私本 芦屋の浜のつれづれ草

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 5月号(第9・10・11話)

9) 勘太郎月夜唄の風景(途中から)

石臼で米粉を挽く手伝いもした。その米粉を蒸して作った粽(ちまき)や草餅の香り、枝もたわわに実ったすももの甘酸っぱい味が懐かしい。皆が可愛がってくれた。

 本家の近くに公会堂があり寄り合いなどに使われていた。ある日、そこで田舎芝居が上演され見に行った。手回しの蓄音機から流れる「勘太郎月夜唄」に合わせ裸電球のスポットライトをあびた旅役者が舞った。興三さんはその舞姿に魅了された。林野に帰ってから、歌詞を覚え自分で振り付けをして踊っては、家族や近所の人たちの拍手喝采をもらい得意であった。大風呂敷きを旅合羽に蓑傘を三度傘に殿所の小父さんが作ってくれた木刀を長ドスにさっそうたる出で立ちである。
   ♪ 影か柳か 勘太郎さんか
       伊那はなんなん ああー 糸ひく煙
     捨てて別れた 故郷の錦
       しのぶ今宵の 旅姿 ♪
佐伯孝夫作詞、清水保雄作曲を小畑実が歌った昭和18年のヒット曲である。母に連れられて親戚を訪れていた小学低学年の頃の興三さんの晴れの旅姿でもある。

 興三さんの従兄にあたる本家の一人息子は若死にし嫁が入り婿をもらって再婚したが生活力がなく家は傾いていった。従弟半の一人娘の光江は関西で結婚して、今は堺あたりに住んでいると聞く。こうして悲しいことに本家は没落した。後日談になるがお世話になった伯父や伯母のお墓参りに宮山を訪れた。今日では別の山道を乗用車で登れる。本家の家は取り潰され更地となっていた。広い屋敷と思っていたが更地の狭さに愕然とした。そこは地域の遊園地として提供されたのか、錆びた滑り台とブランコが雑草のなかにポツンと置かれていた。従兄の巽さんが「十年程前になぁ、光江の依頼で本家を解体したんじゃぁ。そしたらなぁ、家の屋根裏から系図が出てきたんでぇ。宮山は三星城の落ち武者の里だったことが、これではっきりしたんじゃぁ」
と教えてくれた。先祖からの伝承が確かとなった。

 戦後二、三年経ったある日、竺原の家で遊んでいると、小母ちゃんが、
 「お父ちゃんが兵隊から帰って来るけん、これから駅まで迎えに一緒に行こう」
と言って弟を背負い賢ちゃんと四人で出かけた。駅の近くで軍服姿の足にゲートルを巻きリュックを背負った小父さんにばったりと出会った。小父さんと小母さんは道の端で手を取り合って喜んでいた。一年ほど経って賢ちゃんに妹が生まれた。しばらく経ったある放課後に腕白達数人が“子供はどうして生まれるか”と密かに熱い論議を始めた。
 「お父ちゃんとお母ちゃんが一緒の布団で寝ると子供ができるんじゃー。へーで秀子が産まれたとお母ちゃんが言うとったでー」
と賢ちゃんが言った。立派な証拠があり皆が何となく納得したが、犬の子が生まれた経験から異を唱える子もいた。興三さんは宮山での牛の種付けと光ちゃんの言葉を思い出していた。腕白たち誰もが何時かは通る自然な成長の過程であった。


10)城山のターザンと餓鬼っ子
 林野の町は吉野川と梶並川の合流点の北側にある。その形状はY字に似ており美女のデルタ地帯が林野町内でその上が城山でさしずめヘソの辺りが林野城の一の丸である。梶並川の対岸に三星城があった。林野城と三星城の覇権争いについては既に紹介した。三星城は毛利方であったからその城名は毛利家の家紋である「一文字三星」に由来するのかも知れない。三星城跡には小学校の遠足などで行ったが、遊び場としては遠かった。興三さんの活躍の舞台は城山であった。

 山すそに大きな楓の木があり、”もみじ段”と呼んでいた。城山への山道の始まりである。徐々に険しくなり這うようにして松林を登ると三の丸である。ここは展望が良く梶並川を隔てて三星城跡の山がよく見える。さらに潅木と松林を登り、二の丸を過ぎて山頂が一の丸で標高250メートルである。一の丸を北に下れば林野駅で東に下れば林野神社に至る。一の丸は平坦で瓦のかけらが落葉に埋もれていた。城山にはあちこちに大きな穴ぼこがあり大雨の翌日には水が溜まっていた。戦時中に松根油を取った跡である。松根油とは文字通り松の根から絞り採った油である。戦艦のエンジンを動かす燃料が欠乏し、代用油を得るために松の木を切り倒し根を掘り起こし油を絞り採ったのである。松根油の採取も金物の供出、白壁の墨ぬり、竹槍の訓練などと並ぶ戦争末期のマンガチックな断末魔の風景である。

 高校の古文の徒然草で「榎の木の僧正」を読んだとき、城山の穴ぼこを思い出した。第45段を原文のまま紹介しよう。
  「公世(きんよ)の二位の兄に、良覚僧正と聞こえしは、きはめて腹悪しき人なりけり。坊の傍に大きなる榎の木のありければ、人“榎の木の僧正”とぞ言ひける。この名しかるべからずとて、かの木を切られにける。その根にありければ、“きりくひの僧正”といひけり。いよいよ腹立ちて、きりくひを掘り捨てたり。その跡、大いなる堀にてありければ、“掘池の僧正”とぞ言ひける。」

 春は麓でイタドリを探し秋はズイ茸やシメジを狩り冬は松ぼっくりを投げ合う戦争ごっこをし、山そりで遊んだ。お稲荷さんの改修祝いの“餅投げ”の日であった。一の丸から林野神社へ向かって山道を歩いているとパチンコの玉のような兎の糞が多数転がっていた。その糞の跡をたどっていくと草むらの土手に洞穴があった。兎の巣らしいと仲間たちで取り囲むように静かに近づいた瞬間、薄茶色の野兎が跳び出て逃げていった。まさに脱兎である。ふもとに毎年アケビが実る急斜面があった。ある年、台風の大雨で崖崩れが起きた。数日後アケビを採りに行ってその崩れた岩陰から自然薯が覗いているのを見付けた。歓喜したのは言うまでもない。それ以来、この崖は誰にも言わぬ興三さんだけの秘密の場所となった。

 小学五年生の頃だったろうか、クラス仲間と三の丸で飯盒炊さんをすることになった。「誕生日会」のメンバーである。お向かいの竺原の賢ちゃん、遠縁の小山の靖ちゃん、満州から引き上げて来た池ちん正和、パン屋の四男坊の伊東の敬朗ちゃん、神戸から疎開して来た大杉実、散髪屋の次男坊上林泰男、産婆さんの息子難波泰治と興三さんの八人組である。戦後の混乱も落ち着いてくると少年月刊誌「冒険王」や「少年クラブ」などに都会の流行が紹介されていた。飯盒炊さんも誕生日会も少年雑誌からの情報である。その月は誕生日会が無いので城山で飯盒炊さんとなった。戦時中に兵隊は各自が飯盒を背負い行軍した。さしずめ“携帯用の鍋釜”である。ご飯を炊くと同時に内蓋の上でおかずも同時に炊ける。飯盒に米を入れその上に手のひらを置き手首のところまで水を加えると丁度良い水加減となる。米の量に関わらず手首まで水を加えるところがミソである。

 各自が米と水とおかずの材料を手分けして調達した。興三さんは缶詰係りでマグロのフレークと鮭の煮付けを買った。日本も少し豊かになっていた。先ず浅い穴を掘り小岩を重ねて釜戸を作る。次に三本の棒切れの上部を結わえると三脚になる。かまどの両端にこの三脚おき太い棒を渡し二個の飯盒をぶら下げる。準備が完了し水加減にして柴と小枝に火を付ける。煙にいぶされながら一時が過ぎると、無事ご飯と野菜が炊き上がる。飯盒をひっくり返して暫くむらす。車座になってご馳走を囲めば楽しい食事となる。突然、靖っちゃんが
 「鮭はかれーけん嫌れーじゃーのー(鮭は塩からいから嫌いだなー)」
と言い出した。予想もしない言葉であった。興三さんは缶詰の美味しそうな図柄に魅せられて買ったにすぎない。皆も同調したが他にこれといったおかずはない。箸を出し恐る恐る口に運んで驚いた。少しも辛くないばかりか甘くおいしかった。鮭は塩辛いのが当たり前の時代の笑えない話である。輸送と冷蔵庫が発達した今日の子供たちは、逆に塩鮭を知らなくなった。子供たちだけで水気のない山中で飯盒炊さんなど、今なら大目玉を食らい校長先生が壇上からPTAや報道関係者に頭を下げる場面である。おおらかな時代の忘れられない楽しい思い出である。

 麓のもみじ段の近くに樫の林があった。その樫の木々の枝から数本の縄をぶら下げて
 「ターザンだ! ワーアアー、ワーアアー」
と声を張り上げて木から木へと飛んでいる内に、誰ともなしに
 「ターザン小屋を作ろう」
ということになった。年長の中山の勇ちゃん、川崎の昭ちゃん、妹尾の五朗ちゃんなど近所の遊び仲間であった。腕白たちがターザンの生活にあこがれていた。商家の子供たちは夫々に建材として仕入れ商品の梱包に使われていた縄、板切れ、紐、針金、釘などを運び込んだ。興三さんは学校の予習や宿題はすっかり忘れていたし、勉強をしなければいけないとの認識はさらになかった。授業中にも考えることはターザン小屋の建設と遊び方のことだけであった。毎日少しずつ構築し一カ月後についに本物のターザンの小屋に負けない腕白小屋を木の上に完成した。 

 ターザン小屋を基地にして行動半径はさらに広がっていった。行動が広がれば空腹感はさらに増す。蒸し芋、干し芋、干し柿、かき餅、いり粉(はったい粉)、そば粉など母が用意してくれるおやつだけでは満たされない。窮すれば対策は生まれるもので興三さんは二つのレシピを作り出した。一つは焼きうどんで、今一つは鶏がらスープである。うどんの玉を二つ買ってきてフライパンに食用油を敷き、うどんの玉を入れて加熱し醤油で味付ける。油の甘みと醤油のうま味で結構いい味となる。鶏がらを煮込みスープを作る。これにメリケン粉で作ったダンゴと刻んだ野菜を入れる。醤油と胡椒で味付けをする。うどん玉も鶏がらも自分の小遣い銭で買ってきて、自分の分だけを作る。原価10円程度の立派なおやつであった。ターザン小屋の近くには畑が広がっており、そこのトマトやキュウリを失敬することも一再ではなかった。飢餓感が罪悪感をはるかに超えていた。

 ある年の春先であったか、兄貴分の一人がさつま芋畑を見つけたと興三さんを誘った。珍しいことに普通の畑ではなく四方を麦わらの低い塀で囲っていた。二、三個のさつま芋を掘り起こし喜んだとたん、近くで
 「こらー」
という声を聞いた。二人して必死で逃げたが大人の足にはかなわず捕まった。
 「しまった」
とは思ったが恐いとは思わなかった。しかし説教を食らっているうちに次第に泣きべそをかくはめになった。それは普通の芋ではなく種芋であった。秋に収穫されたさつま芋の一部は春先まで種芋として保存される。その種芋から芽が出て茎となる。その茎を切り取り挿し木のように畑に植える。その茎から毛根が出て発育し子供の芋が生まれるのである。この種芋を普通に保存しては寒い冬に凍死し暖か過ぎると早く芽が出て春までもたない。特殊の埋蔵方法で温度を加減して越冬するのである。この種芋がなくなれば春に種となる茎が採れない。小父さんが血相を変えて追っかけてきたのも当然であった。それ以来、畑荒らしは止めた。

 それにしても最近食べるトマトやキュウリなどの野菜が夫々の特徴ある味や香を失ってしまった。あの当時、丸ごとかぶりついたトマトの味と香りが無性に懐かしい今日この頃である。これは何も野菜に限ったことではない。規格化された大量生産方式は学校にも波及したのか児童一人ひとりの個性を削り取っているようである。野菜でも人でも夫々の特殊な個性が味わい深いのである。苦瓜は苦いから美味しくオクラはあのぬめりが得も言えぬ舌触りを与えてくれる。納豆も同様である。大衆に迎合して野菜の特徴を薄め管理のし易さから人の個性を嫌うことの無意味さに気付く時期にきていると、興三さんは心底思っている。

U.少年時代

11) 武蔵の里と出雲往来
 平成15年(2003)NHKの大河ドラマで「武蔵」が放映された。イラク戦争と新型肺炎の影響で海外旅行が敬遠され、加えてデフレ景気の影響で“安近短”の国内旅行が復活した。お陰で中国自動車道沿いの、武蔵の里の大原町〜湯郷温泉〜桜の津山城址が定番コースとして観光ブームにわいた。大原町、湯郷、津山は古代の出雲往来に近い市や町である。子供のころ吉川英治の宮本武蔵を読んだとき、山奥の田舎町に武蔵の父である剣道指南役が住み、高僧の沢庵和尚が訪れるなど有り得ないと思ったものである。あにはからんや、大原付近は出雲往来と智頭街道(因幡街道)の交差点として栄えていた形跡がある。出雲往来について述べてみたい。出雲往来は古代から出雲国と畿内を最短距離で結び、出雲街道、雲州街道とも呼ばれる。美作地方は古来“たたら”と呼ばれる製鉄が盛んで“鉄の道”とも呼ばれた。時代が下り江戸時代になると出雲の松江藩や美作の津山藩などが利用する参勤交代路となり、伊勢神宮、出雲大社、大山寺への参詣への街道としても賑わった。

 出雲国から南東方向に進み中国山地を斜めに横断して伯耆国、美作国、播磨国を通って山陽道の姫路に出て畿内へと結んだ道である。大まかに言えばJRの伯備線(米子〜新見)と姫新線(新見〜姫路)の路線に近い。姫路から西へ進む場合には兵庫県境の上月から林野、勝間田、津山、院庄、勝山あたりまでは現在のJR姫新線とほぼ並行に走っている。承久の乱(1221)で執権北条氏に敗れた後鳥羽上皇が、また元弘の乱(1331)で捕われの身となった南朝の後醍醐天皇が共に出雲往来を通って隠岐に配流された。林野駅の北には後醍醐天皇が笠を置いて休息されたと伝えられる「笠懸の森」がある。また津山の西、落合町で雄大に咲く「醍醐桜」は後醍醐天皇が称賛されたそうである。また姫路から西へ下り上月町付近が出雲街道と智頭街道三叉路となっている。ここから智頭街道を少し北へ行ったところが武蔵の里、大原町である。

 戦時中『小学国語読本』に記載され、戦後は少年の月刊誌で紹介された山中鹿之介をご存知の方も多かろう。上月町は山中鹿之介ゆかりの土地である。伊藤彦造画伯の挿絵であったろうか、三日月に祈る鹿之介の武者姿は興三さんの瞼の奥に今も焼き付いている。山中鹿之介は天分14年(1545)に安来節で有名な島根の安木市近くの尼子氏の居城富田(とだ)城下で生まれた。その頃は既に尼子氏の家運は傾き代わって安芸の毛利元就が勢力を拡大していた。両者は富田城を舞台に前後七年の攻防戦を展開する。山陰の名門尼子氏は毛利の軍門に下り尼子の遺人たちは浪人となって諸国に散ってゆく。時に山中鹿之介22歳であった。
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