって冷戦時代、ここはピリピリムードだったようです。レーダー基地やら要塞を見て喜ばない訳がありません。 特にたのちかったのが稚内博物館って名前だったっけ?ここが樺太への旅立ちの場所だった頃から、サハリン探索の歴史やら敗戦時引き揚げのお話の数々。夏は靖国、秋は稚内。「皆さんこれで最後です。さようなら、さようなら」、北のひめゆりの乙女と呼ばれた9人の少女達も拝め、ああ今の繁栄はあなたたちの捧げた命のもとにある、と実感。でもね、コースチャ坊や。いたずら坊やのやけどを救ったの、もう忘れてやしないけ?コースチャパパとローソンでばたり会った事あったよ昔。
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そして何よりもうれしい事、それはサハリンが肉眼で拝めるのです。あばずれバスガイドさんによると、普段はもっと見えるそうですが、写真にしてもわかるでしょ?サハリン。わずか43km先に樺太。船で5時間ちょい。すげぇぇ行きたい パパンは天津で生まれました。パパンのママンはサハリンで生まれました。広かったの、昔の日本って。その暮らしていたと言う町豊原(現ユジノサハリンスク)の写真を博物館内で見つける。しかも南樺太との国境線に置いていた大日本帝国の菊の御紋!、こっそり置き返してきちゃおうかね、また。いや、ここに断言!サハリンに行く! |
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さて、稚内には特に目的もなく来たと言いましたが、ひとつ行きたいとこがありました。それは当日裏掲示板でも盛り上げたように、ここには最北の廃線跡があるのです。 国鉄稚泊行路:宗谷線開通の大正13年翌年より敗戦の昭和20年8月20日18時まで存在した、稚内-大泊(サハリンコルサコフ)間連絡線への接続列車が、現在稚内駅よりひとつ先の稚内桟橋駅まで走っていました。岸壁すれすれを走るため、古代ローマ調のドームが覆い、風から列車をまもりながら国際情勢上、廃止ではなく一事休止と言う形で昭和60年頃までは錆びた線路があったらしい。今は保存していた客車も廃棄され、車輪だけがポツリと置かれているだけ。 ちなみに、宗谷線以外にも稚内に行くには以前天北線と言うのがありました。音威子府から別れ浜頓別経由で南稚内へ接続してまして、そこの探索もその昔かなり真剣に致しました。コレ、松音知駅跡の画像、初代Studio MKのタイトル画でした。
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最北の地稚内は当然の事、日本で一番早く日が沈みます。日本で一番早く夕日が見えます。 背の高い僕には、人より早く夕日が訪れます ....ならば、宗谷の岬で一番背の高い人に、一番早く夕日が訪れるはず。デカイわたし?いいえ、見渡すとそこには間宮林蔵の銅像が。サハリンが島である事を発見し、日本人で唯一海峡に名を残す彼に、誰よりも早く夕日が訪れるのです。 【稚内旅おわり】 |
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