とにかく日本語をわかりやすく書くことを心がけています。世の中には難しいことと易しいことがあり、難しい書き方と易しい書き方があります。その中でいちばん頭がいいのは、易しいことを易しく書けることで、いちばん頭が悪いのが、易しいことを難しくしか書けないことです。やたらと難しい言葉を使わないとコミュニケーション取れない人、かっこ悪いですよね。私のおつむの方はあまり良くありませんが、そのせいで文章が難しくならないよう、いつも心がけています。以下はそのための備忘録とでもいうようなもの。

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 自分への戒めその1:書評はコラム

基本的に書評はコラムであります。コラムとエッセイはどう違うのかと言うと、「自分語り」をせずデータ重視・取材必須で書くのがコラム。「自分語り」を中心に主観重視・取材無しで書くのがエッセイ。そういう風に私は認識している。

「自分語り」をしないというのがどういうことかというと、よく小説講座の初歩で言われるあれです。「自分のことを書くな」というやつ。とかく小説の初心者は自分の体験を生の形で小説化したがるものだが、そんな普通の人間のありふれた体験など、誰も読みたいわけがない。その人にタレント性が無いからである。それと同じで、非小説の文章で平凡な人間の平凡な人生を書かれても、読む奴なんかいないって。優れたコラムは、書き手本人の情報よりも、その事象を囲む状況の分析や、もっと大事な、この先どうなっていくのかという予見を述べるべきものである。たまにプロのコラムニストで自分の近況を述べる人がいるが、あれはコラムニスト自身にタレント性が出たゆえの遊び・付録に他ならない。

書評は読書量の少ない一般読者に成り代わり、出版界の現況を踏まえた読書をして内容を紹介するものだから、コラムに徹しなければならないわけである。

最近注目している書評家は吉田豪氏である。吉田氏は「引用書評」とでもいうべきスタイルを確立させた(つまり、本文を抜書きしてそれにコメントをつける形で一冊の本を紹介するというスタイルですね)。これなどは「テキストから読み取れることだけを書く」という原則に忠実で、書評のお手本とでもいうべきだ。

以前、ターザン山本氏(元週刊プロレス編集長)の本を書評した手際はお見事だった。ターザン氏の本は、新日本プロレスの裏事情を暴露した元レフェリーのミスター高橋氏の揚げ足取り本で、高橋氏の本にはこんなに間違いがあるという指摘が、かなりのページ数をとって行われているものだったが、吉田氏の書評は、さらにその山本氏の間違いを指摘するものだったのである。その行為によって、高橋氏の本の粗製濫造ぶりを糾弾する山本氏もまた、タイミング重視で本を急造していることが暴露されてしまったのだった。本文中で百の言葉を費やして書き手を批判するより、こういった証拠をつきつける作業の方が、百倍読者には届くはずである。


 自分への戒めその2:規則を作る

 世の中にはさまざまな文章読本があって、千差万別の自説を展開しているが(斉藤美奈子『文章読本賛江』に詳しい)、つまるところ重要なのは、自分の「ルール」を作るということである。「文体」の確立というにはおこがましいが、自分自身で定めた文章上の作法を厳密に守っていくことは、人さまに読んでいただく文章を書く上での最低限のマナーではないかと思うのだ。以下は、自分自身のための覚書である。

1)二重否定を使わない。
 たとえば「理由がないわけではない」は必ず「理由がある」と書く。もって回った口ぶりで文章を粉飾しているようで、恥ずかしいからである。同じ理由で「と思うのは私だけではないだろう」のような表現も使わない。私が現在書いている文章は、「私」の意見を書くという態度を明確に打ち出した文章なので、その「私」の視座がどこにあるのかぼかした書き方は、卑怯である。これは「自分語り」を禁じるのとは、また別の問題だ。

2)極力「性」「的」を使わない。
「酸性の物質」を「酸の物質」、「積極的な人」を「積極な人」とは書けないが、「漢語+性もしくは的」という形容詞句は極力排除する。「自分的には」はもってのほか。理由は、文章の抽象度が上がるからである。私が普段書いているのはあまりおつむのよろしくない原稿なので、抽象度の高い表現を挟みこむと、途端にそこだけ浮き上がってしまう。もちろん、哲学・論理学的な議論をするときには、明確にことばを定義する必要があるため、抽象度を上げた表現が必要になるだろう。しかし、普段からそういう高踏的な文章を書いているわけではありませんので。
(この項続く)


 自分への戒めその3:商業媒体は公器。

 筒井康隆断筆宣言のころ、いわゆる「言葉狩り」が問題になった。人権団体からの抗議を恐れたメディアが、過剰に表現規制をかけるようになったのだ。それを見て、まだアマチュアだった私は、「表現の自由」の侵害でゆゆしき事態だと憤慨していた。

 自分で商業文章を発表するようになった後も、その考えはあまり変わっていない。メディアが内規の表現コードで表現者を縛ることはすべきでない。表現者が自己責任で表現内容を選ぶのが本来のやり方である。
ただし、商業媒体は公器である。こうやって今文章を発表しているサイトも、私が書評家の宣伝媒体と認識して使用している以上は公器に準じるものである。不特定多数の人が見る可能性がある中で、誰かを傷つける可能性がある表現を不用意に使うのはよくないことは間違いない。その認識がアマチュアの頃の自分には欠けていたと反省している。実際に表現の場に立たないとわからないものです。

 もちろん、特定の語句を使わざるをえないことはある。たとえば史実に基づく場面がそうだ。最近感心したのは京極夏彦『後巷説百物語』(角川書店)と、古処誠二『接近』(新潮社)である。前者は明治初期を舞台にした作品で、「山の民」に属する人々が近代化の波に飲まれる時代、すなわち漂泊が許されなくなり戸籍上に定着を強制される時期を描いている。この時期に「サンカ」という言葉が使われるのはきわめて当然のことだ。また、古処の作品は1945年の沖縄戦を描いているが、本州人の兵士に差別される島民が同じように「半島人」(この時期日本は朝鮮半島を植民地=自国化していたのでそういう呼び方をする)を差別する構造が描かれていた。このことによって差別の構造の輪郭が明示されているのである。

 悪い例を出そう。数年前に読んだ某ミステリーは、1930年代が舞台であり、プロットの要所に当時の朝鮮民族に対する差別意識が絡んでいた。物語の肝ともいえる場面を読んで私は愕然としたのである。朝鮮民族である登場人物を指差し、周囲の人間(教育程度も高くないであろう普通の市民である)が「コリアだ!」と叫ぶのだ。1930年代にこんな物言いをしていたはずがない。つまり作者は(もしくは出版社は)、「朝鮮人」という表現を忌避したのだ。では、それを「コリア」と言い換えることによって、差別意識の無いところを示すことができただろうか。そうではないはずだ。朝鮮民族差別がプロットの要諦であるなら、その要になる箇所では必ずそのものの表現を使うべきだろう。それを回避して書くことができるということは、つまりその差別問題を使わずに小説を書くことができるということである。言葉は悪いが、この作者は差別問題をプロットの装飾のために利用したのである。そして表面だけを綺麗に取り繕い、自らの差別に対する感覚の鈍さを糊塗したのである。その場に存在しているものを書かなければ表現者は嘘をついたことになる。嘘をつかなければ書けないほどの覚悟しかないのであれば、初めから人を傷つけるリスクを侵してまで書くべきではないのだ。

 三角寛のいわゆるサンカ小説を見てみるといい。三角は自らのサンカとの接触体験を元に(信憑性は怪しいが)彼らの生態を紹介する小説を発表した。だが、その内容は、三角自身のロマンティシズムが発露され荒唐無稽な脚色が施されていたのである。極端なロマンティシズムが実像を歪め、さらなる誤解の温床となる。残念ながら三角サンカ小説は、サンカに対する差別意識を助長する結果となったのである。差別の問題を考えるときには、その起源から現代社会への影響までを概観しなければならない。無神経に道具立てとして扱うことは許されないのである。もちろん、書くべき対象の裡に差別の温床があるのだとすれば、それを書かずに済ませることはすべきでないのだが。

 以上のようなことを踏まえて物を書くとき、簡単な判断手段がある。「自分がそれを書かれたら痛みは感じないだろうか」と内省してみることだ。たとえばジェンダー差別に関してこれは有効な手段である。「女性弁護士」「女性ならではの細やかな配慮で」「子供は母親といるのがいちばん」といった表現は、男女を入れ替えた場合どう響くだろうか? 性別を入れ替えた際に奇妙な感じを覚えるものについては、なにがしかの偏見が混じりこんでいるのである。そういった表現は使わない。そういったところから自らの文章に責任を持つことを始めていくのである。



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