私本 芦屋の浜のつれづれ草

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 1月号(第2・3・4話)

T.少年時代

2) 記憶は霧の合間に
 私たちの幼児期の記憶はどのくらいまでさかのぼることができるのだろうか。今静かに振り返ると、一つまた一つとかすかな記憶がよみがえる。それは霧の合間に現れては消えてゆく美しい高山の風景に似ている。清水のババの背中に負われていた記憶が一等幼児期の記憶のようだ。石段を登った高台のテラスから見た海もかすかに残っている。三歳の時の神戸の叔母の家での風景である。子守り役はその後万代のババに代わった。茅町にある万代の家の狭く薄暗い土間が思い出される。そうだ、万代のジジの荷車に乗ってはしゃいだことも思い出した。万代のジジは林野から津山へ20キロの道を、肩引車を引いて毎日往復していた。今でいう商業用宅配便であると母から聞いたのはずっと後のことである。 お向かいに住んでいた竺原の賢ちゃんと一緒に幼稚園に入った時のこともかすかに思い出す。二年制の幼稚園を3カ月早く入れてもらったそうだから、3才9カ月の頃である。紺碧の空に3本の白い線がゆっくりと描かれていった。白い飛行機雲を見上げて
 「わーあ、B29だ!」
と叫びながら飛び跳ねた記憶がある。幼稚園の園庭であったから小学校入学前の年であろう。大阪、神戸、岡山、あるいは広島空襲に関わる、田舎での平和な風景かもしれない。満開の桜の下、広い大きな石段を母の手に引かれて歩いている情景は小学校の入学の前後で、津山城址の大手門の石段であったと思う。

 昭和20年の半ばに父が胃潰瘍の手術で岡山の大学病院に入院した。その見舞いに母と訪れた病院でアデノイドの摘出手術を受けた。戦時下で麻酔薬が無く、耳鼻咽喉科の診察椅子に麻縄で縛り付けられ、泣き叫ぶ興三さんを母が必死で押さえ慰めてくれた情景は忘れられない。その父は岡山市が空襲を受ける日が間近いとかで、手術の傷痕が癒えぬまま早期退院を強いられた。林野まで50キロの道のりをリヤカーの上に仰臥(ぎょうが)して運ばれ、家の前で戸板に乗換えて帰宅した。その一週間後の昭和20年6月29日未明にB29が焼夷弾の雨を降らしたそうだから、六才前の記憶である。この頃になると風景はかなり鮮明だが、殆ど戦争と関わっている。

 岡山空襲のあとであったか、上空を飛ぶ米軍機から目立たぬようにと、空襲に備えて家々の白壁を墨汁で黒く塗った。かまどの煤をバケツに集め、水と少量の溶化膠(にかわ)を加えて混ぜ合し墨汁を作った。姉達は麦わらを束ねて大きな刷毛(はけ)を作っていた。その後60年近く経った今も、近所にその黒壁が残骸をさらしている。同じころ武器を製造する金属が欠乏し“供出”と称して日本国中の村や町、はては各家庭から金属を集めた。大人たちがワイワイガヤガヤとリヤカーを引いて町内の各家庭から金属を集めていた情景も思い出す。後年父が
 「繁さんが町内会長だったけん、協力せにゃあいけんと思をてお国のために全部出してしもをたが、ありゃあえろう損んだった」
と悔やんだ出来事である。繁さんとは同じ町内に嫁いだ父の姉、由紀子の夫である。角家は代々米や材木を商っていたが祖父が急死し、祖母は資産を売る竹の子生活で父や由紀子たちを育てたそうである。戦時中、多少残っていた大判小判や刀剣をお国のために供出したことをいつまでも残念がっていた。その日から安養寺や寿林寺の鐘楼から釣鐘が消えた。この鐘楼に釣鐘が戻るのは戦後10年近く経ってからである。着飾った稚児たちが長い紅白の紐で屋台を引き釣鐘を安養寺に運んだ。妹の桂子も稚児として参加した。

 長兄哲夫の出征風景はおぼろげでありまた鮮明でもある。長兄は叔母の和田家に下宿して鳥取二中に在籍していたが、中学五年の年に肋膜になり林野の実家に戻って養生をしていた。病気で戦争に行けないことを悔やんでいたある日、赤紙が来て小躍りして喜んだ。戦場への召集令状である。出征の前夜、親戚や近所の人達が大勢集まり自宅で送別の宴会を開いた。白いエプロン姿の小母さん達が徳利などを持って行き来し、ご馳走が並んでいた。興三さんはぜんざいをお代わりできて満足であった。今から思えば、21才の病み上がりの青年まで駆り出さねばならないほど、兵士は不足し戦況は逼迫していたのである。壮行会の翌日は林野駅までの2キロを、小旗を振りながら長い行列を作って歩いた。寒い日であったから昭和20年の1月か2月であったろう。津山方面の下りの列車の最後尾のデッキに立って懸命に手を振りながら白煙とともに消えていった長兄哲夫の姿は忘れがたい光景である。

 桜の蕾みが膨らみ始めた頃であったろうか、兄より簡単な便りと一枚の写真が送られて来た。戦時下で夜間は灯火管制されており、電燈の傘を風呂敷で囲んでいた。こうしてできたスポットライトに映し出された一枚の写真に家族全員が身を乗り出して見入った。防寒帽をかぶり軍用オーバーに身を包み雪の兵舎の前に立っていた。兵舎の窓ガラスには十字とバツ状に白い紙テープが張られ、破れ易い窓ガラスを補強していた。戦時下のありふれたスナップである。剣付き銃を両手で持つ姿は何か弱々しかった。戦地、満州からの便りはその後、途絶え一枚の写真だけが残った。国が新兵とその家族に見せた唯一度の気遣いであった。
♪ 兄さは満州へいっただよ
   鉄砲が涙で光っただ
    もずよ寒くも鳴くでねえ
     兄さはもっと寒いだぞ ♪
サトウ・ハチローが昭和10年に作詞した「もずが枯木で」の三番である。

 その日は朝から両親達が何か落着かない様子であった。興三さんは中山由紀子伯母の家に遊びに行った。自宅から50メートルほどの同じ町内である。金物鎌田屋(かまだや)というのは屋号でなべ釜や刃物など金物類を商っている。鎌田屋は町内きっての親族商家で四人の兄弟が分家して夫々が、からつ、金物、綿、紙「鎌田屋」と名乗り、陶器、なべ釜、衣類、文具等を扱っている。戦時中のことで昼間は電気が点かぬ薄暗い店の一隅にラジオがあった。何故かその日はラジオのまわりに十数人が集まり、普段とは違った緊迫した雰囲気であった。暫くして役場のサイレンが高く鳴り響き正午を告げた。それと同時にラジオから”君が代”が流れ、誰かが話し始めた。ひと時が経過して話が終わった時、
 「やっちゅもねえことになったなあー」
と中山の伯父さんが溜息をついた。「えらいことになったなあー」との意味である。一瞬間をおいて
 「この先、日本はどうなるんじゃろーなあー」
と別の小父さんが続けた。そして皆が口々に同じようなことを言いながら三々五々に帰っていった。ポツダム宣言を受諾する天皇陛下の玉音放送であった。一般国民はラジオで初めて聞く天皇陛下の肉声によって戦争の終結を知った。昭和20年(1945)8月15日、川岸に群生する夾竹桃の花が満開の灼熱の日であった。
   「朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ、茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告グ。……(中略)……世界ノ大勢、亦我ニ利アラズ……(中略)……終ニ我ガ民族ノ滅亡ヲ招来スル……(中略)……堪へ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス。……(中略)……爾臣民其レ克ク朕ガ意ヲ体セヨ。」
その日、ラジオで放送された昭和天皇の終戦の詔書の一部である。


3)小学校のタヌキと悪代官
 終戦翌年の4月に小学校に入学した。校門の脇の二本の大きな桜が満開の日であった。その日の写真がセピア色となって今も残っているが、興三さんは詰め襟の学生服の胸ポケットに桜の小枝を挿して気取っている。その後の写真も何か気取った様子が多い。生来、茶目っ気があったようである。
   ♪ 吉野、梶並二つの流れ
         緑の城山その陰映す
      山紫水明うるわしいところ
         我ら学び舎高くそびゆる ♪
林野小学校の校歌である。入学後のある日、大声で歌っていると、父がそれは
 「わしが作ったんじゃあ」
と言った。父、冨三郎は田舎町での文化人で、歴史が好きでもあった。後年、稼業を兄に譲ってからは町役場の広報紙『報道みまさか』の編集を楽しんでいた。 この校歌は二年生の時に新しい歌に代わった。その歌詞の中には、一番に「平和の日本創るため」、二番に「文化の日本築くため」、三番に「世界の日本祝うため」と歌われている。時節柄というか戦後の新たな出発への意気込みが感じられる校歌である。

 小学校一年生は90人ほどで、杉山先生の白組と敦賀先生の赤組の二クラス編成であった。担任の杉山先生は大柄で色白の温和な顔立ちで、後年の興三さん好みのタイプである。先生へのあこがれが残ったのであろうか、異性への関心は正に雀百までである。一年生の時には忘れられない二つの思い出がある。学芸会の劇でたぬきの役を演じた。ストーリーは殆ど忘れてしまったが、中川の尚士さんが和尚役で、それを興三さん扮するたぬきが小僧に化けて和尚を騙す話である。二年生になってクラス代えがあり、その後は組み替えなしで同じ仲間が六年生まで続いたので、尚士さんとは別のクラスとなった。彼とは65歳を過ぎた今でも大阪で付き合いが続いている。学芸会では三年生の時には狼役となり、五年生の時にはウイリアムテルの悪代官役を演じた。いずれも悪の主役である。数年後にはやった東映映画の名悪役の伊藤雄之助や進藤英太郎の役所である。オッチョコチョイでいたずら好きに加えてクラスで一、二を争う背丈であったからであろう。オイシイ主役はいつも秀才型の小山の靖ちゃんであった。

 もう一つの思い出は、県下の作文コンクールで一等賞をもらったことである。一年生であったからであろうが、作文集の巻頭を飾った芋掘りの話である。戦後の食糧難で入田(にゅうた)の畑に植えていたサツマイモを一家総出で収穫した一日を書いた。芋づる式に芋が連なって出てきた話、土中の芋を鍬で割ってしまった話、収穫を終え芋の葉も片づけてしまった広い畑の真ん中に鶏頭の大きな赤い花が一本さびしく残っていた話、そして近くの小川のせせらぎで鍬と手足を洗っているとき、小蟹がこっちを見ていた話などを書いた。三年か四年生の時にもう一度、何かの作文コンクールで入賞したが、それ以外には賞とはほとんど無縁の六年間であった。

 県北の片田舎の林野の町にも進駐軍がやって来た。ジープとトラックに十人近くが乗っていた。青い眼のアメリカ兵を見た最初の経験である。映画やテレビで見るのと全く同じの光景である。ゆっくり走るトラックの後を追って手を伸ばし大声をあげて、チョコレートやチューインガムをねだった。興三さんはやっとチューインガムをもらって嬉しかった。その日の夕食時に得意げに成果を報告すると、父の顔が曇った。二、三年後に、口にした日本製のガムと比べはるかに弾力があった。

 戦後しばらくして天皇陛下は国民を慰問しようと全国巡幸に出られた。昭和22年12月、年の瀬も押し迫ったある日、林野の下流にある柵原(やなはら)鉱山を視察後、林野に立ち寄られた。大勢の人々や生徒たちが路線伝いに大歓迎する中を菊のご紋の付いたお召列車で姫路方面へ去って行かれた。ローカル線の田舎町まで来られたことは、全国津々浦々まで行かれたであろうと容易に想像できる。敗戦で打ちひしがれた国民を励ますためとはいえ、骨身にこたえる一大事業であったろうと、今も深い敬意と感銘の気持ちで思い出す風景である。


4) 長兄哲夫の消息
 戦後の生活は厳しかったが、食料不足の中で新しい生活がはじまった。父の術後は順調に回復していった。生活が落ち着いてくると、長兄哲夫の消息が気になり始めた。シベリアへ抑留されたのではないかとの心配が家族や親戚の間で広がっていった。翌年の昭和21年8月13日、家族皆で夕食をしている時に、お盆供養の祭壇で小さな物音がした。急いで見に行ったところ、祭壇の両端に飾っている一対の聯の片方にろうそくの火が燃え移っていた。幸い大事には至らなかったが、父は、
 「えれぇことをしてしもをた。ご先祖様に申し訳ねぇー」
と落ち込んだ。母は、
 「縁起が悪いなー。哲ちゃんの身に何かあったんじゃあないかなぁー」
と心配した。夏も終わり彼岸花が美しいある日、見慣れぬ人が店先で両親と真剣な面持ちで長話をしていた。両親が聞き役であった。突然、母がわっと泣き伏し動かなくなった。興三さんはそばで一人遊んでいた。しばらくして、母は興三さんを呼び、
 「お前は外で遊んでおいで」
と抱きしめて言った。長兄の哲夫が満州で戦死したことを伝えに、戦友が訪問してくれた日であった。
 
 戦況はサイパン失陥、レイテ決戦敗北と悪化し、昭和20年4月には米軍の沖縄上陸と東京大空襲があり8月6日には広島に原子爆弾が投下された。日本の敗戦は決定的であった。その機に乗じてソ連は戦後の日本統治権を得るべく、日ソ中立条約を一方的に破棄し8月8日に日本へ開戦を布告した。精鋭を誇った関東軍は満州在住の民間日本人を放棄し、われ先にと遁走した。戦後、満州での混乱と中国残留孤児の元凶となった悪名高いソ連軍の闇討ちである。ソ連軍は徐々に南下し満州との国境は緊迫の度を増して行った。その日は駐屯地から少し離れた施設を守るために出動が必要となった。上官は
 「最早遅い。この戦争はきっと間もなく終結する。お前達はここで待機しておれ」
と兵士に命令した。しかし血気盛んな数名は上官の制止を聞かず飛び出し国境への列車に乗り込んだ。屋根の無い無蓋列車であった。暫く走って索倫(スーロン)駅の近くに来たとき、ソ連の飛行機が急降下し哲夫達を目掛けて機銃掃射をしかけた。その一弾が哲夫の頭部を貫通した。終戦をわずか3日後に控えた昭和20年8月12日の出来事である。7月にはベルリン郊外のポツダムで米国トルーマン大統領、英国チャーチル首相、中華民国蒋介石主席は先のカイロ宣言を追認するしてポツダム宣言を発した。8月10日には既に日本はその受諾を連合国に伝えていた。
 「戦争は間もなく終わる」
と言った上官の言葉には根拠があったのである。

 興三さんが武田薬品に入社してしばらく経ったある日、父が
「興三なあー外国部に入ったんなら中国へ行ける時もあろなー。哲ちゃんが戦死した場所へ行ってやってくれんかなあー」
と言って、“索倫駅”と書いたメモを渡した。

(閲覧有難うございます。 2月号に続きます。引続き応援願います)



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