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◇ 平野啓一郎 ◇
「葬送(上・下)」(新潮社)
買って以来、何年間本棚で寝かせていたことか・・・。あまりのボリュームに、なかなか最初の一歩が踏み出せませんでした。読み始める前は、「日蝕」をはじめとする難解な文章をちょっと予想していましたが、今回は、多少の多少の漢字使いの難しさを除けば文章そのものは比較的平易で読みやすい一冊でした。パリを主な舞台に、音楽家ショパンが生きた最後の数年間が描かれた物語です。音楽家であるショパンと、彼を取り巻く様々な人々の群像劇ともいえる一冊で、才能あふれる芸術家たちの生き方や思いが、実に鮮やかに描かれています。音楽家として天才的な才能をもちつつ家族の問題に思い悩むショパンや、芸術家のあり方、生き方について思いを巡らすドラクロアなど、個性あふれる数多くの人々の心情を、まるで生きているかのように描き出し、これだけの大作に仕上げた作者の力量にはただただ感服します。
「文明の憂鬱」(PHP研究所)
2000年1月から2002年1月までの間に雑誌「Voice」に連載された、平野氏のエッセイ集。全部で25編が収められています。これまで平野氏の様々な小説を読んできて、その作品作品で好き嫌いはあるし、作品によってはあまりに難解なものもありますが、この人はやはりものすごい才能を持った人なんだろうな・・・とつくづく感じています。希望的な想像ですが、現代を代表する作家の一人として、後世に名を残すのではないでしょうか。
エッセイというのは、非日常の世界に読者をいざなう小説とは異なり、作者個人の特質がストレートに出てくるものです。天才の頭の中は一体、どうなっているのだろう・・・この人は日ごろ、どういうことを考えて生活しているのか・・・ということに対する興味は尽きないわけで、そういった意味からもこの本はとても興味深々でした。
「文明の憂鬱」というタイトルどおり、「科学信仰時代の人間の死」「大量輸送時代の伝染病」「携帯電話の恋愛学」など、大半は現代社会を取り巻く様々な事柄についての平野氏の思いが綴られた内容です。実際に読んでみると、そんなに突拍子もないことは書かれておらず、わりと常識的な内容が多かったので、ちょっとホッとしたような、拍子抜けしたような、何ともいえない気分でした。エッセイを読む限りにおいては、ごく普通の好青年という人物像が浮かび上がってきます。その普通さ加減と、小説の世界とのギャップがまた、興味をそそられる部分でもありますが・・・。中には、現代の電子ロックと昔ながらのギザギザの鍵とを比較して、形あるものにこそある種の色気を感じるといったことが書かれた「錠と鍵を巡るイメージ」や、森鴎外の、「鴎」という漢字の旧字体と略字体に関するこだわりについて書かれた章など、なるほど面白い視点だなと感じるものもいくつかありました。
平野氏の小説の中では、上下巻2巻からなる長編小説「葬送」をまだ読んでいません。私が好きな塩野七生さんが絶賛した小説でもあるので、いつかは読みたいと思っているのですが・・・。この秋にでも頑張って読んでみようかな・・・・。
「高瀬川」(講談社)
1999年から2003年までに書かれた4つの作品、「清水」「高瀬川」「追憶」「氷塊」が納められた1冊。この一冊も現代が舞台ではあったのですが、正直、「清水」「追憶」に関しては、独特の難解な言い回しのオンパレードで、よくわかりませんでした。特に、「追憶」のような散文的な作品となると、私にはちょっとお手上げです。その点、「高瀬川」「氷塊」の2作は安心して読めました。
若手作家と女性編集者との一夜を描いた表題作「高瀬川」は、100%ではないかもしれないけれど作者本人がモデルになっているのではと思わせる作品でした。内容としては、それほど目新しさは感じなかったものの、現代社会の中での男女のひとつの情景が、必要以上に美化されず、リアルに描写されていると思いました。
今回、最も好きだったのは最後の「氷塊」。上下2段組になっており、上段は上段だけ、下段は下段だけ読み進むようにできています。同じ出来事に対し、2人の人物の視点からの物語が上下それぞれの段で独立して展開していくという凝った構成です。同じ場面では上下ぴったり同じ行で同じ話が展開するなど、形として非常に良く出来ていることにまず感心しました。技巧的といえば技巧的なのでしょうが、「少年」と「女」を主人公としたそれぞれの物語も面白かった・・・。特に下段に描かれている「女」の物語は、私自身が主人公と同じ立場にいるわけではないけれど、確かにこういう思いってあるよなぁ・・・と、大きく肯けるような女性心理が見事に描写されていました。つまり、男性側から見て、きっと女性はこうだという思い込みで描かれた女性像ではなく、より現実に有り得る女性の一つの形だと思えました。これが若い男性作家によって書かれたものだということに、ちょっと凄さを感じてしまいます。
「滴り落ちる時計たちの波紋」(文藝春秋)
「白昼」「初七日」「珍事」「閉じ込められた少年」「瀕死の午後と波打つ磯の幼い兄弟」「les peties Passions」「くしゃみ」「最後の変身」「バベルのコンピューター」という、全く異なるタイプの9つの作品が収められた平野氏の最新作(2004年8月現在)。
これらの中で個人的には、主人公の父親の死とそれを取り巻く家族それぞれの様々な思いが描かれた「初七日」が最も気に入っています。情景描写、心理描写が非常に精密で、時にはちょっと理屈っぽく感じるときもあるけれど、一般的な現代人の人間模様が巧みに描かれていました。
引き篭もりの青年がパソコンに残した手記の形をとった「最後の変身」も、なかなか衝撃的な内容です。パソコンの手記ということでこの作品だけは横書きになっており、右開きの本としては多少読みにくくもありましたが、慣れたらさほど抵抗はありませんでした。主人公に共感できるかどうかは別として、現代のごく普通の一人の若者の心理が見事に綴られており、考えさせられる内容でした。
他、最初から読んでも最後から読んでも同じになる短編「閉じ込められた少年」や、2編で1対となった「瀕死の午後と波打つ磯の幼い兄弟」などは、非常に冒険的に思える作品で印象に残っています。
全体的に平野氏の作品は、難解な文章が多いので意味がよくわからないまま通り過ぎていくことも多く、本書も例外ではありませんでしたが、中には「初七日」などのように、読みやすい平易な文章でかかれたものもあり、ホッとしました。また、前に読んだ「日蝕」や「一月物語」と比べると、舞台が現代であることもあり、故意に古い漢字が多用されていることもなく、その点は比較的安心して読める一冊ではありました。
これまでにいくつかの平野氏の作品を読んできて、氏は物語の内容だけではなく、使用する漢字、文体、印刷の体裁など、全てを総合して「本」という一つの作品だと捉えているのではないか、ということが何となく理解できました。上述した「閉じ込められた少年」「瀕死の午後と波打つ磯の幼い兄弟」などは、多少、技巧に走りすぎているかなという印象もありますが、それ以外の作品も、よく見ると作品ごとに行間のスペースや1行の字数、漢字の使用頻度など、細かい部分にも違いが見られます。ただ、こういった形へのこだわりが、私のような一般人の読者に対してどれだけ効果的かどうかは、多少、疑問の残るところではあります。
「一月物語」(新潮社)
明治時代の日本を舞台にした長編小説。不思議な縁に呼び寄せられるようにして山奥に迷い込んだ主人公の青年が体験した幻想的な恋愛の物語。山奥で蝮に噛まれた青年は、老僧に助けられ、しばらく老僧の庵で過ごすうち、夜な夜な夢に現れる美しい女に強い愛情を抱くようになります。実はその正体は、庵の裏にあるお堂に一人住む女であり、蛇と契った母親から生まれたと言われる不思議な過去を持つのでした。ストーリーに関しては、女が主人公の青年を呼び寄せた必然性が今ひとつピンと来なかったりしましたが、先に読んだ「日蝕」と同様、古い文体と漢字が多用されていることによって、幻想的な雰囲気がより強く感じられるように思えました。
「日蝕」(新潮社)
1998年に文芸誌「新潮」に発表された、当時23歳の平野氏の芥川賞受賞作品。15〜16世紀にかけてのフランスのリヨン近くのとある村で、ドミニコ派のある司祭ニコラが体験したことの回想録という形で綴られた物語です。かなり宗教色の強い物語で、異端裁判や錬金術などさまざまな事柄が取り扱われていますが、私自身、キリスト教の話はちょっと苦手なせいもあり、非常に難解に思える本でした。少し前に読んでいた塩野さんの「神の代理人」や「ルネサンスとは何であったのか」などでフランチェスコ派やドミニコ派のことが触れられていたので少しは理解の助けにはなりましたが・・・・。また、著者の若さからは考えられないような古い仮名遣いと文体が使用されており、正直言ってルビがふっていないと読めない文字も多々ありました。しかしその文体の古臭さが、物語全体に漂う雰囲気をうまく醸し出しているような感じもします。個人的な感想としては、物語全体をとおしてキリスト者である主人公が錬金術師との出会いや魔女裁判などの体験をとおして宗教のあり方や本質について考え、自身と葛藤する様子が非常に生々しく印象に残っています。狂信的ではなく、何事に対してもまず疑問をもちながらあたるタイプの主人公は、宗教人でありながらむしろ科学の目をもった、どちらかといえば当時の少数派だったのではないかなと思いながら読んでいました。が、やはり私には作者が表現したかったことの半分も理解できていないんじゃないかという気がします。若くしてこういう内容が書けるという作者に対して、ただただ圧倒されるばかりでした。
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