自分への戒めその2:規則を作る
世の中にはさまざまな文章読本があって、千差万別の自説を展開しているが(斉藤美奈子『文章読本賛江』に詳しい)、つまるところ重要なのは、自分の「ルール」を作るということである。「文体」の確立というにはおこがましいが、自分自身で定めた文章上の作法を厳密に守っていくことは、人さまに読んでいただく文章を書く上での最低限のマナーではないかと思うのだ。以下は、自分自身のための覚書である。
1)二重否定を使わない。
たとえば「理由がないわけではない」は必ず「理由がある」と書く。もって回った口ぶりで文章を粉飾しているようで、恥ずかしいからである。同じ理由で「と思うのは私だけではないだろう」のような表現も使わない。私が現在書いている文章は、「私」の意見を書くという態度を明確に打ち出した文章なので、その「私」の視座がどこにあるのかぼかした書き方は、卑怯である。これは「自分語り」を禁じるのとは、また別の問題だ。
2)極力「性」「的」を使わない。
「酸性の物質」を「酸の物質」、「積極的な人」を「積極な人」とは書けないが、「漢語+性もしくは的」という形容詞句は極力排除する。「自分的には」はもってのほか。理由は、文章の抽象度が上がるからである。私が普段書いているのはあまりおつむのよろしくない原稿なので、抽象度の高い表現を挟みこむと、途端にそこだけ浮き上がってしまう。もちろん、哲学・論理学的な議論をするときには、明確にことばを定義する必要があるため、抽象度を上げた表現が必要になるだろう。しかし、普段からそういう高踏的な文章を書いているわけではありませんので。
3)否定・肯定の条件を限定しない。
文章を書いていると、どうしても物腰の柔らかい表現に逃げ込みたくなるときがある。たとえばある作品はおもしろいのだが、万人向けではないし、プロットの一部に破綻が見られる。そうしたときに「ある意味では、これは失敗作といえる」と書きたくなるのが人情というものである。また、登場人物が魅力的だと感じたが、どうもその魅力の源泉がわからない。そうしたときに「独特の魅力を感じる」などと書いてしまう。文章を書く上では、読者に文意が明確に伝わることを心がけなければならないので、こうした限定は卑怯である。筆者の態度を曖昧にしようとする意図が感じられるからだ。成功・失敗にどんな他意もないのだ。成功しているか、失敗しているか、である。人物の魅力はだいたい独特なものなのである。こうした表現を使うとき、まず筆者の腰は引けていると思って間違いない。
(この項続く)
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