金沢城下町の形成と変遷

近世城下町の形成前史

 天文15年(1546)創建の浄土真宗本願寺支坊金沢御堂は、小立野台地の突端部にあたる現在の金沢城跡にあったと推定される。周辺には寺内町が形成され、古五町(南町・西町・堤町・後町・近江町)はこのときつくられたといわれる。

近世城下町の形成と発展

 天正8年(1580)には佐久間盛政が一向一揆の拠点だった尾山御坊を攻略し、尾山城を構えた。城の周辺には尾山八町(南町・西町・堤町・近江町・松原町・安江町・金屋町・材木町)が展開した。織豊政権による近世城下町の成立。
 天正11年(1583)には前田利家が金沢に入った。金沢城の本格的築造が開始、城下町の本格的整備。上級武士は城内、そのほかの家臣は城下に居住。城の北側には米町・塩屋町・竪町・十間町・今町・尾張町・博労町・伝馬町などが拡大。慶長4年(1599)には内総構堀、慶長16年(1611)には外総構堀が完成。元和年間(1615〜23)に浅野川・犀川河原の整備。元和2年(1616)、北国街道犀川口の寺町と浅野川口の卯辰山山麓へ寺院を集める。
 慶長7年(1602)天守閣・本丸の建物が落雷により焼失。元和6年(1620)本丸屋形焼失、堂形周辺まで延焼の可能性。
 絵図 慶長之金沢図(1596〜1615,金沢図書館蔵)。

街区改正と寛永の大火

 寛永2年(1625)、街区改正。城下は金沢城を囲んで武家地・寺社地・町地に区分、町地には上級町人が居住する本町と七か所、下級町人が主として居住する地子町を配置。
 寛永8年(1631)、寛永12年(1635)、城と城下の大半を焼失する大火。大火後、街区を大幅に改正、家臣団・寺院の再配置。城内に屋敷地を構えていた上級武士を城外に出し、城の近辺と城下町の要所に配置。尾張町・十間町・近江町・西町・堤町・南町などを北国街道沿いの現在の位置に移動。泉野台・小立野台・卯辰山山麓のへの寺院の集中を進める。
 絵図 加州金沢城図(1650〜60,名古屋市蓬左文庫蔵)、寛文8年(1668)金沢町絵図(金沢市立図書館蔵)、延宝金沢図(1673〜81,石川県立図書館蔵)

城下町の拡大

 城下町縁辺部の低湿地に当たる元菊町遺跡、木ノ新保遺跡、三社町遺跡の発掘調査では、墓地や農地が城下に取り込まれた過程が判明した。こうした城下の膨張は寛文元年(1661)の相対請地勝手令の前後に急激に加速した。高沢忠順による改作所旧記には万治2年(1659)から寛文5年(1665)の6年間に30万歩の武家地・寺社地・地子町が増加したとされる。寛文2年(1662)には相対請地制限令が出され、寛文6年(1666)には相対請地禁止令が出された。しかし、農地の相対請地化、農民の町人化はおさまらず、17年後の天和3年(1683)には再度、阿弥陀起請文を前文にした相対請地禁止の布告が出された。人別整理による農民の町人移籍は幕末の文政4年(1821)まで行われ、度重なる禁令にも関わらず農民の城下流入はやまなかった。(田中 1984)

その後の大火と災害対策

 延宝5年(1677)、三社町より折違町(現、六枚交差点付近)までを延焼する大火。  元禄3年(1690)の大火、享保16年(1731)の大火、享保18年(1733)の大火、元文元年(1736)の大火、宝暦9年(1759)の大火、寛政11年(1799)の大地震、天保6年(1835)の大火、安政2年(1855)の大火など。
 藩政期の金沢城下における主な火災は69件、500件以上を焼失した大火は19件。内外総構堀および城下につくられた数多くの用水はそうした防火対策(ほかに戦略対策・雪害対策・汚物処理・灌漑の役目もあった)の為につくられた。(田中 1984)
 絵図 享保19年(1734)加州金沢城下町割正極之大図(穴水町教育委員会蔵)、寛政3年(1791)金沢城之図(金沢市立図書館蔵)、文化8年(1811)金沢町絵図名帳(写本 金沢図書館蔵)、慶応3年(1867)金沢城絵図(記載内容は文政(1818〜29)初期か,金沢市立図書館蔵)、天保14年(1843)頃の金府大絵図(金沢市立図書館蔵)、石川県立歴史博物館所蔵の絵図(堂形前の記述は1759〜1819)など。

金沢城下町の交通

 金沢城下町に至る日本海の外港は、宮腰港(現、金沢市金石町地内)と大野港である。宮腰町は城下町の西郊を流れる犀川の河口、大野村は城下町の西郊を流れる浅野川と河北潟を通じて連絡する大野川の河口に位置する。宮腰港から金沢城下へは犀川と元和2年(1616)に開通した直線道路の宮腰往還が連絡し、大野港からは浅野川が連絡した。
 城下町の中心部へは北国街道が東西に貫く。すなわち、森本、鳴和を経て浅野川大橋を渡り、橋場町から武蔵ヶ辻、香林坊を経て犀川大橋、野町方面へと抜けていく。このほか、鶴来往還・小原越など金沢城下に至る山まわりの道筋も複数存在する。

 参考文献 田中喜男 1984 『城下町金沢』弘詢社