無遠慮に入ってきて

                  子どものように見てまわり

                  からっぽのひきだしをあけて

                  俺を睨む。

 

                 

 

 

 

[ 惑星 ]

 

 

 

 

 

                 「……なにおまえ、すげくやしい」

 

                  黒羽くんはかわいい顔をぷうっとふくらませた。

                 「ボール5つできるようになるまで俺すごくすごく努力したのに」

 

                  集中して必死になって泣きそうになりながらおぼえたのに。

                  そんなことを言ってぶうたれている。

                  泣きそうになりながらボールを練習している黒羽くんの図は

                  想像するとなかなかかわいい。 

 

                 「踊らんでええのやったら6つでもできる」

                 「踊るっておまえ」

                 「お手玉やったら7つも8つもできるよ」

                 「ぜんぜん違う!」

 

                  俺はなげあげていたボールを順に手に受けて黒羽くんに返す。

                 「これ、ふつうどれくらい投げるの?」

                 「多ければ多いほど」

                 「いつもより長く回しております」

                 「ぜんぜん違う」

 

                  黒羽くんはぱらぱら音をたてて、トランプをもてあそぶ。

                  刃物のようにきれいな指先。

                  長い指は傷一つなく、形のいい爪は丁寧にやすりをかけてある。

                 「はやく、雨やまないかなあ」

                  外はしとしとと降っている。

                 「やまへんね、夜半まで」

                 「ごめんね暇つぶしつきあわせて」

                 「べつに」

 

                  俺と黒羽くんは、助教授不在の史学資料室で、手品遊びをしている。

                  大きなストーブを赤々と焚いて、即席の春。

                 「せがまれて、いろいろ持ってきちゃったけど」

                  同じ学部の女の子たちに、手品を頼まれて。

                  飲み会でなんで手品と俺は思うが、盛りあがるのだろう彼がやれば。

                  集合時間までの暇つぶしに付き合って、

                  ボール。トランプ。ハンカチ。

                  俺は彼の手品をはじめて見る。

 

                  黒羽くんの右手がトランプを扇のように広げて帽子に落とす。

                  空手になったと思った指先には新しい一組が顔を覗かせていて、

                  それが開いたときには左手にもトランプの扇。

                  順々に。蝶が舞うようにトランプが現れる。

 

                 「きれいやなあ」

                 「やってみる?」

                 「うん」

 

                  変な人だ。

                  俺が真似すると怒るのに。

                  努力しないでできちゃうって。

 

                 「トランプはこう、ここに仕込んで」

                  俺の袖口を取った黒羽くんは、奇妙な無表情で呟いた。

                 「……指先は沖田、柔らかくしとかなきゃ」

 

                  俺は自分の手に目をやった。

                  荒れて。傷だらけで。肉刺を潰した痕。胼胝を削った痕。節だった指。

                  昨日いじった薬品で、爪の色が変わってる。

                  指を合わせるとしゃりしゃり音がした。

                  黒羽くんはその手を美しい手のひらにのせて、

                  一本ずつ触れて確かめた。

                  心の重心が悪くなる。

 

                 「クリームをきちんと塗って、なめらかに、柔らかく、…傷をつけないように」

 

                  それは無理だ。

 

                 「爪も、きれいにそろえてさ」

 

                  黒羽くんは変色した爪をそっと擦った。

                  とん、と心臓の音がした。

 

                  困るなあと思う。

                  俺は体温も呼吸も発汗もたいがい制御できるけど、

                  この人といると時々ままにならない。

                  べつに困る理由もないのだが、ままならないということが俺を困らせる。

 

                  黒羽くんがトランプを揃える。

                  大き目の薄いトランプ。ぴらぴら撓って指が切れそうだ。

 

                 「でも、沖田は器用だから、できるかな」

                  微妙な励ましをうけて広げたトランプは、黒羽くんのようには行かなかった。

                  広げた幅に差ができて美しくない。

 

                 「トランプは難しいんだよ、意外に」

                  黒羽くんは、見せ方や力の入れ方は悪くないけど、と言いながら、

                  お手本を見せてくれた。

 

                  羽ばたく蝶みたいに。

 

                 「親父は、トランプが得意でさ」

                  ひらひらと白い手から舞い落ちる。

                 「───あんなトランプは、今は誰も出来ないだろうな」

 

                  最後の一枚が帽子に落ちた。

 

                  彼の誇り。誇るべき父。父に並び、いつか追い越すことを誓う息子。

                  ステンドグラスみたいに黒羽くんはきれい。

 

                 「…きみ以外は?」

                 「うん。俺以外は」

 

                  黒羽くんは厳粛に頷いて、なーんちゃって、とおどける。

                 「まだまだだよ、全然、俺なんか、親父に比べたら」

                  照れた笑顔がかわいかった。

                  照れ隠しなのか、矛先が俺にむく。

                 「沖田の親父さんは、元気なんだろ?」

                 「うん」

                  躊躇なく頷くことに俺は慣れている。

                  黒羽くんはすなおに、いいなあと笑った。

 

                 「やっぱ、剣道家なの?」

                 「ふつうのお医者さんや」

                 「あ、だから沖田、医者志望なんだ?」

                 「あんま関係ないけど……、俺は外科やりたいし、父は内科小児科やから」

                 「俺が炎からの脱出で怪我したら、沖田んとこに駆け込むよ」

                 「きみがショーをするようなとこで開業せえへんよ」

                 「え、どこでも行くよ、俺。無医村希望なの?」

                 「うん」

                 「山の中とか?」

                 「乾いたとこ」

                 「乾いたって……どこそこ。鳥取砂丘?」

                 「うん」

 

                  エジプト。アフリカ。熱く乾ききった地方がいい。

                  一切のものが干からびて清潔な砂漠―――

 

                 「長男なのに、家継がなくていいのかよ。道場やってるんじゃなかったの?」

                 「じいちゃんが町の剣道場で教えてたけど、うちに道場があったわけやないよ」

                 「なんだ。沖田ってすごい英才教育されてきたのかと思ってた」

 

                  トランプをきれいに揃えて、一揃いだけで練習してみても、

                  やっぱりうまく広がらない。

                  指先が、うまくプラスチックを掴まない。油気がなくて滑ってしまう。

 

                 「剣道の英才教育ってどんなんや」

                 「朝から素振り1000本とかやって20キロ先の学校まで走って

                  帰ってきたら日が暮れるまで道場で稽古みたいな生活」

                  黒羽くんはマンガみたいなことを言った。

                 「ははは、そんなんしたことあらへん」

                 「適当にやってきたんだ?」

                 「辛いほどやった覚えはあらへんな」

 

                  物心ついたときから、剣道の相手は祖父と警察のおっちゃんらだったから、

                  多分、うまく手加減してくれていたのだろう。

                  同い年の子どもと試合をしたのは中学に上がってからで、

                  それまでは大人ばかりだった。いろんな人がいた。

 

                  黒羽くんはすねた調子で机になついた。

                 「あーもー、努力しなくてもなーんでもできちゃうんだ?」

                 「……さあ」

 

                  そんなこと聞かれても。

                  どう答えればいいのやら。

                  吐くまで身体をいじめるとか、集中とか、命のやりとりとか、

                  そんなことなら俺もたぶん人並みに経験してる。

                  それが努力や刻苦であったかときかれるとよく判らないだけ。

 

                  トランプは相変わらずうまく広がらないし。

                  黒羽くんは猫みたいに机のうえにごろごろ伸びてるし。

                  きれいな人が俺を見あげる。

                  無防備な仔猫。爪を立てられても痛くない。

 

                 「さあってなんだよ」

                  黒羽くんは手を伸ばし、俺の手の中のトランプを一枚ひいて、

                  見る前にそのカードを当てる。

                  ハートのジャック。

                  大当たり。どこにも恋なんか生まれない。

 

                  黒羽くんが唇を舐める。きれいな舌がちらりと見えた。

                  この人はたまに俺の傷口を、飴のように想像するらしい。

                  俺が隠していると思っているものを探りだし、舐め転がして甘みを楽しむ。

                  そんなことを想像しているらしい。

                  そういう時の黒羽くんは不思議に無防備だ。

                  本人、ちゃんとガードしているつもりらしいが、態になってない。

 

                 「クローバーの3」

                 「よう当たること」

                  黒の3はぱらりと落ちてハートの王子さまに重なった。

 

                 「失恋とかしたことないでしょ沖田」

                 「あらへんなあ」

                  恋をしたことがないから失恋もしていない。

                  しかしなんだろうこの質問の刺は。

                  絡まれているような気がしてきた。黒羽くんしらふで酔うてはる。

 

                 「あー、もててもててしょーがない男はこれだからやだ」

                 「きみに言われたない」

                 「俺は努力してるもん」

                 「頑張り屋さんやね」

                 「なにそのムカツク科白」

                 「誉めてほしいのかと思って」

                 「サイテー」

 

                  黒羽くんはどんどんカードを当てていく。

                  スペードの7。ダイヤの2。ハートの10。

                  不揃いな扇はたちまち歯が欠けたようになる。

 

                 「……あ」

                  手荒く引かれた拍子に指が滑って、トランプがぱらぱら落ちた。

                  俺はしゃがんでそれを拾った。

                  つるつるの床にはりついたトランプは、俺の指では拾いにくかった。

                 「……ほら、やっぱり」

                  指が。

                  呟いて、黒羽くんがしゃがんで、器用に拾う。

                  細いうなじ。きれいな耳。前髪に隠れて表情が見えない。

                  私の耳は貝の殻―――

 

 

                  きみが好きです。

 

 

                  雨だれのように心が落ちた。

                  俺の耳にその一雫の残響がこだました。

 

 

                  初めて見たときからきみが好きです。

                  まぶしくてきれいだった。

                  目がくらんで、追いかけて、呼びかけた。

                  そんなことをしたのはきみが初めてでおそらく2度とないだろう。

                  きみの幸せを祈ります。心から。

                  幸せになってください。

 

 

 

                  黒羽くんはあっというまに拾い集めて、俺の手に乗せた。 

                 「ありがと」

                  目が合うと黒羽くんは、憎しみの目で俺を見ていた。

 

                 「―――沖田」

                 「はい」

 

                  なんで、怒ってはりますのん。

 

                  この人は俺のまえで

                  負の感情ばかりが無防備に美しい。

 

                 「きみもトランプ落としたりしたん?」

                  黒羽くんの目はなにかを飲みこんで、静かに冷えた。

                 「うん。何度もね」

 

 

 

                  きみが探している赤い飴玉は

                  きみの開けた引き出しには入っていないのです。

                  俺がそっと隠したわけじゃない。

                  もともと、からっぽだっただけ。

 

 

 

                  俺は落ちたトランプについた細かい塵をハンカチで拭った。

                  このまま重ねるとほかの札に傷がつく。

 

                 「───正月、京都に帰るの?」

                  黒羽くんは無理にまばたきをして、表情を和らげた。

                  机に腰をのせて、半身ふりかえって。椅子に座った俺をななめに見下ろす。

                 「かえらへん」

                 「ご両親、心配しない?」

                 「うん」

 

                  ……この話題続けなあかんかなあ。

                  と、思っていたら黒羽くんがつっこんできた。

 

                 「うんって、どっち」

                 「する」

                  ハンカチをしまってトランプを揃える。

                 「……おまえ、親が嫌いなの?」

                 「嫌いやないよ」

 

                  黒羽くんは俺がトランプを重ねるのをじっと見ていたが、

                  斬りつけるように言った。

 

                 「じゃあなんで、おまえを心配してるのが判らないの?」

 

 

                  ああ。

                  見つかった。

 

 

                 「黒羽くん」

                  見上げると彼は

                  一瞬浮かんだ喜びの表情を目尻にはりつけたまま、

                  すーっと、白くなった。

 

                  俺は。

                  きみに傷口を舐められるのが好きではないらしい。

                  きみの舌は猫のようにざらざらして

                  触れられると痛むのだ。

                  たとえそれがきみに飴のような甘さをもたらすとしても。

 

                 「───トランプ、広げてみせようか」

 

                  俺は立ちあがり、

                  彼が仕込んでくれた通りにトランプを仕込んで、

                  彼が見せてくれたお手本の通りにトランプを見せ

                  扇のように広げ一枚また一枚と帽子に落とし

                  最後の一枚を指を鳴らして彼の胸ポケットから取りだした。

 

                  喜びも、楽しみも、スリルも、何もない。

 

                  ボールやハンカチやトランプや帽子を袋に入れて、

                  俺はコートを羽織って暖かい部屋を出た。

 

 

 

 

 

                  廊下にでると急に息が白くなり、湿った雨の匂いが鼻孔をさした。

                  沈んだ空気の匂い。

                  コンクリートの匂い。

                  冬の雨音がかすかに聞こえる。

 

                  彼の誇り。

                  誇るべき父。

                  父に並び、いつか追い越すことを誓う息子。

 

                  ステンドグラスみたいに黒羽くんはきれい。

 

                  俺は生まれたことで母を殺し、母を殺したことで祖父を殺し、

                  父を凍らせ、祖母を穏やかに殺した。

                  俺に罪はないと百万囁かれても俺が理由であったことは変わらない。

 

                  ふと、きれいだったなと思った。

                  黒羽くんの一瞬の喜びが。

                  赤い飴玉を見つけた子ども───

 

 

                 「……沖田」

 

                  後ろから追いかけてきた黒羽くんの腕を俺は一呼吸はやく躱してしまった。

                 「はい」

                  ふりかえると、黒羽くんは空を切った自分の手を、罪悪の根元のように見ている。

                  ああ、……ごめんなさい。これはただの癖で、きみを嫌ったわけじゃない。

 

                 「ごめん」

                  きれいな人がきれいな言葉をきれいに使う光景は美しかった。

                 「べつに、なにも」

                  俺は笑った。意地悪じゃない。

                  痛いところを突かれた俺が、きみを脅して逃げたのだ。

 

                  黒羽くんはなおさら傷ついた顔になり

                  ───どうでもいいのかよ、と言った。

 

                  それはずるい、と俺は思った。

                  俺がきみに謝らせてきみを許せばきみの良心は満足か。

                  俺の怒りは満足しない。

                  あの一瞬の喜びの表情を許せるとは思えない。

                  だから頷いた。

 

                 「どうでもええねん」

                 「……沖田!」

 

                  躱そうと思ったのに、黒羽くんは驚くほどの足捌きで俺を廊下の角に追いつめた。

 

                 「―――」

                  なんだか、ショックだ。

                  足捌きで人に負けてしまった。

 

                  俺は彼の足元を見つめた。

                  右に。それから左に流れると見せてもう一歩を右へ。

                  流して、体をさばいて、

 

                 「沖田、聞いてよ」

                  足捌きの残像を追って視線を横にそらした俺を、

                  逃げると思ったのか、黒羽くんは手をついて路をふさぐ。

 

                  体温が近づく。白く凍る呼吸が。わずかに香水が香る。

                  こういう時こそくしゃみでもしたいのにうまくいかない。

                  呼吸も体温も意識もなにもかもが。うまくいかないことばかりだ。

 

                  見上げると黒羽くんは苦しそうな顔で俺を見ている。

                  どうしてこの人はいつもわざわざ俺に爪を立てて傷つくんだろう。

                  俺に触れて傷つかないのは服部だけだ。

 

                 「聞いてるよ」

                 「うそつき」

                 「うん」

                  ひでェ、と黒羽くんは笑った。

 

                  ……きみのほうが無理をしている。

                  どうみても。

                  余裕のなさが肌にひりひりする。

                  聞けよといいながら人の話を聞かないし、俺がなにか言うと必ず否定する。

 

                  嘘つきといわれれば俺はいくらでも嘘をつく。

                  嘘をつくのは楽だ。あいにく俺は記憶力だけならきみよりいい。

 

                 「きみ、口説くの下手やねえ」

                  黒羽くんはぽかんとして、

                  まるまる1秒たってからぴょんと飛び上がって俺と距離をとった。

                 「ななななに!?」

                 「もててもててしょーがない男はこれだからあかん」

 

                  おかしくなった。

                  きみが好きだ。

 

                  人を愛して。愛されて。

                  きみはまぶしい。きみは美しい。ステンドグラスのように。

                  犯罪すらその指先にきらきらと光って人を幻惑する。

                  この融点の低い怒りさえ幻惑の産物だろう。

 

 

                  俺は彼の腕の中から抜け出した。

 

                  黒羽くんは自分を誰よりうまく嘘をつくと思っている。

                  人を騙すことが好きで嫌いだ。

                  楽しい嘘を歌いながら、

                  本当の自分を誰も受け入れてくれないんじゃないかという恐れにおびえている。

 

                  なにがそないに怖いのやら、なにを怯えてはるのやら、

 

                 「―――沖田」

 

 

 

 

 

                  犯罪者であることはそんなに重荷か?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                 「ぼちぼち頃合いやろ」

                  コンパの。

                  俺が言うと、黒羽くんはそんなんどうでもいいよ、といった。

                 「どうでもよくないわ。みんな待ってる」

                  黒羽くんはまたいらいらと遮った。

                 「どうでもいいよ、俺はおまえと話がしたいんだから」

                 「家族の話?」

                  もう飴玉はあらへんのやけど。

 

                 「おまえの―――」

 

                  黒羽くんはふっと言葉を切った。

                  白く歪んだ唇が、わずかに震えた。

 

                  俺は気がついて、顔を撫でた。

                  笑っていたらしい。

                  以前、ひどく嫌われたことのある陰惨な顔で。

                  ごめんなさい。こんな顔見せて。

 

                 「どうして、―――」

 

                  黒羽くんの手がゆっくり上がって、

                  俺の頬を包み、親指の腹がまぶたをなぞり、耳朶に触れ、首筋に降りる。

                  長い指が輪をつくって俺の首を絞めようとする。

 

                  ―――熱い。

                  割れた岩肌を走る凍った水みたいに、熱が、流れる。激しくて痛い。

                  きれいな指。刃物のようにぴかぴか光ってトランプを出して見せる指。

                  俺はやっと俺の欲望を理解する。

 

                 「……なにも言わないんだよおまえいつだってずたずたじゃないか!」

 

                  その言葉に返すべき言葉もなく声をたてて笑ったとき

                  身の内のなにか冥いものが、のびあがり

                  恋歌のように厭らしい唾を吐いた。

 

                  きみの隠しごとには触れないまま俺を判りたいといってくれてありがとう。

                  俺はきみに理解されたいと思わない。

                  過去も未来も思い出も感情もなにひとつ共有したくない。

                  俺の傷がきみの目から見て治療に値するとしても

                  俺は癒されたいと思っていない。

                  俺がほしいものはきみではないし、

                  きみに必要なものは現在も未来も俺ではないのだ。

 

                 「……」

                  黒羽くんが泣きそうな顔をしている。

 

                  かわいそうに。

 

                  ……この人にこんな顔をさせている自分はずいぶん狭量だ。

                  嘘だっていいじゃないか俺はいくらでも嘘をつけるのだし、

                  今だけ彼と仲良くしたっていいはずだ誰も罰を当てる人なんかいない。

                  本音で話さなければいけないなんて枠をはめるから

                  生簀の鯉みたいにぎちぎち傷つく。

 

                  心を伝えられないなら言葉なんてなんの意味もない。

                  伝えたいと思う心がないならなおのこと。

 

 

 

                 「黒羽くん、傘は?」

                  黒羽くんは首を振った。朝は降っていなかったから。

                 「送ってくし、荷物もっておいで」

                  黒羽くんはひどくかすれた声で、どこへ、と聞いた。

 

                 「どこへ行きたいん?」

                 「―――おまえんち」

                 「うち、いま灯油がない」

                 「……わかったよ途中で買ってくからスタンド寄ってよ。酒は?」

                 「酒はある」

                 「酒よりも灯油を買えよおまえは人生捨ててんのかよ」

                 「うん」

                  じゃあ行こう。

 

 

                  「―――」

 

                  黒羽くんは準備室に戻ろうとして、

                  ふいに腕を大きく広げて俺を抱きしめた。

 

                  いきなり目の前がロングコートで真っ黒になって、

                  激しい息遣いとわずかな歯軋りと香水と体温が。

 

                  嵐になって俺を揺さぶった。

 

 

 

                  渦を巻く。

 

 

 

                  ―――関節が。骨が筋が肉が意地が皮膚が張りが神経が呼吸が―――脳が、

                  脳が、溶ける。

 

                  光が洪水になってまぶたに溢れた。

                  まぶしい。

 

 

                  心臓がつぶれるほど―――

 

 

                 「おまえの前だと俺いつも」

 

                  耳元で呟いた暖かい呼吸が、音を立ててはなれた。

                  突き飛ばすくらいの勢いで俺の肩を握り締めたまま体を離した黒羽くんは、

                  鮮やかに笑った。

 

 

 

                 「―――すげ、かっこわりぃ、」

 

 

 

                  軽やかな足音が暗い廊下に響く。

                  俺はそれを見送った。

 

                  雨の音、雨の匂い、彼の匂い、離れた一瞬には冷めてしまった熱、

                  焼きついたように残る指の感触、息の匂い、掠れた声、

                  光る―――美しい―――瞳。

 

                  雨の音、雨の匂い、

 

 

 

 

 

                  目を開け。

 

                  急に、理性が命令した。

                  顔をあげ、胸を張り、背を伸ばし、前を向け。

                  眩しさに目がつぶれても。二度とその光以外を網膜に映すことがなくなっても。

                  歩むべき道を行かねばならない。

 

                  前へ……

 

                  俺は顔をあげた。

                  喉が痛んだ。まぶたが震えた。

                  俺の歩きたい道を見るために

                  目を見開いて前を見た。

 

 

 

                  耳元で声がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                  ―――なんのために?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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                                            直したらかえって長くなっちゃいました……。

                                            あんまり感傷的でちょっとこわい感じの沖田。