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小さい頃から、いろいろなお稽古事をしてきました。
3才の時は、ピアノのレッスンに、2才上の姉にくっついて通いました。姉と離れたくない、ただそれだけの動機で習っていたのですから、レッスンに行く前には、思うように動かない指にいつも泣いていました。
幼稚園では、お絵かき教室に入りました。やはり、姉と一緒です。色とりどりの絵をクレヨンで描くことは、とても楽しかったのですが、くっついて来た弟が、なぜかいつも泣き出して困ったことを覚えています。
小学校時代、近所に住んでおられた高名な彫刻の先生に彫刻をならいました。
木を削るばかりでなく、粘土を捏ねたり、石膏を固めたりと、いろいろなことを教えて頂き楽しかったのですが、先生は「教師」ではなく、「芸術家」でしたので、私の作品は、いつもいつしか先生のものとなり、「私の作品」を鬼気迫る表情で仕上げていかれる先生のお姿を前に、呆然と立ち尽くすことが多くなり、正直なところ、それが嫌で足が遠のきました。
中学校では、演劇部に属しました。やはり姉の後を追っかけたのです。でも、今度は、なぜか姉より才能があり(?)、部長にまで出世しました。ところが、私が部長になった途端、学校側の事情で、「演劇部は廃止」という通達があり、私は怒りました。校長先生、主任の先生、顧問の先生方の間を走り回って抗議をしましたが、さっぱり訳のわからないまま涙をのみました。
高校は演劇で有名な県立所沢高校に進学しました。ところが私は演劇部には入らず、入学式の時、隣に座った中島さんに誘われるまま、女の子バンドに参加しました。
それも一番目立たないベースの担当です。手が小さいので、うまく弦が押さえられない。また、楽譜のない曲は、耳で採譜しなければいけない。それでも、深夜まで泣きながら、三年間続けました。
高校2年のある日の事、突然母が、「あんた、ベースなんかやってないで、お三味線やんなさいよ」と話しを持ちかけてきたのです。なんでも、近所の電柱で、「端唄教えます」というチラシを見てきたと言うのです。乗りがいいというか、「NO」と言えない性格の私です。それが、今のお家元さん、端唄稲邑流、稲邑香乃粋師匠との出会いでした。
