去る6月28日に東京都教育委員会にあてた要望の署名運動を開始した。志沢さん(3期)からお電話を受けて以来,約3週間で22人の発起人を集めて開始することが出来た。丁度50年前、中学3年生の時に、教室で原水爆禁止の署名を集めようとして,職員室に連れ込まれたときの新鮮な感覚を思い出している。
あれから50年いろいろなものが変わった。「平和と民主主義」を旗印にした政治勢力は昨日の都議選でも退潮著しい。しかし、署名運動を始めたのだから発起人の責任としてこの運動が成功するように最善を尽くさなければならない。この運動は、ささやかな闘いではあるが、まずは「敵を知る」ことが勝利のための条件であろう。そこで、ヤフーで東京都教育委員会と東京都教育庁のホームページを検索してアクセスしてみた。
東京都教育委員会
http://www.kyoiku.metro.tokyo.jpは、都知事から独立した組織で6人の教育委員を頂点に6部20課を擁する巨大な組織であった。官僚組織を束ねるのは、6人の委員の互選で選ばれた「教育長」ということになっている。教育委員会のメンバーについては別稿
(教育委員はどんな人)で個別に紹介する。
一方教育庁は、都庁のHPのなかにある。
http://www.metro.tokyo.jp/ANNAI/TOCHO/SOSHIKI/kyoiku.htm
によれば、教育委員会[教育庁]という扱いで、行政委員会(都には教育・選挙管理・人事・監査・公安・労働・収用の6委員会がある)に実働部隊(教育庁・監査事務局・警視庁)が直結した形になっている。教育庁にも6部20課があり、名前も教育委員会と同じ部課である。ということは教育庁と教育委員会は同じものなのか?教育庁のボス教育長と教育委員会のボス教育委員長はどんな関係なんだろうか?これが小論のテーマである。
民主主義の原理として3権(立法・行政・司法)分立を教わったのは小学校のころだから55年の昔になる。会社に入ってからも「Plan/Do/Seeのサイクルをまわすこと」をそのまま仕事にしてきたので、3権分立については、しっかりと身についているつもりである。まして、会社経営に携わった期間の最後の9年間は、監査役という立場であったが、この9年で監査役の権限と責任がどんどん大きくなったのを経験した。象徴的なのが監査役の任期で、10年前の2年が、3年に延び、今では4年になった。株主総会の運営も10年ですっかり変わった。経済界には民主主義と順法思想(コンプライアンス)の風が吹いているといえる。
ところで、この3権の他に、いくつかの行政から独立した委員会があってはじめて民主主義が機能するのも、うろ覚えだが覚えている。教育・選挙管理・人事・監査・公安・労働・収用などの仕事が首長の意のままになったとしたら、たとえ選挙で選ばれた首長であろうと必ず腐敗することは、アメリカ映画にはよくでてくる。ところが教育委員会が名前だけ辛うじて残っているが実態は教育庁に乗っ取られたらしい。東京都だけの特殊事情ではない。
いまから49年前の1956年5月26日に、私は仲間達(斎藤/岩田/野島ら)と生まれて初めてデモを組織した。体育館で臨時生徒大会を開いて「教育3法に反対する」ことを決議し、自治委員会と有志約30人が日比谷野外音楽堂の全学連の集会とそのあとのデモに参加したのである。おぼろげな記憶ではイギリスの核実験に抗議してイギリス大使館にもいったような気がする。当日の
「自治会ニュース」によれば、このときの教育3法というのが、教育委員会法・教科書法・臨時教育制度審議会法の3つであった。「もはや戦後ではない」という経済白書で明けた年のこの反動攻勢は、日教組を主力とする労働組合に学生の力もあってほぼ阻止したと記憶していたが、実は教育委員の任命制はこのとき決まってしまったのである。「ハトマンダー」と呼ばれた小選挙区法や教科書法を阻止して3勝1敗と浮かれている間に。このとき、教育予算と委員公選が取り上げられた。さらに1999年に、教育委員会という行政委員会に教育庁という行政組織のボスが正式メンバーとして入り込み、行政と行政委員会が一体不可分となってしまった。かつて議員のためにあったプラス1が、官僚のためのものに変わった。もはやいかなる牽制機能も期待できない形になっているのだ。
教育委員は、「当該地方公共団体の長の被選挙権を有する者で、人格が高潔で、教育、学術及び文化に関し見識を有するもののうちから、地方公共団体の長が、議会の同意を得て、任命する(地教行法第4条第1項) 」ことになっている。ところが1999年の改悪で、「教育委員会に教育長を置き、当該教育委員会の委員(委員長を除く)のうちから、教育委員会が任命する。教育長は、教育委員会の指揮監督の下に、教育委員会の権限に属するすべての事務をつかさどる。」ことになった。
行政委員会の監督下に行政機関が入ったように見えるが、実は教育行政が首長のもとに一元化されたのである。教育長は委員から選ぶことになっているが、仕事をもった有識者が休職して教育長になることはない。当然、官僚組織のしかるべきレベルの人材が教育長になる。今回も、「浜渦問題」の余波で石原知事の覚えめでたい横山洋吉教育長が副知事に栄転し、後釜には教育庁総務部長から、2003年に初代「危機管理監」に抜擢されていた中村正彦氏が「順当に」舞い戻った。そうでなければ、6部20課の巨大組織は掌握できない。
これは、「スタッフとラインというアメリカ流の考えかたが根付かなかっただけのこと」と見逃すわけにはいかない重大な変化であった。私は6年前にも、(49年前と同じように)うっかりして見過ごしていた。
2001年の中央省庁の改編が、政治主導を掲げながら、官僚の力を削ぐことが出来なかったことははっきりしてきた。教育の世界では、学校までが官僚統制の枠に組みこまれていく。「強制しない」はずの君が代・日の丸に従わない教師に対する処分が続いている。このようにして、民主主義は、形骸化していく。
帝国憲法と教育勅語が一体不可分なら、日本国憲法と教育基本法も一体不可分である。どちらも憲法の公布後・施行前にできた。そして教育基本法を実行すべき教育委員会法は基本法に1年遅れて新憲法下の議会で定められた。その第一条には
第1条 この法律は、教育が不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきであるという自覚のもとに、公正な民意により、地方の実情に即した教育行政を行うために、教育委員会を設け、教育本来の目的を達成することを目的とする。
と書かれている。そして、教育委員は都道府県7人、市町村5人でそのうち一人を議会が議員から選び、残りは直接選挙で選ばれる。まちがいなく行政機関から独立した存在であった。
この法律が、5・26の1ヶ月後1956年6月30日に廃棄されて「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」(=地教行法)という長い名前の法律に変わったときから、憲法―教育基本法の民主主義体制を切り崩す動きが始まったのである。名前まで変わったのは、1条が障害になったのだろう。私は、名前まで変わったのを49年経ってから知ったことを恥ずかしく思う。いま動くのは49年前の反省からである。
具体的にはこのときに、教育委員の公選制が廃止され、教育予算の権限が教育委員会から首長に移された。教育委員会法では、事務局の責任者である教育長の仕事は「教育委員会の行うすべての教育事務につき、助言し、推薦することができる(52条の3の2項)」であったのが、地教行法では「教育長は、教育委員会のすべての会議に出席し、議事について助言する(17条の2項)」ことになった。教育事務についての助言が議事についての助言に化けたのである。このとき教育委員の数は2名減員され、議会からの委員はいなくなった。行政権限の拡張・立法権の後退である。民主国家から官僚専制国家への動きである.。
これが、完成したのが1999年の地教行法改悪である。教育長は助言する権限を持ったままで、いつのまにか委員会の正式メンバーに加わったのである。条文の上からは、教育委員が議員や公安委員を兼ねられないこと、公務員であってはいけないことなど(6条兼職禁止規定)を残したままで、例外として公務員が教育長として委員になる道を開いたのである。不思議なのは、「兼職禁止で選んだ委員の互選で常勤公務員である教育長を選ぶ」というわけのわからない規定である。1999年の内閣法制局長官は何をしていたのだろうか。実体としては、民間から5人の教育委員を選び、役人から選んだ教育長のリーダーシップのもとで委員会を構成するということになる。民間からの委員は、諸官庁の審議会委員とまったく同じ地位になってしまったことになる。実権を持った首長直結の教育長とお飾りの教育委員長という構図である。
しかも、東京都の場合、そのお飾りに慎太郎人脈というべき、人格にも識見にも疑いのある人々が多い
(教育委員はどんな人)のだ。週刊誌によれば慎太郎は、「純ちゃんは8・15に靖国参拝するよ」といっているそうである。慎太郎、純ちゃんに中山文部科学省・町村外相を加えた4名は、ヤマネコ(ヤマトのネオコン)とも言うべき存在で、放言癖があるのではなく、確信犯として日本の政治をあらぬ方向に導こうとしている。中曽根元首相の風見鶏ぶりが懐かしく思い出されるような異常事態が発生している。
まさに「圧制門に迫り来る」というべき事態である。和光学園高校の森下校長(都立11期生:呼びかけ人に加わってくださった)は、2004年の新入生歓迎の辞で、母校の「古き甍」を引用して、警鐘を鳴らしている。
http://www.wako.ed.jp/s/newsevent/now/2004/now0409koucyo.htm
「夜空に響く歌声は われ等が自治の賛美なり 祝う宴の杯に」を一節抜かしたのは喫煙・飲酒対策に悩む校長のゆえというのは読みすぎだろうか。
「八雲が丘になお残る うまし伝え」は(逆説的ながら)生徒の不満から伺われる。
http://worlds-end.seesaa.net/article/49989.html
現役の先生と生徒たちだけに、6年制の「新城を築く」のを任せておくと、(教育庁との力関係から)できあがってみたら、1945年に崩れたはずの「古き甍」になってしまうのではないか。
蟷螂の斧でもいいから、振り上げたい。
歴史から学ぶものの一人として。50年生きてきた継続として。
参考
1889.2.11公布1890.11.29施行 大日本帝国憲法
http://www.houko.com/00/01/M22/000.HTM
1890.10.30発布下賜 教育勅語
http://archive.hp.infoseek.co.jp/law/1890KyouikuChokugo.html
1946.11.3公布1947.5.3施行 日本国憲法
http://list.room.ne.jp/~lawtext/1946C.html
1947.3.31公布施行 教育基本法
http://www.mext.go.jp/b_menu/kihon/about/index.htm
1948.7.15公布施行 教育委員会法
http://www.houko.com/00/01/S23/170.HTM
1956.6.30公布 地方教育行政の組織及び運営に関する法律
http://www.houko.com/00/01/S31/162.HTM