私本 芦屋の浜のつれづれ草

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 4月号(第7・8・9話)

7) 家の履歴書(途中から)

 もう一つ忘れられない思い出がある。戦後の食糧難の頃に裏庭の一隅で鶏と兎を飼っていた。兎の飼育は暫くして止めたが、小遣いが月額制になったときに鶏の世話が興三さんの仕事になった。毎日、菜っ葉を調達し包丁で細かく切り、少し水を加えて糠とまぶす。冬は手が冷たくつらい仕事であったが、休むこともなく中学校入学後まで続いた。その頃になると義務でも卵でもなく、今風に言えば最後まで残った一羽の鶏がペットとなっていた。新緑のある日、学校から帰ると鶏小屋が空であった。母を問い詰めると、
 「卵を生まなくなったんで、川向こうの鶏肉屋に売ってしもうた」
としぶしぶ白状した。
急いで、鶏肉屋に行ったが間に合わなかった。すごすごと帰りながら、戎橋の欄干から川の流れを見て暫く泣きじゃくっていた。悲しい日であった。それ以後、興三さんは生き物を飼うのをかたくなに拒んでいる。

 父は明治32年(1899)の生まれで、母の久よは四才下。次兄の充郎は昭和3年生、その後に泰江、次枝、興三、桂子と続く。充朗と泰江の差は三才で、その下は夫々四才ずつの差で覚え易い。 興三さんが五年生のころ兄が大学を卒業して帰ってきた。こうして一家七人がこの家に住んでいた。西が浜にも家があり裏側は梶並川に面し舟着き場の跡であった。戦後しばらく、この家の一階に神戸の叔母と娘が、二階には東京の伯母と息子二人が疎開して住んでいた。暫くして叔父が戦地より復員してきた。この家は祖父が裕福であった頃の材木置き場を改装したもので、店舗と住居は道を挟んで対面にあったが、興三さんの子供の頃には、既に人手に渡って久しかった。

 昔は老舗の商家は屋号を持っており、角家は代々明見屋と呼んでいた。林野駅近くの明見が数代前の先祖の在所であったそうで、今でも近くに大きな墓石が残っている。『美作一覧紀』には17世紀初頭、藩が商工活動を奨励し商家が近郷から林野の町に集まって来たそうで、20軒ほどの商家屋号の中に明見屋の名が記録されている。祖父は手広く材木商を営んでいた。真言宗、安養寺の本堂に
 「弘法大師御寶前 総金箔木憧幡一対
明治三十九年九月 施主 当主 角幸八」
と記載した大きな額が今も残っている。一対の金張り伽藍を祖父の角幸八が寄贈した証である。

 興三さんの思い出がつまったこの家は昭和49年(1974)に老朽化のため取り壊され鉄骨モルタルに立替られた。お陰で悪行を示す通信簿がなくなったのは幸いであるが、高校時代の国語などの教科書が消えたのは少し寂しい。


8)スミ薬局の捨て子
 父、冨三郎が備前池田藩の藩校である閑谷学校で学んでいたときに祖父が急死した。加えて、使用人が倉庫の材木を川から流し横領してしまった。こうして祖母は家財を売りながら子供三人を育てる生活になる。父は閑谷学校を中退、実践的な岡山商業学校に転校した。長女である伯母の垂井つたえは、乳母日傘(おんぼひがさ)で育ち岡山一女を卒業して既に東京に嫁いでいたので苦労の経験はない。中山の伯母と父が苦労したらしい。末娘の叔母、和田重野は幼少で良い思いも無い代わりに苦労は少なかったそうである。そののちに父は薬種商の資格を取って本町で薬店を開くことになった。なぜ薬屋を生業に選んだか聞き漏らしたのは返す返す残念である。祖母の在所と母の里では家柄に差があったが、結婚当時の格の違いというものであろう。

 充郎兄が大学を卒業し薬剤師免許を携えて帰って来てから商店の名称がスミ薬店からスミ薬局に変わった。薬店と薬局の名称の相違について、参考までに簡単に触れる。当時は薬屋の免許には一号から四号まであった。一号が薬局で薬剤師の資格が必要で二号が薬店(薬舗、薬品など)で薬種商の資格で開業できる。三号、四号は簡単な家庭常備薬だけを扱える資格で、村のよろず屋や雑貨屋が許可を得て膏薬や赤チンなどを商っていた。今は、調剤室が有れば薬局で無ければ薬店である。薬局では薬剤師が調剤し薬店は一般薬を販売する。薬局でも薬店でも営業するには薬剤師が常駐しなければならない。

 処方つまり治療薬の決定は医師で調剤つまり薬を調合するのは薬剤師という図式が、医薬分業の基本理念である。しかし薬事法には「医師が調剤してもよい」と但し書きが付いている。この例外規定を楯に薬を調剤(つまり販売)する権利を医師が手放さないために医薬分業が長年妨げられてきた。最近になり治療薬の多様化、薬事故の増加、補償額の高騰、薬の販売益の低下などの理由から、調剤業務の魅力が低下し医師がその利権を手放すようになった結果、医薬分業が進んできたのである。

 今ひとつ難題がある。薬店の営業にも薬剤師が常駐しなければならないが、薬剤師は人材難でかつ高給である。このために薄利多売を経営戦略とするチェーン薬店では薬剤師の雇用人数を減らそうとして種々対策を講じる。高度な治療薬と違い一般薬の販売では3K(高学歴、高知識、高給料)の薬剤師は不要であるとの論理が展開される。一部の薬はコンビニで販売が可能となり夜間のテレビ電話で薬剤師が対応できるようにもなった。制度の矛盾であり理想と現実のギャップでもある。結局「悪貨が良貨を駆逐する」というグレシャムの法則と同じで、非薬剤師が薬剤師の労働市場を侵食する。ともあれ、医薬分業と薬店薬剤師不要論がマスコミ報道を賑わしている。

 父は薬剤師でなく薬種商であったから「薬局」という店名は使えず「スミ薬舗」と称していた。一家の生活は楽ではなかったが、それでも戦後の食糧難を何とか切り抜け、日本の経済復興につれて商いも少しずつ増えていった。夕食後は奥の間に集まり雑音の入るラジオで「向こう三軒両隣」などの放送を聞きながら家族一人ひとりが思い思いの仕事をしていた。ラジオ放送は翌年の昭和23年に「君の名は」、24年の「トンチ教室」へと広がって行った。父は帳簿付けに頭をひねり母は針仕事に余念がなく子供たちも自分の役割を心得ていた。ぬくもりのある食後の団欒であった。一升瓶に入れた米を棒でトントンと突いて精米したり、刻んだ葉煙草を手回し器を使って薬包紙で巻いて父の紙巻タバコを作った。興三さんは薬の小分け包装が得意であった。人工甘味料のサッカリンやズルチンを天秤で秤量し薬包紙に包んだ。最近ではプロの薬剤師でさえ機械化の影響で苦手となった手作業である。新聞紙や古雑誌を所定の形に切り糊付けして紙袋を作る。それに“ふくらし粉”を秤量して袋詰めにした。“ふくらし粉”は別名、重ソーあるいはタンサンとも呼ばれた。重炭酸ソーダの略である。お菓子の無い戦後には家庭で蒸しパンや焼き菓子などを作るのがはやった。砂糖はわずかに配給されるだけであったので、人工甘味料とふくらし粉は生活必需品として飛ぶように売れた。

 充郎兄が取得した薬剤師免許証のお陰で店名がスミ薬局と変わり店の一隅に調剤室を新設した。年毎に売り場が広がり、居住場所は奥へ奥へと後退していった。店の近くにあった茶の間は最後には蔵の中に移されて椅子とテーブルの食堂となった。いつしか、店員が増えお手伝いさんも雇った。大阪から疎開してきたお手伝いさんが語る大阪の大空襲の様子に子供たちは聞き入った。3月13日に400機にも及ぶグラマン機が超低空飛行して焼夷弾の雨を降らせ、大阪は一面の焼け野原となった。小学校から行列して“鐘の鳴る丘”と言う戦争孤児の映画を見に行った。孤児の面倒をみる“修平兄ちゃん”は俳優、中井貴一の父、佐田啓二が“君の名は”の春樹役で名を成す以前に好演した役であった。また蚊に食われながら団扇を片手に校庭で立ったまま“流れる星は生きている”という映画を見た。藤原てい氏の小説を三益愛子と三条美紀が熱演した引揚者の実録的映画である。たたきつける豪雨のぬかるみを這うように進む姿が印象に残っている。満州で戦死した長兄哲夫の姿と二重写しで涙した。これらが耳にし、目にしたわずかばかりの戦争体験で、都会の子供たちと比べると苦労の少ない戦中戦後であった。

 父は根っからの商人という性格ではなかった。この点では薬店を生業にしたのは正解であったかも知れない。あるとき貧しい家庭の女の子が弟を背負い粉ミルクを買いに来た。暫くその子の話を聞いた後で父は何も言わずに粉ミルクの缶を手渡した。お金を持っていなかったのである。二年ほどたったある日、その女の子はミルク代の借金を返済しにやって来た。中学を卒業して宇野バスの車掌に就職したと聞いて我がことのように喜んだ。こんなこともあった。太鼓饅頭を焼いて生計を立てている家族がサッカリンとふくらし粉の代金をスミ薬局から借金していた。それを聞きつけた興三さんは、その家に出かけて行き借金のかたに十個ばかり太鼓饅頭を持ち帰って食べた。これを知った父は、
 「小母さんはメリケン粉や小豆を買って太鼓饅頭を焼き、わずかの利益を得て生活している。お前が太鼓饅頭をタダで持ってきたら、小母さんの家族は明日の小豆も今夜のオカズも買えないではないか」
とこんこんと説教を食らい、子供心にも父の生き方を感じた。原料の合計が原価であり、販売価額との差額が利益という商売の本質も知った苦い経験である。

 同じ町内に伯母の中山由紀子が住んでいた。既に書いたように金物カマダ屋である。伯母夫婦には子供がいなかった。そのためか興三さんは「カマダ屋のオカアチャン」と呼んでいた。遊びに行けばさつま芋を蒸し、かき餅を焼いてくれた。ときには昼食や夕食もご馳走になった。もちろん我が家の食事よりおいしく量も沢山であった。遊びに行くというより、これらの食べものに引かれて足繁く通ったようである。ある日、伯母は突拍子もないことを言った。
 「興三さんはなあー、カマダ屋の前の電信柱の下に捨てられていたんでー。私がなあー拾ったんでー」
それだけであったが、ショックは大きかった。なんとなく悲しかった。母に問いただすこともできず、悶々とした日が過ぎていった。暫くは中山へ行く回数は減ったが、思い出す回数が少なくなると、以前同様に遊びに行くようになった。しかし完全に忘れた訳ではなく、
 「自分は捨て子かも知れない」
と時折思い出した。この思いを完全に払拭するのは、相当後年である。
 「日本には昔から“ひろい親”と言われる俗習がある。生まれたての子を軒下などに捨て、予め頼んでおいた身近の人に拾ってもらうと元気に育つそうである。この俗習は“お前は橋の下から拾ってきた”と言って子供を脅し叱る悪い風俗となった」
と、その本は伝えていた。

 人は軽い気持ちで相手に話すことがある。世間の常識や通例を相手が知っているとの無意識の前提で話す。大人と子供の間ではそれが一層大きな問題となることもある。誤解したり悲しんだり怒ったりショックを受ける。やはり子供の目線というか知的レベルに合わせて話をする必要があると思う。NHKの「ふしぎ大自然」は好きなテレビ番組の一つで、動物の子育てには学ぶ所が多い。独立して親元を離れるまでは保護と愛情を注ぎ、生きていくための行動規範を反復し教え込む。いま自分の子育てを振り返って見ると、子供を一人前の人格として扱うという美名の下に、子供たちの面倒をあまり見なかったようである。優しい言葉をかけ時に抱きしめ愛情いっぱいで育てることが肝要で、独立した個人として突き放すのが早すぎたと反省している。それをフォローしてくれたのは妻であったようである。しかし妻は優しさは教えたが強さを教え鍛えることには消極的であったように思う。

9) 勘太郎月夜唄の風景
 宮山は母の里で林野から八キロほどの道のりである。湯郷を西に通過し殿所を右手に見てさらに歩き長内(ながうち)に至ると、大きな楠の老木が見えてくる。今は舗装道路をバスや自家用車が行き来しているが、当時は母の手に引かれて歩いた。楠の老木の所まで来るとほっとする。その先を右に折れて山道に入る。狭く急な山道を登って行くと溜め池に着く。満々と水をたたえ、岸辺の木立が水面みずもに映っている。静かな池のほとりの木陰で腰を下ろして、おやつを食べるのが楽しみであった。春には白い山百合や提灯草が、秋には赤い彼岸花や萩の花が、徒歩の疲れを癒してくれた。一休みしてから最後の頑張りの坂道を登る。峠を越えた所に小さな村里がありそこが宮山であった。

 母は一人娘で三人の兄は分家して直ぐ近くに住んでいた。本家、後ろ、新屋敷と呼んでいた。本家の庭には大きななつめの木があり、木に登って実を採り枝から荒縄を垂らしてブランコにして遊んだ。土塀門の前は下り坂で大きな柿の木があり、秋になれば枝もたわわに実をつけた。石本美由紀と船村徹のコンビによる大人の童謡演歌を、青木光一が歌ってヒットした「柿木坂の家」そのままの風景であった。
   ♪ 春には 柿の 花が咲き
        秋には 柿の 実が熟れる
     柿の木坂は 駅まで三里
        思い出すなア ふる里のヨ
     乗合バスの 悲しい別れ ♪
興三さんの好きな流行歌で、歌う時にはいつも宮山の本家の庭先を思い浮かべていた。しかしこの柿木坂は東京のど真ん中の目黒近くにある地名に由来したと、後年知ったときには興ざめであった。

 興三さんは従兄の年齢が比較的近い「新屋敷」に泊まることが多かった。長男が巽、次男が哲男、三男が光男で興三さんの兄二人と似た名前である。わらび、ぜんまい、さいしんご(いたどり)採り、竹の子掘り、茸狩りなどへ度々連れて行ってもらった。炭焼も教わった。牛の背に乗せてもらいその高さに驚いた。ある日、光男兄ちゃんが
 「今日は牛の種付けをするけんなー」
と言って、牛の鼻の紐を短くして庭先の柱に繋いだ。しばらくしてよその小父さんが一頭の牛を連れて来た。その牛はしばらく光ちゃん牛の周りを小躍りしながら右往左往していたが、急に光ちゃん牛の後ろから乗りかかった。乗られた牛は重くて泣いているようであり、乗った牛は何か怒っているようであった。一時が過ぎて終わった後で光ちゃんが、
 「これが牛の結婚じゃー。雄牛の白い汁が雌牛の中に入ると子供が生まれるんじゃー。人も牛も犬も動物は皆んな同じじゃー」
と言った。良く分からなかったが納得し興三さんは何故か興奮していた。 

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