Profile(以下敬称略)
一躍、益子直美の名前が全国に広まったのは昭和59年の春高バレーである。エースだった益子直美は前衛でも後衛でも打ちまくり、まさに孤軍奮闘で、準決勝ではそれまで1度も勝ったことのなかった八王子実践を初めて下し、決勝では惜しくも四天王寺高校に破れたものの、益子フィーバーを全国に起こし、高校選抜にも選ばれる。
「その6カ月後の秋、おもしろいことがわかったんです。就職先を決めるのに、いろいろと参考になると思って、知り合いの占い師に私の運勢を見てもらったんです。そのときに、その年の一番いい月と、一番悪い月を聞いたんです。そしたら、いい月が3月で、悪い月が4月だって言われたんです。
あのとき、準決勝戦が行われたのが3月30日。決勝戦は男女別々に行われて、男子が先で31日、女子は翌日の4月1日に行われたのです。もし、男女の決勝戦が逆に行われていたら、共栄学園が優勝していたかも...って、運勢のせいにしています(笑)」
結局、その年のインターハイもベスト8止まり、国体でも決勝で古川商業に敗れ、高校時代に優勝を経験することはなかった。
一方では、実業団各チームが勧誘に来ていたが、マコ自身も両親も早くからイトーヨーカドー入りを決めていた。
『益子直美がイトーヨーカドーに入社』
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当時のヨーカドーは、ライバル会社のダイエーが創部わずか3年にして日本リーグ入りを決めたことに刺激を受けていた。
それまで、ペルー出身の外国人助っ人に頼りがちだったヨーカドーだったが、マコをはじめ、篠原孝子(宇都宮女商高)、堀順子・甲斐千保(成安女高)、そして金子志保(旭川実高)らの逸材が同時に入社したのを受け、遠藤監督は5年間在籍したビッキーを外した。
「このメンバーでいつかは優勝しようよ」
その年度の第19回日本リーグ、第1戦のユニチカにフルセット勝ちしたあとダイエー戦を見事に3-1で勝ち、第3戦の東洋紡にもストレート勝ちして3連勝した時には、Tヨーカドー旋風Uを思わせた。
ところが、次の東洋紡戦を落としてから、日立、ダイエー、日電、日立と5連敗し、結局終わってみれば、11勝10敗の4位と前年度と同じ順位。むしろ初出場のダイエーが1月24日に日立をフルセットで破り、88で日立の連勝記録をストップさせた。と同時に、この試合で、当時アメリカ代表だった、ハイマンが倒れ、急死する不幸な事故もあり、15勝6敗で2位のダイエーの方が目立ってしまった。
マコ自身も、多難なリーグで、手首骨折、左足首骨折、貧血、また、環境の変化もあってか、生理が1ヶ月も続く異常に悩まされた。
結果的には、サーブ効果率9位で、新人賞にも選ばれ、小島孝治監督の元の全日本で第10回世界選手権(チェコスロバキア=7位)、岩本洋監督の全日本でアジア競技大会(ソウル=2位)に出場したが、ちょうどそれは日本が世界のトップ・グループから転落する不幸な時期でもあった。
翌年の昭和61年度、ヨーカドーでは、それまでの遠藤祐亮から前田健へと監督が代わった。前田監督は51〜52年がパキスタン男子、53年4月から60年のユニバーシアード神戸大会までカナダ男子監督を務め、ロサンゼルスオリンピックではそのカナダチームを4位にまで押し上げた実績を持つ、日本バレー界のニューリーダー候補で上智大出の38歳(当時)。その年、斎藤真由美の東京・中村高校への入学に一役買った、前田豊(当時、東京都協会会長)の三男でもある。理論家の前田監督の下、徹底した科学トレーニングが導入され、T打倒日立U、日本一へ向けてのロングランチーム作りが始まった。また、後々への夢を持たせることとして、この年の11月1日に、中村高校を中退した15歳の斎藤真由美が途中入社してきたのだった。
テレビのアニメ『アタックNo.1』の影響で、地元の金町中学校に入ると同時にバレーボール部に入部する。2年生の時に葛飾区で優勝し、3年生ではチームの主将になり、東京都選抜に選ばれる。
昭和57年春に、以前から誘われていて、家からも近い共栄学園高校に入学。素質を見込まれ、すぐにレギュラーとなったが、当時は、同じ東京では、宮島恵子(後年日立)のいた八王子実践高校が強かった。
「このまま全日本に入ってプレーしないか。ヨーカドーに入っても1人も全日本に入れないから、このまま日立に入れ」
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国体を終えた日に、こう言って強引に日立入りを強要したのは当時の全日本監督山田重雄である。全日本の一員として東南アジア遠征をしても日立入りの勧誘は激しく、マコも両親も困惑状態が続いた。
「中田、杉山、武内、小高、宮島、石田といった6人で固めている日立に、私が入ったとしても控え要員でしかない。入る以上はレギュラーで出場したい」
マコは初心を貫き通し、昭和60年ヨーカドーに入る。
60年2月27日に、T益子の入社Uが発表され、新聞紙上を飾るほど、マコは注目されていた。
「いよいよダイエーとの対決時代になるな」
5月に取締役就任の塙昭彦オーナー(当時)のさりげない言葉も遠藤監督(当時)には、ずしりとくる。両者が業界でどんなにしのぎを削っているかがわかっているからである。
「でも日立は強いよ。勝てるかなあ」
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前年まで、日立は日本リーグV4を達成しており、しかも連勝記録も84と伸ばしていた。
「日立だっていつかは弱くなるときあるよ」
T花の60年入社組Uと周囲では呼んだ。
その中でも、マコは攻守ともにバランスの取れた好選手として、入社早々からエースとしてデビューした。
マコの身長は173.8cm。高校ではスター的存在だったが、実業団となると上背がない。
早くも一年目にして、最初の大きな挫折が訪れた。
黒鷲旗全日本選手権で若鷲賞(新人賞)を取ったあと、中国へ海外遠征をした。この時、マコのスパイクは福建省のブロックにことごとく打ちのめされた。それでも上がってくるトス。スパイクは決まらず、得意のサーブレシーブさえ返らなくなった。
自信はなくなり、ショックと遠征の疲れで口がきけなくなった。
「バレーが嫌いになりました」
マコがその後、Tうまい選手UT玄人受けする選手Uと言われるようになったのは、この時の挫折があったからと言っていい。
最初にぶち当たった壁。
「このままじゃ、ダメだ!」
早い平行トスを打ちだした。それも通用しないとなると、時間差に入ったり、ライトに回り込んだりした。ブロックアウト、ワンタッチで後ろにはじくテクニックも覚えた。
カネボウに1敗したものの、5戦目からも日本電気、富士フィルム、カネボウ、ユニチカに4連勝し、一気に7勝1敗とT打倒日立U、優勝街道へと走った。
「左手首にヒビが入ったのは、リーグもあと2週で終わりというところでした。静岡の草薙体育館で転んだとき、自分の体を支えきれずに...」
しかし、翌週を休んだだけで、最終戦のユニチカ、日電戦ではギプスをつけたまま出てきた。手首は、テーピングと包帯でグルグル巻き。当時の坂上一雄コーチ(後に監督に就任)は、
「精神的にすごいものを持った子だと驚きましたよ」
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