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点描
探偵物語(九)
園 部 雄 作
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唐突にもここで、私のひそかに探偵していた近況報告をしたい。ほかでもない、実はすどう美術館から探偵の依頼を受けていたのだ。もう十年も前で、まだつくし野の私邸を美術館にしていた頃である。いったい何の探偵を頼まれたのか、と怪訝に思う人もいるかもしれない。といっても、とくべつ怪しむにたりない。
「抽象絵画」を逮捕してくれ! ということなのだから。つまり、簡単にいえば「 抽象絵画の世界」という講座を六回ほど行ったということである。そのときの私は犯人を追いかけるのに急で、乏しい知識や情報や自分の体験をつなぎ合わせての、ジグザグ追跡ではあったが〈犯人を捕まえた〉という感触はあった。しかし、その報告書の作成となるとまた別で、あらためて一から取り組まざるをえず、遅れて遅れて今になったということであります。つまり『抽象絵画の世界』を刊行したということなのでありました。
ここで私は、物の外観を破壊したはずの抽象画家たちの眼の前にも、具象画家たちと同じくモデルに相当する物の姿が現れ、結果として双方とも同じような立場に立たされた、というショッキングな捜査報告なども記した。 (詳しくは同書を)
☆『本』はすどう美術館にあります。
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(こみてぃす 第23号より) |
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スペイン三都市 展示の旅
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マドリッドから北へ飛行機で一時間、ビーゴという町で開かれるアートフェアPURO ARTEに出展するため、作家6名山口敏郎、小柴完夫、遠藤茂子、野口節子、朝比奈賢、後藤雅樹、館長、スタッフ高橋他の10数名が11月半ばのスペインに集合した。
PURO ARTEはアートの発展のためにビーゴ市がバックアップして企画された、今回が第1回目の新しいアートフェアであり、各国から約50の画廊が出展した。すどう美術館は同行した6名の他、利根川佳江、大矢雅章、周平を加えた9名の作品を展示した。様々な素材、技法による平面、立体の作品をとりまぜた展示は、それぞれの主張がお互いに刺激しあいながら、ブースとしては調和した空間となり好評であった。会場には家族連れでの来場が多く、作品をひとつひとつ静かにじっくりと見る人が多いことが印象的だった。その中で販売のチャンスも得ることができた。
5日間の会期後は、さらに北へ登ったラ カリダという街での展覧会場へ、新たに作家2名渡辺洋子、皆藤由美子が合流して向かった。これは、9月にすどう美術館で展覧会をした彫刻の作家エルミニオさんが、日本の作家の展覧会を開きたいと、カリダ市にはたらきかけてくれたことから実現した。PURO
ARTE最終日に会場にご夫妻で来られ、我々をラ カリダまで先導し、展覧会と滞在中の全てをお世話してくださった。日本での展覧会がきっかけとなり、こうして遠い街での展覧会が実現したことはたいへん貴重であり、アトリエやご自宅にも招いてもてなして下さった暖かい心遣いには、感謝しきれない思いでいる。会場は11人の作品をゆったりと展示できるよい空間で、オープニングには大勢の人が集まりテレビなどの取材も入った。ほとんど接点がなかった日本の作家の作品を、非常に関心を持ってストレートに楽しんでくれた様子を嬉しく思った。
そして翌日、3つめの展覧会場となる山口さんのご自宅、SPACE TAOへとマドリッドへ向かった。SPACE
TAO は山口さんが日本の作家を広く紹介していくために始められた住居を活用した展示スペースである。ここでは各作家小品を中心に40点近くを展示した。オープニングにはあふれるほどの人が来てくれ、熱心に一人一人の作品を見て作家とも会話をかわした。スペインの人はいくらでも会話が続く。それだけ話す内容の引き出しを持っていることや、コミュニケーションの豊かさには、学ぶべきところが大きかった。
今回、この3ヶ所での作品展示のきっかけを作り尽力してくださったマドリッド在住の作家山口さんと、小柴さんの細やかなサポートは、わたし達とスペインの人との間に入りながら、単に通訳することにとどまらず、自然にスペインの生活、文化、習慣、歴史を感じさせてくれた。そして同行した作家の皆さんが、作品だけでなく人間的にも魅力あふれるメンバーであったことが、この全行程をより豊かな旅にしてくれたと思う。
スペインで感じた、自分が世界の中の一人だという意識と、広い視野で物事をとらえることの大切さを忘れずに、日々の仕事の中でこの経験を生かしていきたい。
(すどう美術館スタッフ 高橋玉恵)
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(こみてぃす 第22号より) |
菅創吉を語る会
(東御市梅野記念絵画館)
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長野県の上田の近くに町村合併でできた東御(とうみ)という市があり、そこの「芸術むら公園」に梅野記念絵画館・ふれあい館がある。館長の梅野隆さんが父と二代で集めた青木繁、菅野圭介、坂本繁二郎その他の多数の作品を市(当時は北御牧村という村であった)に寄贈し、ご自分の名を冠した美術館になったものである。まわりにはきれいな池があり、遠くに見える風景も美しく、素晴らしいロケーションの中に位置している。
梅野館長はアートをこよなく愛している人であり、特に物故作家の作品を発掘、顕彰をしてきたことで有名であるが、その中で私の美術館と縁の深い菅創吉の作品についても高い評価をし、同時にその菅創吉を世に出したのは須藤さんと認めてくれている。
さて、その梅野記念絵画館で三ヵ月にわたり「菅創吉の世界」展が開催され、会期中の七月二十九日に「菅創吉を語る会」が企画されて、私と多摩美術大学の美術館学芸員、仙仁司さんが講師として招かれた。
当日は眺めのよい集会場に五十人を越す出席者があり、午後二時から始まったが、最初に梅野館長のあいさつに続き、一九九六年、NHKの日曜美術館で放映された菅創吉のビデオの上映があり、その後トークが始まった。
私は求められて菅作品との出会い、その魅力、上記の日曜美術館へお願いに行き取り上げてもらった経過、放映後の反響の大きさ、菅作品についての私の評価などを語った。
仙仁学芸員は菅創吉に出会った時の感想、菅作品についての評価、アメリカへわたった前後の作品の変化、敏子夫人が富山県の南砺市(当時は東砺郡福野町)に作品を寄贈した経緯などについて話された。渡米後、作品が「東洋的で何か精神的なもの」からジャズやブルースに変わったという感想を述べられたが面白い指摘であったと思う。
なお、出席していた敏子夫人から、アメリカ時代について、どん底生活ながら、菅創吉が自分をさらけ出して自分の描きたいものを描いていたこと、持ち前の陽気な性格でアメリカ人に愛されたこと、そして九年余のアメリカ生活が菅にとって実りの多い年月であったとなどの話があり、印象深かった。
今回の菅創吉展は南砺市に寄贈された作品が中心であるが、かつて、ほとんど見ている作品であり、私にとって懐かしく、また、あらためてその素晴らしさに感動した。
事前に依頼があって私が「菅創吉の人と作品について」という文章を書き、それが会場に掲示されていたが、今号三面のエッセイはその文章を転載したものである。
(すどう美術館 館長 須藤一郎)
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(こみてぃす 第21号より) |
点描
探偵物語(八)
園 部 雄 作
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萩原朔太郎の詩に「殺人事件」という作品がある。数ある朔太郎の詩に探偵が登場するのは稀だ。「干からびた犯罪」というのもある。
冒頭いきなり「とほい空でぴすとるが鳴る」。しかし探偵は事件を探る様子はない。それより、「玻璃の衣装をきてこいびとの窓からしのびこむ」のだ。すると不思議なことに室内はいちめん結晶の世界である。
そこには「ゆびとゆびのあいだから、まっさをの血」を流して女が倒れている。「屍体のうえで」は「つめたいきりぎりすが鳴いている」。
ふいに時と場面はかわる。「しもつきの上旬(はじめ)のある朝」、探偵はまたもや「玻璃の衣装をきて、街の十字巷路(よつつじ)を曲がった」。「十字巷路には秋のふんすゐ」が、澄んだ光をあびて密かに噴き上げている。しかし探偵は、すでに物思いに沈んでいる。そして「はやひ
とりうれいをかんじ」ている。するとその時、「みよ、とおいさびしい大理石の歩道を、曲者はいっさんに滑ってゆく」のであった。
探偵に、犯人の行動や事件の全容を探る様子は少しもない。彼の心は、なぜかもの悲しく、ただ憂愁のながれるブルーな夢のなかを浮遊しているようである。
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(こみてぃす 第22号より) |
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私と美術とのかかわり
太田 将勝
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戦時中、ビルマで司政官をしていた父が、神戸の家に復員してきたのは、昭和二十二年秋のことだった。父の軍務服役中、幼児だった私は、父復員の四歳の年まで一年の半分を母の東京の実家で過ごし、母方の祖母・曾祖母に連れられて歌舞伎を見に行き、曾祖母が毎夜寝物語に繰り返し語り聞かせる「解説」のお陰で、外題や筋書きについては、自然一通りの知識をもっていた。舞台で見る勇壮な男たちにあこがれを抱いた幼少期の私は、刀に特別な魅力を感じたが、刀は正義と破邪の象徴だったし、舞台で見る刀掛けや脇息にも強いあこがれを抱いていた。
戦前は外交官だった三十九歳の父は、絵や工作を得意とし、戦後の自由な空気のなかで、四歳だった私に自動車の絵などを描き、折り紙を折ってくれたりした。丁度その頃父が買ってくれた、おもちゃの陣太刀を飾るための刀掛けを造ってほしいと、私は父にせがんだ。父は器用に木材を裁断し、刀掛けと脇息を早速造ってくれ、刀掛けには朱のエナメルを塗り、脇息は白木のままだったが、それはそれで、生地がいきていて子どもの眼にも見事に見えた。
私は日中誰もいない祖父の書斎に刀掛けを置き、陣太刀を掛け、それらを背に左腕を脇息に持たれて座ってみた。塩谷判官か先代萩の幼君になりきった気分で満悦至極であったが、この気持ちを、自閉的ではにかみ屋だった私は父に伝えることができないでいた。
祖母が言った「あんた、おとうさんにありがとうと言うたんか?」多忙な父が貴重な時間をさいて見事な作品を作ってくれたその骨折りはわかってはいたが、感謝の一言がいえなかった。父は祖母を通し、不興の思いを伝えてきた。私は父の出征中に生まれた子だったためか、復員後の父に打ち解けきれない気まずさや遠慮があった。弁解もせず、日中誰もいない祖父の書斎の薄暗いスタンドの灯りで、私は、ただ黙々と画用紙にクレヨンで刀掛けと陣太刀の絵を何枚も何枚も描きつづけた。
所詮幼児の絵でしかなかったが、工夫に工夫を重ね描いた絵には、たぶんそれなりの成果が現れていたのだろう。ある夜、父が祖父の書斎に描き散らしていた多分二十枚ほどの私の刀掛けの絵を見、「ほんまにじょうずやな」をくり返し嘆息して見せた。たしかに、父は喜んでいた。私は言葉にならないものを、絵で表現し伝えることのできることをこの時知った。
この二年後、私が六歳の年に父母は離婚し、やがて父はイギリス人と、14歳の年には、母までアメリカ人と再婚するに至った。その頃すでに、両方の年寄りたちは他界しており、一人っ子だった私は、不安定な精神状態の少年時代を余儀なくされた。が、決して不幸だと思ったことは一度もなかった。それは、豊潤な水脈につながる、「美術」という泉という水につねに潤されていたからである。そして、曲がりなりにも斯界のなかで、老境を迎えつつあることは、誠これにまさる幸せはない。
(上越教育大学教授)
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(こみてぃす 第21号より) |
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点描
探偵物語(七)
園 部 雄 作
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先に、わたしは探偵小説より推理小説の方が今風だ、といった。しかし、そもそも探偵と推理とはどこが違うのか。辞書を引いてみる。すると探偵とは「こっそりさぐって調べる。〔人に頼まれて〕犯罪事件の有無、犯人の行動などをひそかに調べる人(職業)」とある。そして推理とは「わかっている事実をもとにして、まだわからない事柄をおしはかること。いくつかの前提から結論をみちびきだす」と書いてある。
なるほど探偵はどこか古風で人間くさい。そして推理は現代的だ。いくつかの前提から結論を導き出す。どこか現代美術家や評論家を思わせる。そのような人たちのなかにも、欧米現代美術の、いくつかの事例や前提をもとにして自分の方向…犯人像を推理し…導き出している場合も少なくない。それに比べると、やはり、探偵小説はとくに現代的とはいえない。一定の型をまもり、足で確かめながら犯人を探し出す。
けれども二十世紀アルゼンチンの前衛作家ボルヘスは、この探偵小説を高く評価して敬意をささげている。すべての芸術が混沌へむかう「この無秩序の時代にあって秩序をすくい上げている」と。
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(こみてぃす 第21号より) |
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絵と親しんで
笠井誠一
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すどう美術館に足を運ぶようになって十年近くなる。館主御夫妻の細かい心配りが隅々迄行き届いており、此処に作品をならべる画家にとっても観賞に訪れる者にとっても、好ましい場になっている。この空間にゆっくり身を置く余裕を持てないでいるが、拘りのある企画や様々なイベントを見ても、須藤氏の並ならぬ思いが伝わって来る。此の様な場が近年少なくなったのは残念に思う。
私事になるが、叔父が絵を描いており家には三岸好太郎、上野山清貢等友人達の絵が掛っていた。又、私の育った札幌は絵の多い街で物心ついた頃から油絵に親しんでいた。
旧制中学に入った年に学徒動員で出かけた土地で終戦を迎えた。軍団少年がすぐには民主主義には馴染めず、学業よりも絵の道に拠り所を求めて行った。所謂焼跡派の世代に属する。学校の美術クラブも活気があったし、市内に出来た名ばかりの研究所に時々行くのも面白かった。街の中心部に銀嶺荘と言う画廊を兼ねた画材店があって、木田金次郎(有島武郎の「生まれ出ずる悩み」のモデル)の絵が沢山あり、その他地元の画家達の作品も見ることが出来た。皆生活が苦しく、絵の具代を作品で拂っていたのだろう。
店主は絵描きに理解があり美術への関心が深く、私のような少年の話し相手もしてくれるのでよく絵の具を買いに行った。此処でいろいろな画家たちと出会ったり、絵を見る目を鍛える場所になっていた。そんな環境の中で絵を描くのが崇高な行為に思えて来た。
修業時代の十七年を東京とパリで過ごす。一九五〇年代の東京は戦後の復興の気運の高まる中にあり、美術界も林武の「梳る女」森芳雄の「二人」等の話題作が次々と発表されて抽象絵画、アンフォルメル、アメリカ絵画へと激しく流行が動いていた。
パリでは日本と異なり各流派が共存しており、画家達は各々の方向で自分の仕事に打ち込んでいた。団体展やコンクールではなく、真価を問われる個展に力を集中しており、世に出る為には力のある画廊の協力が不可欠だった。現在も画作りだけでなく、画家の生活のあり方も、強くフランスの影響を引きずり、無所属を続けている。
愛知芸大に勤めた関係で、帰国後日本での画家としての第一歩が名古屋画廊から始まった。画廊主の見識と人柄を慕って画廊は美術を愛する人達の交流の場になっていて、話が盛り上がると深夜になる事も度々だった。熱心な愛好家の層の厚さに驚いたし、木村定三氏(小川芋銭,熊谷守一の収集家)や若手の横井清司氏等、作家の方が恥ずかしくなる立派な人達を知ったのもこの頃である。
私は展覧会は分野を問わずよく見て歩いている方だ。特に個展は作家の仕事がよく判るので重視している。案内状を貰って見に行かないと失望されたり、行くと「お前は何時絵を描いているのか」と言われ複雑な気持になるが、出身や年齢を超えていろいろな人や作品との出会いを楽しんで展覧会廻りを続けている。
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(こみてぃす 第21号より) |
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館長対談
美術への提言
ゲスト・仙仁 司さん(多摩美術大学美術館 学芸員)
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館長: 今日は日ごろ先生が仕事を通して感じていらっしゃる美術への提言をお聞きしたいのですが…。まず最近の作家、作品の傾向をどのようにご覧になっておりますか。
仙仁 なかなかいい作品に出会うことが少ないですね。物まねであったり、型にはまっていたり。私は10才のときから美術に目覚め、それからずっと美術と接点をもっているのですが、今も昔と変わっていません。いつまでも欧米のトレースから脱していないのです。
館長: 自分を何かの様式に閉じ込めようとしている作家が多いですね。もっと自由であるべきです。そして、自分で考える力、自分の目で見る力を持って欲しいと思います。
仙仁 今生きている時代の中に、すなわち身近なところにテーマはたくさんある筈です。
そういう意味から私は宮沢賢治をもっと見て欲しいと思います。賢治ほど身近な生活のなかにテーマを持っていた人はありません。自分の身の回りをしっかり見つめ素晴らしい作品を創っていました。身辺の中から確固たる思想と自信をもつことが大事です。そうでないとネタ切れになったり、人まねになったりしてしまいます。
館長: 関連して、絵を描くという行為を自分と切り離して別に考えている人が多いのですが、私は絵を描く人そのものが作品であり、自分をいかに豊かにしていくかということが大切と考えています。
ところで団体展についてどうお考えですか。
仙仁: 団体展が出来た当初はその役割や意味はありましたが、今はいずれも権威主義に
陥っていて弊害のほうが多くなっています。どの団体展に行ってもどうしてこういうものを描くのか疑問です。技術に走ったり、画面処理に終わったりで本人が見えてこない。まさしく生きていくことそのものが絵を描くということなのですが。
館長: 私も先日ある団体展の会場で「合評会」という場面に出会ったのですが、ちょっと疑問を感じました。講評する作家がああでなければいけない、こうでなければいけないときめつけるのです。聞くほうもなるほどと無批判に受けている感じです。自分をしっかり持っていないと流されたり、型にはまった絵になってしまうと思いました。
仙仁: 作家活動はやはり基本的には個展発表でやっていくべきです。針の筵にすわり、人の目にさらしながら磨いていくのです。
そんな中で女性の作品にはユニークで面白いものがあります。それは周囲を気にせず自分自身を素直に表現しているということでしょうね。
館長: 話は変わりますが、美術大学の現状はどうですか。
仙仁: 大学は今透明になり、ようやく分かり易くなってきました。それだけにこれからは美術大学の存在理由を考え社会性を強めることが必要です。美術教育そのものが大きな問題を抱えていますね。人間と人間との関係が希薄になってきていて残念です。それをいかに取り戻すか、そこに個人を活性化するオピニオンリーダーの役割が必要になってきます。
そういう中で市民再サイドに立っているすどう美術館での須藤さんの仕事は意義があるのです。美術活動のパイオニアといってもいいと思います。大変でしょうが頑張ってください。
館長: ありがとうございます。いつも色々応援していただいて心強く思っています。
今後ともよろしくお願いします。
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(こみてぃす 第20号より) |
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点描
探偵物語(六)
園 部 雄 作
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探偵について書いているせいか、このごろ街なかを歩いていると妙に探偵のポスターが目につく。なぜか電柱に張ってあることが多い。犬の写真がまず目に飛び込んでくるので、
一瞬ハッとする。いったいあれは何だ、と近寄って見ると、それが探偵のポスターである。
探偵というと、どちらかといえば小説や映画のイメージの方が、わたしのなかではつよいので、今でも、れっきとした職業として活躍中とは思っていなかった。創業四十七年とある。意表を突かれた思いだ。小説などでも、ちかごろでは推理小説の方が優勢で、探偵小説と聞くと、どこか古典的なおもむきを感じる。
以前わたしは、探偵は依頼があってから仕事をはじめる、といった。そして画家も探偵である、しかし画家は誰からも依頼のないまま仕事をはじめる、と。けれどもそれは、世間の一般常識から考えればとんでもない話だ。依頼のない仕事には報酬もない。採算の見込みもなく、将来も見えない仕事に、とにかく深入りしてしまい、一生を棒にふってしまうような人間は、大胆というかバカというか、それより人間の形をした不思議な人間のように見えるのだ。
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(こみてぃす 第20号より) |
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美のけものみち
山寺 重子
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銀座には絵描きのけものみちというのがあって、尊敬する先輩や友人によく出会う。
八丁目から京橋にかけて、数多くある画廊をひらりひらりと蝶のように飛びまわりたいのであるがなかなかそうはいかない。初めの画廊でつい話が弾んでしまうと、あとが大変、順々に端折ってゆかざるを得ない。そんななかでお気に入りのここだけは立ち寄りたい処が六丁目のすどう美術館である。小さいが山椒のようにぴりりとくるのがたまらない。そのぴりりの具合だが、何ものかに対するアンチ・テーゼというべきか、独断と偏見という美の王道をゆく快感である。
いろいろな利害を引きずっている方たちが集って選ぶ作品と個人がこの作品はどうしてもと選ぶ作品のどちらが鋭いかと言えば後者にきまっているような気がする。そしてその個人的な好みが私のそれと重なり合う部分があるから刺激を受ける。館をあとにするとき私の老朽化した脳の回路が少しは若返るのか、爽やかな気分になっているのである。
そしてかつて池田二十世紀美術館を度々訪れた時のことが思い出される。三島の友人からよく招待券をいただいたことや、夏や正月に出かけた熱海自然郷が伊東に近かったからである。私も若かったので新鮮な作品群に触れて大いに昂揚した。馬場彬のときなどは独特のタブローにすっかり参り早く描きたくて主人に頼んで西湘バイパスを飛して帰ってきたこともあった。
その池田二十世紀美術館の牧田館長に初めてお目にかかれることができたのは一九九二年頃と記憶している。日本橋高島屋の脇にあったT画廊のオーナーの紹介によるものだった。わあ、この方がと緊張で胸がふるえた。牧田先生は若輩者の私の質問にも丁寧に答えて下さり、以来、上野で銀座で横浜でとお目にかかれることも多くなった。針生一郎先生は団体展を憎んで人を憎まずという名言を吐いて立場を明らかにされたが、団体展にどっぷり漬かっている私はそんなに颯爽と胸を張ることも出来ず、国展、女流展、個展にと必ず牧田先生のお出ましを願い沢山の教訓をいただいた。御身体が弱くなられて林館長への移行の時期だったであろうに瞬間激怒症は一度も落とされたことなく、なにくれと面倒を見ていただいた。
牧田先生は九五年九月に亡くなられた。十月の私の個展に対して九月に奥様の代行で二回もお電話をいただいた。先生にお目にかかれるのが余りにも遅かったと私は悔やんだ。
VOCAは見ろとの先生のお言葉が私の耳の底に残っている。
VOCA展は須藤館長のお勤め先だった第一生命が協賛している上野の森美術館の展覧会である。思えば池田二十世紀美術館の牧田先生から、すどう美術館の須藤館長へと目に見えないけもの道を私は辿ってきたのかもしれない。
(画家)
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(こみてぃす 第20号より) |
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一期十会
すどう美術館 館長 須藤一郎
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例えば、好きな人と駅の改札口で別れ、姿が見えなくなるまでずっと見送っているのに、相手は振り向きもせずどんどんホームへの階段を昇ってしまう。そんなにこちらのことは考えてくれていないのかもしれないと淋しく思う。
また、人を会社に往訪した時、歓談の後エレベーターのところまで送ってくれるが、ていねいに頭を下げてくれているのに、ぜんぶ扉が閉まる前に去っていくのが見えてしまうことが多い。あとちょっと我慢すればいいのに何かお義理で送ってくれたようですこーし気持ちがひっかかる。
人と人との関係はことほど左様に微妙である。
わが美術館での展覧会ではいつもいっているように、作品も重要であるが、作家と見に来ていただく人たち、それにわれわれ美術館スタッフとの関係を大事にしたいと考えている。
だから、スペースをお貸しして展覧会をしてもらう場合でも、申し込みを受けるかどうかは作品とともに作家とお会いし、審査というと大げさであるが、作品だけでなく、お互いに何か通じ合うものがあるかも重要な基準にしている。
そんなことはこちらの一方的な思いあがりかもしれない。しかし、展覧会を行い、多くの場合一週間の会期であるが、終った時に開催した作家がわが美術館で展覧会をできたことを喜び、こちらも、その一週間がとても気持ちがよかったと喜べるのが至福の時であり、いつもそういう展覧会でありたいと思う。中には別れの時に涙を浮かべてお礼を言ってくれる作家も多い。もっとも、搬出が終った時にはすでに次の搬入が待っていてすぐに気持ちを切り替え新しい展覧会に備えなくてはならないのが現状であり、感傷に浸っていられるのはほんの僅かであるが…。
展覧会をする作家は初めて個展を行なう人はもちろん、何回か開催しているベテランの作家でも緊張と期待と展覧会までの積重ねの疲労をもってくるわけであり、受ける私たちも真剣勝負で対応しなければならない。日本の現状では上述のとおり一週間単位が通常であり、私のところでも年間六十回を越す展覧会をしているが、慣れは許されず、その都度新しい気持ちで迎えなければ作家の気持ちには応えられないのである。
関連して私が大事にしているのは、展覧会が終ったら関係がゼロになってしまうのではなく、その後も人間としての付き合いがずっと続くことであり、一期一会に終らず、一期五会、十会とつながっていくことである。
それぞれの事情があり、短い付き合いに終ることも覚悟しないといけないが
かりに美術の世界から離れた場合でも一度かかわった人たちとずっとずっと、気持ちだけはつながっていければ幸せだと思うのである。
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(こみてぃす 第20号より) |
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1994年頃までの体験的中国現代アート
田所 政江
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新中国の現代(前衛)美術の出現は、一九七九年の星星画展からとされている。北京の春といわれた時期に、アマチュアの作家たちが政治批判を含む作品群を、国立の権威ある中国美術館の鉄柵に吊るした野外展である。これは内外で大きな話題となったが、八一年ブルジョア自由化批判が始まり、危機感をもった星星のメンバーの多くが海外に出た。黄鋭も当時出国について北京支局の夫のところに相談に見えた。来日後、大阪に住み芸術活動をしていたが、九〇年代の終り頃まで中国には入れなかった。いま近代美術館での「東アジアのキュビズム展」に、彼の作品が出展されている。現在は北京の芸術区で、創作とアートカフェの経営を楽しんでいる。
その後開放政策も進み、八五年には創作の自由が保障され全國的な「八五美術運動」が展開された。八五年二月には、初めての民間出費による「現代芸術展」が中国美術館で開かれた。外国の現代美術との同時代性をテーマに、全国の約三〇〇〇点の公募の中から二五〇点が選ばれた。いま名のある作家たちのほとんどが当芸術展に参加している。
この芸術展のキュレーターの一人であった費大為とパフォーマンスを行なった侯瀚如は、私の中央美術学院の同級生で、ヴェネチアビエンナーレなど世界的な美術展のキュレーターなどとして活躍している。六月には第二天安門事件が起き、美術界も一気に冷却してしまったが、以後次第にさまざまな形の美術が出てきた。
北京の北の頤和園の近くの農家を借りて制作をする百名前後のアーチストたちが、外国人に作品を売り、名を高めるチャンスを求めて全国から集まっていた。九四年にここを訪れ作家たちに会った。祁志龍は後に夫人をモデルにウォーホル調のポップな作品を多く創ったが、そこでは天安門をバックにケ小平とバラの政治ポップの大型の油絵を描いていた。彼とは昨年、偶然北京の画廊で会ったが、もう消息不明の人たちもいる。
同じ年、北京で個人の画廊が開かれたと聞き出掛けた。入り口付近で、公安(警察官)らしき人物に、“これをどこで知ったか”と詰問された。王強のドルや日本円を大型に描いたり、版画の作品などの個展で、政治などに触れるような作品群ではなかったが、反政府的な動きの集まりを警戒していたようだ。方力均夫妻にもここで会った。この画廊もすぐに閉鎖させられた。
このときも中央美術学院の招待所に泊まっていたが、馬六明が“昨日、公安の留置所から出たばかり”とここのエレベーターの中で話した。彼は北京郊外の東村芸術家村で、過激な芸術表現をするアングラグループの一人で、裸体でのパフォーマンスが風紀を乱したとのことで掴ったという。東村の芸術家村も頤和園も、以後立ち退きとなった。美貌で、洗練された裸体言語の馬云明は海外の大型美術展の招待も多くなり、また大人顔とベビーの身体の自分の姿の油絵でも名を馳せるようになった。いまも中国に行くたびに、アーチストたちの活躍をみるのが楽しみである。
(女子美術大学・共立女子大学非常勤講師)
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(こみてぃす 第17号より)
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点描
探偵物語(三)
園 部 雄 作
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探偵はピストルを懐中にする。凶悪犯人を追跡することもある彼には、ときに危険が待ち伏せる。しかし、犯人…作品を追求する画家は、ピストルは持たない。けれども彼は羅針盤を胸中にする。もちろん画家が、ふいに撃たれるということがないわけではない。あたかも銃弾のように、あるいは麻酔弾のように、批評が心を貫き、心身の力が抜け、ふらふらと迷いだし、あらぬ方向へ突進してしまう、ということもよくあることだ。また、かろうじて余命をつないでいる美術市場のジャングルのなかで、そして画家自身の内なる心理のジャングルや沼沢のなかで、浮き沈みをくり返しながらの不安な行路において、横道へ迷い込んだり、行き倒れたり、沈没することも、しばしばあるからである。
画家もまた航海者なのだ。ただし彼の航路は青い海原ではない。肉眼では見ることのできない、暗い、時間の海のただなかを航海する単独者なのだ。自分が今どこにいて、どこへ向かっているのかも定かではない。確かな目印や足場がないのだ。前進しているのか、後退しているのか、同じところをぐるぐる回っているのか、それさえもよくわからない。
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(こみてぃす 第17号より) |
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点描
探偵物語(二)
園 部 雄 作
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事件を依頼されると、探偵はまず情報収集に力を入れる。雲を掴むような探偵の仕事にとって情報はいのちの綱である。画家もまた情報収集に目をくばる。美術潮流の流れは激しくスタイル交替は急テンポである。立ち止まると、またたくまに時代の波に乗り遅れて孤立する。
孤立は不安である。それをものともせず事件―作品―の核心に迫ろうとすれば、つまり真犯人を掴まえようとすれば、やはり、古今東西の美の情報に目をくばる必要がある。さもないと、自分だけの思い込みで、独自の作品を創造したと早合点していても、すでに何かの亜流であったり、さらに亜流の亜流であった、ということがあるかもしれないからだ。とはいっても多すぎる情報の収集はまた、かえって危険をともなう。美は麻薬のような作用をもつ。希薄な免疫体に中毒症状をおよぼすのだ。のめり込み、とらえられ、振り回され、ひたすら迷宮をさまよう中毒患者となって、おのれの目指すべき作品からますます遠ざかってしまう。
ところで、ひるがえって考えてみると、画家は、どこからも誰からも、とくに制作を依頼されていない。
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(こみてぃす 第16号より) |
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点描
探偵物語(一)
園 部 雄 作
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画家は探偵に似たところがある、とわたしは思っている。探偵は犯人を探すわけであるが、画家もまた犯人?…〈作品〉を探すのを仕事とする。作品が犯人?とひとはいぶかるかもしれない。けれども、画家も探偵とおなじく、はじめ自分の犯人…作品が目の前にあるわけではない。
たしかにどこかに、あるべきはずではあるが、さしあたりないのだ。
だからはじめ、探偵とおなじく雲を掴むような状態で出発する。もっとも、既存の犯人なら、探偵どうよう無数にいる。監獄や美術館にゆけば、すでに大物がずらりと顔をそろえて閉じ込められている。が、自分の探している犯人だけは、そこにも、ほかにも見当たらない。キャンバスの前に座っても、ただ白いうつろな空間があるばかりで、手掛かりらしいものは何もない。探偵とおなじく、まず第六感で点や線をつなぎ、とりあえず出発する。しかし、そのカンは探偵同様はずれることもある。犯人に迫ったつもりでも、まったく見当外れのこともあるから危険だ。
画家の一生は、次々に事件を解決する探偵とはちがって、一つの事件を解決するにも時間は足りない。
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(こみてぃす 第15号より) |
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すどう美術館は日頃から、国内だけでなく世界へ目を向けて活動していくことを目指し、世界各国で行なわれるアートフェアへの参加を試みており、今年7月アメリカのアート
サンタフェへ出展した。
サンタフェはロッキー山脈の南に続く山脈の裾野にあり、標高が高く涼しい乾いた土地で、のんびりとしたリゾートの町であった。現地へは出展作家二人と、すどう美術館スタッフの高橋との三名で向かった。アート
サンタフェは七月一四日から十七日まで開かれ、世界の約五十のギャラリーが個々のブースで出展した。どのブースも作品や展示の仕方、用意された資料などから、そのギャラリーの個性や各国のイメージが垣間見られるようだった。
すどう美術館は、出口道吉、高濱武周、梶原新三の三人の作家の作品を展示した。ブースの壁を1面ずつ使って三人がそれぞれに独自の世界を表現し、よい空間ができあがった。4日間の会期中、美術関係者やコレクター、取材関係者、そしてサンタフェ在住の人々などが多数訪れ、来場者の多くが自分から作品に対して感じたことを話してくれた。それぞれの作品にたくさんの関心が寄せられ、コンセプトなどを説明するとさらに興味は深まるようだった。作品を介することで言葉をこえて感覚が通じ合えるように思った。又、現地の人が気に入って買っていかれた作品が、サンタフェの家に飾られることを想像すると、世界に向けて発信できる場での可能性の広がりを感じた。そして、こうしたアートフェアでなければ出会えない、様々な国のギャラリーやアーティスト、たくさんの来場者との交流は貴重であった。
アート サンタフェへ応募し、三月に出展が決定してから出発までの約四ヶ月間は、現地のフェア事務局と頻繁にメールを交わし、出展作品や通関のことなど、多義にわたる準備にあたった。このアートフェアへの参加を無事に終えることができたのは、準備段階での英語の問題や、サンタフェの情報提供などで力になってくださった方々、そして私と同行された作家の出口さん、高濱さんの現地での細やかなサポートによるところが大きい。又、フェア事務局が色々な面で、非常に行き届いた対応をしてくれたことにも助けられた。こうした様々な場面での協力の上に、すどう美術館の活動を大きく世界へ広げることができたことの意味は深いと思う。
文化や習慣が違う他国の人と交流することは、多方面からの視点に触れ、固定観念にとらわれず柔軟な考え方を養うことから、色々な意味で可能性を広げることにつながるのではないかと思う。こうした機会に一歩外に出て、目線を世界に向けることの大切さを実感した。すどう美術館が今後更に世界へ向けての活動を広げていくために今回の経験を生かし、次の目標へ新たな気持ちで臨みたい。
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(こみてぃす 第17号より) |
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絵は描かなくてもいい
マドリッドで出迎えて下さった山口敏郎さんは、いきなり、私にこう仰いました。「絵は描かなくてもいいよ。できれば、ぼうっとしているといいよ。」
無我夢中のマドリッド探索
「絵画の勉強を」と意気込んでいた私には、正直、山口さんの意図をはかりかねました。マドリッドといえば、プラド美術館をはじめ、世界に冠たる三大美術館がありますし、他にも、たくさんの見所があります。せっかく留学という機会を与えられてここまで来たのに、ぼうっとしていることなどできるでしょうか。むろん、私にはできませんでした。はじめの十日間は、とにかく、朝から晩まで歩き周りました。
まずは、何といっても憧れのゴヤとの対面です。むろん、感激もひとしおでした。続いて、ベラスケス、エル・グレコ、ボッシュ、ルーベンス、レンブラント、スルバラン、ラファエロ、フラ・アンジェリコといった巨匠たち。さらに、ピカソ、ミロ、ダリ、タピエス、バルテュスといった大画家たちの作品群。こうした超一級の絵画と直に対峙する体験は、私をすっかり興奮状態に陥らせ、疲れなど感じているヒマはありませんでした。
三大美術館を感激しつつ見終え、次は、ガイドブックに載っている観光スポットを虱潰しに歩き廻りました。プエルタ・デル・ソル、マイヨール広場、王宮、グラン・ビア通りなどなどです。この体験は、西洋美術が胚胎している層の厚さと、それらを日常において支えている都市そのものの時間性(伝統)について思いを巡らすきっかけになりました。都市は単なる空間的存在ではなく、むしろ時間的存在とみなされるべきではないのか、といった考えが、マドリッドという街を歩き廻るなかで思い浮かんだりしていたのです。
こうした無我夢中の探索が一通り終わったとき、さすがに「疲労」が自覚されてきました。思えば、留学直前まで制作に取り組んでいたし、旅行費用や留守中の家賃を捻出するため普段以上にアルバイトをしました。さらに語学の勉強や旅行準備などなど、からだがいくつあっても足りないくらい多忙な日々を重ねてきたのでした。マドリッドでの興奮の十日間が過ぎたとき、累積していた疲れがどっと塊りとなって噴出し、その後の数日間はベッドから起き上がることさえできないほどだったのです。泊めていただいたゲストハウスから外出もほとんどできず、「一体、この先どうなるのだろう」と不安にかられていました。
ひとびとの営み
そんな状況のとき、山口さんが私に話かけて下さったあの言葉、「できれば、ぼうっとしているといいよ」という声が聞こえてきたのです。疲労困憊してベッドに横たわっていた日々が、結果的には休養になったのでしょう。山口さんの言葉が思い起こされるのと同時に、今までの疲れが嘘のように無くなり、文字通り、甦った気分がしました。そして、再び、街に歩み出したとき、私の目に映ってきたのは、ゆったりした時間の流れのもとにあるひとびとの営みでした。
それは、日本では見たことの無いものでした。平日であっても、公園では子供達がはしゃぎまわり、老人達はトランプに夢中です。バルと呼ばれる喫茶店に行けば、働き盛りと思われる人たちがたむろし、真っ昼間からビールやワインを引っ掛けていますし、シエスタと呼ばれる昼休みには商店も閉じてしまうので買物もできません。日本人の感覚からすると、いったい何をぶらぶらしているのか、いい加減で不便きわまりない、と非難したい気持ちになりますが、かの街の人たちは、自分たちの生活について、一切、疑問に思っている風はないのです。
スペインのひとたち、あるいは一般にラテン系のひとたちは、みたところあまり仕事に熱心であるようにはみえません。しかし、長期的なスパンでみると、マドリッドという街を見ても分かるように、実に大きな仕事を着実に具現化しています。それには持続的かつ構築的な考え方が必要不可欠なはずです。私達日本人は、少しでも時間があればそこに予定を組み込み、次々仕事をこなしていきますが、長い目で見たとき、スペインに確実に存在するような文化的構築性に繋がっているのでしょうか。スペインの作家が、「日本人には辛抱強さが無い」と言っていましたが、それは「成熟」を待って何もしないでいる勇気が無いという意味のように思われました。
「できれば、ぼうっとしているといいよ」という山口さんの言葉の本質が少し理解できたような気がしました。渡欧期間中に、名作や観光地をあれこれまわって見たとしても、それらを生み出している「ひとびとの生活」が視野に入ってこなければ、結局、名所旧跡に目を奪われるだけの観光客の視点にとどまり、根本的な文化の違いを考えることなく終わってしまうでしょう。どれだけ見るかではなく、どう見るかを問われていたわけです。このことに気づいたとき、これまでとは違った風に物事を見ている自分自身がそこにいるように思いました。
これからの課題
こうした経験ができたことこそ、今回の留学における最大の成果でした。これからどう生きていくか、何を考えていくか、未だ、答えを見つけたとは言えません。しかし、少なくとも方向性は着実につかめたように思います。異なる時間の流れに身を委ねつつ、「描く」ことを通して自らが真実だと信ずるものを具現化していくこと、このことが私に課せられた課題だと思い定めています。この決意にとって、今回の留学は欠くことのできない経験でした。
最後にこの場を借りて、このような機会を与えてくださったすどう美術館、友の会、関係者の方々に深くお礼を申し上げます。本当に有り難うございました。
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(こみてぃす 第16号より) |
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泰明小学校で“銀座あおぞらDEアート”
(すどう美術館 館長 須藤一郎)
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去る5月8日、今年で創立126年の伝統を持つ銀座の泰明小学校で野外展覧会を行った。タイトルは「銀座あおぞらDEアート」。主催は銀座の13の画廊であり、私が代表を引き受け、事務局もすどう美術館が担当して行ったものである。
会場がグランドなので雨が降ったらダメ、風が強く吹いてもむずかしいという条件のもとであったが、幸い、晴れもしないが雨も風もなく、絶好の日和となった。
それぞれの画廊が関係のアーティストとともにグランドの周りをパネルや机等を使い、絵画や彫刻など思い思いの作品を展示した。そして、中央には子どもたちにも楽しく参加できる風船作りやピンホール・カメラでの撮影などのイベントを行い、また、ワークショップ、ライブ演奏なども行われた。
今回のこの企画は一般の人たちがもっとアートに触れ、親しむ機会をもってほしい、これをきっかけにして画廊にも気軽に訪ねるようになってほしい、との考えからすどう美術館他三つの画廊とボランティア森岡さんが呼び掛け人となり、他の画廊の賛同と百人のアーティストの参加を得て実現したものである。
銀座にはたくさんの画廊があるが、これだけまとまって行動した実績はなく、しかも誰もが来やすい野外展を行ったということで画期的な出来事であったと思われる。
事前に種々な形での宣伝活動を行ったこともあり、マスコミが関心を持ち、取り上げてくれたこともあって、わずか一日のこの展覧会に1300人を越す入場者があったが、身近でアートに親しむことができたと大好評であった。 泰明小学校やPTAの協力もあり、たくさんの子どもたちが来て楽しんでくれたのもうれしいことであった。
学校ということもあり、展覧会場での即売はできなかったので、作品が気に入った場合には展覧会が終わった後それぞれの画廊に行き、購入していただくことにしたのであるが、初めてギャラリーに入りましたとニコニコしながら作品を取りに来てくれたお客がたくさんいた。他の画廊も同じで新しい顧客の増加につながり、この点でも初期の目的を達したと思っている。
後日、参加画廊で行った反省会を含めた打ち上げの席では次はいつにするかなども議題になり盛り上がった。いずれは小学校からはじまり、もっと多くの画廊の参加を得て、銀座の歩行者天国でも野外展ができればいいなあというのが参加した画廊全体の思いである。
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(こみてぃす 第16号より)
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美術科教育学会で発表
−美術教育に新しい風を−
すどう美術館 館長 須藤一郎
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去る3月27日 (土)、すどう美術館の高橋玉恵学芸員が千葉大学で開催されていた第27回美術科教育学会で研究発表を行った。 テーマは「すどう美術館がやってきた・in
横浜ラボール」。
20分のスライドを使っての講演とその後5分の質疑応答。終わったとたん、たくさんの大学の先生や美術の関係者が本人のところに駆け寄ってくれ、発表の内容はもちろん行き届いた発表の仕方等についても賞賛してくださった。その場面に一緒にいた私までも深い感動を覚えるとともに晴れがましく感じられうれしかった。
美術科教育学会というのは文字どおり「美術教育に関する学術的研究の発表及び研究協議」を主たる目的として設立された学会であり、毎年会場をいろいろな大学に移しながら行われている。今回は「さまざまな『以後』、その先に−更新しますか、びじゅつ きょういく−」を統一テーマに「美術教育基礎と拡張」「現代のアート・文化と教育」「メディアと教育」「美術教育授業実践論」 等々の分科会に分かれ発表が行われ、また、「戦後60年と美術教育」のテーマでの学術討論なども行われた。
高橋学芸員は「美術館と教育」のジャンルの中で発表したのであるが、発表者の多くがが大学の先生、大学院生でまさに学術的な研究成果を説明していたのに対し、高橋の内容は小さい美術館が行った、 研究というよりは地についた実践の結果についてであり、そこが出席者に共感を与えた理由ではないかと思う。
さて、このような学会で発表を行うことになった経緯は次のとおりである。
すでにお知らせしているとおり、すどう美術館が昨年2月「障害者スポーツ文化センター横浜ラボール」で10日間にわたり開催した出前美術館はたくさんの来場者があり、NHKでも紹介してくれるなど話題を呼んだ。その後終わってから担当の高橋が、実施に当たっての基本的なコンセプト、作品展示の状況、期間中のワークショップの模様、会場でのアンケート結果その他を関係者の協力を得てまとめ小冊子にしたが、それを読んでくれた横浜国立大学の堀典子教授がぜひ学会で発表しなさいと勧めてくれ、学会関係者の指導もいただいて発表に至ったのである。
すどう美術館の活動が今回の学会発表を通していろいろな大学人にも評価され、知っていただく機会となったことを私はたいへん喜んでいる。
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(こみてぃす 第15号より) |
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藤田嗣治とモディリアーニ
笹 木 繁 男
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近々「モデイリアーニち真実の愛与」という映画が公開されるようである。 藤田嗣治とモデイリアー
ニは、一歳違いで、藤田の潰仏直後に知り合い、二人とも当時無名の時代で、モデイリアーニが亡くなるまでの6年余の交際であったが、時代を経ても藤田の心のなかにモデイリアーニとの日々が深く刻まれていた。
藤田がモデイリアーニと出会うのは、初めてのパリに到着して当座の滞在先であった、ホテル・オデッサを2ケ月ほどで切り上げ、費用の安い住居を求めて、メトロのバスツール駅近くの、シテ・フアルギエール14番地に転居したときである。そこは粗末なアトリエ付き集合住宅で、偶然にも一階にスーチンとモデイリアーニが左右に向かい合って住み、藤田はその2階に住むことになる。当時モデイリアーニは石を使った彫刻をやっていて、絵は措いていなかったが、鉛筆デッサンは欠かさなかった。彼はいつも同じ格好で、労動者風の格子縞のワイシャツの上に、コールテンの服を着込んで、赤い帯(腹巻き) を締めていた。ふっくらとした髪の毛は手入れせず、いつもモジャモジャにしていた。また無頼の酒好きでアブサントのペルノオを盛んに飲んでいた。飲み代にはしばしば因って誰かに酒を振舞われると、その人の似演絵を鉛筆で措いてお礼の代わりにしていた。なんかといえば「冗談じゃないぜ」というのが口癖であった。
二人が親しく付き合うようになるのは年が明けたある日のことで、二人とも詩が大好きという縁であった。
モデイリアーニが藤田の部屋を訪れると、どつかの雑誌で見つけたタゴールの詩史をいつも暗諭して聞かせた。また中国や日本の画家の話が中心であった。彼はイタリア人で貴族風の優しい口元の気品高い男であったと藤田が述懐している。彼が亡くなるのは1920年1月24日のことである。パリのサン・ベール街の慈善病院で、藤田の華々しい画凌デビューをよそ目に、静かに息を引き取ります。享年35歳。
病床に付き添った妻のジャンヌは、26日の早朝、両親のアパートの6階の自室の窓を開きモデイリアーニの後を追って街路に身を投げます。.jpg)
妊娠9ケ月であった。ジャンヌは25日病院で夫の死に顔をみて、ドランプル術の藤田のアトリエを訪ねている。彼女は憮怪し、悲しみに打ちのめされ、藤田の妻のフエルナンドのとりなしにも、ただジャンヌは言葉もなく、すすり泣くだけであったと藤田が記している。
第二次世界大戦後フランスに渡った藤田を待ち構えていた記者団に、「育てられたフランスから逃げ、日本の国策に協力しなぜ戻ったのか」との詰問に藤田はたじたじとなるが、会見の最後に「私が死んだらモデイリアーニの隣に埋葬してもらいたい」と語っており、この時の藤田の心情にどんな思いがあったのか?。
(現代美術資料センター主宰)
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(こみてぃす 第15号より) |
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ぱれっと(投稿欄)
〜〜クイチャーへの誘い〜〜
安和朝忠
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私は沖縄本島から南、約290Kmに位置する宮古島に住んでいる。
この島は古くは人頭税に苦しむ島、毎年の台風や干ばつに苦しみ、時にソテツ地獄とまで言われ、ソテツを食べ餓えを凌いだという苦難の歴史を刻む島でもある。
今は大型ジェット機が就航し、また、世界一と言われる地下ダムの開発により、島の苦難な歴史は過去の物語となっている。.jpg)
島には古くから伝わるクイチャーという古謡がある。五穀豊饒や雨乞い、村落の安寧祈願など、神への敬虔な祈りとして誕生したのがその起源と言われている。
しかし、いまでは沖縄本島のカチャシーという喜びを表現する踊りと同じで、三味線や太鼓を打ち鳴らし感動を表現する歓喜のお踊りとして県民に親しまれている。
かって、その踊りを見た天才・岡本太郎は、踊っているというより身体全体で楽しんでいる。喜んでいるというよりは、やはり踊っているのだ。ひどく率直な肉体のリズムであると表現し、絵画的情景であるとさえ言っている。
先般は、縁あって沖縄の地で、須藤一郎館長の見事なカチャシーの舞に酔いしれたが宮古のクイチャーの踊りがまだ残されている。 今宵もまた、どこからともなくクイチャーへの誘いの三味や太鼓の音が聞こえて来るようだ。
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(こみてぃす 第14号より) |
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現代美術と子どもたちー向田小学校の出前美術館でー
2004年10月7日
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すどう美術館では、美術はだれでも楽しめて心を豊かにしてくれるものだということを、より多くの人に伝えてゆくため、色々な所へ作品を持って出向いていく出前美術館という活動をしています。最近では金沢や横浜へと回を重ね、たくさんの方に喜んでいただいています。
今回は、神奈川県南足柄市にある向田小学校からの要望で初めて小学校での出前美術館をすることになり、10月7日から9日まで展示をしました。そして初日、1年生から6年生まで各学年45分ずつ、展示した教室での授業をすることから始まりました。
120号の大きな作品から立体作品や小品まで、現代美術の作品約60点を展示した多目的室という教室は、窓から雄大な箱根の外輪山が見えます。明るく広い空間にかけられた作品は、自然光の気持ちよさに生き生きとして見えました。子ども達は、前日の展示作業の最中から作品に興味津々。「何だろう」とのぞきこんでは早く見たい様子がうかがわれました。
授業は子どもたちに絵をよく見てもらうことを第一に考え、好きな絵をえらんでもらったり、作家と作品の紹介をしたりして進められました。驚かされたのは、子どもたちの作品を見て感じる力の豊かさでした。絵を見て楽しくなる、嬉しくなる、音楽が聞こえる、色がきれい、丸い形がなんだかいい、かたい鉄なのにやわらかくフワッとして見える、など作品を心のままに感じた言葉が次々に飛び出します。「すっごおい」と興奮して話しかける子もいて、皆喜々として部屋中をかけまわり、どんな作品も自由に見て、感じたことを友達と話したり鑑賞シートに書きこんだりして、自分の好きな絵を真剣に探している様子でした。
鑑賞シートが空欄の子に話しかけると、「どれもよくて迷っている」と答えた子がたくさんいました。抽象画が多い現代美術の作品を、わからないと言う子はひとりもいません。素直な心は、どんな作品も自由に楽しめる想像力と、すばらしい感受性を持っていました。
子ども達の言葉の純粋さはとてもみずみずしく感じられ、それに教えられ、又心洗われるようにたくさんのエネルギーをもらった一日でした。
大人になるにつれて知識が先行し頭だけで物事を考えるようになり、心のままに感じ、気持ちのままに表現することが難しくなってしまうことがあるようです。色々なことが育ってゆくこの時期に、大人が子ども達の純粋な感性を引き出して育てる環境をつくることが、どんなに大切かを実感しました。その為に、私達も忙しい日常の中にあっても豊かな気持ちを忘れずに日々過ごしたい、と感じさせられました。
これをきっかけに、更に子どもたちが絵に関心を持ってくれるようになることを願っています。
(すどう美術館スタッフ 高橋玉恵)
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(こみてぃす 第14号より) |
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すどう美術館がやってきたin 高輪
2002年6月29日
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「絵と音と花のコラボレーション」 と題した催しが、6月29日港区高輪区民ホールで開かれた。
これは、すどう美術館を素材にして、ピアニストの深井克則氏がコンサートをプロデュースし、千葉匡江さんが主億する白金花倶楽部の方々の花が会場を飾る、という新しい試みである。
打ち合わせが進むなか、すどう美術館をよく知って下さっている深井さんと千葉さんの中では、着々とイメージができあがってゆくようで、そこに新しいアイディアが加わり膨らみ、すでにコラボレーションは始まっていた。美術も音楽もフラワー装飾も、既成概念にとらわれず、色々な垣根をなくし、自由に楽しんで身近に感じて頂きたい、というのがこの企画画の三者共通の思いであつた。
一部は暗いステージに須藤館長をイメージして作られたハ−トのこけ玉のライトが光り、静かな雰囲気からピアノの演奏が始まった。舞台にかかげられた、三枚の絵、大沢昌助の「点の配列」、豊島弘尚の「星壁」、谷川晃一の「ナナの音楽」は照明によって少しずつ浮かびあがり、やがて一枚ずつ順番にスポットライトがあたると、まるで絵に語りかけるように、深井さんのピアノが奏でられた。
二部では、現代美術作家の遠藤茂子、利根川佳江、豊丸眞悟、春田真理子、番澤智之、山本和代、浜辺洋子の7人が、作品を持って登場した。深井さんと館長がトークをまじえて作家を紹介し、作品のイメージで音楽がつけられた.それは、優雅なピアノのメロディであったり、民族楽器のシンプルな音色であったりと7人7様で、にぎやかな楽しい舞台となった。
こうして、作品と共に作家をご紹介したことで、作品の背後にある人間的魅力も、感じていただけたのではないかと思う。
この催しに合わせ、区民ホール2階のギャラリーででは、「菅創吉・現代美術作家 and フラワーサロン展」が一週間開催されたが、会場は、こけ玉を中心にしたグリーンと白の造形が所々に置かれ、絵と響きあい、楽しい空間となっていた。
コーフボレーションの後、このギャラリーで行われたオープニングパーティーでは、たくさんの好評の声をいただき、楽しんでいただけた様子に、今回の企画に託した思いを、少なからず伝えられたように感じた。
絵を観ることも、音楽を聴く事も、花を飾ることも、特別なことではなく 日々いかようにも、豊かに楽しめる。そしていつの日も、心に響くもものを大切にしたいと願う。
このコラボレーションが、そうもたことへのきっかけになれば、幸いに思う。
(すどう美術館スタッフ 高橋玉恵)
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(こみてぃす 第4号より) |
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第6回 「若き画家たちから一のメツセージ2002」展開催さる
2002年2月26日(火)〜3月3日(日)
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すどう美術館の六回目となる 「若き画家たちからのメッセージ」 展を今年も開催し、38人の若き画家たちに作品を出展していただいた。
30歳ぐらいまでを対象とする公募展であるが、次のようなユニークさがあると思っている。まず、審査する私が応募者全員に面接をし、これまでの作品、写真等の資料を見せていただき、いろいろな話をして、入選かどうかを決めていることである。そして、人選者にはそれから出展する作品を作ってもらっている。
面接するということはお互いに時間を取られ、たいへんなことである。 しかし、アートはアーだけが一人歩きするものではなく、創る人、見る人、それを繋ぐ私たちの人間関係の中に存在するものと考えている。だから通常の公募展のように、作品だけが審査会場に送られ、知らない審査員が知らないところで審査し、入選作品が会場のどこかに展示され、知らない人たちが見にきて終わりというのには疑問をもっている。
それで、私が事前に一度は作家に会い、作品の傾向も知り、展覧会が始まればできるだけ作家にも会場にきてもらい、来館者と話をする。そんな形にしたいと思ってのことである。
若い作家にささやかながら展示スペースを提供し、支援をしたいとの考えからはじめたことではあるが、他に出展者同士の交流を図ってほしい、来てくれた人の反応を受けとめてほしい、それに全体の作品の中で自分の作品がどのように見えるか確認してほしいということなどを目的としている。
また、一点の絵画が人の一生を変えるほどの重いものを持っているという私の体験から、絵は色でも、形でも、テクニツクでもじなく、人の目を意識せず自分しか描けないものを一生懸命に描くことが大事ということを伝えている。さらに、人に感動をあたえる作品を作るには、人間としての豊かさや幅の広さが必要でありそのためには、日ごろの生き方が重要であるといったことも話している。
幸いこれまでの出展者の多くが、いま、いろいろな形で美術活動を続けており、うれしく思っている。
なお、作品に賞を出すこともしている。それは二名の買い上げ賞であり、受賞者には副賞として、そのあと時期を見て、個展を開催してもらっている。
本年の受賞者は大蔵真由美、池宮由太の二人であった。
すどう美術館館長 須藤一郎
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(こみてぃす 第3号より)
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すどう美術館
〒250-0853 神奈川県小田原市堀の内373
TEL:0465−36−0740
FAX:0465−36−0739
Email to : sudo1art@nifty.com
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