四国遍路の始まり
四国八十八ヶ所を順拝することを「遍路」といいます。
巡礼の人を「お遍路さん」と親しみをこめて呼びます。
巡礼者(お遍路さん)は、お寺を一つ一つ詣ることで、自分の迷いを解き、身も心も清らかにして八十八の煩悩を取り除き、悟りを開いていきます。
四国八十八ヶ所の霊場は弘法大師が開かれたもので、長い歴史を経てかたちづくられたものです。
弘法大師(空海 774〜835)は平安時代初期の高僧で、真言宗の開祖として知られています。
十五才で京に出て勉学に励みましたが、一人の出家者との出会いから、生地である四国の山や海辺に修行を求め、霊場を開くという青年時代を過ごしました。
弘法大師の没後、平安末期頃から真言宗の僧侶たちによってこれらの修行の足跡を聖地として巡礼する四国遍路が生まれました。
室町時代ごろから盛んになり、江戸時代になると庶民の間でも爆発的に流行し、霊場の数も、現在の数の八十八ヶ所になったといいます。
四国遍路の開祖 衛門三郎伝説
むかし、天長の頃、伊予の国荏原の郷、今の松山市久谷町に河野衛門三郎という強欲非道の大庄屋が住んでいました。
ある日、ひとりの旅のお坊さんがやって来て、大きな屋敷の門前で托鉢の鈴を鳴らします。
快い昼寝を破られた三郎は腹を立て、竹ほうきでお坊さんの鉄鉢をたたき落としました。
すると、鉄鉢は8つにくだけ、飛び散りました。
そんなことがあった翌日から、衛門三郎には、8人の子供がいましたが、その後次々と亡くなりました。
子供を亡くした三郎は声を上げて泣きました。
ある夜、三郎の夢枕にあの旅のお坊さんが現れ、「前非を悔いて情け深い人になれ」と告げます。
夢から覚めた三郎は、自分が強欲であったことを悔い、あのときの旅の僧は弘法大師だったのだと気が付きました。
あの高僧に謝罪し許してもらおうと、その姿を求めて四国遍路の旅に出ました。
しかし、四国を二十数回巡りましたが、逢うことが出来ません。
とうとう三郎は第12番焼山寺(徳島県)の近くで、旅の疲れから倒れます。
いまわのきわに「三郎!、三郎!」と呼ぶ声に眼を開くと、弘法大師が現れ、「衛門三郎再来」と書いた小石を握らせました。
そして三郎は眠るがごとくこの世を去ったと言います。
後に道後湯築の領主河野息利に、男児が生まれます。
その子は幾日経っても左手を握ったまま開きませんでした。
そこで、道後の安養寺の住職に祈願してもらい「きれいな川の水で洗えば開く」とのお告げのとおりにすると、手が開き「衛門三郎再来」と書いたあの小石がころがり落ちました。
男児は衛門三郎の生まれかわりだったのです。
小石は安養寺に納められ、これを機に、寺号を石手寺に改めたと言います。
この石は第51番石手寺(松山市)の大講堂正面に安置してあり、拝観できます。
また、第47番八坂寺(松山市)の近くには衛門三郎の屋敷跡といわれる文殊院得盛寺と8人の子供の墓(八塚)があります。
