私本 芦屋の浜のつれづれ草 |
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6月号(第13・14・15・16話) |
13)梶並川を舞台に(途中から) こんなこともあった。水草中のハヤを片足でざるに追い込んでいるとき大きなウナギをすくい上げた。意外な獲物に興三さんも驚いたが、ウナギはもっと驚いてざるの中を猛スピードで這い廻る。急いで岸へ向かって浅瀬を走る。ざるの上部に穴が空いているのに興三さんが気付いた時ウナギも気が付いた。下から手で穴を塞ごうとした瞬間ウナギがざるから消えた。数秒間のドラマであった。捕らえたナマズと逃がしたウナギの大きな思い出である。 夏休みが終わると収穫の秋となる。ある日、入田の友達から貴重な秘密情報が寄せられる。昨年は放課後に行ってチャンスを逃した。翌朝、今年は何とかしたいとの思いがつのり学校をさぼる決心をする。川から農業用水を引いている用水路の水門を閉める“水落とし”の日である。用水路の水位が刻々と下がって行くのをかたずを飲んで見守る。最後まで待ちきれずに、溝に飛び込みざるで魚をすくう。泥沼の中での格闘が日没まで続く。残暑の最後を飾るにふさわしく、あらゆる種類の魚がバケツの中で白い腹を見せて重なり合っている。かつてない大魚であったがそれが災いした。学校をさぼったことが母にばれてこっぴどく叱られた。こうして興三さんの夏が終わり、活動の場がまた城山へと移ってゆく。 14)泣いたハナヨ 興三さんの遊び友達はあちこちにいた。前に紹介した八人組みはクラスの仲間。町内の仲間は上下8才ほども年齢差があった。夏の魚取りには別の友達がいる。水から上がれば夕食までは缶蹴り、竹馬、コマを使っての鬼ごっこ、パッチン(めんこ)、ラムネ(ビーダマ)など枚挙に事欠かない。中でもパッチンとラムネが得意であった。戦利品を子分に分け与えられるからであったかと思う。今でも田舎に帰ると60才を過ぎた後輩たちが当時を振り返って、 「ラムネの玉をもろおて、麦踏みを手伝わされた」 と冷やかす。 野球一つを例にとっても普通の野球の他に、路地での三角ベース、砂場での四角ベース、雨が降ったら大川病院の通用門でと多様であった。こうして興三さんはあちこちに出かけては、仲間に入り暗くなるまで遊んでいた。 その中の特別な四人を紹介しよう。四歳年上の同じ町内の大川の勝っちゃんは、足が悪く野球などができず魚とりが趣味で、興三さんの魚取りの師匠であった。二人目は履物店の妹尾の五郎ちゃんで、運動と勉強なんでも一番である。長じて東京の有名大学に入学する。田舎からは相当の難関である。彼とは不思議な縁があり、興三さんがマニラと香港に駐在した同じ時期に、彼も航空会社の総支配人として駐在していた。正に百万分の一の偶然である。片田舎に生まれた二人の腕白少年が世界に残した小さな足跡かもしれない。三人目は遠縁の小山の靖ちゃんである。彼の家は戎橋のたもとの恵比寿さんの祠の隣にあった。祠は腕白達の溜まり場であり、紙芝居の上演場所でもあった。興三さんは我が家より靖ちゃんの家で過す時間の方が長かった。好敵手ではあったが勉強はもちろん将棋でも三回に二回は負けた。彼に勝てたのは悪戯と音楽くらいであった。最後は同級生の竺原の賢ちゃん。お向かいの弁護士の息子でいたずら遊びの仲間である。その賢ちゃんの消息が途絶えて久しい。さびしいかぎりである。 梅雨が明けると林野神社の”茅(ち)の輪くぐり”の祭りである。今日でも京都の神社などでの祭りが報道されている。その日はゆかた姿で神社に詣でる。和紙を切った人型(人形の語源か?)をもらいたもとに入れて茅の輪をくぐり、布団の下に敷いて寝ると一年間無病息災である。花火大会と盆踊が終われば林野神社の秋祭りがやってくる。 秋祭りの前日は宵宮で六つの町内会が夫々保有する山車(だんじり)を繰り出す。子供たちが着飾って大勢乗っている。着物にかんざし紅をつけた女の子はすまし、鉢巻に半被(はっぴ)姿の男の子は大声ではやす。鐘や太鼓に合わせ2本の太い綱を町内会の若衆達が掛け声も勇ましく 「よーいしょ、こーらしょ」 と引っ張る。狭い道を、ダンジリがすれ違う時は大仕事である。ダンジリの屋根に跨った先導役が、 「山通れ、山通れ」 と大声で叫ぶ。道の山側を通れとの指令である。対向のダンジリの屋根に立ちはだかった兄貴衆が 「川通れ、川通れ」 とありったけの声を発する。二階建ての大きなダンジリである。まかり間違えば民家の屋根を壊してしまう。町の角を曲がるのが、これまた大仕事である。車輪も車軸も木製で、簡単には曲がれない。四、五人の若衆が肩に当てた太い棒を梃子(てこ)にしてダンジリを浮かせるようにすると、ミッシミッシときしみ音をたてながらダンジリが少しずつ角を曲がってゆく。その夜はご馳走である。毎年決まって祭りの晩にやって来るお客がいた。F医療器の地方廻りの出張員であったかと記憶する。今はピップエレキバンで有名な会社である。父と馬が合ったのであろう。毎回お金を貰って前の中村屋に黒飴を買いに行った。一宿一飯のお礼だったのかも知れない。 翌日が祭りの当日である。この日は神社のお御輿が 「わっしょいわっしょい」 と掛け声も勇ましく朽木(くつぎ)の林野神社から本町までやって来る。この御輿の行列を十人ほどの天狗が三三五五に先導する。何時のころ始まったのか、天狗たちの年齢は不詳である。若くても五百歳は下るまい。その天狗の赤黒い漆塗りの面には髪が垂れ下がり長い鼻は斜め上を向いている。小豆色の地に墨染めの模様の貫頭衣は、長い歳月を経て色は褪せ裾は足元でほころびが目立つ。高下駄を履き、手に持った長刀(なぎなた)をジャランジャランと鳴らして子供たちを威嚇する。今にも子供たちを捕まえて食べそうで本当に恐ろしい。この天狗をハナヨと呼んだ。「鼻よ」に由来するのであろう。小さな子供は恐ろしさのあまり、泣いて我が家に逃げ帰る。年長の悪戯っ子たちは、このハナヨを 「ハナヨ ヤセヨ クソハナヨ 3年食わずのホイトゴ(乞食の子)」 とやじる。するとハナヨは怒って悪戯っ子たちを追っかける。逃げる方も追っかける方も真剣そのものである。 晒し布を使って鞍馬天狗のように覆面をしてその上に天狗の面をあみだにかぶり、面の空いた口から外を見る仕組みとなっている。人の口や顎は晒しの布で覆われているが、天狗の顎鬚(あごひげ)で布地は見えない。高い鼻は空に向かってそそり立ち、本当に恐ろしい。しかし足元が見にくいのがハナヨの弱点である。ある年、興三さんか賢ちゃんの何れが言い出したか、また悪戯を思い付いた。路地の軒下に下がる雨どいに縄の一方を結びつけ、その路地にハナヨを誘い込み、ハナヨが来たら縄の一方の端を引っ張って、ハナヨの足をすくおうとの魂胆である。逃げ役はかけっこが早い賢ちゃんである。 「ハナヨ ヤセヨ クソハナヨ 三年食わずのホイトゴ」 とはやす。ハナヨが長刀をガチャガチャ鳴らし、髪を振り乱し着物の袖で風を切り、高下駄をカラカラと音を立てながら追っかけて来る。路地を曲がったところで、興三さんが握った綱を思いっきり引っ張る。足を取られたハナヨはてもんどりうって転倒する。二人が竺原の家へ逃げ込む。ハナヨは痛さと悔しさできっと泣いたであろう。興三さん一世一代の悪戯であった。 15)展覧会の絵 林野神社の秋祭りと商工会の運動会が終わると一気に秋が深まり年末となる。歳末大売り出しが終わると新年はすぐそこである。スミ薬局では毎年12月31日は夕方から棚卸しに取り掛かる。ラジオの紅白歌合戦を聞きながら一家総出で、店にある全商品の種類と個数を一つずつ数えて在庫の数を調べる。年明けにその数量に仕入単価を掛けると商品残高が算出でき、年末の資産状況が確認できる。紅白歌合戦の勝負が付く頃には棚卸しの仕事が終わる。除夜の鐘を聞きながら皆で年越しそばを食べる。順番に風呂に入って床に就く。今年も無事に終わった。両親が安堵するひと時である。 翌日は七時に全員起床し清水で洗面し神棚に手を合わす。家族全員、お屠蘇(とそ)で年初の挨拶を交わし雑煮を頂く。餅は丸か四角か調理方法は焼くか茹でるか煮るか具の種類と多少、汁は味噌味か醤油味かなど雑煮の仕様は各地各家庭で異なり特色がある。各地方の川に夫々鮎自慢があるように、各家庭に雑煮自慢があっても不思議でない。角家の雑煮は丸餅で今日のものよりはるかに大きい。これを茹でて椀に入れ多くの具を乗せ、澄まし汁を注ぐのが基本形である。具の主役は元日がブリの塩茹で、二日目は煮込んだ鶏肉、三日目には蒲鉾片に削り鰹を振り掛ける。これに三が日とも茹でた人参と大根の千切り、ホーレン草などの野菜を載せ澄まし汁を注ぐ。兄嫁が嫁いで来てから三日目の汁は味噌味に変わった。冬休みが終わり始業式の日には食べた雑煮の数を友達と競わねばならない。沢山食べれるようにと飲み込むように腹に入れた。一食に15個位食べたであろうか。三ガ日が終わり7日が七草かゆ9日が小豆かゆ12日が白かゆ15日は爆竹(どんど)焼の日で、この日になって初めて餅を焼くことが許される。正月の〆縄を焼いた黒い灰を鼻の頭に塗り今年の幸福を願う。代々商家であったせいか縁起を担ぎ古いしきたりが残っていた。 興三さんは靖ちゃんや五郎ちゃんらと入田の図画教室に通っていた。小学三年生の二学期の終業式の日に、小山の靖ちゃんや妹尾の五郎ちゃん等と一緒に教員室に呼ばれた。 「旧暦正月の三日間、林野高校の講堂で英田郡と勝田郡の二郡合同の小学校絵画展覧会が開かれます。1月20日までに出品する作品を数枚描いて持ってくるように。」 と校長先生から宿題を頂戴した。こうして興三さんたちは皆で冬景色を描きに出かけた。寒さに鼻水をすすりながら入田の畑から見る那岐山、川岸から見た対岸の船着場、林野神社の鎮守の森や榎の老木などを描いた。寒風に晒らされて辛くもあったが半分は遊びであった。収穫後に切り株の残る田んぼで相撲を取ったり、手打ち野球をしたりして結構楽しかった。努力の甲斐なく林野小学校は惨敗であった。その翌年も惨めな結果に終わった。学校や父兄たちの間でこれが話題となり、興三さんはこの絵画塾を止めて綱沢先生の所へ通うこととなった。そして三年目、興三さんが5年の年に数名の入選者が出た。興三さんもその一人であった。その翌年に絵の先生の肖像画を描いたら父に似ていたので“僕の父”と題して作州展覧会にだしたら入賞した。以前の老先生は日本画風の静物画が得手で、新しい先生は油絵の風景画が得意であった。先生の画風の違いが影響していたのかも知れない。 ♪ 烏啼きて木に高く 人は畑に麦を踏む げに小春日の のどけしや かえり咲きの 花も見ゆ ♪ 大正二年に発表の文部省唱歌、「冬景色」の二番である。歌詞そのままの美しい風景であった。小学校時代は良く遊び多くの友達に接し色々な経験をし、ラジオ歌謡や大人の流行歌を沢山覚えた。しかし学業に関しては自慢できるような特別の成績はない。小学一年の作文の入選と五年の時の絵画入選くらいのものである。 16)安養寺の会陽 林野には田舎町にしては珍しく三宗派のお寺があった。日蓮宗の寿林寺、浄土宗の法眼寺、真言宗の安養寺である。この町が古くから河川を利用した交通の要所として栄えた証かも知れない。安養寺はJR林野駅近くに用明天皇の勅願寺として586年に建立された間山(はしたやま)寺を起源とする。14世紀頃は天台宗の高福寺であったが兵火で焼失し、17世紀の半ばに京都仁和寺への帰属を願い出て、真言宗に改め林野村に安養寺として再建されたらしい。後鳥羽上皇が壱岐に流される時に高福寺に憩われたそうである。 安養寺の会陽(えよう)は全国に広がる裸祭りのひとつである。かつては旧暦の1月13日に行われ、その翌日に備前西大寺の会陽が開かれていた。今では2月の第二日曜日に開かれる。この両会陽は往時には互角の賑わいであったと父は言っていた。残念ながら昨今は西大寺の会陽が全国一の裸祭りとして有名になったのに対し林野の会陽は寂れてしまった。やはり文化の発展や伝統の維持には経済の繁栄とスポンサーが必要である。会陽の一週間前から小学生から中学一年生までを対象に子供会陽が毎夜開かれる。体力差を補うために低中高学年の三階級に別けられる。興三さんも晒しの“まわし”を巻いて参加した。ワッショイ、ワッショイと背中を擦り合っている内に真冬の寒さを忘れる。檀家代表の小父さんが真木(しんぎ)を投げる。直径2センチ長さ10センチほどの木製円筒を十数本の箸状の割り木で巻いている。この真木を取って境内の所定の場所へ納めると一勝負終わりで、子供会陽では一晩に数回繰り返される。賞品は子供たちが大好きな蜜柑や菓子を詰めた袋である。 会陽の当日には近郷から見物客が集まり商店街は活気づく。各商店は一年の感謝と宣伝の気持ちを込めて、夫々の嗜好を凝らしショーウインドーを飾りスポットライトを当てる。その飾り付けを見物客が人気投票する。辰年であったから興三さんが13才の時であろうか金物カマダ屋が一等賞を得た。商品の小さな金物を使って竜を作ったのである。スプーンやホークなどを寄せ集めて鱗や背ビレを、針金を曲げて髭を作った。小規模ではあったがその写実性が見物人の心を捕らえたのであろう。その年スミ薬局は各種の薬箱や缶々を組み合わせて、西洋のお城を作ったと記憶する。夜も更けてくると白い“まわし”に白い鉢巻と白足袋だけの屈強な裸の男たちが梶並川に飛び込んで体を清める。中には戎橋の欄干から川へ飛び降りる剛の者もいる。そこから城山の麓にある安養寺まで肩を組み、列をなして「ワッショイ、ワッショイ」と掛け声勇ましく商店街を駆け抜け、坂道を登ってゆく。男たちの群れは境内で次第に大きくなり、総勢五百人以上の大群衆の熱気である。体を擦り合わせ練っているうちに、肌は摩擦で紅潮する。体温が上昇するとバケツで水をぶっかける。水蒸気が湯煙となって立ち登る。取り巻いた多くの観衆が「ワー」と歓声を上げる。その間、僧侶の読経がマイクを通して境内に流れる。 午前五分前に本堂と観音堂の灯が消え読経が止む。境内は松明(たいまつ)のうす灯りの中、一瞬静寂の世界となる。両手をさし伸ばす群れの中心を目掛けて、観音堂のお福窓から真木が投げ込まれる。静寂の世界は一瞬にして争奪戦の世界へと変貌する。 (閲覧有難うございました。「6月臨時号」をクリック下さい) |
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