上記写真は2004年夏、武田科学振興財団で撮しました。
URL:http://homepage3.nifty.com/sumikozo/ で、 06年3月以降はhttp://jibunnsieaasy.tea-nifty.com/sumikozo/ (スペルに注意)で閲覧可能。 Email addressはfwpb5856@mb.infoweb.ne.jp です。友人・知人にご紹介願います。 角興三(すみ こうぞう)
1)プロローグ(つれづれなるままに)
林野は岡山県北東部に位置し、二つの川に挟まれた落合いの町である。「興三さん」はこの小さな田舎町で昭和14年(1939)の夏に生まれた。その翌年は紀元2600年で日本中が興国熱で沸騰し、翌々年の昭和16年12月8日には太平洋戦争が勃発した。戦時下を揺籃期(ゆりかご)に終戦の翌年に小学校へ入学した。夏は魚取りに宿題を忘れ、冬は城山での戦争やターザンごっこで生傷が絶えなかった。薬局を営む両親と兄姉妹の七人家族で戦後の食糧難をしのいだ。長兄が終戦のわずか三日前にソ連軍の銃弾に倒れたとの報は両親に深い傷を残した。
中学一年の夏、水泳中の怪我の手当てを誤り半年近く病床生活を送った。この時の休学が英語の苦手意識を招いたようである。中学三年の秋、突然、神戸の叔母の家に一人預けられた。 いわゆる越境入学である。田舎と都会の学力差に戸惑いながらも、泥縄式自習の甲斐あって、県下一の神戸高校に入学できた。名門進学校に入学したものの、直ぐにメッキが剥げ落ち、後追いの三年間を過ごすことになる。国立の医学部受験に敗れ、田舎に帰り浪人暮らしの後、リベンジを期したが望みを断たれる。一期校と二期校の合間に受けた滑り止めの県立静岡薬科大学だけが門戸を開いてくれた。時あたかも60年安保の真最中。学友のおだてに乗り学生自治会長を引き受ける。年二回の定期試験の期間中には徹夜もしたが、勉学の徒にはほど遠く、実習では同班者のお世話になる四年間であった。それでも青春を謳歌し、学生会長の縁で学長には受けが良く武田薬品への推薦入社を得る。卒業論文の実験で高圧釜を扱っていた12月にギックリ腰となり一カ月半休学する。お慈悲で卒業式に参列させてもらったが、居残り補習実験を課せられて形ばかりの卒業論文を提出して、入社式にやっと間に合う有り様であった。
何とか国家試験にパスし薬剤師の資格を得て、武田薬品の外国事業部・学術課に配属となる。輸出薬品の海外での販売を学術面から支援する、技術サービス部門である。苦手な英語が「飯のタネ」になるとは人生まことに皮肉である。腰痛と戦いながら仕事を覚え英語を自習する苦難の日々が数年続いた。入社四年目に東京転勤を命じられる。武田薬品が新規に開発した調味料リボタイドを世界戦略商品として育成するための技術部隊の一員である。食品業界では無名の武田薬品がユニレバ、ネッスル、クノールなど世界の大手食品会社に、新発見の調味料を売り込む先輩達の苦労を目の当たりにした。が、地球規模のマーケティング活動の醍醐味を学んだ貴重な経験となった。29才の年に関西の女性と結婚し、長男が1才半ばの春に大阪の本社に戻った。結婚前後の五年間の東京生活は貴重な経験として懐かしく思い出される。
大阪での新たな仕事は、東南アジア各国にある子会社や提携会社を支援して医師への医薬情報活動を強化拡張することであった。昭和46年(1971)32才の年の瀬に、臨月の家内を残しビルマ(現ミヤンマー)へ初めての外国出張をした。生気の無い首都ラングーン(現ヤンゴン)で貧困社会の一端を垣間見て、この仕事が天職との思いを強くした。帰国後の正月7日に長女が誕生した。その後、マレーシアに二回長期出張した。食文化の違いと炎天下の病院訪問は苦しかったが、懐かしい思い出である。
36才の時に台湾赴任を命じられた。初めての外国駐在生活である。異文化に驚きながら人生の方向を見出した実り多い四年間であった。そしてフィリッピンに転出し四年間過したが、その半ばで家族は長男の高校入学を控え帰国した。その後、台湾に戻りさらに四年間駐在した。12年ぶりに大阪の土を踏んだが、二年後には再度駐在を命じられた。香港を基地にして、七年半中国市場の開拓に心血を注いだ。
1ドル360円から79円台への円高、日中国交と日台断交、蒋介石総統の死去、ベニグノ・アキノ大統領候補の暗殺事件、天安門事件、登小平(*)による中国の改革開放、香港返還をめぐる中英交渉の駆け引きなど、揺れ動く政治下での国際的経済活動はエキサイティングであった。経済発展が約十年のタイムラッグで、米国から日本へ、そして台湾から中国へと移動する発展期の国々で働けたのは幸運であった。私生活では空き巣に入られ、詐欺強盗発砲事件を見聞し、高価なゴルフ会員権が湖底に沈み、生死の間をさ迷う危険にも遭遇し、阪神大震災では家族との音信が四日間途絶えもしたが、充実した会社生活であった。(* HPでは文字化けするので登と記載した。)
57才の役職定年を迎えやっと帰国した日本は、バブルの後遺症にあえぎ、大人は自信を失い、若者は節度を無くしていた。娘は知らぬ間に適齢期を迎え、妻はすでに女の峠を越えていた。振り返って見れば、長期出張を加えると都合20年間海外で過ごし、14年間は単身生活であった。その間にロシアなど14カ国と中国50余の都市に足跡を残していた。
定年退職後に初めて“薬剤師”の免許を活かして薬局店頭に立ち、調剤の経験もした。以前の上司の推薦で助成財団法人に再就職し、外国からの留学研究者に奨学金を支給する仕事を通して、かつてお世話になった国々にご恩返しをする機会にも恵まれた。65才余りで第二の定年となり、サンデー毎日の無聊のある日、書棚の徒然草が目に留まり、自分史エッセーを思いついた。さしさわりを避けて、一部の固有名詞は偽名に変えた。ご理解願いたい。どんな読み物になるか、完結できるどうかはなはだ心もとないが、香典返しに間に合えば良いと思う。
幼少期の思い出は一人娘へのルーツ伝承を、駐在中の経験は留守役を耐えてくれた妻へ感謝を込めて、中国の風景は旅の楽しみを皆さんと共有したいとの願いを乗せて、半生を振り返って見ようと思う。年輩の方々には青春の郷愁を、若い方々には海外への夢やヒントをお届けできればこれに勝る喜びはない。毎月の初にホームページに追加記入する。一緒に楽しんで頂ければ嬉しい。皆さんの寸評は継続への何よりの励ましになるであろう。
閲覧者の皆様へ: 「プロローグ」の閲覧ありがとうご座居ました。今後引き続きの閲覧をお願い申し上げます。
1)8月号以降は次のブロックに跳び、06年3月以降は、ブログに跳びます。 2)1ブロック6000文字の掲載制限により、途中で次回へ継続となります。ご了承下さい。 3)多くの方から「お気に入りに保存し、毎号を印刷し愛読している」とのご感想を頂き感激しています。応援を宜しくお願い申し上げます。
目 次
T.幼年時代 (1)プロローグ (トップページ) (2)記憶は霧の合間に(menu1月号) (3)小学校のタヌキと悪代官(1月号) (4)長兄哲夫の消息(1・2月号) (5)易者の占と八つ墓村(2月号) (6)林野商店街の盛衰(3月号) (7)家の履歴書(3月・4号) (8)スミ薬局と捨て子(4月号) (9)勘太郎月夜唄の風景(4・5月号) (10)城山のターザン(5月号)
U.少年時代 (11)武蔵の里と出雲往来(5月臨時号) (12)児島高徳と角倉了以(5月臨時号) (13)梶並川を舞台に(5月臨時号・6月号) (14)泣いたハナヨ (6月号) (15)展覧会の絵(6月号) (16)安養寺の会陽(6月臨時号) (17)川上と大下と越路吹雪 (6月臨時号) (18)西宮のアメリカ博(6月臨時号・7月号) (19)朝鮮戦争勃発(7月号) (20)やっちゅもねえ話(7月号) (21)双葉は臭くて芳しい(8月号)
V.中学高校時代 (22)二つの怪我(夏季臨時号) (23)回復に向かう(夏季臨時号) (24)愛ちゃんは太郎の嫁になる(9月号) (25)旅立ち(9月号) (26)御影中学と神功皇后(9月号) (27)高校受験(10月号) (28)地獄坂の風景(10月号) (29)鬼とハナヨと猿田彦神(11月号) (30)胡椒と霊魂のため(秋季臨時号) (31)大学受験と浪人生活(秋季臨時号)
W.大学時代 32)田下駄と黒い砂浜(12月号)(33) 小鹿生活と倭建命 (1月号) (34)大山と蒜山と帝釈峡(1月号) (35) 60年安保と太宰治(1月号) (36)教養課程とアルバイト(新春臨時号) (37)薬剤師の生い立ち(新春臨時号) (38)特別実習と就職準備(2月号) (39)腰痛事故(2月号) (40)時にはそばに本が(3月号) (41)日本古典への誘い(3月) (42)音楽の泉(3月号)
X.武田薬品国内編 (43)新入社員の風景 (4月号) (44)初めての職場 (4月号) (45)アリナミンの輸出会議(4月号) (46)道修町の神農さん (47)吹田独身寮の風景 (48)リボタイドの世界戦略 (49)貿易マンを目指して (50) 海外事業の歴史 (51) 東京の目白寮 (52) 嫁取り物語 (53) 新婚生活の風景 (54) 腹八分目と戦略戦術
Y.海外出張編 Z.台湾駐在時代 [.フィリッピン時代 \.再びの台湾 ].二年間の大阪生活 11. 香港から中国大陸へ |