バトル・ロワイアルUについて
太田出版刊『バトル・ロワイアルU−鎮魂歌』は、深作健太氏・木田紀生氏執筆の脚本を元に、杉江松恋が再構成して書きました。制作に関する四方山話いろいろ。

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 McKoy's column: Outtake of BRU「3年B組タケウチ先生」

 2003年9月より、小説『バトル・ロワイアル2鎮魂歌』の登場人物も関するエッセイを連載させてもらうことになった。媒体は太田出版web(↓にリンクがありますので見てください)。題名は↑に書いたとおりなのだが、「3年B組タケウチ先生」という副題は、私が冗談で上げていたのがいつの間にか通ってしまっていたみたいだ。いいのかな。

 内容は、BRゲームに参加させられた鹿之砦中学校3年B組の生徒について、一人一人とりあげて作者の考えを書くことになると思う。基本的にエッセイなのだが、生徒によっては省略した挿話をそのまま掲載した方がいいかもしれず、形式は流動的である。何度も書いているように、小説版の人物設定は映像資料をまったく見ずに作ったものなので、映画と著しく異なっていることもある。また、その役を演じた俳優さんについても触れる予定はあまりないので、そういう興味の方にはごめんなさいです。杉江松恋が想い浮かべた人物像と俳優さんの演技プランはもしかすると全然違うかもしれません。そういう考え方もあるんだ、というくらいで読んでいただきたいと思います。

 毎週一回更新の予定なので、ぜひ太田出版webを覗いてみてください。次はこの生徒について触れてほしい、というリクエストがあったらお待ちしています。


 バトロワとの出会い?

以下は、私が1999年4月29日に初めて高見広春『バトル・ロワイアル』について書いた文章である。雑誌「問題小説」の書評用原稿だ。読み返してみると、『バトル・ロワイアルU』ノヴェライズの構想の一部はここに端を発しているようなので、紹介しておく。


「問題小説」なのだから、たまには文壇で問題になった小説を採り上げよう。そう、高見広春『バトル・ロワイヤル』である。

 本書は、某社ホラー大賞の最終候補作となりながら選考委員に忌避されて落選した、という不運な来歴の作品である。これは伝聞でしかないが、中学生が互いに殺し合うという主題の残酷性が選考委員諸氏の真っ当な倫理観にはお気に召さなかったらしい。それなら、ホラーじゃなくて純愛文学でも選んだらいいのに……、というのは部外者の放言。お聞き捨てを。

『バトル・ロワイヤル』では、「この国」には「大東亜共和国」と呼ばれる全体主義国家が成立している。「共和国」と「日本国」の社会構造は、一見それほど異なっておらず、せいぜいアメリカ文化が「米帝」として禁止されているだけだ。だが、小説を読み進むうちに、この国家が戦慄すべき非人間的なシステムによって動いていることが判り、じわじわと恐怖がこみ上げてくる。その最たるものが、主人公七原秋也たち香川県立城岩町立城岩中学校三年B組の生徒四二人に課せられた「プログラム」と称する殺人ゲームである。
毎年、全国の中学から一学級が選ばれ、孤島のような閉鎖環境に隔離。選ばれた生徒たちは武器を渡され、最後の一人になるまで殺し合いをさせられるのだ!

 闘いを拒否する平和主義は勝手だが、それは殺されるのを待つという緩やかな自殺でしかない。しかも生徒たちには爆弾を仕込んだ首輪がはめられており、禁止区域(だんだん増えて隠れ場所を奪っていく)に侵入したりすると遠隔操作で爆死させられる、という非情なルールまで存在する。こうして秋也たちは、否応なく殺し合いに駆り立てられていく……。

 本書の設定から、私は英国作家ゴールディングの『蠅の王』(新潮文庫)を思い出した。この小説は南海の孤島に不時着した少年たちのサバイバル物語だが、最初は大人をまねた民主組織を作り団結していた少年たちが、次第にエゴイズムを剥き出しにし、救いのない殺戮闘争に走って行く過程を描いている。『十五少年漂流記』を思わせる設定が最後に人間の負性を暴く小説に化けるというのが衝撃的だが、当時の冷戦の影響からか作品の舞台を世界大戦中の近未来に設定しているのも斬新である。孤島の外側にもっと救いのない地獄を想定する厭世的世界観など、本書との共通点は多いと言える。

 大きな違いもある。五四年に発表された『蠅の王』の登場人物たちが大人たちによって島から救出されることを夢想できたのに対し、九九年に発表された本書では大人による「救済」の途は最初から否定されている。秋也たちを殺戮に誘う教師の名が「坂持金発」だったりすることからそれは明らかだ(三年B組金発先生という厭なギャグ)。あのドラマのようなヒューマンな関係はここには存在せず、この世界では、大人は彼らを支配するシステムの一環でしかないのだ。だが、その絶望的なシステムに立ち向かい、次々に仲間たちが斃死していくのを見つめることで、秋也たちは生き抜く覚悟をくくり、どん底にしかない生の輝きを発見していくのである。
 君と世界の闘いでは常に世界の側を支援せよ、と語ったのは評論家の加藤典洋である。この世界に直面するとき、いつも自分は不当に虐げられているように感じられる。特に自分が無力であるほどそうだ。そんなとき、自己憐憫に浸らず、積極的に世界の残酷さを受け入れて立ち向かう以外、実は救済の途はないのである。本書で語られるのは確かに残酷な物語だが、その中には世界との闘いに必要な教えが詰めこまれている。甘ったるい優しさの押しつけに飽きたとき、ぜひ手にとってほしい一冊だ。


 小説版「バトル・ロワイアルU」のできるまで(その2)

(その5)設定は自分で考える。
 もちろん、設定資料集にあることには従わないといけない。たとえば、制式銃である〇三式BR小銃のマガジンの弾薬数は三十である。これは変更不可能であり、従うしかない。自分で考えるというのは、設定資料集にない部分である。たとえば、アジト突入の場面で複数の生徒が死亡するのだが、それによって誘爆する生徒の順番がおかしく見える部分があった。NとSのパートナーはほぼ同時に死亡したように見えるのに、首輪が爆発するのはNだけなのだ。起動から爆発までの時間が一定だとすると、これはおかしい。そこで、首輪爆発の時間は毎回アトランダムであるという設定を導入した。そういうことの繰り返しである。

(その6)人物も自分で設定する。
 他の刊行物や映画パンフレットを見ると、ノヴェライズとは基本設定が異なる登場人物がいるはずである。例えば森島達郎がアイコラマニア、などというのは私の完全なオリジナル設定。映画版では鹿之砦中学校には、不登校などの問題を抱えた生徒と、地元進学の生徒が半々くらいいることになっているのだが、これは現実にはおかしいのでは、と感じた。やはり、全生徒がなんらかの問題を抱えた学校というのでないと、設定が成り立たないように思われる。そこで、映画版では健全だった生徒に、あえていろいろなトラウマや問題を抱えさせるようにしたのである。そこのところの食い違いは、故意にしたものである。違和感を感じた読者がいたとしたら、たいへん申し訳ない。

(その7)何人かを準主役に引き上げる。
 青井拓馬の視点ですべてを描こうとすると、いろいろと困ったことが出てくる。たとえば上陸後一班と二班は完全に別行動をとるため、拓馬のいない二班の行動が描けなくなるからだ。そこで二班の野坂真帆の比重を高め、彼女の目で描写ができるようにした。同じように「ワイルド・セブン」側もスナイパー・桜井サキの役割が重くなっている。これには、二人の主人公、七原秋也と青井拓馬を外側から描くことができる、という効果もある。青井拓馬は怒ってばかりいる少年なので、第一部では彼に恋情を抱く久瀬遙の目によって彼を観察することにした。こういう作業が楽しいのである。

(その8)イベントを増やす
 映画の編集とまったく逆の作業である。映画の編集はいかにシャープに全体の物語を収斂させうるかが勝負だろうが、小説の場合読者は必ずしも一方向に突き進むように要求されない。小説の中で立ち止まったり、あるいは全然関係ない方向へ進むことも許されるべきなのである。高見広春氏の原作は、その遊び心に満ちていた。ゲームの理念が「だまし討ち」だったからである。今回の脚本ではそれがなかなか許されない。「七原秋也暗殺」という目的が一方向にしか進めないものだからである。しかし寄り道のない『バトル・ロワイアル』なんて、という読者のため、なるべく途中にイベントを追加することにした。必ずしもそこで自由な空想を膨らませられるわけではないので、不十分なイベントではあったが。特に気を遣ったのは、映画で見せ場もなく一瞬で死んでしまうだろう生徒たちの扱いであり、小説ではどこかで名前が印象に残るよう、それなりに配慮した。中盤の展開については、もっとイベント豊かにすべきではなかったか、と反省している。もしかしたら、密室殺人の一つも起こすべきだったかもしれない。サプライズ不足というのが、サブプロットを作った際の最大の反省点なのである。


 小説版「バトル・ロワイアルU」のできるまで(その1)

お話をいただいてから刊行までの期間は実質二ヶ月。限られた時間の中で小説を仕上げるため、突貫工事めいたことをして、制作を進めた。

(その1)脚本を元に書く。
最初に受け取った脚本は、撮影現場でかなり手が加えられたので、順次改稿がなされていった(それでも、大きなストーリーの変更はなかった)。小説版が依拠しているのは、その脚本である。脚本を分解して再構成し、小説の起承転結をつけるという作業を最初に行った。その作業を始めた時点では映像資料は何もなく、脚本に書かれたことのみをベースとして書こうという肚はすぐに決まった。

(その2)視点を固定する。
原作『バトル・ロワイアル』は三人称多視点の小説である。だから複数の登場人物の内面を描きやすいし、人が減っていくに従ってそれぞれの視点が濃密に描けるようになるという利点もある。映画版も比較的それに近づけるように撮られているという印象があった。対するに、今回の映画は神の視点で描かれる場面が多いと感じた。つまり、ゲームに参加する生徒の目線では知り得ない描写が多く含まれる。これを小説に置き換えると、読者が登場人物に感情移入できないという弊害が生まれる。誰かの目を通して読者が戦争を眺め、腹を立てたり、泣いたりするのでなければ意味がない。そのため、少々書きにくくても一人の人物の視線で書こうと考えた。青井拓馬である。ところどころ他の人物に切り替えざるを得ない場面もあったのだが、ほとんどのシーンは青井拓馬の目から描写されている。

(その3)小説ならではのサブプロットを入れる。
映画は上映時間の制約があるため、なかなか遊びを入れることができない。対するに原作は生徒の持つ武器の多様性を見てもわかるように、全編に遊び心が満ちており、かつ読者を驚かせるためのひねりも準備されていた。深作監督の脚本で全体のストーリーの帰結点は定められているので、そこは変更できない。だが、小説として読者を引っ張り続けるためにはストーリー上のうねりと裏切り行為が必要である。そのため、いくつか脚本上の穴を見つけて、そこにサブプロットを埋め込むことにした。映画を観てから小説を読んでいただければ、内容の違い(映画の味を殺すものではないです)に気がつくはずである。

(その4)世界観を固定する。
「世界観」という言葉を安易に使うのは好きではないが、そう呼ぶ以外にない。『バトル・ロワイアル』原作と映画は、両方とも現実の日本を舞台にしていない。いわば多元世界の「日本」なのだが、原作の方が現実からの乖離度が高く、映画の方がより現実の日本に近い。そこには戦後史の中で反権力の姿勢を貫いていた故・深作欣二監督の意向が反映されていた。では、『U』はどうあるべきか。「BR法」という明らかな虚構を現実の日本に近い社会で成立させるのはかなり難しい。希望としてはもっと極端に警察国家化が進んだ国を舞台としたかったが、ノヴェライズという性格上、映画版の設定から大きく外れるわけにはいかなかった。そのため、「現実の日本にBR法という悪法があり、それに対する抵抗組織がテロを行っている」という虚構を成立させることがストーリー作りの出発点になった。当然その虚構部分は私たちが暮らしている日本の現実からは「逸脱」している。その「逸脱」を全体の文章の中で隠蔽するのではなく、あえて際立たせて現実と対決させた方が読者に賛同を得られるのではないかと考えた。全体の構成はそういうことを考えて作っている。



 バトロワ関係リンク集

 太田出版web
McKoy's column: Outtake of BRU「3年B組タケウチ先生」連載中。
 BATTLE ROYALE バトル・ロワイアルファンページ
自分ではBBSを設置するつもりがないので、いくつか映画『バトル・ロワイアルU』関係のBBSを紹介しておきます。その1。
 MOVIE IS JUST MY LIFE【映画こそわが人生】
これがその2。
 バトル・ロワイアル2ネタバレ掲示板
その3。
倫敦時計さんが管理されるBBSです。発言者がどの俳優のファンかわかるようになっているのが楽しいですね。
 Bloody Race
榊みずみさんのバトル・ロワイアル・ファンサイト。BBSがあり、コンテンツはバトロワ以外にも盛りだくさんです。


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