菅 創 吉 の こ と



すどう美術館と菅創吉の関わり

 
 1982年須藤館長夫婦が伊豆にある20世紀美術館を訪れた時、たまたま「菅創吉の世界展」という企画展をやっていた。まったく名も知らない作家ではあったが、絵を見て2人ともすごい衝撃を受けた。
 絵は抽象に近く、具象ばかりみていた目にはあまりにも異質で一瞬とまどいを感じた。しかし地味な色調でありながら、決して暗くなく、暖かみやユーモアもあり深い味わいを覚えた。そしてその絵の世界に引き込まれてしっまた。
  そしてその場でどうしてもこの作家の作品が欲しいとの衝動に駆られ「壷中」という作品をてに入れた。菅創吉はその直前77歳の生涯を閉じたところであった。この高価は衝動買いで〔壷中〕を手にしたことが原点となり、菅創吉の作品や好きな絵の収集が始まった。



壺中   38.0×46.0 cm  1975

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 菅 創 吉 の 年 譜


 1905(明治38)

0

5月6日、姫路市魚町で父・彼末亀太郎と母・みよの間に、7人兄 弟の4男として生まれる。(本名・彼末巳之助)

 1920(大正 9)

15

姫路市男子高等小学校を卒業。画家を志すが、家庭の事情から上級学校への進学を諦めて奉公に出、画家を志して独学を始める。

 1921 (   10)

16

このころ家を出、姉・まさの援助を得て一時期神戸で日本画家、秋 吉蘇月に師事する。

 1925(   14)

20

上京し、講談社などの図版カット、政治漫画などを菅大作の名で描き始める。

 1938(昭和13)

33

4月、満州鉄道牡丹江鉄道局旅客科に入社し、単身満州に渡る。広報・宣伝関係の仕事をしながら制作を続ける。

 1941(昭和16)

36

このころ画号として菅大作もしくは被末龍平を名のっている。
2月、以前からの演劇に対する興味から「劇団牡丹江」結成。小山内薫の「息子」一公演において、火の番をする親爺に扮して出演。このころ森繁久彌、芦田伸介らと知り合う。

 1950(  26)

45

東京に移り、東京毎日新聞社編集局に属託として勤務、2年半ほど の間、毎日新聞紙上に挿絵・漫画などを描く。このころ手塚治虫、馬場のぼるらと親交を持つ。

 1959(  34)

34

菅大作の名で“なすび画廊”で個展を開く。以後は菅創吉として、毎年のごとく個展を開催、発表を続ける。この個展に出品した『夢』が、その後の方向を決定づけるものと在となる。

 1962(  37)

58

11月、東京渋谷観光荘(旧鍋島邸)“めざめの間"に『利休』他2点の壁画を描く。

 1963(  38)

58

5月、ワールド・ビジョン総裁ポップ・ピアス博士の招きにより渡米し、最初ロサンゼルスに住む。
以後滞米の約10年間、各地のギャラリーで個展による発表を続ける。

 1964(  39)

59

このごろから、スクラップななどを利用した半立体作品を手がける。

 1966(  41)

61

ニューヨークで、猪熊弦一郎をはじめとして元永定正や中西勝ら日本からの多くの作家と知り合う。

 1968(  43)

63

この夏、メキシコにスケッチ旅行に出かける。

 1971(  46)

66

12月、パリにスケッチ旅行に出かける。

 1972(  47)
 

67

4月、帰国。帰国後の第1回目の個展を姫路で開催する。以後、東京を中心に個展によって発表を続ける。

 1982(  57)

77

3月、池田 20 世紀美術館において「菅創吉の世界」展が開催されるが、会期中の4月8日に3度目の入院。
4月29日14時57分、胃癌のため入院先の東京都港区の虎ノ門病院で没。

 1990(平成2)

− 

池田20世紀美術館において「回顧展・菅創吉の世界」が開催される。

 1991(   3)

− 

姫路市立美術館において「回顧−菅創吉」展が開催される。

 1994(   6)

− 

すどう美術館において「菅創吉特別展」が開催され、その第2部デッサンが展示される。

 1996(   8)

− 

すどう美術館(町田)で「いのちのつぶやきが聞こえる−菅創吉特別展」が開催され、NHK{日曜美術館」で40分紹介される。




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