私本 芦屋の浜のつれづれ草 |
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5月臨時号(第11・12・13話) |
11) 武蔵の里と出雲往来(途中から) 尼子再興のため優れた武将を求めて各地を行脚する鹿之介は、山の端にかかる三日月を仰いで、 「願わくば、我に七難八苦を与え給え」 と祈る苦難の歳月を過ごしながら力と名声を高めてゆく。天正5年(1577)秀吉の中国攻めが始まると秀吉軍に加担して尼子氏の出城、上月城に三千名の兵を従えて立てこもる。毛利軍三万人に包囲されて秀吉に援軍を求めたが、信長は鹿之介軍を見捨てる決断を下し上月城は落城する。それでも鹿之介は捕虜となって生き延び悲願成就を図るが長門へ護送される途中、備中高松城下で刺客の手にかかり七難八苦の生涯は34歳で終わりを告げる。 ♪ 心の褥(しとね) 草まくら 誰が吹く笛か 琴の音か 月下に起てる 若武者の 凛々しき姿 今いずこ ああ荒城の 秋が逝く ♪ 作詞:松井百利夫 平成15年大晦日の紅白歌合戦で若き演歌歌手、氷川きよしが歌った「白雲の城」の三番である。 姫路を発った列車が上月駅を過ぎて杉坂峠のトンネルを抜けるとそこは作州、美作の国である。合図の汽笛を鳴らし水蒸気をはきながら長い下り坂を林野駅に向けて加速する。興三さんが 「やっと帰って来た」 と安堵する瞬間であった。今はこの鉄道と並行して中国自動車道が走り美作ICがある。ここからは鉄道と自動車道と出雲街道が重なるように西に向けて並走する。美作ICの2キロ南が林野町でさらに2キロ下流が湯郷である。湯郷は湯原、奥津とならび美作三湯と呼ばれる県下有数の温泉町である。湯郷温泉の歴史は古い。美作風土略や美作鏡抄によると貞観2年(860)比叡山延歴寺の僧円仁(えんにん)が薬師如来の夢のお告げに誘われて西国巡行の途中、川辺で足に傷を負った白鷺を見つける。そこに温泉がわいていた。白鷺温泉とも呼ばれる由来である。治水2年(1178)には源雅頼が手足のしびれを癒したと「玉葉」に記録され、平安の歌人壬生忠見は歌集「忠見集」の中で 此山や道のかぎりと思えども 勝間田の湯遠き成りけり と歌っている。 湯郷の町は昭和50年の中国自動車道開通後、にわかに発展したが興三さんの幼少の頃にはわずか10軒足らずの温泉宿と共同湯場があるにすぎなかった。村民は無料で共同湯に入浴できた。小学三年生の頃であったろうか秋風が立ち水泳の季節が終わるとこの共同湯に泳ぎに行った。男湯と女湯は板塀で仕切られてはいたが、水面下の隔壁の一部には子供がくぐり抜けられるほどの穴があり、お湯は男女共通であった。悪童たちは潜ってこの穴から女湯に入り込んでは、 「見えたー」 などと成果を競ったものである。いたずら興三さんの誕生であった。湯郷本通りの石段を登ったところに、幼友達の中川の尚さんの叔父さんが経営する老舗の温泉旅館“坂口屋”があり、そこの湯殿にも二、三回入れてもらった。今は代替りし尚さんの従弟が新館“竹亭”を経営している。ところで、“覗き”(ピーピング)は古今東西老若男子にとり密かな楽しみである。しかし、竹亭では女性の露天風呂から男性の露天風呂を見下ろせる仕掛けになっている。有史以来の見る側と見られる立場が逆転しているところから、“あだ討ちの湯”と名づけられ評判を得ている。残念ながら見た経験はないが、男性の露天風呂が結構賑わっているのは、意外と男性達が見られるのを楽しんでいるからかも知れない。 12)児島高徳と角倉了以 津山市は作州一の城下町であり県北の商業の中心地で1441年に山名忠政が鶴山城を築城したに始まる。その後廃城になったが織田信長の越前朝倉攻めで討ち死した森可成の六男、森忠政が天正10年(1582)津山に入封し鶴山城跡に大規模な城を築くこととなる。この森忠政こそ信長と共に本能寺の炎に散った森蘭丸、森力丸、森坊丸たちの末弟、森千丸である。鶴山の名が転じて津山となったとも言われている。元禄10年(1697)森家の断絶により松平家が入城し徳川家の天領となる。それが災いし明治6年の徳川家ゆかりの城郭廃城令で解体される運命となった。城址の鶴山公園に咲く5000本の桜は高い位置から“見下ろす桜”として吉野の桜と日本一の名声を競っている。 時は14世紀半ば南北朝時代、所は津山市の西、院庄(いんのしょう)。忠臣、児島高徳(こじまたかのり)は隠島(おきのしま)へ遷幸(配流)途中の後醍醐天皇が宿泊する館に忍び込む。庭先に咲く桜の幹を削り、 「天莫空勾践 時非無范蠡」 と漢詩十文字を書き残した。「天、勾践(こうせん)を空(むな)しゅうする莫(なか)れ、時に范蠡(はんれい)無きにしもあらず」 と読む。 「天皇の君よ、希望を失わないで下さい。 中国の故事に知られる范蠡の如き忠臣が現れて、きっとお救いするでしょう」 との激励のメッセージである。この太平記の記事が戦中の国定教科書で紹介された。2500年前、中国の春秋時代に呉越が覇権を競った頃、越王勾践を助け活躍した忠臣范蠡の故事にならったものである。呉越の覇権争いと范蠡の波乱に富む生涯は中国故事の白眉である。追って中国旅行記の中で紹介しようと思う。 ♪ 船坂山や杉坂と 御あと慕いて院の庄 微衷(びちゅう)をいかで聞こえんと 桜の幹に十字の詩 「天、勾践を空しゅうする莫(なか)れ、 時に 范蠡無きにしも非ず 」 ♪ 詩吟も入る有名な文部省唱歌「児島高徳」の一節である。この漢詩は後醍醐天皇に所縁の桜の名所吉野山にも掲示されていることを、付記しておく。 史上知られた京都の豪商、角倉了以は慶長9年(1604)に出雲往来を訪れている。このとき吉井川の急流をさかのぼる高瀬舟を見て、大堰川(おおせぎがわ)を開き丹波国から洛西の嵯峨へ物資を通わせた。今日の保津川下りであり、桂川・嵐山の源風景である。またまた横道の蛇足で恐縮だが、興味ある方もあろうかと嵯峨野付近を駆け足でご案内する。5世紀後半に朝鮮半島から渡来した秦氏が嵯峨野を開く、国宝指定第一号の弥勒菩薩半跏思惟像で知られる太秦(うずまさ)広隆寺の由来である。9世紀初めには嵯峨天皇が離宮(大覚寺)を造営し、13世紀半に藤原定家が時雨亭(常寂光寺)で名月記を記し、17世紀後半には松尾芭蕉の高弟向井去来が草庵(落柿舎)を構え、そこを訪れた芭蕉により嵯峨日記が書かれた。その北には平清盛の寵愛を失い失意から母妹と共に剃髪し隠棲した祇王ゆかりの祇王寺や滝口入道と横笛の悲恋の舞台となった滝口寺もある。美空ひばり館は渡月橋のたもとである。高校で日本史の時間に角倉了以の業績を教わって以来、出自を聞かれるたびに興三さんは 「角家の先祖は角倉了以の落とし胤(たね)の末裔です」 と真面目顔で答えてきたが、意外と当たっているかもしれない。 興三さんは角家の第十二代である。先祖伝来の系図があるのではなく、父が数ある墓石を一つひとつたどって書き上げた系図である。それによると第五世が明見屋で六世から角姓となり、祖父の角幸八が十世となっている。明治政府は明治3年(1870)に平民に苗字を許し、その5年後に全国民に苗字を義務化した。その頃に角姓となったのかもしれない。 「家紋が四角形の四隅を切り落とした“隅切(すみき)り角に抱き茗荷(みょうが)”に因んで角姓を名乗ることになった」 というのが角家での定説である。 病院や役所などに行くと、カクさん、カドさん、ツノさん、スミさんと各所で思い付くままに呼ばれる。いずれでも「はーい」と答えることにしている。珍しくはないが少ない姓である。興三さんは角姓の方に出会うと必ず 「ご出身はどちらですか?」 と尋ねることにしている。これまでにお会いし耳にした経験から長崎、福岡、島根、鳥取方面に多く奈良や和歌山の方もいた。総じて日本海の匂いを感じる。因みに、元巨人軍の角投手は鳥取のご出身であったかと記憶する。顔の雰囲気が興三さんに似ていると思いませんか? つい先日この話を友人にしたら鳥取県の西端、境港市に角姓が多い聞とかされた。ぜひ一度訪れて見たいと思っている。中国や韓国には郭姓が多く、その発音はカドの角と同じである。韓国語や中国の方言では多少異なるが大抵「カクかクゥヲ」のいずれかに似ている。 江戸時代かそれ以前に、韓国あたりからやって来た郭氏が帰化して同じ発音の角(かく)と日本姓を名のり、その一部が出雲街道を通ってこの美作の地までやって来た。明治の苗字義務令に従って角(すみ)と発音を改めたのではないかと、興三さんは自分の出自に思いをめぐらせている。角家の定説をくつがえせる新説となるかどうか心もとないが、ロマンがあって良いと思う。 <主な参考文献> ・角川文庫 日本史探訪(9) ・平凡社 日本歴史地名大系34(岡山県の地名) 13)梶並川を舞台に 子供たちの遊びは何時までも同じではない。季節の移ろいにつれて、遊びの場所と種類が自然と変わっていった。 ♪ 春の小川は さらさら流る えびやめだかや 小鮒の群れに 今日も一日 ひなたに出でて 遊べ遊べと ささやく如く♪ 良く知られた「春の小川」の一節である。”水ぬるむ”は美しい日本語である。その頃になると遊び場は城山から徐々に梶並川へと下りてくる。戎橋(えびすばし)を渡った入田(にゅうた)には民家が点在し田畑が広がっている。土手でつくしを探し川辺で芹(せり)を摘む。田植え時になると用水路の水門を開け川から農業用水を取り入れる。溝や田んぼに水が満ち魚や水棲生物が流れ込み、水辺は一気に活気づく。 梅雨が開けて7月も中旬になり水温が上がったある日、 「今日から水泳を解禁します。準備運動を充分する。危険な淵には近づかぬこと。事故を起こさぬよう、注意して泳ぐように。」 と校長先生が威厳を込めて朝礼で発表する。待ちに待った水泳解禁の日である。とは言っても一週間ほど前から隠れて泳いではいたが・・・。こうして水泳と魚取りの夏が始まる。学から帰ると店先にカバンを投げ出し、水パン、タオル、水中メガネと水中鉄砲の4点セットを引っ下げて川へと急ぐ。 夏休みになると毎朝校庭に集まりラジオ体操だ。それが終わると勉強の時間と決められてはいるが、予定は未定で規則は破られるためにある。絵日記は一週間も経てばもう白紙が続く。こうして毎日、昼食時以外は夕風が吹き始めるまで川で過す。 二つの川のあっちの浅瀬やこっちの淵へ出かけたが、梶並川の西が浜が主な遊び場であった。川幅は三十メートル程度であったろうか。川を往復する競泳、水中鬼ごっこ、崖からの飛び込み。泳ぎ疲れたら魚取りなど気の向くままに遊ぶ。中州には雑草とトウトノメ(猫柳)に混じり砂場がある。そこに穴を掘り溝を作って水を引き込む。時には捕らえた魚を放って砂遊びに興じる。フルチンになって甲羅干しをするのがまた腕白たちの楽しみである。いつしかチンチンの皮を剥(む)き砂をまぶすチンコマブシと称する遊びも先輩から教わる。痛いが我慢しなければ一人前にならない。 橋げたや欄干から飛び降りる遊びもあった。ある日、子供たちの一人が飛び降りる位置を誤り淵を外れて左足を強打する事故が起きた。それ以来、橋からの飛び降りは禁止されたが、崖からの飛び込みはその後も続き、興三さんの小さくて大きな偶発事故を招くことになる。城山での同じような出来事も思い出す。腕白数人と安養寺の仁王門坂で遊んでいて、墓地から崖下へ飛び降りられるかどうかと言うことになった。子供の背丈の倍以上もあり、ちょうど二階の屋根から飛び降りる位の高さである。 「興三さんできるか?」 と誰かが言った。覗き込んで見ると崖下は白い花が咲く蕎麦畑である。 「畑じゃーけん、えかろー」 (畑で土が軟らかいから、大丈夫だろう) と言い終わらぬうちに・・・。後は、夏目漱石の小説「坊ちゃん」の冒頭と同じ風景である。 “親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分二階から飛び降りて一週間程度腰を抜かした事がある。なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談にいくら威張ってもそこから飛び降りることは出来まい。弱虫やいと囃(はや)したからである。” との一節があるが、全く同じ話で勇気と言うより無鉄砲な遊びである。腰を捻ったようで、その晩は膏薬を貼ってもらって寝た。こうして腕白たちは屈託なく遊び、自然や仲間たちとの触れ合いを通して鍛えられていった。今日のように管理され保護された子供たちからは、考えられない情景である。 興三さんは魚取りが大好きであった。水田で列をなして一直線に逃げる田鮒を、竹竿の網で待ち受けてすくった。 “群がりて逃げていきしが群がりて とどまれる見れば鮒の静けさ” (若山牧水) また、水草の中を遊泳するフナやハヤを片足でざるに追い込み、水に潜(もぐ)り岩穴に潜(ひそ)むドホウやアアユモドキを水中鉄砲で射抜く。 両手を使い岩影で休むギギやナマズを少しずつ追いつめて行く。その間に指先に感じる魚のぬめりがえも言われぬときめきである。油断すると逃げられるが、運良く握り絞めた時の感触は今もこの手のひらに残っている。 夕方になるとモジや流し針を仕掛ける。流し針とは一本の長い釣り糸に数本の枝糸を付け、この先の針にミミズを取り付け、小石や川辺の木に縛り水中に流すのである。翌朝にモジや流し針を上げにゆく。ウナギやナマズなどが懸かっていた時の感激は何物にも代え難い。夜になるとガス灯とヤスを持って出かける。まっ暗な闇のなかで水面をガス灯で照らしながら川下から川上へとゆっくりと歩いて行く。魚たちは浅瀬でふらふらと泳ぎながら眠っている。それをヤスで突くのである。“釣り”もしたがあまり得意ではなかった。 性分として合わなかったと思う。梅雨期にはナマズが川から田の溝へと産卵のために遡上する。小雨が降るある夜、ガス灯をかざして待ち受ける。待つこと暫くして小さな溝の中に黒い影がゆっくりと動いた。瞬間ヤスを突き下ろす。四十センチはあろうかという大物であった。家に帰って裸電球の下で腹を開くと、光沢豊かなエメラルド色をした大きな卵の袋が一対出てきた。 (閲覧有難う御座いました。 次回は6月号に続きます。) |
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