私本 芦屋の浜のつれづれ草

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 2月号(第4・5・6話)

4) 長兄哲夫の消息(続き)
 その後、30余年経って興三さんは夜行列車を乗り継いで索倫駅に降り立ち線香と日本酒を手向けることになる。
 「よくもこんな僻地にまで日本軍は来たなあー」
と思うような何も無い片田舎の駅であった。近くには見渡す限りの蒙古草原が広がり、紺碧の空と緑の草原が創る地平線はどこまでも遠く、点在する数個の白いパオ(移動式の家)の近くで羊と馬が草をはむ平和な日であった。帰途の中継駅で車に換え、しばらく走って停まった。そこには生い茂る雑草の中に、コンクリートの割れ目が目立つ朽ち果てた滑走路があった。
 「戦時中に、日本軍が建設した飛行場の跡です」
と案内の方が説明してくれた。哲夫はそこに駐屯していたのかも知れないと思った。索倫行きの旅はまたの機会に詳しくお伝えしたい。

 戦後すぐに次兄の充郎(みちお)は京都の大学で薬学を学ぶこととなった。稼業を継ぐためである。戦後の猛インフレでこれまでの貯えが紙屑同然となり、一からの出直しであった。物資も食料も乏しい時に次兄を大学にやり、姉二人と妹と興三さんを養っていくのは両親にとって重荷であったろう。その頃、母は興三さんを連れて近郷の親戚筋を度々訪れた。母の里の宮山(みややま)、祖母の在所の藤田、母の姪が嫁いだ加茂、母の叔父や従兄弟がいる勝間田や黒坂、遠縁の人たちが住む殿所、巨勢、柵原などである。幸い稼業は薬店で、店には誰もが重宝する薬や雑貨があった。商品を手提げ袋に詰め興三さんの手を引いて、知人を訪問しては野菜などの食べ物を分けてもらう。お礼に石鹸、サッカリン、タンサン、赤ちん、ムヒ、脳神(のうしん)、セイロガン、改源、万金膏、DDTなどを置いていった。帰りには手提げ袋の中身が食料に変わっていた。これらの品々は生活の必需品であった。ついでながら、ムヒは当時は「無比」と書かれていた。二つと無い「唯一無比」からの命名である。セイロガンは征露丸と書いた。「露西亜((ロシア)を征服する丸薬」との意味である。時代は変わって今は「正しい露の丸薬」で正露丸と書く。

 ただ、このような親戚筋の訪問は食料を分けてもらう以外にもう一つの目的があったと思う。それは、哲夫の“名誉の戦死”を壮行会に出席してくれた親戚の人達に報告し、そのつらい胸の内を吐露することではなかったろうか。
 「あと3日生きていたら」
 「お父さんが生きて帰るなとゆうたけん……」
と泣きながら話していた。戦時中には出征兵士に対して”死んで祖国に帰還する”のが愛国心であり、日本人の責務と教えていた。父は俳句や和歌を趣味としていたが、後年になって、
 「人前で死んで帰れと言いつつも、陰では死ぬなと言ったのに」
という意味の歌を作っていた。それを書いた紙片を失い正確な歌を思い出せないのが残念である。息子を死に駆り立てたとの自責の念から自分を誤魔化すために作った歌ではないかと思う。人一倍真面目で律儀な父が二枚舌を使い分けるなどできない相談であろう。こうした母の親戚訪問は一年余り続いたのであろうか。黒坂の従姉に勧められて新興宗教「生長の家」の教えにすがり次第に熱心な信者になっていった。西が浜の家を地域道場として提供し、興三さんも子供会に参加させられた。田舎の文化人を自任する父は、母が信仰へ逃避するのを毛嫌いし冷ややかに見ながらも、その教えに感じるところもあり葛藤していたようである。
 “吾子迎ふ 故里の土温かき”
哲夫の墓石に刻まれた父の句である。

 後年のことになるが、お盆供養に訪れた新任の住職が祭壇に飾ってある四人の仏様が描かれた掛け軸をみて
 「この軸は対聯のはずじゃーが、片方はどをしなさったんじゃぁー。なくしんさったんか。惜しいことをしたなぁー」
と問い掛けた。母が昭和21年8月13日の火事で焼失したと説明した。
 「それはそうと、興三さんは三男かなー」
との質問などがあって、長兄哲夫の戦死にまで話題が広がっていった。最後にその僧侶は
 「その火事は哲夫さんの霊が満州から帰ってきたんでぇー。焼けた一片の聯は哲夫さんだろうなー。残った方を大切にせにゃあいけんでぇー」
と講話をして帰っていった。残った片方とは、角家の跡取りとなった、次兄充朗のことと興三さんは考えている。

5) 易者の占と八つ墓村
 母に連れられて訪れた村や町の思い出を紹介しよう。林野の下流二キロのところに湯郷温泉がある。そこを南の川下に行けば巨勢村で、湯郷を西に暫く行くと殿所である。殿所はトンドコロと読む。殿所の小父さんは農業の合間に凧、コマ、竹とんぼ、グライダー、水鉄砲などのおもちゃを作って一緒に遊んでくれた。桜の木で精巧な長い木刀も作ってくれた。林野に持ち帰りチャンバラごっこで使い得意気になっていた。この家には一周りほど年の違う兄がおり「のらくろ」という漫画の単行本が二冊あった。「のらくろ」は少年倶楽部に昭和6年から16年まで連載され、後に単行本となった。犬を擬人化した軍隊生活や戦争の物語で、マンガ界の大御所、田川水泡の大ヒット作品である。野良犬、黒吉が猛犬連隊に二等兵として入隊し失敗しながら活躍し昇級する物語を心を躍らせて読んだ。興三さんが初めて出会った漫画であった。

 殿所には有名な易者がいた。ある日、母と一緒に訪れた。その易者は興三さんの顔相と手相を見て筮竹(ぜいちく)をこねてから、暫く
 「うーん」
と考えこんだ。母が思わず
 「何か悪いことでも」
と身をのりだして問い質す。
 「落ち着きの無い子だなあ。悪くはないが、変わった運勢をしている」
と易者が答える。母が
「苦労するんですか? 貧乏になるんですか?」
と心配顔でたたみ掛けると、易者は
「苦ろうなあー。貧乏にゃあならんけどなー、ぶげんしゃ(金持ち)にもならんじゃろう」
と言った。
「易者の言葉など当たるものか」
と思いながらも、この言葉はその後いつまでも興三さんの頭の片隅に残った。長じて林野を離れ神戸、静岡、大阪、東京、果ては海の彼方の国々を転々と移動したのは、まさに“落ち着きのない子”に他ならない。人並みの給料は得たが蓄財と言うには程遠い。こうして65歳で退職し安寧な日々を過ごしながら半生を振り返って見ると、易者の占は概ね当たっているようである。

 殿所をさらに西に向かい途中から小道を山に入れば母の里の「宮山」に至り、小道に入らず真っ直ぐ進むと藤田村に着く。県道から一面の田んぼの遥か先に一際目立つ大きな蔵屋敷があった。祖母の在所の中村家である。古くからの庄屋で当主は村長をしていた。目の前の田んぼは全て中村家の所有であったが、戦後の農地改革でそっくり人手に渡ってしまった。農地改革とは戦後GHQ(連合国軍総司令部)が実施した重要な民主化政策の一つである。後年、全国民の血涙を絞った朝の連続テレビドラマ「おしん」の主要テーマ「小作の開放」である。それでも山林は農地改革の対象外で人手に渡らず残った。秋には赤松の林で松茸狩りをして松茸ご飯をご馳走になった。籠一杯と腹一杯の楽しい思い出である。

 湯郷の下流二キロのところに巨勢村がある。巨勢はコセと読む。珍しい地名である。後年のあるとき興味ある文章に出会った。相撲の開祖として知られる竹内宿禰(たけうちすくね)の子供たちが蘇我、平群、葛城、紀、巨勢という姓を名乗り分家した。巨勢一族は一時権勢を誇ったそうである。六世紀の初め武烈天皇が世継に恵まれず、天皇家が血統断絶の危機を迎えたとき、応神天皇の五代後の孫で北陸地方にいた大王が探し出され天皇に担がれた。この謎の大王、継体(けいたい)天皇を擁立したのが巨勢男人(こせのおひと)と言われる。また聖徳太子の忘れ形見の山背大兄王(やましろのおおえのおう)を暗殺した六人衆の中に蘇我蝦夷(えみし)や入鹿(いるか)に混じって巨勢徳太(とこた)の名が見える。ついでながら、この紀姓の数代後裔から土佐日記で有名な紀貫之が誕生し、巨勢が転じて古瀬や小瀬の地名や人名が生まれたそうである。現在、奈良県御所(ごせ)市のJR吉野口駅の近くに椿の名所として知られる巨勢寺跡がある。御所は巨勢から転じたと興三さんは信じている。北に山一つ超えれば高松塚がある。
  巨勢山のつらつら椿、
  つらつらに見つつ偲(おも)はな、巨勢の春野を   板門人足
万葉集の歌である。

 岡山市の郊外には古代「吉備王国」があり、付近には佐伯(さえき)、和気(わけ)、久米(くめ)、吉備(きび)、那岐(なぎ)山のような古代に繋がる地名が多い。美作国英多(あいだ)郡の鉄山で落盤事故が起きた話が「日本霊異記」に伝えられている。近くには位田(いでん)という地名もある。位田とは奈良時代の律令制で中央の高官や地方の郡司に与えられた田である。六世紀の後半に吉備一族が衰退すると、近畿の大王勢力が美作東部に資源を求めて進出したことは歴史上知られている。県北の平凡な片田舎の巨勢村が大和の豪族巨勢氏と何か関係があったのかも知れない。この巨勢村の小母さんの家の近くには吉井川の支流があり、兄ちゃんが魚取りに連れて行ってくれた。興三さんが魚取りの面白さを知ったきっかけであったと思う。

 勝間田(かつまだ)は林野駅の西隣の町で、中世の出雲往来の有名な駅の一つである。JR姫新(きしん)線(姫路と新見間)勝間田駅の近くに小さな川があり、源氏蛍の群棲地として有名であった。蛍の点滅はオスとメスとの求愛のコミュニケーションと言われる。源氏蛍は蛍の王様で体長は15ミリ前後もあり平家蛍より大型でその光は強い。加えて源氏蛍のオスの点滅はお互いに同調する。数千匹或いは数万匹の源氏蛍の群が同調して点滅しながら乱舞するさまは壮観で幻想的であった。農薬の使用が自然界のすばらしい恵みを過去の風景へと押しやってしまった。残念なことである。JRの駅を北へ暫く行くと勝間田農林高校があり、その西側に小母さんの家があった。乳牛を五、六頭飼っており、絞りたての暖かい牛乳を飲ませてもらった。この味も今は無い。そこの兄ちゃんから歌を教わった。
♪ うちの父ちゃん狐か狸、夜の夜中に穴さがす、穴さがす ♪
♪ うちの母ちゃん洗濯すきで、夜の夜中に、竿さがす、竿さがす ♪
得意げに歌っていると、
 「そんな歌、歌いなさんな」
と母にしかられた。何故しかられたのか、ずっと後年になるまで疑問であった。

 津山から因美線で鳥取方面へ五つ目に加茂駅がある。中国山脈から流れ出す水は清く豊富で鮎釣りの名所であった。加茂の小父さんは小学校の校長をしていたが、大きな水車があり稼業は精米所であった。一学年下の興一とその弟隆志の従弟半がいた。薄暗い水車小屋の中で、三人でかくれんぼなどをして遊んだ。歯車と車軸が互いに連結し合いながら、水車の回転が杵の上下運動に転換して精米する仕組みを飽きず眺めることもあった。そこから少し離れた村で十数年前に猟銃による連続殺人事件が起きた。一人の男が村八分にされた恨みから、次々と民家に押し入り住民に銃弾の雨を降らせ何人も殺傷したのである。村八分とは火事と葬式の二分だけには仕方なしに協力するが、残る八分の農作業などの生活には協力を拒否して、村の仲間外れにする所業である。
 「仰山の人を撃って、えろうきょうとかったで」(怖かったよ)
と小母さんがその時の恐ろしさを話してくれた。 後年、この事件をヒントにして小説が書かれ、テレビや映画にもなった。横溝正史の「八つ墓村」の源風景である。

<主な参考文献> 
 ・角川文庫 日本史探訪(3)
 ・日本の歴史(3) 青山和夫 中央公論新社
 ・平凡社 日本歴史地名大系34(岡山県の地名)


6) 林野商店街の盛衰
 林野は岡山県の東北にある落合いの町である。町の北に城山を背負い、東北から吉野川が西北から梶並川が合流し、その下流で吉井川となって西大寺市を通過して瀬戸内海に注ぐ。吉野川に沿って東北に行けば寺町、茅町、東浜、朽木である。朽木には林野神社がある。梶並川に沿って西北に行けば西が浜、三海田でその北端が林野駅である。この川と城山が興三さんの活躍の舞台であった。スミ薬局や金物鎌田屋は下本町にある。城山の麓が上町で役場、税務署、裁判所、幼稚園、小学校、中学校がある文教地区で、東浜の川を隔てて林野高校があった。山間の町にしてはめずらしく日蓮宗、浄土真宗、真言宗と3つもお寺があった。

 昭和28年に湯郷や楢原などと合併して美作町となり、平成の大合併で美作市が生まれたが、興三さんの幼年期には岡山県英田(あいだ)郡林野町であった。林野の歴史を追ってみよう。早くも713年には美作の国が置かれている。平安時代に編纂された漢和辞典“和名抄”によれば、当時は林野郷と呼ばれ美作国英多(あいだ)郡とある。12カ所の郷(荘園)の一つである。アイダは県(あがた)が訛ったと考えられている。鎌倉時代には梶原景時や山名時氏など歴史上知られた人物も関わりを持った。戦国時代になると作東の交通、軍事の要所として重視された。町の背後の城山にある尼子勢の林野城は梶並川を挟んで毛利方の三星城と作州東部の覇権を争った。天正7年(1579)宇喜多氏の攻撃に遭い林野城は落城した。

 秀吉の中国攻めで三星城は秀吉軍と対峙した。山城の長所を生かして防御すべく、竹の皮を大量に集めそれを大手門へ通じる坂道に敷き詰めた。寄せ手の足を滑らそうとの戦術であったが、秀吉の猿智恵が一枚上であった。秀吉はその竹の皮に下から火を付けたのである。折からの風にあおられ、大手門へ続く竹の皮の絨毯は恰好の導火線となって大手門を焼いた。この故事は父から聞いた話であるから史実に違いない。

 話題を林野の歴史に戻そう。江戸中期以降に林野は幕府の直轄地となり代官所が置かれた。その頃は両岸に蔵が建ち並んでいたことから倉敷と呼ばれていたが、大正7年、備中倉敷との混同を避けて中世の保名(荘園名)の林野に改めた。古い町名の倉敷が示すように、江戸時代に栄えた商人の町で、作東の商業の中心地であった。林野駅の北を走る出雲街道から離れていながら、商都となれたのは高瀬舟のおかげである。東浜と西が浜は舟着き場であった。そこには問屋、蔵、舟宿などが建ち並び、十数隻の高瀬舟が横着けされていた。吉野川と梶並川で集められた米、木材、炭などの農産物は吉井川を下って西大寺や岡山まで運ばれる。
(閲覧有難う御座いました。次回は「3月号(第 6・7)」をクリック下さい)



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